投稿日時:12/07/07 23:45 視聴回数:15497回
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Vivaldi 
Gloria 
in 
D 
Major 
RV 
589(お話です)「イスラム教 
聖クルアーン 
第三十二章 
叩頭」「タルムード」「所有の価値」 
◎「所有の価値」について 
人間には四つのタイプがある。私のものは私のもの 
あなたのものはあなたのもの 
と言う人は平均的なタイプである。ある人はこれをソドムのタイプと呼ぶ。 
私のものはあなたのもの 
あなたのものは私のもの 
と言う人は知識のない人である。 
私のものはあなたのもの 
あなたのものはあなたのもの 
と言う人は聖人のタイプである。 
私のものは私のもの 
あなたのものは私のもの 
と言う人は邪悪な人である。 
[ 
Avot 
5:13 
] 
◎The 
Sodom 
type 
--- 
the 
average 
人々は自分たちが稼いだ物に権利がある 
そしていったん我々が一つの物を稼いだならば 
それは我々だけに属する我々のほとんどはこう信じている。しかしラビたちは 
これが邪悪な考え方 
行動の仕方になり得ると感じた。彼らはそれをソドムの人々の信念として識別した。ソドムは彼らの邪悪さゆえに神によって滅ぼされた地である。しかしなぜラビたちは 
我々のほとんどがソドムの人々のようであると言うことが正当であると感じたのであろうか?我々の態度を所有に向ける時に 
我々はほんとうに邪悪であるのか? 
この答えは 
互いに対して 
そして時々互いの財産に対して 
我々の相互の必要の中に横たわっている。ラビたちは 
その正しい意味のケースを示すために 
我々が所有するところのあらゆるものは神から一種の借り物として見るように我々に思い起こさせた:Rabbi 
Eleazar 
of 
Bertoda 
は言った 
神のものは全て神に与えよ。あなたとそしてあなたが持つ全てのものは神のものであることを知るように。 
[ 
Avot 
3:8 
] 
◎The 
cave 
and 
the 
world 
世界の財産は 
神の奉仕に使われるために意味されている 
誰の手にそれが通過していようが 
誰がそれを所有しているつもりであろうが。 
シメオン・ベン・ヨハイ(Simeon 
ben 
Yohai)は 
彼が非難したローマ人から身を隠すために 
洞穴の中に逃げざるを得なかった。この身を隠す場所で中で 
彼は息子と一緒であった。この二人はそこで共に十二年間暮して 
トーラを勉強した。十二年の後 
ローマの皇帝が死んで 
ユダヤ人に反抗する決定が公式に解除されたことを知った。彼と彼の息子は 
洞穴から出てきて太陽の光りを十分に浴び 
ユダヤ人の共同体の生活の中に戻る準備ができた。しかしシメオンは 
エレサレムの町に近づいた時に 
ユダヤ人の農民たちが彼らの畑を世話しているのを見た。ただちに彼には怒りがわいてきて 
彼らに叫んだ 
「あなた方はいかに挑戦しているのか 
こんな浪費した方法で自分を!ローマの決定は解除された。我々は再びトーラーを勉強することが出来るというのに!畑を離れて勉強しなさい」しかし農民たちは彼を見て笑った 
「今は収穫の時です。その後で我々は勉強しますよ」その時シメオンは叫んだ 
「これらの畑が燃えてしまうように 
なぜならば 
この人々は永遠の真実を無視して 
単に今必要なものに向きを変えたから」そしてシメオンと彼の息子は彼らの目を向けたあらゆる場所 
その畑は突然に炎で焼き尽くされた。ついに 
このような声がやって来た 
「おまえは私の世界を滅ぼすために洞穴に滞在したのか?トーラを勉強するよりも 
トーラによって生活することの方が重要ではないのか? 
洞穴に戻って 
そしておまえの道を勉強せよ」 
[ 
Shabbat 
33b 
] 
◎Living 
in 
the 
world 
ユダヤ人の教えの目的は 
現実の世界 
畑を耕すとか 
収穫するとかから我々を切り離すことではなく 
現実の世界の中で生活するためにいかに最善となるかを我々が学ぶ助けとなることである。シメオンは洞穴に隠れて長く住んでいる間に起こったことは 
もし我々がそれに対して防御していないならば 
我々の誰かにも起こり得ることである。 
シメオンはそれが生きるための唯一の正しい方法であると確信していた方法で 
彼はそんなに長く生活をした。彼はトーラの勉強にとても終始したので 
「あなたが生きるような生活を選択しなさい」 
という基本の規則を忘れてしまった。その代わりに 
彼は勉強だけを信じるようになってしまった。 
勉強はユダヤ人の生活をするために必須で重要である 
と我々の全てはおそらく同意するであろう。しかし 
我々はまたおそらく 
共同体の人々を祝福した人 
Ben 
Zoma 
に同意するであろう。(彼らは彼にパンと 
彼の着る衣を準備して助けてくれた)我々はまた 
Rabbi 
Yohanan 
に対して 
「私はあなたと同様に重要である」と言った労働者に同意するであろう。 
より重要であるところの質問 
「勉強かそれとも行動か」に関して 
ユダヤ人として我々はどちらか一方を犠牲にして他方を選択することを拒否する。 
◎Seeking 
a 
balance 
Solomon 
Ganzfried(1804-1886) 
彼はハンガリーのラビでKitzur 
Shulhan 
Aruch 
と呼ばれるユダヤ人の法律のマニュアルを編集した 
彼はこのように書いている: 
従うべき良い正しい道は 
人が習慣になるべき真中の道である。人はその体に必要な物をただ願望すべきである 
そしてそれらを無しで生活することが重要である: 
人は仕事であんまり多くを占有されるべきではなく 
生活にただちに必要として要求されるものを得ることにのみに十分であればよい。人はあんまりにも財布のひもを固くすべきではなく 
また自由に彼の金を消費すべきでもない 
しかし彼の稼ぎに従って慈善をすべきであり 
そして貧しい人によろこんで金を貸すべきである。人はあんまりも多くお祭り騒ぎで陽気になるべきではなく 
また悲しんで回想にふけるべきでもない 
しかし毎日を満足と友情で楽しくすべきである。全ての他の道徳的な価値に関連して 
その中道を選ぶ人は賢者と呼ばれる。 
我々が行う物事のバランスを探すこと 
--- 
中道を見つけるように試みること 
---それはスキルでありほとんで芸術である。そんなに多くのユダヤ人の価値のように 
それは開いた心を維持し 
真実を探すことを我々に要求する。 
シメオンと彼の息子が中道への彼らの心を閉じた時に 
彼らのまわりのあらゆるものが実際に炎で覆われたのを見た:近代的なことばで言えば 
彼らは「激怒(see 
red)」した。中道によってよろこんで生活しようとしない人は 
実際にその共同体から彼自身が引き離される。 
◎The 
pepole 
of 
the 
community 
もっと前の章で 
我々の各々の内部で複雑な強い努力の話をした---「Yetzer 
Tov」と「Yetzer 
HaRa」とが 
我々の性格を制御するために戦いそして作用している。共同体の中 
共同体の人々自身の中にも作用する同様な力がある。個人と同様に 
共同体は 
その中での力がバランスされた時が最善である。共同体の人々がバランスの中で生活する時 
共同体は生活するのに良い場所になる。それでラビたちは教えた:共同体の人々は自然さを一緒に感じるべきであり 
そして彼らは互いに分配し合うべきである。しかし彼らはまた互いに正直によろこんで議論すべきである 
そして互いは彼ら自身の個人的な所有の権利を持つべきである。ラビたちは言った 
美しい家や美しい家具は良いことである 
なぜならばそれらは「心の楽しい炎の中に」我々に置く助けになるからである。 
---[ 
Berachot 
57b 
] 
そしてまた 
心の楽しい炎はその共同体をもっと楽しくするのを助ける。しかしもしその所有者がそれで楽しくないならば 
美しい家や美しい家具はなんの役に立たない。それでラビたちは教えた:裕福な人の真の定義とは 
「彼の富を通して喜びを見つける人」である。 
---[ 
Shabbat 
25b 
] 
◎Findind 
the 
middle 
ground 
共同社会の中での中道を見つけることは 
自分自身の中でバランスを探すことと 
そんなに違ってはいない。その最初の一歩は 
まず極端を見つけることである。それはちょうど 
四角形の4つのコーナを位置付けて 
それから中心を位置付けるように。 
◎「The 
value 
of 
goverment:政府の価値」 
ラビ・ハニナ 
(Rabbi 
Hanina) 
は言った:政府の繁栄を祈りなさい 
なぜならばそれに対する怖れがなければ 
人は生きたままで互いを食べるであろうからである。 
[ 
Avot 
3:2 
] 
◎The 
importance 
of 
goverment 
人々が住んでいるところの法律のシステムは 
そこの人々のグループの価値に影響する。たとえそれが停止信号や鉄道信号のような小さなことであっても 
それは基本的な価値に影響する 
--- 
社会のメンバーの安全を保護する価値に。停止信号や鉄道信号を建設することによって 
我々自身の安全 
我々の愛する人の安全 
そして他人の安全 
に対して我々の感心を行動の中に置く。 
価値を行動の中に置くことは政府の重要な一つの機能である 
確かに政府を 
願ましくする機能である。 
我々が個々に知っている言葉で 
我々が政府を理解する最善の方法は 
「Yetzer 
HaRa(邪悪の衝動)」と「Yetzer 
Tov(善の衝動)」との全体の質問 
を再び考えることである。トーラが我々に教えていることの一つは 
「あなたの心の中で 
あなたの隣人を憎んではならない」(レビ記 
19:17)しかし 
実際に他の人々を傷つけることから人々を防いでいるのは 
まったく別のことである「十戒」は数千年間存在してきている 
そしていまだに日常の情勢は 
殺人や強盗 
法廷で偽証を誓った人 
他人をだましている人の記事でいっぱいである。明らかな事実は 
我々の幾人かは我々の「Yetzer 
HaRa」を制御しそれを役に立つ目的に向ける働きをしている一方 
他の者はそうではない。彼らは 
彼らの中にある「Yetzer 
HaRa」を乱暴に走らせることを許している。酔っ払った運転手のように 
その時 
彼らは道路で他のあらゆる人にとって危険になってございます。 
そんな人々から我々を保護するために 
政府が作られている。我々が個々のレベルで 
我々の「Yetzer 
HaRa」を統治することを学ばなければならないのと同様に 
「Yetzer 
HaRa」が乱暴になっているレベルのグループを制御することが政府の一つの重要な目的でございます。 
◎Law 
enforcement 
and 
courts 
政府が我々を効果的に保護するために 
我々の各々は自分自身の自由な意志の幾らかを諦めなければならない。 
どれだけ大きな力が政府に与えられるべきかについて継続的な大きな議論や論争がある。しかし 
もし政府が我々を効果的に保護するならば 
誰もが「幾らか」の力を諦めなければならない 
ということを我々は何の議論もなしで知ることができる。 
この一つの良い例は 
各個人としての報復の権利を放棄することである。 
報復はそのグループに破壊的である。AがBから盗みをしたとする 
そしてそれからBが返礼にAから盗みをする 
これでイーブンと言って。もしこれで終わるならばそれで結構なことであるが 
けれども報復はめったに最初の不公平以上により公平にはならない。Bが報復する時 
Aが彼から取ったよりも彼はAからより多く取るかもしれない。その時 
Aは彼自身が報復の必要を感じる。すぐに 
物は手から離れて 
そしてAとBは互いに殺すという点にまでくる 
---- 
また 
彼らの友人や親族がその行動に参加するかもしれない。 
この種の事態を避けるために 
警察や他の代理権の形で実行する法律を規定する力を我々は政府に許す。告訴が設定され聞かれる法廷と同様に。法律を実施する事務所や法廷はどちらも 
我々すべてのために 
個人よりもむしろグループによって最善に維持される力を代表している。 
◎An 
eye 
for 
an 
eye 
タルムードは 
部分的には 
行なわれてきた法廷の記録として見られる。ラビたちは政府の境界線を築くために 
事例に事例を積み上げている。我々の例として 
タルムードで扱われた古典的な報復の事例は 
聖書のきまり文句である「目には目 
歯には歯」 
のまわりに集中してる。タルムードのラビたちが 
「Yetzer 
HaRa」のグループを制するために探していた政府とはどんなものかを見るために 
次の議論を考えよう。 
「目には目」 
これは金での支払を意味する。あなたはそれが金での支払だと言うが 
おそらくそれは実際に本当の目が没収されなければならない 
という意味だ!しかし 
その人の目が一方は大きく他方が小さいとしたとする 
そんな場合に「目には目」の法律を私はいかに適応することができるのか?... 
あるいは 
盲の人が他人の目をたたき出した場合は 
またあるいは片足びっこの人が他人を片足びっこの人にした場合は 
「目には目」の法律を私はいかに十分に満たすことができるのか?トーラはこう要求している 
「あなたは同じ法律を適用せよ(レビ記24:22)」 
この意味は 
あなたたちの全てに対して 
法律が同じであるべきだということ。 
[ 
Baba 
Kamma 
83b 
] 
法律はいつも全ての人が同じであるとして扱われなければならない 
なぜならば我々の基本的な価値は 
全てが神によって平等に創造されていることである。もしそれがこの場合ならば 
ラビたちが議論した「目には目」の意味はただこうである:もし人が他人の目をたたき出したならば 
その有罪人は彼が破壊した目を補償する金額を支払わなければならない。 
このように 
社会の全てのメンバーの利益に法律を翻訳するために 
政府が割り込む。目や足を失った人にとって 
もし彼を傷つけた人が目や足を仕返しに失ったとしても 
それは現実に良いことではない。金銭上の支払は 
それが元の目や足を取り戻すことはできないが 
少なくとも人が傷ついた時に生じた痛みや損失を埋め合わせるために 
それはいくらかの方法に役立つ。 
Vivaldi Gloria in D Major RV 589(お話です)「イスラム教聖クルアーン第三十二章叩頭」「タルムード」「所有の価値」
◎「所有の価値」について
人間には四つのタイプがある。私のものは私のもの、あなたのものはあなたのもの、と言う人は平均的なタイプである。ある人はこれをソドムのタイプと呼ぶ。
私のものはあなたのもの、あなたのものは私のもの、と言う人は知識のない人である。
私のものはあなたのもの、あなたのものはあなたのもの、と言う人は聖人のタイプである。
私のものは私のもの、あなたのものは私のもの、と言う人は邪悪な人である。
[ Avot 5:13 ]
◎The Sodom type --- the average
人々は自分たちが稼いだ物に権利がある、そしていったん我々が一つの物を稼いだならば、それは我々だけに属する我々のほとんどはこう信じている。しかしラビたちは、これが邪悪な考え方、行動の仕方になり得ると感じた。彼らはそれをソドムの人々の信念として識別した。ソドムは彼らの邪悪さゆえに神によって滅ぼされた地である。しかしなぜラビたちは、我々のほとんどがソドムの人々のようであると言うことが正当であると感じたのであろうか?我々の態度を所有に向ける時に、我々はほんとうに邪悪であるのか?
この答えは、互いに対して、そして時々互いの財産に対して、我々の相互の必要の中に横たわっている。ラビたちは、その正しい意味のケースを示すために、我々が所有するところのあらゆるものは神から一種の借り物として見るように我々に思い起こさせた:Rabbi Eleazar of Bertoda は言った、神のものは全て神に与えよ。あなたとそしてあなたが持つ全てのものは神のものであることを知るように。
[ Avot 3:8 ]