アヴェ・ヴェルム・コルプス(お話です) 「ユダヤ啓蒙主義(ハスカラー)と 敬虔主義(けいけんしゅぎ:ハスィディズム)と敬虔主義の反対者(ミトナグディーム)とアンティ・セミティズム」「タルムード」「知識の価値」◎「知識の科価値」 迷信と固定的道徳が判断と行為の誤りから迫害を生みます。固定的道徳が予定因果であり 民衆が日常を問題意識なくすごしてしまい 儒教的道徳の場合 民衆が疑問に思うことを質問しにくいという問題がある。迷信と固定的道徳を乗り越える手立てが証拠の収集とこれらの分類を行って選択していくというstady(勉強)がある。 ◎「アブラハムの契約とシナイ契約」 ・アブラハムの契約が神ヤハウェがアブラハムにハラン(ユーフラテスの上流:現在の東トルコ)の地を離れてカナン(現在のイスラエル パレスチナ)の地に行きなさい。繁栄を約束する。という契約の約束型契約。 ・ヘブル人(tbri:ヘブル語・現在のイスラエル人)部族集団(エジプトを脱出した部族)とモーセの神ヤハウェの十戒の条文。という契約の義務型契約。 ◎「The struggle within us」 The forces within us. Needing impulses for both right and wrong. Selfishness. A formula. If I am not for myself who will be for me ? If I am only for myself what am I ? If not now when ? Reflection ◎「The struggle within us(我々の内での苦闘)」 ◎The forces within us 選択をする時に われわれの中で2つの力が働いていると ラビは信じている。一つは善をしようとする我々の欲求 他方は悪をしようとする我々の欲求である。善をしようとする衝動あるいは傾向を「Yetzer Tov」とラビは名づけた。Yetzerはヘブライ語で衝動(impulse)を意味し Tovは善(good)を意味する。他方 悪をしようとする衝動あるいは傾向を「Yetzer HaRa」名づけた。Raはヘブライ語で(evil)を意味する。「善の衝動」「悪の衝動」である。 われわれの各々の人は これら2つの衝動をいかに操作するか問われる。個人の意識にある「Yetzer Tov」は正義の人を操作し 他方「Yetzer HaRa」は邪悪をコントロールするが タルムードでは両方の衝動が 平均的な人の意識が衝動を操作することを示す(Berachot 61a)。 我々のほとんどはこの3番目のカテゴリーの「両方の衝動が平均的な人の意識が衝動を操作するということ」にあり 意識の全体が正義でなく全体が邪悪でもない。
投稿者: 有馬徳彦
投稿日時:2012-07-03 07:08:29.0
視聴回数:18583回
お気に入り登録:0
カテゴリ:
暮らし全般
エンタメ全般
教育全般
タグ:
アヴェ・ヴェルム・コルプス(お話です)
「ユダヤ啓蒙主義(ハスカラー)と
敬虔主義(けいけんしゅぎ:ハスィディズム)と敬虔主義の反対者(ミトナグディーム)とアンティ・セミティズム」「タルムード」「知識の価値」◎「知識の科価値」
迷信と固定的道徳が判断と行為の誤りから迫害を生みます。固定的道徳が予定因果であり
民衆が日常を問題意識なくすごしてしまい
儒教的道徳の場合
民衆が疑問に思うことを質問しにくいという問題がある。迷信と固定的道徳を乗り越える手立てが証拠の収集とこれらの分類を行って選択していくというstady(勉強)がある。
◎「アブラハムの契約とシナイ契約」
・アブラハムの契約が神ヤハウェがアブラハムにハラン(ユーフラテスの上流:現在の東トルコ)の地を離れてカナン(現在のイスラエル
パレスチナ)の地に行きなさい。繁栄を約束する。という契約の約束型契約。
・ヘブル人(tbri:ヘブル語・現在のイスラエル人)部族集団(エジプトを脱出した部族)とモーセの神ヤハウェの十戒の条文。という契約の義務型契約。
◎「The
struggle
within
us」
The
forces
within
us.
Needing
impulses
for
both
right
and
wrong.
Selfishness.
A
formula.
If
I
am
not
for
myself
who
will
be
for
me
?
If
I
am
only
for
myself
what
am
I
?
If
not
now
when
?
Reflection
◎「The
struggle
within
us(我々の内での苦闘)」
◎The
forces
within
us
選択をする時に
われわれの中で2つの力が働いていると
ラビは信じている。一つは善をしようとする我々の欲求
他方は悪をしようとする我々の欲求である。善をしようとする衝動あるいは傾向を「Yetzer
Tov」とラビは名づけた。Yetzerはヘブライ語で衝動(impulse)を意味し
Tovは善(good)を意味する。他方
悪をしようとする衝動あるいは傾向を「Yetzer
HaRa」名づけた。Raはヘブライ語で(evil)を意味する。「善の衝動」「悪の衝動」である。
われわれの各々の人は
これら2つの衝動をいかに操作するか問われる。個人の意識にある「Yetzer
Tov」は正義の人を操作し
他方「Yetzer
HaRa」は邪悪をコントロールするが
タルムードでは両方の衝動が
平均的な人の意識が衝動を操作することを示す(Berachot
61a)。
我々のほとんどはこの3番目のカテゴリーの「両方の衝動が平均的な人の意識が衝動を操作するということ」にあり
意識の全体が正義でなく全体が邪悪でもない。
◎Needing
impulses
for
both
right
and
wrong
このことから
何が正しいことで
何が悪いことか
われわれはいかにして判断するのであろうか。どうやって片方の衝動から他方の衝動を識別するのか。選択はいつも明瞭でない。いつでも邪悪な選択があり
正義の選択があるということを
ラビが暗示している時単純化しすぎてはいないのかも課題である。ラビの理解というのは実際にはもっとずっと複雑であったのだ。彼らは「Yetzer
HaRa」が邪悪だとは信じていなかった。それは邪悪に向かった傾斜であるといえる。彼らは
「Yetzer
HaRa」が多くの局面で有用になりえるということまでも理解している。このことを示すために
彼らはこんなたとえ話を言っている。
昔
われらの善き者たちは「Yetzer
HaRa」を捕まえて
それを金の鎖で縛り上げた。最初彼らは自分たちでたいへん喜んでいた。盗みは止り
殺人は無くなった。人々は友好的になり
互いを愛するようになった。嫉妬は無くなり
イスラエルの全地においてイスラエル人と隣人との間の論争も無くなった。死ぬ者はいなくなった。
しかし突然
彼らは奇妙な出来事を見るようになり始めた。人々はとても満足したので精を出して働く心配がなくなった。競争が無くなったので人々は働くことを止めてしまった。新しい家はもう作られなくなった。人々はもはや
結婚もしないで
子供を欲しがらなくなった。ラビでさえ不精になり始めた。その時
ラビは「Yetzer
HaRa」が世界において如何に必要であったかを理解して彼らは縛ってあった鎖を壊してそれを自由にした。
(Genesisi
Rabbah
9:7)
◎Selfishness
「Yetzer
HaRa」を理解する最も簡単な方法は
極端な利己主義としてそれを見てみることである。それは我々の一部でもあり
それは「私のもの」とか「私は欲しい」あるいは「私にくれ」とか言って要求することがそれである。「Yetzer
HaRa」が危険であるのは何かというと
もし我々がそれをバランスしコントロールしないと
それが我々をコントロールするようになる
ということである。
「Yetzer
HaRa」は
本を取り上げて返さない
といった小さなことをするように我々に問いかけてくることで
我々をつかみ始める。そしてやがて
もっと悪い事をするように我々に要求する。それは我々にこう言うかもしれない:「この一回だけやってごらん
あなたがただの一回だけやっても誰も傷つくことはないから」それからやがて
毎回に悪い事をするように要求してくる:「さあ来てこれを傷つけてごらん。彼がいかに弱いか見てみなさい。彼はあなたに仕返しなんか出来ないよ」
最初は
「Yetzer
HaRa」はくもの巣のようであるが
しかし最後には重いロープのようになる。最初は
「Yetzer
HaRa」は通行人のようであり
お客のようであるが
最後にはその家の主人になる。最初は
「Yetzer
HaRa」は甘いが
最後にはにがくなる。
(Sukkot
52a
52b
Jerusalem
Talmud
Shabbat
14c)
◎A
formula
利己主義をコントロールすることはいつも簡単というわけではない。我々が自分たちに利己主義を許せば許すほど
我々が利己主義になる。その時
選択するという我々の能力を実際に失って行き
我々だけのためにいつも行動し始める。我々の自由
我々の自由意志を放棄し
それに代わって何でも瞬間に行動することが好きになる
これは自由の錯覚にすぎないのであるが。
このことは
もし我々が他の人々と一緒に生活する必要がなかったならば
全て正しいかもしれない。しかし
あなたがこの本の第2章の始めでリストアップしたものを思い出してみれば
あなたはすぐに分かるがあなたの生活のほとんどは他人の周りに
そしてあなたが属している人々の周りに作られている。そこで我々はバランスについてのある種類を探すために勉強しなければならない。利己主義になることはいつでも悪い
というわけではない。しかしまたいつでも正しい
というわけでもない。全てのものを皆で分けることがいつも良いわけではないが
いつも悪いはずがない。間のどこかに行くべき価値のある道がある。
ここで
ミシュナ時代の偉大な先生であるヒレルから
われわれは学習しよう。ヒレルは
自分の生活と繰り返しの教えを通して
知的な選択をする公式を探した。ヒレルは「アボット」に彼の公式をまとめた:"
If
I
am
not
for
myself
who
will
be
for
me
?
And
if
I
am
only
for
myself
what
am
I
?
And
if
not
now
when
?
"
"
If
I
am
not
for
myself
who
will
be
for
me?
"
もしあなたが住んでいる世界にアクティブに参加するのであれば
何かのために耐えることが必要である。次のことに理解を持つようにしなければいけない:あなたが持っているもの
持ちたいもの
自分がなりたい事
喜んで働きたい事
世話をしたい事。言い換えれば
自分自身でスタートしなければならない。
自分自身のために欲しいものが全て利己主義だ
というわけではない。しかし
自分自身のため「だけ」に欲しいものはほとんどが利己主義である。
あなたは知識を得たいかもしれない。このこと自身は利己主義ではない。知識のある人は
無知な者よりも世界にとって役に立つ。しかしもしあなたが他人を傷つけるために
あるいはあなた自身のためにのみ
あなたの知識を使うのなら
あなたが害ある利己主義なものになる。
あなたは人気を得たいかもしれない。このこと自身は利己主義ではない。人気のある人は
接近して連帯したり
議論や討論をしたり
親切や理解を持たらしたりして
隣人を助けることができる。しかし人気のある人が
悪の方向に人々を導くために彼の才能を使う時
彼は「悪の衝動」への道にいるのである。人々を戦争から戦争へと導くために
自分の人気を使った場合
ナポレオンはフランス人民を助ける代わりに
彼らを傷つけ苦しめた。
あなたは財産を得たいかもしれない。このこと自身は利己主義ではない。財産のある人は他の人々を助けることができる。必要としている人々に彼の富を慈善に使うことによって
また貴重な仕事や行動のスポンサーなることで共同体への祝福となることで。しかしもし人が他の人々の犠牲によって財産を欲しがるならば
その時これは真の利己主義を通して「悪の衝動」の一つの例である。
ヒレル(Hillel)の最初の質問
"
If
I
am
not
for
myself
who
will
be
for
me
?
"これは次のことを暗示している。人は自分自身を助けるために努力すべきである。あなたは自分がなりたい事になるために労働すべきであり
より良くなるために労働すべきである。なぜならば
もしあなたがあなた自身のために働かないのであれば
いったい誰があなたのためにそれを行なってくれるのか。
"
If
I
am
only
for
myself
what
am
I
?
"
しかしもし全てのあなたの労働があなた自身だけのためであるならば
あなたは何の善であるのか。われわれはいつもここに戻ってくる:あなたの生活には
あなただけがいるのではない。あなたの生活が本当の意味で始まるのは
他人のことを考慮した仕事の方法を選択し始めた時からである。
もしあなた一人だけが生きているならば
いかに振る舞っても誰かとの差ができるわけではない。これがゆえに
ヒレル(Hillel)の第2の質問がとても重要なのである。
他の人々と生活することは
我々が自分たちのことを考えるの同様に
彼らが必要あるいは要望していることを我々が考えなければいけない。
我々だけのためにある
というときはいつも「悪の衝動」が我々を狙っている。これはヒレルの第1の質問を少しばかり変えて我々に問う:"
If
I
don't
get
such
and
such
for
myself
who
else
will
get
it
for
me
?
"もし私がそんなに自分のために努力しなくても
誰か他人が私のためにそれをやってくれのではないか。しかしヒレルは問を続ける時に適切なバランスを持ってきている。実際に第2の質問において"
If
I
get
such
and
such
at
someone
else's
expense
or
harm
am
I
not
evil
?
"もし私がそれほど誰か他人を傷つけているとしたら
私は悪ではないのか。ヒレルは「悪の衝動」が重要であることも分かっているが
しかしその2つの衝動がバランスされなければならないことも分かっている。このような場合にのみ
人は社会に
そして結局は自分に奉仕できる。このような場合にのみ
人は社会に
そして結局は自分に奉仕できる。
"
If
not
now
when
?
""
ヒレルの第3の質問はまた重要である。われわれは人間である。我々の全ては
明日まで物事を延期するのが好きである。さらに
もし我々が決して始めようとしない
あるいは"
I
will
let
myself
do
evil
just
this
one
time
"
この一回だけは悪をやってみようと言うならば
これは我々が奴隷になることである。我々は選択する自由を失っているのだ。
我々のうち誰かは
行き過ぎた利己主義で悩んでいる。また誰かは
自分たち自身のことをほとんど考えない行き過ぎた非利己主義で悩んでいる。もし我々が生活の中でのバランスを持つよう探し求めないのならば
我々はただ怠け者になるしか期待出来ない:変化や進歩への抵抗
何か新しいことの試みへの恐れ
我々をより良く
あるいはより豊かにする試みへの恐れ。
これに対する唯一の治療があるとヒレルは暗示している。今行動せよ!明日まで待つな
「私は明日始めよう」と言うな。すぐに始めなさい!
Reflection
この本は
「アボット」にあるヒレルの3つの質問を軸にして構成されている。「第1~4章」は
行動に対する我々自身の準備について考えている。「第5~11章」は
我々各々が
自分自身のために生活をする上で
選択しなければならない事柄について語る。(If
I
am
not
for
myself
who
will
be
for
me
?
)「第12~21章」は
我々の共同体の中で一緒にうまく生活する場合に
選択しなければならない事柄について語る。(And
if
I
am
only
for
myself
what
am
I
?)「第22~23章」は
われわれの進路を設定しそれを正しく設定するために
ただちにしなければならないことは何かについて語る。(And
if
not
now
when?)
いつでも
我々の学習では
このような考えに戻ってくる:・我々の各々は
複合した複雑な人間であり
しかも唯一で一人であるということ。・我々の誰もが
心の内で
良いことと悪いこととの間で苦闘している。そして同様に
我々自身のために正しいことと我々が住んでいる世界のために正しいこととの間で苦闘しているということ。・この苦闘が我々の生活に
そして我々のまわりの世界に意味を与えている
ということ。・そしてこの苦闘の成功は
我々自身の中でまた世界の中で
何が最良で何が最悪かのバランスをいかにして我々がうまくをとるか
最終的にこれにかかっているということ。
我々の苦闘に光を投げるために
そしてこの世界の複雑さの説明で我々を助けるために
我々自身の伝統(ラビの観点)を引き出そう。
ラビの観点:適切な行動と適切な考えを通して邪悪に打ち勝てるということ。邪悪なことをしようとする衝動「Yetzer
HaRa」は
良いことに代わるかもしれないということ。我々はラビ自身の行動
言葉および思考を調べよう。そして彼らの原理がいかに現実となって行くかを見てみよう。
正しさと邪悪の間の選択をするのはいつでもあなたである
ということを忘れずに記憶しなさい。なぜならば
選択の自由はあなたがユダヤ人としての世襲財産であり
また人間として生まれたあなたの権利だからである。じょうずに選ぶことは最終的にあなたの個人的な責任である。
アヴェ・ヴェルム・コルプス(お話です) 「ユダヤ啓蒙主義(ハスカラー)と 敬虔主義(けいけんしゅぎ:ハスィディズム)と敬虔主義の反対者(ミトナグディーム)とアンティ・セミティズム」「タルムード」「知識の価値」◎「知識の科価値」 迷信と固定的道徳が判断と行為の誤りから迫害を生みます。固定的道徳が予定因果であり 民衆が日常を問題意識なくすごしてしまい 儒教的道徳の場合 民衆が疑問に思うことを質問しにくいという問題がある。迷信と固定的道徳を乗り越える手立てが証拠の収集とこれらの分類を行って選択していくというstady(勉強)がある。 ◎「アブラハムの契約とシナイ契約」 ・アブラハムの契約が神ヤハウェがアブラハムにハラン(ユーフラテスの上流:現在の東トルコ)の地を離れてカナン(現在のイスラエル パレスチナ)の地に行きなさい。繁栄を約束する。という契約の約束型契約。 ・ヘブル人(tbri:ヘブル語・現在のイスラエル人)部族集団(エジプトを脱出した部族)とモーセの神ヤハウェの十戒の条文。という契約の義務型契約。 ◎「The struggle within us」 The forces within us. Needing impulses for both right and wrong. Selfishness. A formula. If I am not for myself who will be for me ? If I am only for myself what am I ? If not now when ? Reflection ◎「The struggle within us(我々の内での苦闘)」 ◎The forces within us 選択をする時に われわれの中で2つの力が働いていると ラビは信じている。一つは善をしようとする我々の欲求 他方は悪をしようとする我々の欲求である。善をしようとする衝動あるいは傾向を「Yetzer Tov」とラビは名づけた。Yetzerはヘブライ語で衝動(impulse)を意味し Tovは善(good)を意味する。他方 悪をしようとする衝動あるいは傾向を「Yetzer HaRa」名づけた。Raはヘブライ語で(evil)を意味する。「善の衝動」「悪の衝動」である。 われわれの各々の人は これら2つの衝動をいかに操作するか問われる。個人の意識にある「Yetzer Tov」は正義の人を操作し 他方「Yetzer HaRa」は邪悪をコントロールするが タルムードでは両方の衝動が 平均的な人の意識が衝動を操作することを示す(Berachot 61a)。 我々のほとんどはこの3番目のカテゴリーの「両方の衝動が平均的な人の意識が衝動を操作するということ」にあり 意識の全体が正義でなく全体が邪悪でもない。
投稿者: 有馬徳彦
投稿日時:2012-07-02 21:38:53.0
視聴回数:19075回
お気に入り登録:0
カテゴリ:
暮らし全般
エンタメ全般
教育全般
タグ:
アヴェ・ヴェルム・コルプス(お話です)
「ユダヤ啓蒙主義(ハスカラー)と
敬虔主義(けいけんしゅぎ:ハスィディズム)と敬虔主義の反対者(ミトナグディーム)とアンティ・セミティズム」「タルムード」「知識の価値」◎「知識の科価値」
迷信と固定的道徳が判断と行為の誤りから迫害を生みます。固定的道徳が予定因果であり
民衆が日常を問題意識なくすごしてしまい
儒教的道徳の場合
民衆が疑問に思うことを質問しにくいという問題がある。迷信と固定的道徳を乗り越える手立てが証拠の収集とこれらの分類を行って選択していくというstady(勉強)がある。
◎「アブラハムの契約とシナイ契約」
・アブラハムの契約が神ヤハウェがアブラハムにハラン(ユーフラテスの上流:現在の東トルコ)の地を離れてカナン(現在のイスラエル
パレスチナ)の地に行きなさい。繁栄を約束する。という契約の約束型契約。
・ヘブル人(tbri:ヘブル語・現在のイスラエル人)部族集団(エジプトを脱出した部族)とモーセの神ヤハウェの十戒の条文。という契約の義務型契約。
◎「The
struggle
within
us」
The
forces
within
us.
Needing
impulses
for
both
right
and
wrong.
Selfishness.
A
formula.
If
I
am
not
for
myself
who
will
be
for
me
?
If
I
am
only
for
myself
what
am
I
?
If
not
now
when
?
Reflection
◎「The
struggle
within
us(我々の内での苦闘)」
◎The
forces
within
us
選択をする時に
われわれの中で2つの力が働いていると
ラビは信じている。一つは善をしようとする我々の欲求
他方は悪をしようとする我々の欲求である。善をしようとする衝動あるいは傾向を「Yetzer
Tov」とラビは名づけた。Yetzerはヘブライ語で衝動(impulse)を意味し
Tovは善(good)を意味する。他方
悪をしようとする衝動あるいは傾向を「Yetzer
HaRa」名づけた。Raはヘブライ語で(evil)を意味する。「善の衝動」「悪の衝動」である。
われわれの各々の人は
これら2つの衝動をいかに操作するか問われる。個人の意識にある「Yetzer
Tov」は正義の人を操作し
他方「Yetzer
HaRa」は邪悪をコントロールするが
タルムードでは両方の衝動が
平均的な人の意識が衝動を操作することを示す(Berachot
61a)。
我々のほとんどはこの3番目のカテゴリーの「両方の衝動が平均的な人の意識が衝動を操作するということ」にあり
意識の全体が正義でなく全体が邪悪でもない。
◎Needing
impulses
for
both
right
and
wrong
このことから
何が正しいことで
何が悪いことか
われわれはいかにして判断するのであろうか。どうやって片方の衝動から他方の衝動を識別するのか。選択はいつも明瞭でない。いつでも邪悪な選択があり
正義の選択があるということを
ラビが暗示している時単純化しすぎてはいないのかも課題である。ラビの理解というのは実際にはもっとずっと複雑であったのだ。彼らは「Yetzer
HaRa」が邪悪だとは信じていなかった。それは邪悪に向かった傾斜であるといえる。彼らは
「Yetzer
HaRa」が多くの局面で有用になりえるということまでも理解している。このことを示すために
彼らはこんなたとえ話を言っている。
昔
われらの善き者たちは「Yetzer
HaRa」を捕まえて
それを金の鎖で縛り上げた。最初彼らは自分たちでたいへん喜んでいた。盗みは止り
殺人は無くなった。人々は友好的になり
互いを愛するようになった。嫉妬は無くなり
イスラエルの全地においてイスラエル人と隣人との間の論争も無くなった。死ぬ者はいなくなった。
しかし突然
彼らは奇妙な出来事を見るようになり始めた。人々はとても満足したので精を出して働く心配がなくなった。競争が無くなったので人々は働くことを止めてしまった。新しい家はもう作られなくなった。人々はもはや
結婚もしないで
子供を欲しがらなくなった。ラビでさえ不精になり始めた。その時
ラビは「Yetzer
HaRa」が世界において如何に必要であったかを理解して彼らは縛ってあった鎖を壊してそれを自由にした。
(Genesisi
Rabbah
9:7)
◎Selfishness
「Yetzer
HaRa」を理解する最も簡単な方法は
極端な利己主義としてそれを見てみることである。それは我々の一部でもあり
それは「私のもの」とか「私は欲しい」あるいは「私にくれ」とか言って要求することがそれである。「Yetzer
HaRa」が危険であるのは何かというと
もし我々がそれをバランスしコントロールしないと
それが我々をコントロールするようになる
ということである。
「Yetzer
HaRa」は
本を取り上げて返さない
といった小さなことをするように我々に問いかけてくることで
我々をつかみ始める。そしてやがて
もっと悪い事をするように我々に要求する。それは我々にこう言うかもしれない:「この一回だけやってごらん
あなたがただの一回だけやっても誰も傷つくことはないから」それからやがて
毎回に悪い事をするように要求してくる:「さあ来てこれを傷つけてごらん。彼がいかに弱いか見てみなさい。彼はあなたに仕返しなんか出来ないよ」
最初は
「Yetzer
HaRa」はくもの巣のようであるが
しかし最後には重いロープのようになる。最初は
「Yetzer
HaRa」は通行人のようであり
お客のようであるが
最後にはその家の主人になる。最初は
「Yetzer
HaRa」は甘いが
最後にはにがくなる。
(Sukkot
52a
52b
Jerusalem
Talmud
Shabbat
14c)
◎A
formula
利己主義をコントロールすることはいつも簡単というわけではない。我々が自分たちに利己主義を許せば許すほど
我々が利己主義になる。その時
選択するという我々の能力を実際に失って行き
我々だけのためにいつも行動し始める。我々の自由
我々の自由意志を放棄し
それに代わって何でも瞬間に行動することが好きになる
これは自由の錯覚にすぎないのであるが。
このことは
もし我々が他の人々と一緒に生活する必要がなかったならば
全て正しいかもしれない。しかし
あなたがこの本の第2章の始めでリストアップしたものを思い出してみれば
あなたはすぐに分かるがあなたの生活のほとんどは他人の周りに
そしてあなたが属している人々の周りに作られている。そこで我々はバランスについてのある種類を探すために勉強しなければならない。利己主義になることはいつでも悪い
というわけではない。しかしまたいつでも正しい
というわけでもない。全てのものを皆で分けることがいつも良いわけではないが
いつも悪いはずがない。間のどこかに行くべき価値のある道がある。
ここで
ミシュナ時代の偉大な先生であるヒレルから
われわれは学習しよう。ヒレルは
自分の生活と繰り返しの教えを通して
知的な選択をする公式を探した。ヒレルは「アボット」に彼の公式をまとめた:"
If
I
am
not
for
myself
who
will
be
for
me
?
And
if
I
am
only
for
myself
what
am
I
?
And
if
not
now
when
?
"
"
If
I
am
not
for
myself
who
will
be
for
me?
"
もしあなたが住んでいる世界にアクティブに参加するのであれば
何かのために耐えることが必要である。次のことに理解を持つようにしなければいけない:あなたが持っているもの
持ちたいもの
自分がなりたい事
喜んで働きたい事
世話をしたい事。言い換えれば
自分自身でスタートしなければならない。
自分自身のために欲しいものが全て利己主義だ
というわけではない。しかし
自分自身のため「だけ」に欲しいものはほとんどが利己主義である。
あなたは知識を得たいかもしれない。このこと自身は利己主義ではない。知識のある人は
無知な者よりも世界にとって役に立つ。しかしもしあなたが他人を傷つけるために
あるいはあなた自身のためにのみ
あなたの知識を使うのなら
あなたが害ある利己主義なものになる。
あなたは人気を得たいかもしれない。このこと自身は利己主義ではない。人気のある人は
接近して連帯したり
議論や討論をしたり
親切や理解を持たらしたりして
隣人を助けることができる。しかし人気のある人が
悪の方向に人々を導くために彼の才能を使う時
彼は「悪の衝動」への道にいるのである。人々を戦争から戦争へと導くために
自分の人気を使った場合
ナポレオンはフランス人民を助ける代わりに
彼らを傷つけ苦しめた。
あなたは財産を得たいかもしれない。このこと自身は利己主義ではない。財産のある人は他の人々を助けることができる。必要としている人々に彼の富を慈善に使うことによって
また貴重な仕事や行動のスポンサーなることで共同体への祝福となることで。しかしもし人が他の人々の犠牲によって財産を欲しがるならば
その時これは真の利己主義を通して「悪の衝動」の一つの例である。
ヒレル(Hillel)の最初の質問
"
If
I
am
not
for
myself
who
will
be
for
me
?
"これは次のことを暗示している。人は自分自身を助けるために努力すべきである。あなたは自分がなりたい事になるために労働すべきであり
より良くなるために労働すべきである。なぜならば
もしあなたがあなた自身のために働かないのであれば
いったい誰があなたのためにそれを行なってくれるのか。
"
If
I
am
only
for
myself
what
am
I
?
"
しかしもし全てのあなたの労働があなた自身だけのためであるならば
あなたは何の善であるのか。われわれはいつもここに戻ってくる:あなたの生活には
あなただけがいるのではない。あなたの生活が本当の意味で始まるのは
他人のことを考慮した仕事の方法を選択し始めた時からである。
もしあなた一人だけが生きているならば
いかに振る舞っても誰かとの差ができるわけではない。これがゆえに
ヒレル(Hillel)の第2の質問がとても重要なのである。
他の人々と生活することは
我々が自分たちのことを考えるの同様に
彼らが必要あるいは要望していることを我々が考えなければいけない。
我々だけのためにある
というときはいつも「悪の衝動」が我々を狙っている。これはヒレルの第1の質問を少しばかり変えて我々に問う:"
If
I
don't
get
such
and
such
for
myself
who
else
will
get
it
for
me
?
"もし私がそんなに自分のために努力しなくても
誰か他人が私のためにそれをやってくれのではないか。しかしヒレルは問を続ける時に適切なバランスを持ってきている。実際に第2の質問において"
If
I
get
such
and
such
at
someone
else's
expense
or
harm
am
I
not
evil
?
"もし私がそれほど誰か他人を傷つけているとしたら
私は悪ではないのか。ヒレルは「悪の衝動」が重要であることも分かっているが
しかしその2つの衝動がバランスされなければならないことも分かっている。このような場合にのみ
人は社会に
そして結局は自分に奉仕できる。このような場合にのみ
人は社会に
そして結局は自分に奉仕できる。
"
If
not
now
when
?
""
ヒレルの第3の質問はまた重要である。われわれは人間である。我々の全ては
明日まで物事を延期するのが好きである。さらに
もし我々が決して始めようとしない
あるいは"
I
will
let
myself
do
evil
just
this
one
time
"
この一回だけは悪をやってみようと言うならば
これは我々が奴隷になることである。我々は選択する自由を失っているのだ。
我々のうち誰かは
行き過ぎた利己主義で悩んでいる。また誰かは
自分たち自身のことをほとんど考えない行き過ぎた非利己主義で悩んでいる。もし我々が生活の中でのバランスを持つよう探し求めないのならば
我々はただ怠け者になるしか期待出来ない:変化や進歩への抵抗
何か新しいことの試みへの恐れ
我々をより良く
あるいはより豊かにする試みへの恐れ。
これに対する唯一の治療があるとヒレルは暗示している。今行動せよ!明日まで待つな
「私は明日始めよう」と言うな。すぐに始めなさい!
Reflection
この本は
「アボット」にあるヒレルの3つの質問を軸にして構成されている。「第1~4章」は
行動に対する我々自身の準備について考えている。「第5~11章」は
我々各々が
自分自身のために生活をする上で
選択しなければならない事柄について語る。(If
I
am
not
for
myself
who
will
be
for
me
?
)「第12~21章」は
我々の共同体の中で一緒にうまく生活する場合に
選択しなければならない事柄について語る。(And
if
I
am
only
for
myself
what
am
I
?)「第22~23章」は
われわれの進路を設定しそれを正しく設定するために
ただちにしなければならないことは何かについて語る。(And
if
not
now
when?)
いつでも
我々の学習では
このような考えに戻ってくる:・我々の各々は
複合した複雑な人間であり
しかも唯一で一人であるということ。・我々の誰もが
心の内で
良いことと悪いこととの間で苦闘している。そして同様に
我々自身のために正しいことと我々が住んでいる世界のために正しいこととの間で苦闘しているということ。・この苦闘が我々の生活に
そして我々のまわりの世界に意味を与えている
ということ。・そしてこの苦闘の成功は
我々自身の中でまた世界の中で
何が最良で何が最悪かのバランスをいかにして我々がうまくをとるか
最終的にこれにかかっているということ。
我々の苦闘に光を投げるために
そしてこの世界の複雑さの説明で我々を助けるために
我々自身の伝統(ラビの観点)を引き出そう。
ラビの観点:適切な行動と適切な考えを通して邪悪に打ち勝てるということ。邪悪なことをしようとする衝動「Yetzer
HaRa」は
良いことに代わるかもしれないということ。我々はラビ自身の行動
言葉および思考を調べよう。そして彼らの原理がいかに現実となって行くかを見てみよう。
正しさと邪悪の間の選択をするのはいつでもあなたである
ということを忘れずに記憶しなさい。なぜならば
選択の自由はあなたがユダヤ人としての世襲財産であり
また人間として生まれたあなたの権利だからである。じょうずに選ぶことは最終的にあなたの個人的な責任である。
アヴェ・ヴェルム・コルプス(お話です) 「ユダヤ啓蒙主義(ハスカラー)と 敬虔主義(けいけんしゅぎ:ハスィディズム)と敬虔主義の反対者(ミトナグディーム)とアンティ・セミティズム」「タルムード」「知識の価値」◎「知識の科価値」 迷信と固定的道徳が判断と行為の誤りから迫害を生みます。固定的道徳が予定因果であり 民衆が日常を問題意識なくすごしてしまい 儒教的道徳の場合 民衆が疑問に思うことを質問しにくいという問題がある。迷信と固定的道徳を乗り越える手立てが証拠の収集とこれらの分類を行って選択していくというstady(勉強)がある。 ◎「アブラハムの契約とシナイ契約」 ・アブラハムの契約が神ヤハウェがアブラハムにハラン(ユーフラテスの上流:現在の東トルコ)の地を離れてカナン(現在のイスラエル パレスチナ)の地に行きなさい。繁栄を約束する。という契約の約束型契約。 ・ヘブル人(tbri:ヘブル語・現在のイスラエル人)部族集団(エジプトを脱出した部族)とモーセの神ヤハウェの十戒の条文。という契約の義務型契約。 ◎「The struggle within us」 The forces within us. Needing impulses for both right and wrong. Selfishness. A formula. If I am not for myself who will be for me ? If I am only for myself what am I ? If not now when ? Reflection ◎「The struggle within us(我々の内での苦闘)」 ◎The forces within us 選択をする時に われわれの中で2つの力が働いていると ラビは信じている。一つは善をしようとする我々の欲求 他方は悪をしようとする我々の欲求である。善をしようとする衝動あるいは傾向を「Yetzer Tov」とラビは名づけた。Yetzerはヘブライ語で衝動(impulse)を意味し Tovは善(good)を意味する。他方 悪をしようとする衝動あるいは傾向を「Yetzer HaRa」名づけた。Raはヘブライ語で(evil)を意味する。「善の衝動」「悪の衝動」である。 われわれの各々の人は これら2つの衝動をいかに操作するか問われる。個人の意識にある「Yetzer Tov」は正義の人を操作し 他方「Yetzer HaRa」は邪悪をコントロールするが タルムードでは両方の衝動が 平均的な人の意識が衝動を操作することを示す(Berachot 61a)。 我々のほとんどはこの3番目のカテゴリーの「両方の衝動が平均的な人の意識が衝動を操作するということ」にあり 意識の全体が正義でなく全体が邪悪でもない。
投稿者: 有馬徳彦
投稿日時:2012-07-02 19:19:53.0
視聴回数:16021回
お気に入り登録:0
カテゴリ:
暮らし全般
エンタメ全般
教育全般
タグ:
アヴェ・ヴェルム・コルプス(お話です)
「ユダヤ啓蒙主義(ハスカラー)と
敬虔主義(けいけんしゅぎ:ハスィディズム)と敬虔主義の反対者(ミトナグディーム)とアンティ・セミティズム」「タルムード」「知識の価値」◎「知識の科価値」
迷信と固定的道徳が判断と行為の誤りから迫害を生みます。固定的道徳が予定因果であり
民衆が日常を問題意識なくすごしてしまい
儒教的道徳の場合
民衆が疑問に思うことを質問しにくいという問題がある。迷信と固定的道徳を乗り越える手立てが証拠の収集とこれらの分類を行って選択していくというstady(勉強)がある。
◎「アブラハムの契約とシナイ契約」
・アブラハムの契約が神ヤハウェがアブラハムにハラン(ユーフラテスの上流:現在の東トルコ)の地を離れてカナン(現在のイスラエル
パレスチナ)の地に行きなさい。繁栄を約束する。という契約の約束型契約。
・ヘブル人(tbri:ヘブル語・現在のイスラエル人)部族集団(エジプトを脱出した部族)とモーセの神ヤハウェの十戒の条文。という契約の義務型契約。
◎「The
struggle
within
us」
The
forces
within
us.
Needing
impulses
for
both
right
and
wrong.
Selfishness.
A
formula.
If
I
am
not
for
myself
who
will
be
for
me
?
If
I
am
only
for
myself
what
am
I
?
If
not
now
when
?
Reflection
◎「The
struggle
within
us(我々の内での苦闘)」
◎The
forces
within
us
選択をする時に
われわれの中で2つの力が働いていると
ラビは信じている。一つは善をしようとする我々の欲求
他方は悪をしようとする我々の欲求である。善をしようとする衝動あるいは傾向を「Yetzer
Tov」とラビは名づけた。Yetzerはヘブライ語で衝動(impulse)を意味し
Tovは善(good)を意味する。他方
悪をしようとする衝動あるいは傾向を「Yetzer
HaRa」名づけた。Raはヘブライ語で(evil)を意味する。「善の衝動」「悪の衝動」である。
われわれの各々の人は
これら2つの衝動をいかに操作するか問われる。個人の意識にある「Yetzer
Tov」は正義の人を操作し
他方「Yetzer
HaRa」は邪悪をコントロールするが
タルムードでは両方の衝動が
平均的な人の意識が衝動を操作することを示す(Berachot
61a)。
我々のほとんどはこの3番目のカテゴリーの「両方の衝動が平均的な人の意識が衝動を操作するということ」にあり
意識の全体が正義でなく全体が邪悪でもない。
◎Needing
impulses
for
both
right
and
wrong
このことから
何が正しいことで
何が悪いことか
われわれはいかにして判断するのであろうか。どうやって片方の衝動から他方の衝動を識別するのか。選択はいつも明瞭でない。いつでも邪悪な選択があり
正義の選択があるということを
ラビが暗示している時単純化しすぎてはいないのかも課題である。ラビの理解というのは実際にはもっとずっと複雑であったのだ。彼らは「Yetzer
HaRa」が邪悪だとは信じていなかった。それは邪悪に向かった傾斜であるといえる。彼らは
「Yetzer
HaRa」が多くの局面で有用になりえるということまでも理解している。このことを示すために
彼らはこんなたとえ話を言っている。
昔
われらの善き者たちは「Yetzer
HaRa」を捕まえて
それを金の鎖で縛り上げた。最初彼らは自分たちでたいへん喜んでいた。盗みは止り
殺人は無くなった。人々は友好的になり
互いを愛するようになった。嫉妬は無くなり
イスラエルの全地においてイスラエル人と隣人との間の論争も無くなった。死ぬ者はいなくなった。
しかし突然
彼らは奇妙な出来事を見るようになり始めた。人々はとても満足したので精を出して働く心配がなくなった。競争が無くなったので人々は働くことを止めてしまった。新しい家はもう作られなくなった。人々はもはや
結婚もしないで
子供を欲しがらなくなった。ラビでさえ不精になり始めた。その時
ラビは「Yetzer
HaRa」が世界において如何に必要であったかを理解して彼らは縛ってあった鎖を壊してそれを自由にした。
(Genesisi
Rabbah
9:7)
◎Selfishness
「Yetzer
HaRa」を理解する最も簡単な方法は
極端な利己主義としてそれを見てみることである。それは我々の一部でもあり
それは「私のもの」とか「私は欲しい」あるいは「私にくれ」とか言って要求することがそれである。「Yetzer
HaRa」が危険であるのは何かというと
もし我々がそれをバランスしコントロールしないと
それが我々をコントロールするようになる
ということである。
「Yetzer
HaRa」は
本を取り上げて返さない
といった小さなことをするように我々に問いかけてくることで
我々をつかみ始める。そしてやがて
もっと悪い事をするように我々に要求する。それは我々にこう言うかもしれない:「この一回だけやってごらん
あなたがただの一回だけやっても誰も傷つくことはないから」それからやがて
毎回に悪い事をするように要求してくる:「さあ来てこれを傷つけてごらん。彼がいかに弱いか見てみなさい。彼はあなたに仕返しなんか出来ないよ」
最初は
「Yetzer
HaRa」はくもの巣のようであるが
しかし最後には重いロープのようになる。最初は
「Yetzer
HaRa」は通行人のようであり
お客のようであるが
最後にはその家の主人になる。最初は
「Yetzer
HaRa」は甘いが
最後にはにがくなる。
(Sukkot
52a
52b
Jerusalem
Talmud
Shabbat
14c)
◎A
formula
利己主義をコントロールすることはいつも簡単というわけではない。我々が自分たちに利己主義を許せば許すほど
我々が利己主義になる。その時
選択するという我々の能力を実際に失って行き
我々だけのためにいつも行動し始める。我々の自由
我々の自由意志を放棄し
それに代わって何でも瞬間に行動することが好きになる
これは自由の錯覚にすぎないのであるが。
このことは
もし我々が他の人々と一緒に生活する必要がなかったならば
全て正しいかもしれない。しかし
あなたがこの本の第2章の始めでリストアップしたものを思い出してみれば
あなたはすぐに分かるがあなたの生活のほとんどは他人の周りに
そしてあなたが属している人々の周りに作られている。そこで我々はバランスについてのある種類を探すために勉強しなければならない。利己主義になることはいつでも悪い
というわけではない。しかしまたいつでも正しい
というわけでもない。全てのものを皆で分けることがいつも良いわけではないが
いつも悪いはずがない。間のどこかに行くべき価値のある道がある。
ここで
ミシュナ時代の偉大な先生であるヒレルから
われわれは学習しよう。ヒレルは
自分の生活と繰り返しの教えを通して
知的な選択をする公式を探した。ヒレルは「アボット」に彼の公式をまとめた:"
If
I
am
not
for
myself
who
will
be
for
me
?
And
if
I
am
only
for
myself
what
am
I
?
And
if
not
now
when
?
"
"
If
I
am
not
for
myself
who
will
be
for
me?
"
もしあなたが住んでいる世界にアクティブに参加するのであれば
何かのために耐えることが必要である。次のことに理解を持つようにしなければいけない:あなたが持っているもの
持ちたいもの
自分がなりたい事
喜んで働きたい事
世話をしたい事。言い換えれば
自分自身でスタートしなければならない。
自分自身のために欲しいものが全て利己主義だ
というわけではない。しかし
自分自身のため「だけ」に欲しいものはほとんどが利己主義である。
あなたは知識を得たいかもしれない。このこと自身は利己主義ではない。知識のある人は
無知な者よりも世界にとって役に立つ。しかしもしあなたが他人を傷つけるために
あるいはあなた自身のためにのみ
あなたの知識を使うのなら
あなたが害ある利己主義なものになる。
あなたは人気を得たいかもしれない。このこと自身は利己主義ではない。人気のある人は
接近して連帯したり
議論や討論をしたり
親切や理解を持たらしたりして
隣人を助けることができる。しかし人気のある人が
悪の方向に人々を導くために彼の才能を使う時
彼は「悪の衝動」への道にいるのである。人々を戦争から戦争へと導くために
自分の人気を使った場合
ナポレオンはフランス人民を助ける代わりに
彼らを傷つけ苦しめた。
あなたは財産を得たいかもしれない。このこと自身は利己主義ではない。財産のある人は他の人々を助けることができる。必要としている人々に彼の富を慈善に使うことによって
また貴重な仕事や行動のスポンサーなることで共同体への祝福となることで。しかしもし人が他の人々の犠牲によって財産を欲しがるならば
その時これは真の利己主義を通して「悪の衝動」の一つの例である。
ヒレル(Hillel)の最初の質問
"
If
I
am
not
for
myself
who
will
be
for
me
?
"これは次のことを暗示している。人は自分自身を助けるために努力すべきである。あなたは自分がなりたい事になるために労働すべきであり
より良くなるために労働すべきである。なぜならば
もしあなたがあなた自身のために働かないのであれば
いったい誰があなたのためにそれを行なってくれるのか。
"
If
I
am
only
for
myself
what
am
I
?
"
しかしもし全てのあなたの労働があなた自身だけのためであるならば
あなたは何の善であるのか。われわれはいつもここに戻ってくる:あなたの生活には
あなただけがいるのではない。あなたの生活が本当の意味で始まるのは
他人のことを考慮した仕事の方法を選択し始めた時からである。
もしあなた一人だけが生きているならば
いかに振る舞っても誰かとの差ができるわけではない。これがゆえに
ヒレル(Hillel)の第2の質問がとても重要なのである。
他の人々と生活することは
我々が自分たちのことを考えるの同様に
彼らが必要あるいは要望していることを我々が考えなければいけない。
我々だけのためにある
というときはいつも「悪の衝動」が我々を狙っている。これはヒレルの第1の質問を少しばかり変えて我々に問う:"
If
I
don't
get
such
and
such
for
myself
who
else
will
get
it
for
me
?
"もし私がそんなに自分のために努力しなくても
誰か他人が私のためにそれをやってくれのではないか。しかしヒレルは問を続ける時に適切なバランスを持ってきている。実際に第2の質問において"
If
I
get
such
and
such
at
someone
else's
expense
or
harm
am
I
not
evil
?
"もし私がそれほど誰か他人を傷つけているとしたら
私は悪ではないのか。ヒレルは「悪の衝動」が重要であることも分かっているが
しかしその2つの衝動がバランスされなければならないことも分かっている。このような場合にのみ
人は社会に
そして結局は自分に奉仕できる。このような場合にのみ
人は社会に
そして結局は自分に奉仕できる。
"
If
not
now
when
?
""
ヒレルの第3の質問はまた重要である。われわれは人間である。我々の全ては
明日まで物事を延期するのが好きである。さらに
もし我々が決して始めようとしない
あるいは"
I
will
let
myself
do
evil
just
this
one
time
"
この一回だけは悪をやってみようと言うならば
これは我々が奴隷になることである。我々は選択する自由を失っているのだ。
我々のうち誰かは
行き過ぎた利己主義で悩んでいる。また誰かは
自分たち自身のことをほとんど考えない行き過ぎた非利己主義で悩んでいる。もし我々が生活の中でのバランスを持つよう探し求めないのならば
我々はただ怠け者になるしか期待出来ない:変化や進歩への抵抗
何か新しいことの試みへの恐れ
我々をより良く
あるいはより豊かにする試みへの恐れ。
これに対する唯一の治療があるとヒレルは暗示している。今行動せよ!明日まで待つな
「私は明日始めよう」と言うな。すぐに始めなさい!
Reflection
この本は
「アボット」にあるヒレルの3つの質問を軸にして構成されている。「第1~4章」は
行動に対する我々自身の準備について考えている。「第5~11章」は
我々各々が
自分自身のために生活をする上で
選択しなければならない事柄について語る。(If
I
am
not
for
myself
who
will
be
for
me
?
)「第12~21章」は
我々の共同体の中で一緒にうまく生活する場合に
選択しなければならない事柄について語る。(And
if
I
am
only
for
myself
what
am
I
?)「第22~23章」は
われわれの進路を設定しそれを正しく設定するために
ただちにしなければならないことは何かについて語る。(And
if
not
now
when?)
いつでも
我々の学習では
このような考えに戻ってくる:・我々の各々は
複合した複雑な人間であり
しかも唯一で一人であるということ。・我々の誰もが
心の内で
良いことと悪いこととの間で苦闘している。そして同様に
我々自身のために正しいことと我々が住んでいる世界のために正しいこととの間で苦闘しているということ。・この苦闘が我々の生活に
そして我々のまわりの世界に意味を与えている
ということ。・そしてこの苦闘の成功は
我々自身の中でまた世界の中で
何が最良で何が最悪かのバランスをいかにして我々がうまくをとるか
最終的にこれにかかっているということ。
我々の苦闘に光を投げるために
そしてこの世界の複雑さの説明で我々を助けるために
我々自身の伝統(ラビの観点)を引き出そう。
ラビの観点:適切な行動と適切な考えを通して邪悪に打ち勝てるということ。邪悪なことをしようとする衝動「Yetzer
HaRa」は
良いことに代わるかもしれないということ。我々はラビ自身の行動
言葉および思考を調べよう。そして彼らの原理がいかに現実となって行くかを見てみよう。
正しさと邪悪の間の選択をするのはいつでもあなたである
ということを忘れずに記憶しなさい。なぜならば
選択の自由はあなたがユダヤ人としての世襲財産であり
また人間として生まれたあなたの権利だからである。じょうずに選ぶことは最終的にあなたの個人的な責任である。
アヴェ・ヴェルム・コルプス (お話です) 「ミシュナー・タルムード・アヴォート(Avot)篇」 「アブラハムの契約とシナイ契約」「知識の価値」 ◎「知識の科価値」 迷信と固定的道徳が判断と行為の誤りから迫害を生みます。固定的道徳が予定因果であり、民衆が日常を問題意識なくすごしてしまい、儒教的道徳の場合、民衆が疑問に思うことを質問しにくいという問題がある。迷信と固定的道徳を乗り越える手立てが証拠の収集とこれらの分類を行って選択していくというstady(勉強)がある。 ◎「アブラハムの契約とシナイ契約」 ・アブラハムの契約が神ヤハウェがアブラハムにハラン(ユーフラテスの上流:現在の東トルコ)の地を離れてカナン(現在のイスラエル、パレスチナ)の地に行きなさい。繁栄を約束する。という契約の約束型契約。 ・ヘブル人(tbri:ヘブル語・現在のイスラエル人)部族集団(エジプトを脱出した部族)とモーセの神ヤハウェの十戒の条文。という契約の義務型契約。
投稿者: 有馬徳彦
投稿日時:2012-06-19 02:39:35.0
視聴回数:18924回
お気に入り登録:0
カテゴリ:
暮らし全般
エンタメ全般
教育全般
タグ:
アヴェ・ヴェルム・コルプス
(お話です)
「ミシュナー・タルムード・アヴォート(Avot)篇」
「アブラハムの契約とシナイ契約」「知識の価値」
◎「知識の科価値」
迷信と固定的道徳が判断と行為の誤りから迫害を生みます。固定的道徳が予定因果であり
民衆が日常を問題意識なくすごしてしまい
儒教的道徳の場合
民衆が疑問に思うことを質問しにくいという問題がある。迷信と固定的道徳を乗り越える手立てが証拠の収集とこれらの分類を行って選択していくというstady(勉強)がある。
◎「アブラハムの契約とシナイ契約」
・アブラハムの契約が神ヤハウェがアブラハムにハラン(ユーフラテスの上流:現在の東トルコ)の地を離れてカナン(現在のイスラエル
パレスチナ)の地に行きなさい。繁栄を約束する。という契約の約束型契約。
・ヘブル人(tbri:ヘブル語・現在のイスラエル人)部族集団(エジプトを脱出した部族)とモーセの神ヤハウェの十戒の条文。という契約の義務型契約。◎「The
struggle
within
us」
The
forces
within
us.
Needing
impulses
for
both
right
and
wrong.
Selfishness.
A
formula.
If
I
am
not
for
myself
who
will
be
for
me
?
If
I
am
only
for
myself
what
am
I
?
If
not
now
when
?
Reflection
◎「The
struggle
within
us(我々の内での苦闘)」
◎The
forces
within
us
選択をする時に
われわれの中で2つの力が働いていると
ラビは信じている。一つは善をしようとする我々の欲求
他方は悪をしようとする我々の欲求である。善をしようとする衝動あるいは傾向を「Yetzer
Tov」とラビは名づけた。Yetzerはヘブライ語で衝動(impulse)を意味し
Tovは善(good)を意味する。他方
悪をしようとする衝動あるいは傾向を「Yetzer
HaRa」名づけた。Raはヘブライ語で(evil)を意味する。「善の衝動」「悪の衝動」である。
われわれの各々の人は
これら2つの衝動をいかに操作するか問われる。個人の意識にある「Yetzer
Tov」は正義の人を操作し
他方「Yetzer
HaRa」は邪悪をコントロールするが
タルムードでは両方の衝動が
平均的な人の意識が衝動を操作することを示す(Berachot
61a)。
我々のほとんどはこの3番目のカテゴリーの「両方の衝動が平均的な人の意識が衝動を操作するということ」にあり
意識の全体が正義でなく全体が邪悪でもない。
◎Needing
impulses
for
both
right
and
wrong
このことから
何が正しいことで
何が悪いことか
われわれはいかにして判断するのであろうか。どうやって片方の衝動から他方の衝動を識別するのか。選択はいつも明瞭でない。いつでも邪悪な選択があり
正義の選択があるということを
ラビが暗示している時単純化しすぎてはいないのかも課題である。ラビの理解というのは実際にはもっとずっと複雑であったのだ。彼らは「Yetzer
HaRa」が邪悪だとは信じていなかった。それは邪悪に向かった傾斜であるといえる。彼らは
「Yetzer
HaRa」が多くの局面で有用になりえるということまでも理解している。このことを示すために
彼らはこんなたとえ話を言っている。
昔
われらの善き者たちは「Yetzer
HaRa」を捕まえて
それを金の鎖で縛り上げた。最初彼らは自分たちでたいへん喜んでいた。盗みは止り
殺人は無くなった。人々は友好的になり
互いを愛するようになった。嫉妬は無くなり
イスラエルの全地においてイスラエル人と隣人との間の論争も無くなった。死ぬ者はいなくなった。
しかし突然
彼らは奇妙な出来事を見るようになり始めた。人々はとても満足したので精を出して働く心配がなくなった。競争が無くなったので人々は働くことを止めてしまった。新しい家はもう作られなくなった。人々はもはや
結婚もしないで
子供を欲しがらなくなった。ラビでさえ不精になり始めた。その時
ラビは「Yetzer
HaRa」が世界において如何に必要であったかを理解して彼らは縛ってあった鎖を壊してそれを自由にした。
(Genesisi
Rabbah
9:7)
◎Selfishness
「Yetzer
HaRa」を理解する最も簡単な方法は
極端な利己主義としてそれを見てみることである。それは我々の一部でもあり
それは「私のもの」とか「私は欲しい」あるいは「私にくれ」とか言って要求することがそれである。「Yetzer
HaRa」が危険であるのは何かというと
もし我々がそれをバランスしコントロールしないと
それが我々をコントロールするようになる
ということである。
「Yetzer
HaRa」は
本を取り上げて返さない
といった小さなことをするように我々に問いかけてくることで
我々をつかみ始める。そしてやがて
もっと悪い事をするように我々に要求する。それは我々にこう言うかもしれない:「この一回だけやってごらん
あなたがただの一回だけやっても誰も傷つくことはないから」それからやがて
毎回に悪い事をするように要求してくる:「さあ来てこれを傷つけてごらん。彼がいかに弱いか見てみなさい。彼はあなたに仕返しなんか出来ないよ」
最初は
「Yetzer
HaRa」はくもの巣のようであるが
しかし最後には重いロープのようになる。最初は
「Yetzer
HaRa」は通行人のようであり
お客のようであるが
最後にはその家の主人になる。最初は
「Yetzer
HaRa」は甘いが
最後にはにがくなる。
(Sukkot
52a
52b
Jerusalem
Talmud
Shabbat
14c)
◎A
formula
利己主義をコントロールすることはいつも簡単というわけではない。我々が自分たちに利己主義を許せば許すほど
我々が利己主義になる。その時
選択するという我々の能力を実際に失って行き
我々だけのためにいつも行動し始める。我々の自由
我々の自由意志を放棄し
それに代わって何でも瞬間に行動することが好きになる
これは自由の錯覚にすぎないのであるが。
このことは
もし我々が他の人々と一緒に生活する必要がなかったならば
全て正しいかもしれない。しかし
あなたがこの本の第2章の始めでリストアップしたものを思い出してみれば
あなたはすぐに分かるがあなたの生活のほとんどは他人の周りに
そしてあなたが属している人々の周りに作られている。そこで我々はバランスについてのある種類を探すために勉強しなければならない。利己主義になることはいつでも悪い
というわけではない。しかしまたいつでも正しい
というわけでもない。全てのものを皆で分けることがいつも良いわけではないが
いつも悪いはずがない。間のどこかに行くべき価値のある道がある。
ここで
ミシュナ時代の偉大な先生であるヒレルから
われわれは学習しよう。ヒレルは
自分の生活と繰り返しの教えを通して
知的な選択をする公式を探した。ヒレルは「アボット」に彼の公式をまとめた:"
If
I
am
not
for
myself
who
will
be
for
me
?
And
if
I
am
only
for
myself
what
am
I
?
And
if
not
now
when
?
"
"
If
I
am
not
for
myself
who
will
be
for
me?
"
もしあなたが住んでいる世界にアクティブに参加するのであれば
何かのために耐えることが必要である。次のことに理解を持つようにしなければいけない:あなたが持っているもの
持ちたいもの
自分がなりたい事
喜んで働きたい事
世話をしたい事。言い換えれば
自分自身でスタートしなければならない。
自分自身のために欲しいものが全て利己主義だ
というわけではない。しかし
自分自身のため「だけ」に欲しいものはほとんどが利己主義である。
あなたは知識を得たいかもしれない。このこと自身は利己主義ではない。知識のある人は
無知な者よりも世界にとって役に立つ。しかしもしあなたが他人を傷つけるために
あるいはあなた自身のためにのみ
あなたの知識を使うのなら
あなたが害ある利己主義なものになる。
あなたは人気を得たいかもしれない。このこと自身は利己主義ではない。人気のある人は
接近して連帯したり
議論や討論をしたり
親切や理解を持たらしたりして
隣人を助けることができる。しかし人気のある人が
悪の方向に人々を導くために彼の才能を使う時
彼は「悪の衝動」への道にいるのである。人々を戦争から戦争へと導くために
自分の人気を使った場合
ナポレオンはフランス人民を助ける代わりに
彼らを傷つけ苦しめた。
あなたは財産を得たいかもしれない。このこと自身は利己主義ではない。財産のある人は他の人々を助けることができる。必要としている人々に彼の富を慈善に使うことによって
また貴重な仕事や行動のスポンサーなることで共同体への祝福となることで。しかしもし人が他の人々の犠牲によって財産を欲しがるならば
その時これは真の利己主義を通して「悪の衝動」の一つの例である。
ヒレル(Hillel)の最初の質問
"
If
I
am
not
for
myself
who
will
be
for
me
?
"これは次のことを暗示している。人は自分自身を助けるために努力すべきである。あなたは自分がなりたい事になるために労働すべきであり
より良くなるために労働すべきである。なぜならば
もしあなたがあなた自身のために働かないのであれば
いったい誰があなたのためにそれを行なってくれるのか。
"
If
I
am
only
for
myself
what
am
I
?
"
しかしもし全てのあなたの労働があなた自身だけのためであるならば
あなたは何の善であるのか。われわれはいつもここに戻ってくる:あなたの生活には
あなただけがいるのではない。あなたの生活が本当の意味で始まるのは
他人のことを考慮した仕事の方法を選択し始めた時からである。
もしあなた一人だけが生きているならば
いかに振る舞っても誰かとの差ができるわけではない。これがゆえに
ヒレル(Hillel)の第2の質問がとても重要なのである。
他の人々と生活することは
我々が自分たちのことを考えるの同様に
彼らが必要あるいは要望していることを我々が考えなければいけない。
我々だけのためにある
というときはいつも「悪の衝動」が我々を狙っている。これはヒレルの第1の質問を少しばかり変えて我々に問う:"
If
I
don't
get
such
and
such
for
myself
who
else
will
get
it
for
me
?
"もし私がそんなに自分のために努力しなくても
誰か他人が私のためにそれをやってくれのではないか。しかしヒレルは問を続ける時に適切なバランスを持ってきている。実際に第2の質問において"
If
I
get
such
and
such
at
someone
else's
expense
or
harm
am
I
not
evil
?
"もし私がそれほど誰か他人を傷つけているとしたら
私は悪ではないのか。ヒレルは「悪の衝動」が重要であることも分かっているが
しかしその2つの衝動がバランスされなければならないことも分かっている。このような場合にのみ
人は社会に
そして結局は自分に奉仕できる。このような場合にのみ
人は社会に
そして結局は自分に奉仕できる。
"
If
not
now
when
?
""
ヒレルの第3の質問はまた重要である。われわれは人間である。我々の全ては
明日まで物事を延期するのが好きである。さらに
もし我々が決して始めようとしない
あるいは"
I
will
let
myself
do
evil
just
this
one
time
"
この一回だけは悪をやってみようと言うならば
これは我々が奴隷になることである。我々は選択する自由を失っているのだ。
我々のうち誰かは
行き過ぎた利己主義で悩んでいる。また誰かは
自分たち自身のことをほとんど考えない行き過ぎた非利己主義で悩んでいる。もし我々が生活の中でのバランスを持つよう探し求めないのならば
我々はただ怠け者になるしか期待出来ない:変化や進歩への抵抗
何か新しいことの試みへの恐れ
我々をより良く
あるいはより豊かにする試みへの恐れ。
これに対する唯一の治療があるとヒレルは暗示している。今行動せよ!明日まで待つな
「私は明日始めよう」と言うな。すぐに始めなさい!
Reflection
この本は
「アボット」にあるヒレルの3つの質問を軸にして構成されている。「第1~4章」は
行動に対する我々自身の準備について考えている。「第5~11章」は
我々各々が
自分自身のために生活をする上で
選択しなければならない事柄について語る。(If
I
am
not
for
myself
who
will
be
for
me
?
)「第12~21章」は
我々の共同体の中で一緒にうまく生活する場合に
選択しなければならない事柄について語る。(And
if
I
am
only
for
myself
what
am
I
?)「第22~23章」は
われわれの進路を設定しそれを正しく設定するために
ただちにしなければならないことは何かについて語る。(And
if
not
now
when?)
いつでも
我々の学習では
このような考えに戻ってくる:・我々の各々は
複合した複雑な人間であり
しかも唯一で一人であるということ。・我々の誰もが
心の内で
良いことと悪いこととの間で苦闘している。そして同様に
我々自身のために正しいことと我々が住んでいる世界のために正しいこととの間で苦闘しているということ。・この苦闘が我々の生活に
そして我々のまわりの世界に意味を与えている
ということ。・そしてこの苦闘の成功は
我々自身の中でまた世界の中で
何が最良で何が最悪かのバランスをいかにして我々がうまくをとるか
最終的にこれにかかっているということ。
我々の苦闘に光を投げるために
そしてこの世界の複雑さの説明で我々を助けるために
我々自身の伝統(ラビの観点)を引き出そう。
ラビの観点:適切な行動と適切な考えを通して邪悪に打ち勝てるということ。邪悪なことをしようとする衝動「Yetzer
HaRa」は
良いことに代わるかもしれないということ。我々はラビ自身の行動
言葉および思考を調べよう。そして彼らの原理がいかに現実となって行くかを見てみよう。
正しさと邪悪の間の選択をするのはいつでもあなたである
ということを忘れずに記憶しなさい。なぜならば
選択の自由はあなたがユダヤ人としての世襲財産であり
また人間として生まれたあなたの権利だからである。じょうずに選ぶことは最終的にあなたの個人的な責任である。
アヴェ・ヴェルム・コルプス (お話です) 「ミシュナー・タルムード・アヴォート(Avot)篇」 「アブラハムの契約とシナイ契約」「知識の価値」 ◎「知識の科価値」 迷信と固定的道徳が判断と行為の誤りから迫害を生みます。固定的道徳が予定因果であり、民衆が日常を問題意識なくすごしてしまい、儒教的道徳の場合、民衆が疑問に思うことを質問しにくいという問題がある。迷信と固定的道徳を乗り越える手立てが証拠の収集とこれらの分類を行って選択していくというstady(勉強)がある。 ◎「アブラハムの契約とシナイ契約」 ・アブラハムの契約が神ヤハウェがアブラハムにハラン(ユーフラテスの上流:現在の東トルコ)の地を離れてカナン(現在のイスラエル、パレスチナ)の地に行きなさい。繁栄を約束する。という契約の約束型契約。 ・ヘブル人(tbri:ヘブル語・現在のイスラエル人)部族集団(エジプトを脱出した部族)とモーセの神ヤハウェの十戒の条文。という契約の義務型契約。
投稿者: 有馬徳彦
投稿日時:2012-06-18 17:52:55.0
視聴回数:8826回
お気に入り登録:0
カテゴリ:
暮らし全般
エンタメ全般
教育全般
タグ:
アヴェ・ヴェルム・コルプス
(お話です)
「ミシュナー・タルムード・アヴォート(Avot)篇」
「アブラハムの契約とシナイ契約」「知識の価値」
◎「知識の科価値」
迷信と固定的道徳が判断と行為の誤りから迫害を生みます。固定的道徳が予定因果であり
民衆が日常を問題意識なくすごしてしまい
儒教的道徳の場合
民衆が疑問に思うことを質問しにくいという問題がある。迷信と固定的道徳を乗り越える手立てが証拠の収集とこれらの分類を行って選択していくというstady(勉強)がある。
◎「アブラハムの契約とシナイ契約」
・アブラハムの契約が神ヤハウェがアブラハムにハラン(ユーフラテスの上流:現在の東トルコ)の地を離れてカナン(現在のイスラエル
パレスチナ)の地に行きなさい。繁栄を約束する。という契約の約束型契約。
・ヘブル人(tbri:ヘブル語・現在のイスラエル人)部族集団(エジプトを脱出した部族)とモーセの神ヤハウェの十戒の条文。という契約の義務型契約。◎「The
struggle
within
us」
The
forces
within
us.
Needing
impulses
for
both
right
and
wrong.
Selfishness.
A
formula.
If
I
am
not
for
myself
who
will
be
for
me
?
If
I
am
only
for
myself
what
am
I
?
If
not
now
when
?
Reflection
◎「The
struggle
within
us(我々の内での苦闘)」
◎The
forces
within
us
選択をする時に
われわれの中で2つの力が働いていると
ラビは信じている。一つは善をしようとする我々の欲求
他方は悪をしようとする我々の欲求である。善をしようとする衝動あるいは傾向を「Yetzer
Tov」とラビは名づけた。Yetzerはヘブライ語で衝動(impulse)を意味し
Tovは善(good)を意味する。他方
悪をしようとする衝動あるいは傾向を「Yetzer
HaRa」名づけた。Raはヘブライ語で(evil)を意味する。「善の衝動」「悪の衝動」である。
われわれの各々の人は
これら2つの衝動をいかに操作するか問われる。個人の意識にある「Yetzer
Tov」は正義の人を操作し
他方「Yetzer
HaRa」は邪悪をコントロールするが
タルムードでは両方の衝動が
平均的な人の意識が衝動を操作することを示す(Berachot
61a)。
我々のほとんどはこの3番目のカテゴリーの「両方の衝動が平均的な人の意識が衝動を操作するということ」にあり
意識の全体が正義でなく全体が邪悪でもない。
◎Needing
impulses
for
both
right
and
wrong
このことから
何が正しいことで
何が悪いことか
われわれはいかにして判断するのであろうか。どうやって片方の衝動から他方の衝動を識別するのか。選択はいつも明瞭でない。いつでも邪悪な選択があり
正義の選択があるということを
ラビが暗示している時単純化しすぎてはいないのかも課題である。ラビの理解というのは実際にはもっとずっと複雑であったのだ。彼らは「Yetzer
HaRa」が邪悪だとは信じていなかった。それは邪悪に向かった傾斜であるといえる。彼らは
「Yetzer
HaRa」が多くの局面で有用になりえるということまでも理解している。このことを示すために
彼らはこんなたとえ話を言っている。
昔
われらの善き者たちは「Yetzer
HaRa」を捕まえて
それを金の鎖で縛り上げた。最初彼らは自分たちでたいへん喜んでいた。盗みは止り
殺人は無くなった。人々は友好的になり
互いを愛するようになった。嫉妬は無くなり
イスラエルの全地においてイスラエル人と隣人との間の論争も無くなった。死ぬ者はいなくなった。
しかし突然
彼らは奇妙な出来事を見るようになり始めた。人々はとても満足したので精を出して働く心配がなくなった。競争が無くなったので人々は働くことを止めてしまった。新しい家はもう作られなくなった。人々はもはや
結婚もしないで
子供を欲しがらなくなった。ラビでさえ不精になり始めた。その時
ラビは「Yetzer
HaRa」が世界において如何に必要であったかを理解して彼らは縛ってあった鎖を壊してそれを自由にした。
(Genesisi
Rabbah
9:7)
◎Selfishness
「Yetzer
HaRa」を理解する最も簡単な方法は
極端な利己主義としてそれを見てみることである。それは我々の一部でもあり
それは「私のもの」とか「私は欲しい」あるいは「私にくれ」とか言って要求することがそれである。「Yetzer
HaRa」が危険であるのは何かというと
もし我々がそれをバランスしコントロールしないと
それが我々をコントロールするようになる
ということである。
「Yetzer
HaRa」は
本を取り上げて返さない
といった小さなことをするように我々に問いかけてくることで
我々をつかみ始める。そしてやがて
もっと悪い事をするように我々に要求する。それは我々にこう言うかもしれない:「この一回だけやってごらん
あなたがただの一回だけやっても誰も傷つくことはないから」それからやがて
毎回に悪い事をするように要求してくる:「さあ来てこれを傷つけてごらん。彼がいかに弱いか見てみなさい。彼はあなたに仕返しなんか出来ないよ」
最初は
「Yetzer
HaRa」はくもの巣のようであるが
しかし最後には重いロープのようになる。最初は
「Yetzer
HaRa」は通行人のようであり
お客のようであるが
最後にはその家の主人になる。最初は
「Yetzer
HaRa」は甘いが
最後にはにがくなる。
(Sukkot
52a
52b
Jerusalem
Talmud
Shabbat
14c)
◎A
formula
利己主義をコントロールすることはいつも簡単というわけではない。我々が自分たちに利己主義を許せば許すほど
我々が利己主義になる。その時
選択するという我々の能力を実際に失って行き
我々だけのためにいつも行動し始める。我々の自由
我々の自由意志を放棄し
それに代わって何でも瞬間に行動することが好きになる
これは自由の錯覚にすぎないのであるが。
このことは
もし我々が他の人々と一緒に生活する必要がなかったならば
全て正しいかもしれない。しかし
あなたがこの本の第2章の始めでリストアップしたものを思い出してみれば
あなたはすぐに分かるがあなたの生活のほとんどは他人の周りに
そしてあなたが属している人々の周りに作られている。そこで我々はバランスについてのある種類を探すために勉強しなければならない。利己主義になることはいつでも悪い
というわけではない。しかしまたいつでも正しい
というわけでもない。全てのものを皆で分けることがいつも良いわけではないが
いつも悪いはずがない。間のどこかに行くべき価値のある道がある。
ここで
ミシュナ時代の偉大な先生であるヒレルから
われわれは学習しよう。ヒレルは
自分の生活と繰り返しの教えを通して
知的な選択をする公式を探した。ヒレルは「アボット」に彼の公式をまとめた:"
If
I
am
not
for
myself
who
will
be
for
me
?
And
if
I
am
only
for
myself
what
am
I
?
And
if
not
now
when
?
"
"
If
I
am
not
for
myself
who
will
be
for
me?
"
もしあなたが住んでいる世界にアクティブに参加するのであれば
何かのために耐えることが必要である。次のことに理解を持つようにしなければいけない:あなたが持っているもの
持ちたいもの
自分がなりたい事
喜んで働きたい事
世話をしたい事。言い換えれば
自分自身でスタートしなければならない。
自分自身のために欲しいものが全て利己主義だ
というわけではない。しかし
自分自身のため「だけ」に欲しいものはほとんどが利己主義である。
あなたは知識を得たいかもしれない。このこと自身は利己主義ではない。知識のある人は
無知な者よりも世界にとって役に立つ。しかしもしあなたが他人を傷つけるために
あるいはあなた自身のためにのみ
あなたの知識を使うのなら
あなたが害ある利己主義なものになる。
あなたは人気を得たいかもしれない。このこと自身は利己主義ではない。人気のある人は
接近して連帯したり
議論や討論をしたり
親切や理解を持たらしたりして
隣人を助けることができる。しかし人気のある人が
悪の方向に人々を導くために彼の才能を使う時
彼は「悪の衝動」への道にいるのである。人々を戦争から戦争へと導くために
自分の人気を使った場合
ナポレオンはフランス人民を助ける代わりに
彼らを傷つけ苦しめた。
あなたは財産を得たいかもしれない。このこと自身は利己主義ではない。財産のある人は他の人々を助けることができる。必要としている人々に彼の富を慈善に使うことによって
また貴重な仕事や行動のスポンサーなることで共同体への祝福となることで。しかしもし人が他の人々の犠牲によって財産を欲しがるならば
その時これは真の利己主義を通して「悪の衝動」の一つの例である。
ヒレル(Hillel)の最初の質問
"
If
I
am
not
for
myself
who
will
be
for
me
?
"これは次のことを暗示している。人は自分自身を助けるために努力すべきである。あなたは自分がなりたい事になるために労働すべきであり
より良くなるために労働すべきである。なぜならば
もしあなたがあなた自身のために働かないのであれば
いったい誰があなたのためにそれを行なってくれるのか。
"
If
I
am
only
for
myself
what
am
I
?
"
しかしもし全てのあなたの労働があなた自身だけのためであるならば
あなたは何の善であるのか。われわれはいつもここに戻ってくる:あなたの生活には
あなただけがいるのではない。あなたの生活が本当の意味で始まるのは
他人のことを考慮した仕事の方法を選択し始めた時からである。
もしあなた一人だけが生きているならば
いかに振る舞っても誰かとの差ができるわけではない。これがゆえに
ヒレル(Hillel)の第2の質問がとても重要なのである。
他の人々と生活することは
我々が自分たちのことを考えるの同様に
彼らが必要あるいは要望していることを我々が考えなければいけない。
我々だけのためにある
というときはいつも「悪の衝動」が我々を狙っている。これはヒレルの第1の質問を少しばかり変えて我々に問う:"
If
I
don't
get
such
and
such
for
myself
who
else
will
get
it
for
me
?
"もし私がそんなに自分のために努力しなくても
誰か他人が私のためにそれをやってくれのではないか。しかしヒレルは問を続ける時に適切なバランスを持ってきている。実際に第2の質問において"
If
I
get
such
and
such
at
someone
else's
expense
or
harm
am
I
not
evil
?
"もし私がそれほど誰か他人を傷つけているとしたら
私は悪ではないのか。ヒレルは「悪の衝動」が重要であることも分かっているが
しかしその2つの衝動がバランスされなければならないことも分かっている。このような場合にのみ
人は社会に
そして結局は自分に奉仕できる。このような場合にのみ
人は社会に
そして結局は自分に奉仕できる。
"
If
not
now
when
?
""
ヒレルの第3の質問はまた重要である。われわれは人間である。我々の全ては
明日まで物事を延期するのが好きである。さらに
もし我々が決して始めようとしない
あるいは"
I
will
let
myself
do
evil
just
this
one
time
"
この一回だけは悪をやってみようと言うならば
これは我々が奴隷になることである。我々は選択する自由を失っているのだ。
我々のうち誰かは
行き過ぎた利己主義で悩んでいる。また誰かは
自分たち自身のことをほとんど考えない行き過ぎた非利己主義で悩んでいる。もし我々が生活の中でのバランスを持つよう探し求めないのならば
我々はただ怠け者になるしか期待出来ない:変化や進歩への抵抗
何か新しいことの試みへの恐れ
我々をより良く
あるいはより豊かにする試みへの恐れ。
これに対する唯一の治療があるとヒレルは暗示している。今行動せよ!明日まで待つな
「私は明日始めよう」と言うな。すぐに始めなさい!
Reflection
この本は
「アボット」にあるヒレルの3つの質問を軸にして構成されている。「第1~4章」は
行動に対する我々自身の準備について考えている。「第5~11章」は
我々各々が
自分自身のために生活をする上で
選択しなければならない事柄について語る。(If
I
am
not
for
myself
who
will
be
for
me
?
)「第12~21章」は
我々の共同体の中で一緒にうまく生活する場合に
選択しなければならない事柄について語る。(And
if
I
am
only
for
myself
what
am
I
?)「第22~23章」は
われわれの進路を設定しそれを正しく設定するために
ただちにしなければならないことは何かについて語る。(And
if
not
now
when?)
いつでも
我々の学習では
このような考えに戻ってくる:・我々の各々は
複合した複雑な人間であり
しかも唯一で一人であるということ。・我々の誰もが
心の内で
良いことと悪いこととの間で苦闘している。そして同様に
我々自身のために正しいことと我々が住んでいる世界のために正しいこととの間で苦闘しているということ。・この苦闘が我々の生活に
そして我々のまわりの世界に意味を与えている
ということ。・そしてこの苦闘の成功は
我々自身の中でまた世界の中で
何が最良で何が最悪かのバランスをいかにして我々がうまくをとるか
最終的にこれにかかっているということ。
我々の苦闘に光を投げるために
そしてこの世界の複雑さの説明で我々を助けるために
我々自身の伝統(ラビの観点)を引き出そう。
ラビの観点:適切な行動と適切な考えを通して邪悪に打ち勝てるということ。邪悪なことをしようとする衝動「Yetzer
HaRa」は
良いことに代わるかもしれないということ。我々はラビ自身の行動
言葉および思考を調べよう。そして彼らの原理がいかに現実となって行くかを見てみよう。
正しさと邪悪の間の選択をするのはいつでもあなたである
ということを忘れずに記憶しなさい。なぜならば
選択の自由はあなたがユダヤ人としての世襲財産であり
また人間として生まれたあなたの権利だからである。じょうずに選ぶことは最終的にあなたの個人的な責任である。
(お話です) 2 「ユダヤ教とイスラエルの神の信仰の相続を受けたユダヤ民族」「タルムード」 「紀元前2000年のイスラエルの各部族が 異教徒を排撃してでも 礼拝を守るときの 各地に存在したエル(神)と 場所を持たぬエル(神)について」イスラエルのヤハウェの神の信仰がございました。ここに、ユダヤ教の存在がございました。しかし、バビロニアの捕囚以降、ユダヤ民族としてのイスラエルの信仰を相続するものがユダヤ教徒でありユダヤ教徒としての民族であるという強い意識を持つにいたり、ユダヤ教徒とユダヤ民族の展開がございました。ここに、神の子としてのキリストであるがゆえに神性を持つということで、キリスト教の存在がまた壁になり、イスラエルの神ヤハウェと神の信仰を相続する選民であるユダヤ民族のユダヤ教が脅かされました。他方、イスラエルの信仰の相続に異を唱えたのが、イスラム教で、同じくユダヤ民族とユダヤ教徒の脅威になのでございます。紀元前2000年のイスラエルの各部族が異教徒を排撃してでも礼拝を守るときの各地に存在したエル(神)と場所を持たぬエル(神)について。 「ミシュナ・タルムード・ピルケ・アヴォート(Pirke Avot)篇」 ◎The struggle within us (我々の内での苦闘)」 The forces within us 選択をする時に、われわれの中で2つの力が働いていると、ラビは信じている。一つは善をしようとする我々の欲求、他方は悪をしようとする我々の欲求である。善をしようとする衝動あるいは傾向を「Yetzer Tov」とラビは名づけた。Yetzerはヘブライ語で衝動(impulse)を意味し、Tovは善(good)を意味する。他方、悪をしようとする衝動あるいは傾向を「Yetzer HaRa」名づけた。Raはヘブライ語で(evil)を意味する。(「Yetzer Tov=善の衝動」、「Yetzer HaRa=悪の衝動」) われわれの各々の人は、これら2つの衝動をいかに操作するかに関わる。「Yetzer Tov」は正義の人をコントロールし、他方「Yetzer HaRa」は邪悪をコントロールする。しかしタルムードでは、両方の衝動が平均的な人をコントロールすると言う。(Berachot 61a) 我々のほとんどはこの3番目のカテゴリーにあり、全体に正義でもなければ、また全体に邪悪であるわけでもない。 ◎Needing impulses for both right and wrong しかし、何が正しいことで、何が悪いことか、われわれはいかにして判断するのであろうか。どうやって一方の衝動から他方を識別するのか。選択はいつも明瞭であるというものではない。いつでも邪悪な一つの選択があり、いつでも正義の一つの選択がある、ということをラビが暗示している時、単純に示しすぎてはいないのか。ラビの理解というのは実際にはもっとずっと複雑であったのだ。彼らは「Yetzer HaRa」が邪悪だとは信じていなかった。それはちょうど邪悪に向かった傾斜であるのだ。彼らは、「Yetzer HaRa」が多くの局面で有用になりえる、ということまでも理解している。このことを示すために、彼らはこんなたとえ話を言っている。 昔、われらの善い者たちは「Yetzer HaRa」を捕まえて、それを金の鎖で縛り上げた。最初彼らは自分たちでたいへん喜んでいた。盗みは止り、殺人は無くなった。人々は友好的になり、互いを愛するようになった。嫉妬は無くなり、イスラエルの全地においてイスラエル人と隣人との間の論争も無くなった。死ぬ者はいなくなった。 しかし突然、彼らは奇妙な出来事を見るようになり始めた。人々はとても満足したので精を出して働く心配がなくなった。競争が無くなったので人々は働くことを止めてしまった。新しい家はもう作られなくなった。人々はもはや、結婚もしないで、子供を欲しがらなくなった。ラビでさえ不精になり始めた。その時、ラビは「Yetzer HaRa」が世界において如何に必要であったかを理解した。それで彼らは縛ってあった鎖を壊し、それを自由にした。 (Genesisi Rabbah 9:7)
投稿者: 有馬徳彦
投稿日時:2012-06-18 11:55:39.0
視聴回数:4776回
お気に入り登録:0
カテゴリ:
暮らし全般
エンタメ全般
教育全般
タグ:
(お話です)
2
「ユダヤ教とイスラエルの神の信仰の相続を受けたユダヤ民族」「タルムード」
「紀元前2000年のイスラエルの各部族が
異教徒を排撃してでも
礼拝を守るときの
各地に存在したエル(神)と
場所を持たぬエル(神)について」イスラエルのヤハウェの神の信仰がございました。ここに
ユダヤ教の存在がございました。しかし
バビロニアの捕囚以降
ユダヤ民族としてのイスラエルの信仰を相続するものがユダヤ教徒でありユダヤ教徒としての民族であるという強い意識を持つにいたり
ユダヤ教徒とユダヤ民族の展開がございました。ここに
神の子としてのキリストであるがゆえに神性を持つということで
キリスト教の存在がまた壁になり
イスラエルの神ヤハウェと神の信仰を相続する選民であるユダヤ民族のユダヤ教が脅かされました。他方
イスラエルの信仰の相続に異を唱えたのが
イスラム教で
同じくユダヤ民族とユダヤ教徒の脅威になのでございます。紀元前2000年のイスラエルの各部族が異教徒を排撃してでも礼拝を守るときの各地に存在したエル(神)と場所を持たぬエル(神)について。
「ミシュナ・タルムード・ピルケ・アヴォート(Pirke
Avot)篇」
◎The
struggle
within
us
(我々の内での苦闘)」
The
forces
within
us
選択をする時に
われわれの中で2つの力が働いていると
ラビは信じている。一つは善をしようとする我々の欲求
他方は悪をしようとする我々の欲求である。善をしようとする衝動あるいは傾向を「Yetzer
Tov」とラビは名づけた。Yetzerはヘブライ語で衝動(impulse)を意味し
Tovは善(good)を意味する。他方
悪をしようとする衝動あるいは傾向を「Yetzer
HaRa」名づけた。Raはヘブライ語で(evil)を意味する。(「Yetzer
Tov=善の衝動」
「Yetzer
HaRa=悪の衝動」)
われわれの各々の人は
これら2つの衝動をいかに操作するかに関わる。「Yetzer
Tov」は正義の人をコントロールし
他方「Yetzer
HaRa」は邪悪をコントロールする。しかしタルムードでは
両方の衝動が平均的な人をコントロールすると言う。(Berachot
61a)
我々のほとんどはこの3番目のカテゴリーにあり
全体に正義でもなければ
また全体に邪悪であるわけでもない。
◎Needing
impulses
for
both
right
and
wrong
しかし
何が正しいことで
何が悪いことか
われわれはいかにして判断するのであろうか。どうやって一方の衝動から他方を識別するのか。選択はいつも明瞭であるというものではない。いつでも邪悪な一つの選択があり
いつでも正義の一つの選択がある
ということをラビが暗示している時
単純に示しすぎてはいないのか。ラビの理解というのは実際にはもっとずっと複雑であったのだ。彼らは「Yetzer
HaRa」が邪悪だとは信じていなかった。それはちょうど邪悪に向かった傾斜であるのだ。彼らは
「Yetzer
HaRa」が多くの局面で有用になりえる
ということまでも理解している。このことを示すために
彼らはこんなたとえ話を言っている。
昔
われらの善い者たちは「Yetzer
HaRa」を捕まえて
それを金の鎖で縛り上げた。最初彼らは自分たちでたいへん喜んでいた。盗みは止り
殺人は無くなった。人々は友好的になり
互いを愛するようになった。嫉妬は無くなり
イスラエルの全地においてイスラエル人と隣人との間の論争も無くなった。死ぬ者はいなくなった。
しかし突然
彼らは奇妙な出来事を見るようになり始めた。人々はとても満足したので精を出して働く心配がなくなった。競争が無くなったので人々は働くことを止めてしまった。新しい家はもう作られなくなった。人々はもはや
結婚もしないで
子供を欲しがらなくなった。ラビでさえ不精になり始めた。その時
ラビは「Yetzer
HaRa」が世界において如何に必要であったかを理解した。それで彼らは縛ってあった鎖を壊し
それを自由にした。
(Genesisi
Rabbah
9:7)
◎Selfishness
「Yetzer
HaRa」を理解する最も簡単な方法は
極端な利己主義としてそれを見てみることである。それは我々の一部でもあり
それは「私のもの」とか「私は欲しい」あるいは「私にくれ」とか言って要求することがそれである。「Yetzer
HaRa」が危険であるのは何かというと
もし我々がそれをバランスしコントロールしないと
それが我々をコントロールするようになる
ということである。
「Yetzer
HaRa」は
本を取り上げて返さない
といった小さなことをするように我々に問いかけてくることで
我々をつかみ始める。そしてやがて
もっと悪い事をするように我々に要求する。それは我々にこう言うかもしれない:「この一回だけやってごらん
あなたがただの一回だけやっても誰も傷つくことはないから」それからやがて
毎回に悪い事をするように要求してくる:「さあ来てこれを傷つけてごらん。彼がいかに弱いか見てみなさい。彼はあなたに仕返しなんか出来ないよ」
最初は
「Yetzer
HaRa」はくもの巣のようであるが
しかし最後には重いロープのようになる。最初は
「Yetzer
HaRa」は通行人のようであり
お客のようであるが
最後にはその家の主人になる。最初は
「Yetzer
HaRa」は甘いが
最後にはにがくなる。
(Sukkot
52a
52b
Jerusalem
Talmud
Shabbat
14c)
合唱組曲島よ(朗読) (お話です) ミシュナー・タルムード 「ピルケ・アヴォート (Pirke Avot)」篇 ◎The struggle within us (我々の内での苦闘)」 The forces within us 選択をする時に、われわれの中で2つの力が働いていると、ラビは信じている。一つは善をしようとする我々の欲求、他方は悪をしようとする我々の欲求である。善をしようとする衝動あるいは傾向を「Yetzer Tov」とラビは名づけた。Yetzerはヘブライ語で衝動(impulse)を意味し、Tovは善(good)を意味する。他方、悪をしようとする衝動あるいは傾向を「Yetzer HaRa」名づけた。Raはヘブライ語で(evil)を意味する。(「Yetzer Tov=善の衝動」、「Yetzer HaRa=悪の衝動」) われわれの各々の人は、これら2つの衝動をいかに操作するかに関わる。「Yetzer Tov」は正義の人をコントロールし、他方「Yetzer HaRa」は邪悪をコントロールする。しかしタルムードでは、両方の衝動が平均的な人をコントロールすると言う。(Berachot 61a) 我々のほとんどはこの3番目のカテゴリーにあり、全体に正義でもなければ、また全体に邪悪であるわけでもない。 ◎Needing impulses for both right and wrong しかし、何が正しいことで、何が悪いことか、われわれはいかにして判断するのであろうか。どうやって一方の衝動から他方を識別するのか。選択はいつも明瞭であるというものではない。いつでも邪悪な一つの選択があり、いつでも正義の一つの選択がある、ということをラビが暗示している時、単純に示しすぎてはいないのか。ラビの理解というのは実際にはもっとずっと複雑であったのだ。彼らは「Yetzer HaRa」が邪悪だとは信じていなかった。それはちょうど邪悪に向かった傾斜であるのだ。彼らは、「Yetzer HaRa」が多くの局面で有用になりえる、ということまでも理解している。このことを示すために、彼らはこんなたとえ話を言っている。 昔、われらの賢者たちは「Yetzer HaRa」を捕まえて、それを金の鎖で縛り上げた。最初彼らは自分たちでたいへん喜んでいた。盗みは止り、殺人は無くなった。人々は友好的になり、互いを愛するようになった。嫉妬は無くなり、イスラエルの全地においてイスラエル人と隣人との間の論争も無くなった。死ぬ者はいなくなった。 しかし突然、彼らは奇妙な出来事を見るようになり始めた。人々はとても満足したので精を出して働く心配がなくなった。競争が無くなったので人々は働くことを止めてしまった。新しい家はもう作られなくなった。人々はもはや、結婚もしないで、子供を欲しがらなくなった。ラビでさえ不精になり始めた。その時、ラビは「Yetzer HaRa」が世界において如何に必要であったかを理解した。それで彼らは縛ってあった鎖を壊し、それを自由にした。 (Genesisi Rabbah 9:7) ■ピルケ・アボット (Pirke Avot)編 以外の律法 ■ ユダヤ王は真の世界の法王、世界にまたがる教会の総大司教となる。だが、一方で、われわれが青年層を過渡期の新しい伝統の宗教に、後にはわれわれの宗教で再教育する間、われわれは明らさまには既存の教会には指一本触れないけれども、教会内部の軋轢を目ざし批判を加えて宗教人と闘う。その場合、一般的には、われわれの現代の新聞はゴイムの国家問題、宗教、ゴイムの無能さを断罪し続けるが、常に、わが民天与の才能を振い、あらゆる手段を駆使してかれらの威信を剥奪すべく、罵詈雑言を浴びせ百方中傷する。 <十七>
投稿者: 有馬徳彦
投稿日時:2012-06-01 00:27:12.0
視聴回数:6286回
お気に入り登録:0
カテゴリ:
暮らし全般
エンタメ全般
教育全般
タグ:
合唱組曲島よ(朗読)
(お話です)
ミシュナー・タルムード
「ピルケ・アヴォート
(Pirke
Avot)」篇
◎The
struggle
within
us
(我々の内での苦闘)」
The
forces
within
us
選択をする時に
われわれの中で2つの力が働いていると
ラビは信じている。一つは善をしようとする我々の欲求
他方は悪をしようとする我々の欲求である。善をしようとする衝動あるいは傾向を「Yetzer
Tov」とラビは名づけた。Yetzerはヘブライ語で衝動(impulse)を意味し
Tovは善(good)を意味する。他方
悪をしようとする衝動あるいは傾向を「Yetzer
HaRa」名づけた。Raはヘブライ語で(evil)を意味する。(「Yetzer
Tov=善の衝動」
「Yetzer
HaRa=悪の衝動」)
われわれの各々の人は
これら2つの衝動をいかに操作するかに関わる。「Yetzer
Tov」は正義の人をコントロールし
他方「Yetzer
HaRa」は邪悪をコントロールする。しかしタルムードでは
両方の衝動が平均的な人をコントロールすると言う。(Berachot
61a)
我々のほとんどはこの3番目のカテゴリーにあり
全体に正義でもなければ
また全体に邪悪であるわけでもない。
◎Needing
impulses
for
both
right
and
wrong
しかし
何が正しいことで
何が悪いことか
われわれはいかにして判断するのであろうか。どうやって一方の衝動から他方を識別するのか。選択はいつも明瞭であるというものではない。いつでも邪悪な一つの選択があり
いつでも正義の一つの選択がある
ということをラビが暗示している時
単純に示しすぎてはいないのか。ラビの理解というのは実際にはもっとずっと複雑であったのだ。彼らは「Yetzer
HaRa」が邪悪だとは信じていなかった。それはちょうど邪悪に向かった傾斜であるのだ。彼らは
「Yetzer
HaRa」が多くの局面で有用になりえる
ということまでも理解している。このことを示すために
彼らはこんなたとえ話を言っている。
昔
われらの賢者たちは「Yetzer
HaRa」を捕まえて
それを金の鎖で縛り上げた。最初彼らは自分たちでたいへん喜んでいた。盗みは止り
殺人は無くなった。人々は友好的になり
互いを愛するようになった。嫉妬は無くなり
イスラエルの全地においてイスラエル人と隣人との間の論争も無くなった。死ぬ者はいなくなった。
しかし突然
彼らは奇妙な出来事を見るようになり始めた。人々はとても満足したので精を出して働く心配がなくなった。競争が無くなったので人々は働くことを止めてしまった。新しい家はもう作られなくなった。人々はもはや
結婚もしないで
子供を欲しがらなくなった。ラビでさえ不精になり始めた。その時
ラビは「Yetzer
HaRa」が世界において如何に必要であったかを理解した。それで彼らは縛ってあった鎖を壊し
それを自由にした。
(Genesisi
Rabbah
9:7)
■ピルケ・アボット
(Pirke
Avot)編
以外の律法
■
ユダヤ王は真の世界の法王
世界にまたがる教会の総大司教となる。だが
一方で
われわれが青年層を過渡期の新しい伝統の宗教に
後にはわれわれの宗教で再教育する間
われわれは明らさまには既存の教会には指一本触れないけれども
教会内部の軋轢を目ざし批判を加えて宗教人と闘う。その場合
一般的には
われわれの現代の新聞はゴイムの国家問題
宗教
ゴイムの無能さを断罪し続けるが
常に
わが民天与の才能を振い
あらゆる手段を駆使してかれらの威信を剥奪すべく
罵詈雑言を浴びせ百方中傷する。
<十七>
■
重ねて述べるが
臣民は自分たちとは絶対的にかけ離れた力強い手に対しては
盲目的に服従する。彼らはそこに自分たちを襲う社会的な鞭から守ってくれる防御の剣を感じて支持するのである……彼らは王者に天使の心を期待するのか?
彼らが王者に見たいのは力
力
力の権化なのである。
<二十三>
■
ダヴィデ王の子孫のうちの数人が
相続権ではなく優れた資質を基準にして王と後継者を選定する。その人々には
政治の最高機密と政府の仕組とが伝授されるが
常に何びとにも極秘の知恵が漏れないように留意する。この方式の真意は
このような秘義を授けられたことがない者には
政府を委すことはできないということを徹底させることにある。これらの人々にのみ
何世紀にもわたる諸経験と比較しつつ
私がこれまでに述べたような計画の実際化や
政治経済運動や社会科学研究の全成果-一言で言えば
人間関係を律する動かしがたい天然法則の大真理-が伝授される。
<二十四>
■
たとえ残忍であったとしても無条件に断固たる人物にのみ
われらの賢人長老たちから支配統治の手綱を渡されるのである。……通常の時間における王の行動計画と将来に関することはすべて
最も親しい助言者たちにも知らされない。王と三人の顧問のみが
将来の計画を知っている。断乎とした意志で自分と人類を律する王の人柄には
万人が神秘の宿命を認めるのである。何びとも王が何を行おうとしているのかを知らぬので
あえて知らぬ小路を遮ろうとする者はいない。王の頭の中には実行すべき政府計画を理解するに足りる知恵が貯えられていなければならない。王位に就く前に
前に述べた賢人長老たちが試験を行うのは
そのためである。
<二十四>
■
ユダヤ王は自分の感情
とりわけ情欲のとりこになってはならない。王は自分の人格のどの一面でも
荒々しい本能に精神をしのがせることがあってはならぬ。情欲はいかなる精神的な欠点よりも
明晰に見る力を殺ぎ
思考を人間の性質中最悪の獣的なものに落とし込む。ダヴィデの聖なる子孫である全世界統治王その人は
人類の支柱であり
人民のためにはいかなる個人的希望をも犠牲にしなければならない。われらが至高の王は完全無欠の権化でなければならない。
<二十四>
■
あなたは
あなたの神
主の聖なる民である。あなたの神
主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び
御自分の宝の民とされた。(申命記
七章六)
■
主はあなたの意のままにあしらわせ
あなたが彼らを撃つときは
彼らを必ず滅ぼし尽くさねばならない。彼らと協定を結んではならず
彼らを憐れんではならない。
(申命記
七章二)。
■
掟の言葉より法師の言葉を敬え。
<アシ法師>
■
汝知るべし
法師の言葉は予言者の言葉より美し
と。
<アシ法師>
■
もし法師
汝の右の手を左の手と言ひ
左の手を右の手と言ふとも
彼の言葉に違ふべからず。
<アシ法師>
■
犬は異邦人より勝れたるものなり。
<アシ法師>
■
拾得物を紛失者に返却すべしとの戒は
ユダヤ人に対してのみ守らるべきものにして
ゴイに対しては然らず。この事に就き亡き吾等の教法師達の言えるあり。即ち
「遺失物とはすべて汝の兄弟の失いしところの物を指すものにして
ゴイの失える物は然らず。その理由は
ゴイは神に属する者に非ずして
地の邪神に属する者なる故なり。故にゴイの失える総べての物は
この世にては再び見付けらるる事なき遺失物にして
その所有者に還るべきにあらず。財宝は唯イスラエル人にふさわしく
他の民はこれに値いせざるものなればなり。これ預言者イザヤ(二六ノ一九)の言えるが如し」と。
<ゲルソン法師>
■
ゴイの耳は不潔である。かれらの浴槽
住居
田園は不潔である。
(トセフタ・ミクワト
vの一)
■
ユダヤ人はゴイから奪ってよい。ユダヤ人はゴイから金を騙しとってよい。ゴイは金を持つべきではなく
持てば神の名において不名誉となるだろう。
(シュルハン・アルーフ
コーゼン・ハミズパット
三四八)
■
ゴイの失せ物を見付けた者は自分の所有にしてはならないが
ゴイに返すことは禁じられている。
(シュルハン・アルーフ
コーゼン・ハミズパット
二六六の一)。
■
タルムードの誡において神は命じて曰く
ゴイに金を貸すには必ず高利を以てすべし
と。これ
彼らが借りたる金により利する事なからんため
かつまた
我らが金銭にて彼らに助力を与うることなく
むしろ損害を与えんがためなり。
<モシェー・バル・マエモン>
■
ゴイにわれらの信教を教える者は
ユダヤ人を殺すに等しい。もしもゴイがわれらの教説を知ったならば
かれらは公然とわれらを殺すだろう。
(リブル・デヴィッドの書
三七)