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合唱組曲 島よ (朗読) (お話です)「イスラム教 クルアーン 第三十章 羅馬人(ローマジン)」「タルムード」「愛の価値」

合唱組曲 島よ (朗読) (お話です)「イスラム教 クルアーン 第三十章 羅馬人(ローマジン)」「ユダヤ教 タルムード」「愛の価値」「イスラム教 聖クルアーン 第30章 羅馬人(ローマジン)」 慈悲あまねく慈愛深きアッラーの御名において。 1. アリフ・ラーム・ミーム。 2. ビザンチンの民は打ち負かされた。 3. 近接する地において(打ち負かされた)。だがかれらは,(この)敗北の後直ぐに勝つであろう。 4. 数年の中に(勝利を得よう)。前の場合も後の場合も,凡てはアッラーに属する。その日,ムスリムたちは喜ぶであろう。 5. アッラーの勝利を(喜ぶであろう)。かれは御望みの者を助けられる。かれは偉力ならびなく慈悲深き御方であられる。 6. (これは)アッラーの約束である。アッラーはその約束を違えられない。だが人びとの多くは理解しない。 7. かれらの知るのは,現世の生活の表面だけである。かれらは(事物の)結末に就いては注意しない。 「The value of love:愛の価値」 アボットは、ラビ・ヨハナン・ベン・ザカイ (Rabbi Yohanan ben Zakkai) が、ラビである五人の生徒に与えら普通でない宿題の記録を含んでいる。それは二つの質問からなる。 どれが人の固守すべき正しい道なのか、出て行って見てきなさい......。人が遠ざけなければならない邪悪な道はどれなのか、出て行って見てきなさい。 [ Avot 2:9 ] ヨハナン・ベン・ザカイが「出て行って」と言っているように、彼らの答えを教室の外で、毎日の行動の世界の中で、探すように告げていた。あなたは、五人の学生ラビが彼に与える答えを読み進む前に、紙とペンを取ってあなた自身の答えを少ない言葉で書いてみなさい。正義と公平をするための鍵は何だと思いますか。もし我々が邪悪を避けるつもりなら、避けなければいけないものは何だと思いますか。 我々の各々は、何が我々を痛めているか、我々が痛い時はいつかを知っている。我々が自分自身を愛している時、自分が痛くないようにと、痛くなることから自分を保持しようと努力している。我々が痛みの意味を理解した時のみ、我々は他人がいかに感じるかを理解し始める。 つまりこのことが、ヒレルの質問がこの文で終わっていない理由である。 "If I am not for myself, who will be for me ?" ヒレルの質問はつづく。 "And if I am only for myself, what am I ?" "And if not now, when ?" もし人が彼自身のためだけならば、もし彼が重大な人は自分だけであると考えるほど利己的であるならば、彼は全ての意味を失っている。それは現実を離れて横に歩く道であり、真の愛からはずれた臆病者の道である。臆病者は彼自身を愛すことができない。 ヒレルの質問 "If I am not for myself, who will be for me ?" は、我々が自分自身を評価し我々の可能性を評価しなければならない、我々が自重して行動するよう自分自身を訓練しなければならない、ことを意味している。もし我々がそうすれば、我々が他の人々に対して正しく行動することに、そして自分自身を尊敬すると同様に他の人々を尊敬することについて我々が基礎をもつであろう。何が良いことで寛大なことか、そして何が悪いことで利己的なことか、我々がその間の内部バランスを創る努力をするのとちょうど同じように、また我々自身の考慮と我々の隣人たちの考慮との間の内部バランスを創る努力をしなければならない。我々はお互いを愛さなければならない。 そして、我々の伝統は我々自身を良くする訓練を助け、我々がとる行動の種類において我々自身を愛する理由の発見を助ける、これと同様に、それは他の人々と一緒に我々自身が生活する訓練を助ける。我々の各々が「良い心の道」に従う努力をして、我々がお互いに痛みを避ける努力をするような社会を一緒に築かなければならない。共同体社会の全てのメンバーが個々に良いという理由で、共同体社会が「良い心の道」に従う、そんな社会を我々は築かなければなりません。 これが「The value of community」共同体の価値の本質である、そこでは ヒレルの第二の質問を答える努力をする。 "And if I am only for myself, what am I ?"

投稿者:サイト名 有馬徳彦
投稿日時:2012-07-07 03:59:53.0
視聴回数:1070回
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カテゴリ: 暮らし全般   エンタメ全般   教育全般  
タグ: 合唱組曲   島よ   (朗読)   (お話です)「イスラム教   クルアーン   第三十章   羅馬人(ローマジン)」「ユダヤ教   タルムード」「愛の価値」「イスラム教   聖クルアーン   第30章   羅馬人(ローマンジン)」   「ペルシャ軍がローマを敗北させて   キリスト教の権威を落とさせて   絶頂だったペルシャ軍について   いずれ逆にローマが   ペルシャに勝利することを   実際に勝利する数年前に   ムハッマド預言者が予言したことについて   ユダヤ教の預言者エレミアが   エルサレム神殿の礼拝を行わねば   滅びるということを予言して   バビロニアに捕囚されるということが   預言者と信仰対象の神についての   イスラム教徒ユダヤ教の   共通項と異なる事が気になります。」   「タルムード」   「愛の価値」   「聖クルアーン」   「第30章   羅馬人(ローマジン)」   慈悲あまねく慈愛深きアッラーの御名において。   1.   アリフ・ラーム・ミーム。   2.   ビザンチンの民は打ち負かされた。   3.   近接する地において(打ち負かされた)。だがかれらは,(この)敗北の後直ぐに勝つであろう。   4.   数年の中に(勝利を得よう)。前の場合も後の場合も,凡てはアッラーに属する。その日,ムスリムたちは喜ぶであろう。   5.   アッラーの勝利を(喜ぶであろう)。かれは御望みの者を助けられる。かれは偉力ならびなく慈悲深き御方であられる。   6.   (これは)アッラーの約束である。アッラーはその約束を違えられない。だが人びとの多くは理解しない。   7.   かれらの知るのは,現世の生活の表面だけである。かれらは(事物の)結末に就いては注意しない。   8.   かれらは反省しないのか。アッラーが天と地,そしてその間にある凡てのものを創造なされたのは,唯真理のため,また定めの時のためであることを。だが人びとの多くは,主との会見を否認する。   9.   かれら(マッカの多神教徒)は,地上を旅してかれら以前の者の最後が如何であったかを,観察しないのか。かれら(昔の人)は,かれらよりも力において優れ,地を掘り起こし(て耕作し),またかれらよりも栄えていた。そして使徒たちは明証を持ってかれらのところに来た。アッラーがかれらを損ったのではない。かれらが自ら自分を損ったのである。   10.   所詮悪行の徒の最後は悪い。それはかれらがアッラーの印を虚偽であるとし,それを愚弄していたためである。   11.   アッラーはまず創造を始め,それからそれを繰り返し,それからあなたがたをかれに帰される。   12.   (審判の)   時が到来する日,罪のある者は絶望するであろう。   13.   そしてかれらが(われに)配した(神々の)中には,かれらのために執り成す者もなく,またかれらも,これらの配したものたちを否認する。   14.   (審判の)時が到来するその日には,(凡ての人は)ちりぢりにされるであろう。   15.   その時,善行に勤しんだ者は,緑の野辺で,幸せにされよう。   16.   信仰を拒否しわが印と来世での(主との)会見を虚偽であるとした者は,懲罰に付せられよう。   17.   それで,夕暮にまた暁に,アッラーを讃えなさい。   18.   天においても地にあっても,栄光はかれに属する。午后遅くに,また日の傾き初めに(アッラーを讃えなさい)。   19.   かれは,死から生を(打?)し,また生から死を(打?)され,また枯れ果てた大地を甦らせる。これと同じようにあなたがたも引き出される。   20.   かれが,泥からあなたを創られたのは,かれの印の一つである。見るがいい。やがてあなたがた人間は(繁殖して地上に)散らばった。   21.   またかれがあなたがた自身から,あなたがたのために配偶を創られたのは,かれの印の一つである。あなたがたはかの女らによって安らぎを得るよう(取り計らわれ),あなたがたの間に愛と情けの念を植え付けられる。本当にその中には,考え深い者への印がある。   22.   またかれが,諸天と大地を創造なされ,あなたがたの言語と,肌色を様々異なったものとされているのは,かれの印の一つである。本当にその中には,知識ある者への印がある。   23.   またかれが,あなたがたを夜も昼も眠れるようにし,またかれに恩恵を求めることが出来るのも,かれの印の一つである。本当にその中には,聞く者への印がある。   24.   またかれが,恐れと希望の稲光をあなたがたに示しなされ,天から雨を降らせて,死んだ後の大地を甦らせられるのは,かれの印の一つである。本当にその中には,思慮ある者への印がある。   25.   またかれが,御意志によって,天と地を打ち建てられたのは,かれの印の一つである。そこで,(一声)あなたがたに呼び掛けられると,見るがいい。たちまち大地からあなたがたは(引き)出される。   26.   天と地にある凡てのものは,かれに属する。万有は,真心込めてかれ従属する。   27.   かれこそは先ず創造を始め,それからそれを繰り返される御方。それは,かれにおいてはとてもた易いことである。天と地における,(考え得られる)最高の姿は,かれに属する。かれは偉力ならびなく英明であられる。   28.   かれは,あなたがた自身(の経験)から,一つの譬えを提示なされる。あなたがたは,自分の右手の所有する者たち(奴隷)を,われがあなたがたに与えたものを同等に分配する仲間にするだろうか。あなたがたが互いに気付かうように,かれら(奴隷たち)に気兼ねするだろうか。(そうではあるまい)。このようにわれは,思慮ある者に印を説き明かす。   29.   いや,不義を行う者は知識もなく私利私欲に従う。アッラーが迷うに任せられた者を,誰が導けようか。かれらには救助者はないであろう。   30.   それであなたはあなたの顔を純正な教えに,確り向けなさい。アッラーが人間に定められた天性に基いて。アッラーの創造に,変更がある筈はない。それは正しい教えである。だが人びとの多くは分らない。   31.   悔悟してかれに返り,かれを畏れなさい。礼拝の務めを守り,偶像信者の仲間になってはならない。   32.   それは宗教を分裂させて,分派を作り,それぞれ自分の持っているものに喜び,満足している者。   33.   災厄が人びとを悩ます時かれらは悔悟して主に祈る。だがかれが,慈悲をかれらに味わせると,たちまち一部のをは主に(外の神々を)配し,   34.   われが与えたものを有り難く思わないようになる。(僅かの年月を)享楽するがいい。   だがやがて分るであろう。   35.   われに配しているものを支持する権威を,われがかれらに下したとでもいうのか。   36.   われが人間に慈悲を味わせると,かれらはそれに狂喜する。だが自分の行いのために災厄が下ると,たちまち,かれらは絶望する。   37.   かれらは見ないのか,アッラーが御望みの者に,糧を増し,また減らしなされるのを。本当にその中には,信仰する者への印がある。   38.   それで近親の者に,しかるべきものを与えよ。また貧者と旅人にも。それは,アッラーの慈顔を求める者たちにとり,最も善いことである。これらは,栄える者たちである。   39.   あなたがたが利殖のために,高利で人に貸し与えても,アッラーの許では,何も増えない。だがアッラーの慈顔を求めて喜捨する者には報償が増加される。   40.   アッラーこそは,あなたがたを創り,扶養され,次いで死なせ,更に甦らせられる方である。あなたがたが(捏造しかれに)配したものの中,これらのことの一つでも出来るものがあるか。かれに讃えあれ。かれはかれらが配するものの上に高くおられる。   41.   人間の手が稼いだことのために,陸に海に荒廃がもう現われている。これは(アッラーが),かれらの行ったことの一部を味わわせかれらを(悪から)戻らせるためである。   42.   言ってやるがいい。「地上を旅して,(あなたがた)以前の者たちの最後が,どうであったかを観察しなさい。かれらの多くは多神教徒であった。」   43.   それでアッラーから避け得ない日が来る前に,あなたの顔を正しい教えにしっかり向けなさい。その日かれらは(2群に)分けられよう。   44.   不信心の者は,その不信心のために責めを負う。また正しい行いの者は,自分自身のため(天国に)褥を用意するようなもの。   45.   信仰して善行に動しむ者には,かれは恩恵により報われる。本当にかれは,不信心者を御好みになられない。   46.   吉報の前触れとして風を送るのは,かれの印の一つである。あなたがたにかれの慈悲(降雨と肥次)を味わわせるためであり,またかれの御意志により舟を滑るように進ませ,またあなたがたは,かれの恩恵(海上貿易による利益)を求めるためである。あなたがたは必ず感謝するであろう。   47.   本当にわれはあなた以前にも,使徒たちを(それぞれの)民族に遣わし,かれら(使徒)は,かれらに明証を(西?)した。そしてわれは,罪を犯した者に報復した。だが信仰する者を助けるのは,われの務めである。   48.   アッラーこそは,風を送りそれで雲を起こされる御方であられる。それから御心のままに天にそれを広げ,粉微塵にそれを打ち砕かれる。するとあなたは,その間から出て来る雨滴を見る。かれは,そのしもベの中,御心に適う者にそれを降らせられる。見るがいい。かれらの喜ぶ様子を。   49.   かれらに(雨を)降らせる前,失望にうちひしがれていたのだが。   50.   さあアッラーの慈悲の跡をよくみるがいい。かれが如何に,死んだあとの大地を甦らされるかを。このようにかれは,死んだ者を甦らせる。かれは凡てのことに全能であられる。   51.   だが,われが風を送っても,(作物が)黄ばむのを見ると,その後かれらは,必ず不信心になる。   52.   あなたは,死者にものを聞かせることは出来ない。また,背を向けて逃げ去る聞こえない者に,呼び掛けても聞かせることは出来ない。   53.   またあなたは,(ものごとの)分らない盲目を,迷いから導くことも出来ない。あなたは,只われの印を信じて服従,帰依する者だけに,聞かせることが出来るのである。   54.   アッラーは,あなたがたを弱い者に創られ,それから弱い者を後で,強壮にされ,強壮な者を弱い白髪になされる。かれは御自分の望みのままに創られる。かれは全知にして全能であられる。   55.   (審判の)時が,到来するその日,罪深い者たちは,わたしたちは一時しか(墓に)留まらなかったと誓うであろう。このように,かれらは欺かれていた。   56.   だが知識と信仰を授かった者たちは,言うであろう。「あなたがたはアッラーの定めに基いて,復活の日まで確かに滞在しました。これが復活の日です。だがあなたがたは気付かなかったのです。」   57.   だがその日になってからでは,悪を行った者の弁解も益がなく,またかれらは(悔悟して御恵みを請う)ことも出来ないであろう。   58.   本当にわれは人びとのため,このクルアーンの中に種々の譬えを提示した。だがあなたが,仮令どの一節を持ち出しても,信じない者は必ず,「あなたがたは虚偽に従う者に過ぎません。」と言うであろう。   59.   このようにアッラーは,理解しない者の心を封じられる。   60.   だから耐え忍ベ。本当にアッラーの約束は真実である。確りした信心のない者たちのせいで,あなたまでが動揺してはなりません。   「タルムード」   「The   value   of   love:愛の価値」   アボットは   ラビ・ヨハナン・ベン・ザカイ   (Rabbi   Yohanan   ben   Zakkai)     ラビである五人の生徒に与えら普通でない宿題の記録を含んでいる。それは二つの質問からなる。   どれが人の固守すべき正しい道なのか   出て行って見てきなさい......。人が遠ざけなければならない邪悪な道はどれなのか   出て行って見てきなさい。   [   Avot   2:9   ]   ヨハナン・ベン・ザカイが「出て行って」と言っているように   彼らの答えを教室の外で   毎日の行動の世界の中で   探すように告げていた。あなたは   五人の学生ラビが彼に与える答えを読み進む前に   紙とペンを取ってあなた自身の答えを少ない言葉で書いてみなさい。正義と公平をするための鍵は何だと思いますか。もし我々が邪悪を避けるつもりなら   避けなければならないものは何だと思いますか。   The   answers   五人の学生ラビの答えは   この本の前半の我々の勉強の要約となるのものである。ユダヤ人の行動に対して我々自身がいかに準備したらよいか   これに関してここに集められたアイデアの多くは   ラビたちが与えた答の中に含まれている。これらのアイデアの幾つかは   またあなたが書いた短い答えの中に   おそらく含まれている。我々が勉強してきた道にあなたがどれだけ近づいてきたか見てみよう。あなたはこれらの質問にどのように答えるのでしょうか?   The   answers   of   Rabbi   Eliezer   (1)ラビ・エリエゼルの答え   エリエゼルはスポンジのような記憶力を持った学生であった。注がれた水の全ての一滴までも捕えてしまう水がめのようなので   彼の先生は彼を「セメントの水がめ」と呼んだ。エリエゼルはかって聞いたトーラの全ての教えを記憶していた。そんな人はこの二つの質問にどう答えるであろうか?   エリエゼルは言った   固守すべき正しい道は「良い目」で   避けるべき邪悪な道は「邪悪な目」である。我々は「邪悪な目」によって意味していることを簡単に理解することができる。それは世界を見て   生きる所として醜い   不幸な   みすぼらしい場所を探す道である。「邪悪な目」は   ねたみ   嫉妬   絶えず続く不平そして不幸に耐える。     ある男が彼のラビの前に現われて言った:「私は良いことをするという仕事を止めましたよ。私の一生で   人々は私が良かったら成功するだろうと言っていた。しかし見よ   ここに邪悪であったが成功した人の20人のリストを持っているこれから   私の客をだますことにしよう   そして私もまた金持ちになろう。」ラビは笑って言った:「私は邪悪で成功した人のあなたのリストを見た。しかし   良いことで成功した人のあなたのリストはどこにあるのか?」   人が「邪悪な目」を通して世界を見る時   彼は自然に邪悪であるところの事のみを見ている   そして彼はすべてのものによって妨害されているのだ。「良い目」の人はちょうどその反対である。「良い目」を通しての世界は   喜び   歓声そして   満足   安心の場所である。「良い目」は我々の宗教的な知覚であり   我々を通して世界の中にどんな良いことがもたらせられるのかを知るための我々の能力である。   エリエゼルの答えは   我々にこう告げている:我々が本当に何を見ているかは   我々が物事を見る方法に依存しているのだ。   ことわざが言う:「良い目」を持った人は祝福されるであろう   彼は貧しい者にパンを与えるからである。   (箴言22:9)   言い換えれば   たとえ「良い目」を持った人彼自身が貧しくても   彼はもっと貧しい人を見つけて慈善をするであろう   なぜならば彼の「良い目」が彼自身を金持ちであるとして自分を認めるからである。   箴言=しんげん   箴言22:9の解説:   「良い目」を持った人は祝福されるであろう   彼は貧しい者にパンを与えるからである。   (箴言22:9)   これは聖書の原文であるヘブライ語からの翻訳ですが   日本語や英語の聖書を読むと訳が違っているのに気づきます。   例えば   「新共同訳」聖書では   「寛大な人」は祝福を受ける   自分のパンをさいて弱い人に与えるから。   (箴言22:9)   また   英訳の「Holy   Bible」では   A   generous   man   will   himself   be   blessed   for   he   shares   his   food   with   the   poor.   (   Proverbs   22:9   )   この日本語や英訳の   「寛大な人/generous   man」が慈善をする   というのはあたりまえで   ここには新しい教訓がなく   面白くも何ともない。ヘブライ語原文の   「良い目の人」が慈善をする   という謎めいた教訓の方がはるかに知的で感動しませんか。偉大なソロモン王が創作したことわざ集と言われる「箴言」   その彼の作品の苦労の一端を少し理解できたわけです。   Rabbi   Joshua's   answer   (2)ラビ・ヨシュアの答え   ヨシュアによると   従うべき良い道は「良い友」であり   避けるべき道は「邪悪な友」である。ヨシュアの答えは「腐ったリンゴは束をだめにする」という古い格言を思い起こさせる。しかし彼の考えは   アボットの他の所で別の人々が表現しているものとそんなに変わらなかった。例えばアルベル人のニッタイ   (Nittai   the   Arbelite)   がこう言った:邪悪な友人からあなた自身が離れているように   邪悪と組するな。   [   Avot   1:7   ]   ザドク   (Zadok)   とヒレル   (Hillel)   は同意した:人は共同体社会から彼自身を分離すべきではない。そして   これはまたこう教えられた   我々は邪悪の人々から我々自身を分離すべきであると。あなたはきっと「腐ったリンゴ   (rotten   apple)   」のタイプを知っているでしょう。彼はこう言う人です:「この雑誌を盗もう   本屋は絶対に気付かないから」「今日だけ学校をさぼろう   何と時間を持てるんだから!」彼は   これらの事は結局そんな悪いことではないのだと   あなたに考えさせるような人なのだ。「他の人たちもそうしている   罰っせられないよ。あんたはなぜしないの?」腐ったリンゴの人はあなたに「邪悪の衝動」を直接にしゃべる人なのだ。   ヨシュアによると   従うのに最も悪い道は   邪悪な仲間があなたを導くその道である。最も良い道は   良い友人と共同体社会の道である。我々が選んだ友人たちが良い道の人たちである時   我々は彼らをもっと好きになる。また我々自身が他の人々に良い友人となり   正しい道に彼らを導く。ヨシュアはこの彼自身のようであった。彼は   彼を知っている全てへの祝福であった。   Rabbi   Yose's   answer   (3)ラビ・ヨセの答え   ヨセの答えはヨシュアの答えにとても類似していた。ヨセは答えた:従うべき良い道は「良い隣人」であり   避けるべき道は「邪悪な隣人」である。共同体社会という言葉の考えを除いて   実際に「良い友」と「良い隣人」との差はないであろう。   ヨセが区別しているのはこういうことである。「良い隣人」はグループで一緒に仕事することによってなされる事に関連している。「良い隣人」は彼の芝生が保持されている道を気にかけ   彼のごみをいかに処理するかに気を使う。一般に   彼のまわりに住んでいる人々の気持ちを深く考える。「良い隣人」になるということは   緊張が関係しているところの他の物事に向かってゆく態度を開発するという意味がある:近所に住んでいる人々全ての幸福への関係   共同体社会の将来への関係   共同体社会が選択するところの生活の道への関係。そんな関係は「良い隣人」のしるしである。   「邪悪な隣人」がすることは利己主義である。「邪悪な衝動」が成し遂げることができる最大の害の一つが「邪悪な隣人」に人を変えることである。他の人々は共同体社会にプライドを持つが   一方   「邪悪な隣人」は自分だけのためにしか注意を払わない。共同体社会が危険な状態になる   あるいは悪い時期に落ちる時は   それは単純に「邪悪な隣人」が移り住んで来て   彼はもう一つの共同体社会の中で自分の安らぎを探そうとする時である。   我々は時々   近所が「悪くなってきている」あるいは住むのに難しくなってきている   ということを聞く。通常このことは   近所の人々がお互いに「良い隣人」になることを止めて   彼ら自身のためだけに心配するという「邪悪な隣人」の作法を行ない始めたためなのである。   Rabbi   Simeon's   answer   (4)ラビ・シモンの答え   シモンの答えは全く異なっていた。シモンは言った:従うべき良い道は   自らの行動の「結果を考える人」である。人がある方法で行動するときにその結果が何かを知る   そのことの助けとして宗教的な知覚を使う人は   他人に害を与えるような過ちを少なくするであろう。人々は通常は残酷な行動をとろうとはしないものだ   しかし   しばしば考え無しで行動することがある。   例えば   しばしば我々を勝たせるために我々の怒りを許してしまい   そして我々が本当は世話するところの他人を侮辱してしまう。そんな振る舞いが他人に起こす苦痛を前もって考えておくことが   普通にはこんな風に我々の怒りを表わさないで維持できるであろう。   また   我々の行動の「結果を考える」ためには   我々は行動する前に証拠を集めなければならない。我々にとって   このことは結果あるいはその可能な結果を学ぶことを意味する。我々が前もって行動の可能な結果を学ぶ時   我々はもっと親切に行動するようになる。なぜならば我々の行動が他人   そして結局は我々自身   をいかに害するかもしれないと知るからである。   このような老人の物語がある。ある老人が彼の最後の年に彼の息子の家族のもとで住むためにやって来た。さて彼の息子は   彼の父に食事に使うのを許したら   父がその上等な陶器を壊してはしまわないかと恐れた。それでその息子は老人のために食事に使う木のおわんと木のスプーンを準備した。   さてある日   その息子が家に帰ってきて   彼自身の息子がナイフで木の片を削っているのを見た。「何をしているのかい?」   彼は子供に言った。「お父さんがおじいちゃんのように年とった時に   お父さんが食べるための木のおわんを作っているんだよ」   と子供は言った。   シモンの二つ目の質問の答えは   人が避けるべき道は「借りたのに返さない人」であった。最初は   これは彼の行動の「結果を考える」ことの正反対ではないように思われるが   しかし本当の意味では正反対なのである。返すことを考えずに借りる人は明らかに彼の行動の結果を深く考えてはいない。ラビはこう教えた:我々は   自分自身の財産と同じように   他人の財産を尊重すべきである。我々が何かを借りた時   我々自身の所有物にするのと同じように注意深く扱うべきである。   シモンは説明を続けた:我々が他の人から借りた時   我々は「神から借りている人」のようである。最後の分析では   我々が所有している全てのものは「神から借りている」。慈善をすることは我々が借りていたものに対する払戻しの一種である。詩に書かれているように   邪悪な者は借り   そして返さない   正義の者は憐み   そして与える。   (詩編37:21)   The   answers   of   Rabbi   Eleazar   (5)ラビ・エルアザルの答え   最後の答えはラビ・エルアザル・ベン・アラクのものである。エルアザルは言った:従うべき良い道は「良い心」であり   避けるべき道は「邪悪な心」である。   ラビ・ヨハナンは彼の学生たちにの答えをよく聞いた後に   彼は言った:わたしはラビ・エルアザル・ベン・アラクの言葉を取る。あなたたちの言葉は彼の言葉に含まれているからだ。   [   Avot   2:9   ]   「良い心」の考えは   おそらく   我々がもう終わっている「study」の(The   value   of   study   :   勉強の価値)で最もよく要約されている。全ての事が「良い心」を持つという考えの中に入ってゆく......我々の各々が持ち得る人間という種類の性質の全ての事。   「良い心」を持った人は   彼のまわりの全てにあるところの良いものと見る   そして彼自身の行動を通してそれに加える。「良い心」を持った人は   神のイメージで生活し   他の人々を尊敬するよう努力している。ラビの有名な話の一が良い例である:私は(神の)創造物であり   私の隣人もまた彼の創造物である。私の仕事は町にあり   彼の仕事は畑にある。私は私の仕事のために早く起きる   彼は彼の仕事のために早く起きる。彼は私の仕事を越えることはできないように   私も彼の仕事を越えることはできない。しかしあなたは言うであろう   私は大きなことをしている   そして彼は小さなことをしている。我々は学んだ   人がすることが多かろうが少なかろうがそれが問題ではない   もし彼が天に向けて彼の心を導いてさえいれば。   [   Berachot   17a   ]   The   path   of   the   good   heart   我々はこの教えを「良い心の道」と呼ぶかもしれない。ラビがヤバネの学校   (the   academy   at   Yavneh)   時代に教えていた時と同様に   それは今でも真実である。あなたが医者あるいは労働者   料理長   店員   警官あるいは店主であろうともそれが問題ではない。人間を偉大にするところのものは「良い心の道」に従うことである。   人は言うかもしれない   私は賢人になるほど学んでいなかった   私は法律(トーラ)を勉強しなかった   私はすべき何なのか(what   am   I   to   do)?しかし神はそのイスラエル人に言った   全ての知恵も全トーラも簡単な一つのことなのだ。私を恐れる者   そしてトーラを行なう者は   彼の心の中に全ての知恵と全トーラを持っているのだ。   [   Deuteronomy   Rabbah   11:6   ]   全トーラが行ないで見られる   ということを示すために   ラビはこう教えた:トーラの最後の文字は「lamed」であり   トーラの最初の文字は「bet」である。これらの文字を連げると単語「レブ」となる   これは「心」を意味する。このことは   イスラエルの法律であるトーラの中に含まれている全てのものは   各々のユダヤ人の心の中に含まれている   ということを示しているのだ。   トーラの最後の文字は「lamed」であり   トーラの最初の文字は「bet」である。   これについて解説します。トーラの最後の文は   申命記の最後の文章:また   モーセが全イスラエルの目の前で   あらゆる力ある業とあらゆる大いなる恐るべき出来事を示すためであった。   (申命記34:12)   ヘブライ語での原書では   最後の単語が「イスラエル」ですから   最後の文字は「ル」つまりヘブル文字「lamed」です。トーラの最初の文は   創世記の最初の文章:初めに   神は天地を創造された。   (創世記1:1)   ヘブライ語での原書では   最初の単語が「ベレッシート」ですから   最初の文字は「ベ」つまりヘブル文字「bet」です。トーラの最後と最初をつなげる   という発想がユニークなんですが   「..............イスラエル」+「ベレッシート...............」これらの文字を連げると   「ル」+「ベ」   つまり「lamed」+「bet」これは単語「レブ」と発音して「heart(心)」を意味します。   我々はヒレル   (Hillel)   によて提案された質問:   If   I   am   not   for   myself   who   will   be   for   me   ?   について各々が答えを見つけなければならない。   我々の伝統だけではこの質問の答えを我々に教えることはできない   その答えはもっと身近にあるからであり   それは我々の各々の心の中にある。我々の伝統が我々に教えることができるのは   それがあなた自身の「ために」なると意味していることであり   そして   Who   will   be   "for"   you   when   you   act   for   yourself.   ヒレルの質問は一つの中に百の質問がある:   If   I   am   not   myself   who   will   be   me   ?   If   I   do   not   take   part   in   my   community   who   in   the   community   will   take   my   part   for   me   ?   If   I   do   not   take   a   stand   in   my   own   name   who   will   fight   for   what   I   believe   ?   If   I   do   not   work   to   make   myself   better   who   will   do   that   work   for   me   ?   If   I   do   not   direct   my   actions   who   will   direct   them   for   me   ?   And   more.   我々の伝統が我々に教えているのは   我々は我々の行動を通して良くなることができ   良くなることは達成するのにそんなに難しいことではなく   そして良くなることへの報酬は結果として良いことである   ということである。それで   彼自身の「ために」実行することを欲する人は   他の人々の「ために」もまた実行するであろう。   トーラの戒律「あなた自身のようにあなたの隣人を愛しなさい」   これは他の人々を愛すためにはまず最初にあなた自身を愛さなくてはならない   ということを意味している。     ラビがこう教えていた。トーラが「あなた自身のようにあなたの隣人を愛しなさい」と言う時は   何を意味しているのか。彼は一人の学生の方に向いて聞いた。「私を愛していますか?」学生は少し考えてから正直に答えた。「私はそう思います。」ラビは言った。「では   私を痛めているものは何か   言ってみなさい。」学生は答えた。「あなたを痛めているものは何か知りません。」「それなら   あなたは私を愛してはいない。」ラビは言った。「誰かを愛することは彼を痛めているものは何かを知ることを意味する。」   我々の各々は   何が我々を痛めているか   我々が痛い時はいつかを知っている。我々が自分自身を愛している時   自分が痛くないようにと   痛くなることから自分を保持しようと努力している。我々が痛みの意味を理解した時のみ   我々は他人がいかに感じるかを理解し始める。   つまりこのことが   ヒレルの質問がこの文で終わっていない理由である。   "If   I   am   not   for   myself   who   will   be   for   me   ?"   ヒレルの質問はつづく。   "And   if   I   am   only   for   myself   what   am   I   ?"   "And   if   not   now   when   ?"   もし人が彼自身のためだけならば   もし彼が重大な人は自分だけであると考えるほど利己的であるならば   彼は全ての意味を失っている。それは現実を離れて横に歩く道であり   真の愛からはずれた臆病者の道である。臆病者は彼自身を愛すことができない。   ヒレルの質問   "If   I   am   not   for   myself   who   will   be   for   me   ?"     我々が自分自身を評価し我々の可能性を評価しなければならない   我々が自重して行動するよう自分自身を訓練しなければならない   ことを意味している。もし我々がそうすれば   我々が他の人々に対して正しく行動することに   そして自分自身を尊敬すると同様に他の人々を尊敬することについて我々が基礎をもつであろう。何が良いことで寛大なことか   そして何が悪いことで利己的なことか   我々がその間の内部バランスを創る努力をするのとちょうど同じように   また我々自身の考慮と我々の隣人たちの考慮との間の内部バランスを創る努力をしなければならない。我々はお互いを愛さなければならない。   そして   我々の伝統は我々自身を良くする訓練を助け   我々がとる行動の種類において我々自身を愛する理由の発見を助ける   これと同様に   それは他の人々と一緒に我々自身が生活する訓練を助ける。我々の各々が「良い心の道」に従う努力をして   我々がお互いに痛みを避ける努力をするような社会を一緒に築かなければならない。共同体社会の全てのメンバーが個々に良いという理由で   共同体社会が「良い心の道」に従う   そんな社会を我々は築かなければなりません。   これが「The   value   of   community」共同体の価値の本質である   そこでは   ヒレルの第二の質問を答える努力をする。   "And   if   I   am   only   for   myself   what   am   I   ?"  

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アヴェ・ヴェルム・コルプス(お話です) 「啓蒙主義と敬虔主義と敬虔主義」「タルムード」「知識の価値」

アヴェ・ヴェルム・コルプス(お話です) 「ユダヤ啓蒙主義(ハスカラー)と 敬虔主義(けいけんしゅぎ:ハスィディズム)と敬虔主義の反対者(ミトナグディーム)とアンティ・セミティズム」「タルムード」「知識の価値」◎「知識の科価値」 迷信と固定的道徳が判断と行為の誤りから迫害を生みます。固定的道徳が予定因果であり 民衆が日常を問題意識なくすごしてしまい 儒教的道徳の場合 民衆が疑問に思うことを質問しにくいという問題がある。迷信と固定的道徳を乗り越える手立てが証拠の収集とこれらの分類を行って選択していくというstady(勉強)がある。 ◎「アブラハムの契約とシナイ契約」 ・アブラハムの契約が神ヤハウェがアブラハムにハラン(ユーフラテスの上流:現在の東トルコ)の地を離れてカナン(現在のイスラエル パレスチナ)の地に行きなさい。繁栄を約束する。という契約の約束型契約。 ・ヘブル人(tbri:ヘブル語・現在のイスラエル人)部族集団(エジプトを脱出した部族)とモーセの神ヤハウェの十戒の条文。という契約の義務型契約。 ◎「The struggle within us」 The forces within us. Needing impulses for both right and wrong. Selfishness. A formula. If I am not for myself who will be for me ? If I am only for myself what am I ? If not now when ? Reflection ◎「The struggle within us(我々の内での苦闘)」 ◎The forces within us 選択をする時に われわれの中で2つの力が働いていると ラビは信じている。一つは善をしようとする我々の欲求 他方は悪をしようとする我々の欲求である。善をしようとする衝動あるいは傾向を「Yetzer Tov」とラビは名づけた。Yetzerはヘブライ語で衝動(impulse)を意味し Tovは善(good)を意味する。他方 悪をしようとする衝動あるいは傾向を「Yetzer HaRa」名づけた。Raはヘブライ語で(evil)を意味する。「善の衝動」「悪の衝動」である。 われわれの各々の人は これら2つの衝動をいかに操作するか問われる。個人の意識にある「Yetzer Tov」は正義の人を操作し 他方「Yetzer HaRa」は邪悪をコントロールするが タルムードでは両方の衝動が 平均的な人の意識が衝動を操作することを示す(Berachot 61a)。 我々のほとんどはこの3番目のカテゴリーの「両方の衝動が平均的な人の意識が衝動を操作するということ」にあり 意識の全体が正義でなく全体が邪悪でもない。

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投稿日時:2012-07-03 07:08:29.0
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タグ: アヴェ・ヴェルム・コルプス(お話です)   「ユダヤ啓蒙主義(ハスカラー)と   敬虔主義(けいけんしゅぎ:ハスィディズム)と敬虔主義の反対者(ミトナグディーム)とアンティ・セミティズム」「タルムード」「知識の価値」◎「知識の科価値」   迷信と固定的道徳が判断と行為の誤りから迫害を生みます。固定的道徳が予定因果であり   民衆が日常を問題意識なくすごしてしまい   儒教的道徳の場合   民衆が疑問に思うことを質問しにくいという問題がある。迷信と固定的道徳を乗り越える手立てが証拠の収集とこれらの分類を行って選択していくというstady(勉強)がある。   ◎「アブラハムの契約とシナイ契約」   ・アブラハムの契約が神ヤハウェがアブラハムにハラン(ユーフラテスの上流:現在の東トルコ)の地を離れてカナン(現在のイスラエル   パレスチナ)の地に行きなさい。繁栄を約束する。という契約の約束型契約。   ・ヘブル人(tbri:ヘブル語・現在のイスラエル人)部族集団(エジプトを脱出した部族)とモーセの神ヤハウェの十戒の条文。という契約の義務型契約。   ◎「The   struggle   within   us」   The   forces   within   us.   Needing   impulses   for   both   right   and   wrong.   Selfishness.   A   formula.   If   I   am   not   for   myself   who   will   be   for   me   ?   If   I   am   only   for   myself   what   am   I   ?   If   not   now   when   ?   Reflection   ◎「The   struggle   within   us(我々の内での苦闘)」   ◎The   forces   within   us   選択をする時に   われわれの中で2つの力が働いていると   ラビは信じている。一つは善をしようとする我々の欲求   他方は悪をしようとする我々の欲求である。善をしようとする衝動あるいは傾向を「Yetzer   Tov」とラビは名づけた。Yetzerはヘブライ語で衝動(impulse)を意味し   Tovは善(good)を意味する。他方   悪をしようとする衝動あるいは傾向を「Yetzer   HaRa」名づけた。Raはヘブライ語で(evil)を意味する。「善の衝動」「悪の衝動」である。   われわれの各々の人は   これら2つの衝動をいかに操作するか問われる。個人の意識にある「Yetzer   Tov」は正義の人を操作し   他方「Yetzer   HaRa」は邪悪をコントロールするが   タルムードでは両方の衝動が   平均的な人の意識が衝動を操作することを示す(Berachot   61a)。   我々のほとんどはこの3番目のカテゴリーの「両方の衝動が平均的な人の意識が衝動を操作するということ」にあり   意識の全体が正義でなく全体が邪悪でもない。   ◎Needing   impulses   for   both   right   and   wrong   このことから   何が正しいことで   何が悪いことか   われわれはいかにして判断するのであろうか。どうやって片方の衝動から他方の衝動を識別するのか。選択はいつも明瞭でない。いつでも邪悪な選択があり   正義の選択があるということを   ラビが暗示している時単純化しすぎてはいないのかも課題である。ラビの理解というのは実際にはもっとずっと複雑であったのだ。彼らは「Yetzer   HaRa」が邪悪だとは信じていなかった。それは邪悪に向かった傾斜であるといえる。彼らは   「Yetzer   HaRa」が多くの局面で有用になりえるということまでも理解している。このことを示すために   彼らはこんなたとえ話を言っている。     われらの善き者たちは「Yetzer   HaRa」を捕まえて   それを金の鎖で縛り上げた。最初彼らは自分たちでたいへん喜んでいた。盗みは止り   殺人は無くなった。人々は友好的になり   互いを愛するようになった。嫉妬は無くなり   イスラエルの全地においてイスラエル人と隣人との間の論争も無くなった。死ぬ者はいなくなった。   しかし突然   彼らは奇妙な出来事を見るようになり始めた。人々はとても満足したので精を出して働く心配がなくなった。競争が無くなったので人々は働くことを止めてしまった。新しい家はもう作られなくなった。人々はもはや   結婚もしないで   子供を欲しがらなくなった。ラビでさえ不精になり始めた。その時   ラビは「Yetzer   HaRa」が世界において如何に必要であったかを理解して彼らは縛ってあった鎖を壊してそれを自由にした。   (Genesisi   Rabbah   9:7)   ◎Selfishness   「Yetzer   HaRa」を理解する最も簡単な方法は   極端な利己主義としてそれを見てみることである。それは我々の一部でもあり   それは「私のもの」とか「私は欲しい」あるいは「私にくれ」とか言って要求することがそれである。「Yetzer   HaRa」が危険であるのは何かというと   もし我々がそれをバランスしコントロールしないと   それが我々をコントロールするようになる   ということである。   「Yetzer   HaRa」は   本を取り上げて返さない   といった小さなことをするように我々に問いかけてくることで   我々をつかみ始める。そしてやがて   もっと悪い事をするように我々に要求する。それは我々にこう言うかもしれない:「この一回だけやってごらん   あなたがただの一回だけやっても誰も傷つくことはないから」それからやがて   毎回に悪い事をするように要求してくる:「さあ来てこれを傷つけてごらん。彼がいかに弱いか見てみなさい。彼はあなたに仕返しなんか出来ないよ」   最初は   「Yetzer   HaRa」はくもの巣のようであるが   しかし最後には重いロープのようになる。最初は   「Yetzer   HaRa」は通行人のようであり   お客のようであるが   最後にはその家の主人になる。最初は   「Yetzer   HaRa」は甘いが   最後にはにがくなる。   (Sukkot   52a   52b   Jerusalem   Talmud   Shabbat   14c)   ◎A   formula   利己主義をコントロールすることはいつも簡単というわけではない。我々が自分たちに利己主義を許せば許すほど   我々が利己主義になる。その時   選択するという我々の能力を実際に失って行き   我々だけのためにいつも行動し始める。我々の自由   我々の自由意志を放棄し   それに代わって何でも瞬間に行動することが好きになる   これは自由の錯覚にすぎないのであるが。   このことは   もし我々が他の人々と一緒に生活する必要がなかったならば   全て正しいかもしれない。しかし   あなたがこの本の第2章の始めでリストアップしたものを思い出してみれば   あなたはすぐに分かるがあなたの生活のほとんどは他人の周りに   そしてあなたが属している人々の周りに作られている。そこで我々はバランスについてのある種類を探すために勉強しなければならない。利己主義になることはいつでも悪い   というわけではない。しかしまたいつでも正しい   というわけでもない。全てのものを皆で分けることがいつも良いわけではないが   いつも悪いはずがない。間のどこかに行くべき価値のある道がある。   ここで   ミシュナ時代の偉大な先生であるヒレルから   われわれは学習しよう。ヒレルは   自分の生活と繰り返しの教えを通して   知的な選択をする公式を探した。ヒレルは「アボット」に彼の公式をまとめた:"   If   I   am   not   for   myself   who   will   be   for   me   ?   And   if   I   am   only   for   myself   what   am   I   ?   And   if   not   now   when   ?   "   "   If   I   am   not   for   myself   who   will   be   for   me?   "   もしあなたが住んでいる世界にアクティブに参加するのであれば   何かのために耐えることが必要である。次のことに理解を持つようにしなければいけない:あなたが持っているもの   持ちたいもの   自分がなりたい事   喜んで働きたい事   世話をしたい事。言い換えれば   自分自身でスタートしなければならない。   自分自身のために欲しいものが全て利己主義だ   というわけではない。しかし   自分自身のため「だけ」に欲しいものはほとんどが利己主義である。   あなたは知識を得たいかもしれない。このこと自身は利己主義ではない。知識のある人は   無知な者よりも世界にとって役に立つ。しかしもしあなたが他人を傷つけるために   あるいはあなた自身のためにのみ   あなたの知識を使うのなら   あなたが害ある利己主義なものになる。   あなたは人気を得たいかもしれない。このこと自身は利己主義ではない。人気のある人は   接近して連帯したり   議論や討論をしたり   親切や理解を持たらしたりして   隣人を助けることができる。しかし人気のある人が   悪の方向に人々を導くために彼の才能を使う時   彼は「悪の衝動」への道にいるのである。人々を戦争から戦争へと導くために   自分の人気を使った場合   ナポレオンはフランス人民を助ける代わりに   彼らを傷つけ苦しめた。   あなたは財産を得たいかもしれない。このこと自身は利己主義ではない。財産のある人は他の人々を助けることができる。必要としている人々に彼の富を慈善に使うことによって   また貴重な仕事や行動のスポンサーなることで共同体への祝福となることで。しかしもし人が他の人々の犠牲によって財産を欲しがるならば   その時これは真の利己主義を通して「悪の衝動」の一つの例である。   ヒレル(Hillel)の最初の質問   "   If   I   am   not   for   myself   who   will   be   for   me   ?   "これは次のことを暗示している。人は自分自身を助けるために努力すべきである。あなたは自分がなりたい事になるために労働すべきであり   より良くなるために労働すべきである。なぜならば   もしあなたがあなた自身のために働かないのであれば   いったい誰があなたのためにそれを行なってくれるのか。   "   If   I   am   only   for   myself   what   am   I   ?   "   しかしもし全てのあなたの労働があなた自身だけのためであるならば   あなたは何の善であるのか。われわれはいつもここに戻ってくる:あなたの生活には   あなただけがいるのではない。あなたの生活が本当の意味で始まるのは   他人のことを考慮した仕事の方法を選択し始めた時からである。   もしあなた一人だけが生きているならば   いかに振る舞っても誰かとの差ができるわけではない。これがゆえに   ヒレル(Hillel)の第2の質問がとても重要なのである。   他の人々と生活することは   我々が自分たちのことを考えるの同様に   彼らが必要あるいは要望していることを我々が考えなければいけない。   我々だけのためにある   というときはいつも「悪の衝動」が我々を狙っている。これはヒレルの第1の質問を少しばかり変えて我々に問う:"   If   I   don't   get   such   and   such   for   myself   who   else   will   get   it   for   me   ?   "もし私がそんなに自分のために努力しなくても   誰か他人が私のためにそれをやってくれのではないか。しかしヒレルは問を続ける時に適切なバランスを持ってきている。実際に第2の質問において"   If   I   get   such   and   such   at   someone   else's   expense   or   harm   am   I   not   evil   ?   "もし私がそれほど誰か他人を傷つけているとしたら   私は悪ではないのか。ヒレルは「悪の衝動」が重要であることも分かっているが   しかしその2つの衝動がバランスされなければならないことも分かっている。このような場合にのみ   人は社会に   そして結局は自分に奉仕できる。このような場合にのみ   人は社会に   そして結局は自分に奉仕できる。   "   If   not   now   when   ?   ""   ヒレルの第3の質問はまた重要である。われわれは人間である。我々の全ては   明日まで物事を延期するのが好きである。さらに   もし我々が決して始めようとしない   あるいは"   I   will   let   myself   do   evil   just   this   one   time   "   この一回だけは悪をやってみようと言うならば   これは我々が奴隷になることである。我々は選択する自由を失っているのだ。   我々のうち誰かは   行き過ぎた利己主義で悩んでいる。また誰かは   自分たち自身のことをほとんど考えない行き過ぎた非利己主義で悩んでいる。もし我々が生活の中でのバランスを持つよう探し求めないのならば   我々はただ怠け者になるしか期待出来ない:変化や進歩への抵抗   何か新しいことの試みへの恐れ   我々をより良く   あるいはより豊かにする試みへの恐れ。   これに対する唯一の治療があるとヒレルは暗示している。今行動せよ!明日まで待つな   「私は明日始めよう」と言うな。すぐに始めなさい!   Reflection   この本は   「アボット」にあるヒレルの3つの質問を軸にして構成されている。「第1~4章」は   行動に対する我々自身の準備について考えている。「第5~11章」は   我々各々が   自分自身のために生活をする上で   選択しなければならない事柄について語る。(If   I   am   not   for   myself   who   will   be   for   me   ?   )「第12~21章」は   我々の共同体の中で一緒にうまく生活する場合に   選択しなければならない事柄について語る。(And   if   I   am   only   for   myself   what   am   I   ?)「第22~23章」は   われわれの進路を設定しそれを正しく設定するために   ただちにしなければならないことは何かについて語る。(And   if   not   now   when?)   いつでも   我々の学習では   このような考えに戻ってくる:・我々の各々は   複合した複雑な人間であり   しかも唯一で一人であるということ。・我々の誰もが   心の内で   良いことと悪いこととの間で苦闘している。そして同様に   我々自身のために正しいことと我々が住んでいる世界のために正しいこととの間で苦闘しているということ。・この苦闘が我々の生活に   そして我々のまわりの世界に意味を与えている   ということ。・そしてこの苦闘の成功は   我々自身の中でまた世界の中で   何が最良で何が最悪かのバランスをいかにして我々がうまくをとるか   最終的にこれにかかっているということ。   我々の苦闘に光を投げるために   そしてこの世界の複雑さの説明で我々を助けるために   我々自身の伝統(ラビの観点)を引き出そう。   ラビの観点:適切な行動と適切な考えを通して邪悪に打ち勝てるということ。邪悪なことをしようとする衝動「Yetzer   HaRa」は   良いことに代わるかもしれないということ。我々はラビ自身の行動   言葉および思考を調べよう。そして彼らの原理がいかに現実となって行くかを見てみよう。   正しさと邪悪の間の選択をするのはいつでもあなたである   ということを忘れずに記憶しなさい。なぜならば   選択の自由はあなたがユダヤ人としての世襲財産であり   また人間として生まれたあなたの権利だからである。じょうずに選ぶことは最終的にあなたの個人的な責任である。  

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アヴェ・ヴェルム・コルプス(お話です) 「啓蒙主義と敬虔主義と敬虔主義」「タルムード」「知識の価値」

アヴェ・ヴェルム・コルプス(お話です) 「ユダヤ啓蒙主義(ハスカラー)と 敬虔主義(けいけんしゅぎ:ハスィディズム)と敬虔主義の反対者(ミトナグディーム)とアンティ・セミティズム」「タルムード」「知識の価値」◎「知識の科価値」 迷信と固定的道徳が判断と行為の誤りから迫害を生みます。固定的道徳が予定因果であり 民衆が日常を問題意識なくすごしてしまい 儒教的道徳の場合 民衆が疑問に思うことを質問しにくいという問題がある。迷信と固定的道徳を乗り越える手立てが証拠の収集とこれらの分類を行って選択していくというstady(勉強)がある。 ◎「アブラハムの契約とシナイ契約」 ・アブラハムの契約が神ヤハウェがアブラハムにハラン(ユーフラテスの上流:現在の東トルコ)の地を離れてカナン(現在のイスラエル パレスチナ)の地に行きなさい。繁栄を約束する。という契約の約束型契約。 ・ヘブル人(tbri:ヘブル語・現在のイスラエル人)部族集団(エジプトを脱出した部族)とモーセの神ヤハウェの十戒の条文。という契約の義務型契約。 ◎「The struggle within us」 The forces within us. Needing impulses for both right and wrong. Selfishness. A formula. If I am not for myself who will be for me ? If I am only for myself what am I ? If not now when ? Reflection ◎「The struggle within us(我々の内での苦闘)」 ◎The forces within us 選択をする時に われわれの中で2つの力が働いていると ラビは信じている。一つは善をしようとする我々の欲求 他方は悪をしようとする我々の欲求である。善をしようとする衝動あるいは傾向を「Yetzer Tov」とラビは名づけた。Yetzerはヘブライ語で衝動(impulse)を意味し Tovは善(good)を意味する。他方 悪をしようとする衝動あるいは傾向を「Yetzer HaRa」名づけた。Raはヘブライ語で(evil)を意味する。「善の衝動」「悪の衝動」である。 われわれの各々の人は これら2つの衝動をいかに操作するか問われる。個人の意識にある「Yetzer Tov」は正義の人を操作し 他方「Yetzer HaRa」は邪悪をコントロールするが タルムードでは両方の衝動が 平均的な人の意識が衝動を操作することを示す(Berachot 61a)。 我々のほとんどはこの3番目のカテゴリーの「両方の衝動が平均的な人の意識が衝動を操作するということ」にあり 意識の全体が正義でなく全体が邪悪でもない。

投稿者:サイト名 有馬徳彦
投稿日時:2012-07-02 21:38:53.0
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タグ: アヴェ・ヴェルム・コルプス(お話です)   「ユダヤ啓蒙主義(ハスカラー)と   敬虔主義(けいけんしゅぎ:ハスィディズム)と敬虔主義の反対者(ミトナグディーム)とアンティ・セミティズム」「タルムード」「知識の価値」◎「知識の科価値」   迷信と固定的道徳が判断と行為の誤りから迫害を生みます。固定的道徳が予定因果であり   民衆が日常を問題意識なくすごしてしまい   儒教的道徳の場合   民衆が疑問に思うことを質問しにくいという問題がある。迷信と固定的道徳を乗り越える手立てが証拠の収集とこれらの分類を行って選択していくというstady(勉強)がある。   ◎「アブラハムの契約とシナイ契約」   ・アブラハムの契約が神ヤハウェがアブラハムにハラン(ユーフラテスの上流:現在の東トルコ)の地を離れてカナン(現在のイスラエル   パレスチナ)の地に行きなさい。繁栄を約束する。という契約の約束型契約。   ・ヘブル人(tbri:ヘブル語・現在のイスラエル人)部族集団(エジプトを脱出した部族)とモーセの神ヤハウェの十戒の条文。という契約の義務型契約。   ◎「The   struggle   within   us」   The   forces   within   us.   Needing   impulses   for   both   right   and   wrong.   Selfishness.   A   formula.   If   I   am   not   for   myself   who   will   be   for   me   ?   If   I   am   only   for   myself   what   am   I   ?   If   not   now   when   ?   Reflection   ◎「The   struggle   within   us(我々の内での苦闘)」   ◎The   forces   within   us   選択をする時に   われわれの中で2つの力が働いていると   ラビは信じている。一つは善をしようとする我々の欲求   他方は悪をしようとする我々の欲求である。善をしようとする衝動あるいは傾向を「Yetzer   Tov」とラビは名づけた。Yetzerはヘブライ語で衝動(impulse)を意味し   Tovは善(good)を意味する。他方   悪をしようとする衝動あるいは傾向を「Yetzer   HaRa」名づけた。Raはヘブライ語で(evil)を意味する。「善の衝動」「悪の衝動」である。   われわれの各々の人は   これら2つの衝動をいかに操作するか問われる。個人の意識にある「Yetzer   Tov」は正義の人を操作し   他方「Yetzer   HaRa」は邪悪をコントロールするが   タルムードでは両方の衝動が   平均的な人の意識が衝動を操作することを示す(Berachot   61a)。   我々のほとんどはこの3番目のカテゴリーの「両方の衝動が平均的な人の意識が衝動を操作するということ」にあり   意識の全体が正義でなく全体が邪悪でもない。   ◎Needing   impulses   for   both   right   and   wrong   このことから   何が正しいことで   何が悪いことか   われわれはいかにして判断するのであろうか。どうやって片方の衝動から他方の衝動を識別するのか。選択はいつも明瞭でない。いつでも邪悪な選択があり   正義の選択があるということを   ラビが暗示している時単純化しすぎてはいないのかも課題である。ラビの理解というのは実際にはもっとずっと複雑であったのだ。彼らは「Yetzer   HaRa」が邪悪だとは信じていなかった。それは邪悪に向かった傾斜であるといえる。彼らは   「Yetzer   HaRa」が多くの局面で有用になりえるということまでも理解している。このことを示すために   彼らはこんなたとえ話を言っている。     われらの善き者たちは「Yetzer   HaRa」を捕まえて   それを金の鎖で縛り上げた。最初彼らは自分たちでたいへん喜んでいた。盗みは止り   殺人は無くなった。人々は友好的になり   互いを愛するようになった。嫉妬は無くなり   イスラエルの全地においてイスラエル人と隣人との間の論争も無くなった。死ぬ者はいなくなった。   しかし突然   彼らは奇妙な出来事を見るようになり始めた。人々はとても満足したので精を出して働く心配がなくなった。競争が無くなったので人々は働くことを止めてしまった。新しい家はもう作られなくなった。人々はもはや   結婚もしないで   子供を欲しがらなくなった。ラビでさえ不精になり始めた。その時   ラビは「Yetzer   HaRa」が世界において如何に必要であったかを理解して彼らは縛ってあった鎖を壊してそれを自由にした。   (Genesisi   Rabbah   9:7)   ◎Selfishness   「Yetzer   HaRa」を理解する最も簡単な方法は   極端な利己主義としてそれを見てみることである。それは我々の一部でもあり   それは「私のもの」とか「私は欲しい」あるいは「私にくれ」とか言って要求することがそれである。「Yetzer   HaRa」が危険であるのは何かというと   もし我々がそれをバランスしコントロールしないと   それが我々をコントロールするようになる   ということである。   「Yetzer   HaRa」は   本を取り上げて返さない   といった小さなことをするように我々に問いかけてくることで   我々をつかみ始める。そしてやがて   もっと悪い事をするように我々に要求する。それは我々にこう言うかもしれない:「この一回だけやってごらん   あなたがただの一回だけやっても誰も傷つくことはないから」それからやがて   毎回に悪い事をするように要求してくる:「さあ来てこれを傷つけてごらん。彼がいかに弱いか見てみなさい。彼はあなたに仕返しなんか出来ないよ」   最初は   「Yetzer   HaRa」はくもの巣のようであるが   しかし最後には重いロープのようになる。最初は   「Yetzer   HaRa」は通行人のようであり   お客のようであるが   最後にはその家の主人になる。最初は   「Yetzer   HaRa」は甘いが   最後にはにがくなる。   (Sukkot   52a   52b   Jerusalem   Talmud   Shabbat   14c)   ◎A   formula   利己主義をコントロールすることはいつも簡単というわけではない。我々が自分たちに利己主義を許せば許すほど   我々が利己主義になる。その時   選択するという我々の能力を実際に失って行き   我々だけのためにいつも行動し始める。我々の自由   我々の自由意志を放棄し   それに代わって何でも瞬間に行動することが好きになる   これは自由の錯覚にすぎないのであるが。   このことは   もし我々が他の人々と一緒に生活する必要がなかったならば   全て正しいかもしれない。しかし   あなたがこの本の第2章の始めでリストアップしたものを思い出してみれば   あなたはすぐに分かるがあなたの生活のほとんどは他人の周りに   そしてあなたが属している人々の周りに作られている。そこで我々はバランスについてのある種類を探すために勉強しなければならない。利己主義になることはいつでも悪い   というわけではない。しかしまたいつでも正しい   というわけでもない。全てのものを皆で分けることがいつも良いわけではないが   いつも悪いはずがない。間のどこかに行くべき価値のある道がある。   ここで   ミシュナ時代の偉大な先生であるヒレルから   われわれは学習しよう。ヒレルは   自分の生活と繰り返しの教えを通して   知的な選択をする公式を探した。ヒレルは「アボット」に彼の公式をまとめた:"   If   I   am   not   for   myself   who   will   be   for   me   ?   And   if   I   am   only   for   myself   what   am   I   ?   And   if   not   now   when   ?   "   "   If   I   am   not   for   myself   who   will   be   for   me?   "   もしあなたが住んでいる世界にアクティブに参加するのであれば   何かのために耐えることが必要である。次のことに理解を持つようにしなければいけない:あなたが持っているもの   持ちたいもの   自分がなりたい事   喜んで働きたい事   世話をしたい事。言い換えれば   自分自身でスタートしなければならない。   自分自身のために欲しいものが全て利己主義だ   というわけではない。しかし   自分自身のため「だけ」に欲しいものはほとんどが利己主義である。   あなたは知識を得たいかもしれない。このこと自身は利己主義ではない。知識のある人は   無知な者よりも世界にとって役に立つ。しかしもしあなたが他人を傷つけるために   あるいはあなた自身のためにのみ   あなたの知識を使うのなら   あなたが害ある利己主義なものになる。   あなたは人気を得たいかもしれない。このこと自身は利己主義ではない。人気のある人は   接近して連帯したり   議論や討論をしたり   親切や理解を持たらしたりして   隣人を助けることができる。しかし人気のある人が   悪の方向に人々を導くために彼の才能を使う時   彼は「悪の衝動」への道にいるのである。人々を戦争から戦争へと導くために   自分の人気を使った場合   ナポレオンはフランス人民を助ける代わりに   彼らを傷つけ苦しめた。   あなたは財産を得たいかもしれない。このこと自身は利己主義ではない。財産のある人は他の人々を助けることができる。必要としている人々に彼の富を慈善に使うことによって   また貴重な仕事や行動のスポンサーなることで共同体への祝福となることで。しかしもし人が他の人々の犠牲によって財産を欲しがるならば   その時これは真の利己主義を通して「悪の衝動」の一つの例である。   ヒレル(Hillel)の最初の質問   "   If   I   am   not   for   myself   who   will   be   for   me   ?   "これは次のことを暗示している。人は自分自身を助けるために努力すべきである。あなたは自分がなりたい事になるために労働すべきであり   より良くなるために労働すべきである。なぜならば   もしあなたがあなた自身のために働かないのであれば   いったい誰があなたのためにそれを行なってくれるのか。   "   If   I   am   only   for   myself   what   am   I   ?   "   しかしもし全てのあなたの労働があなた自身だけのためであるならば   あなたは何の善であるのか。われわれはいつもここに戻ってくる:あなたの生活には   あなただけがいるのではない。あなたの生活が本当の意味で始まるのは   他人のことを考慮した仕事の方法を選択し始めた時からである。   もしあなた一人だけが生きているならば   いかに振る舞っても誰かとの差ができるわけではない。これがゆえに   ヒレル(Hillel)の第2の質問がとても重要なのである。   他の人々と生活することは   我々が自分たちのことを考えるの同様に   彼らが必要あるいは要望していることを我々が考えなければいけない。   我々だけのためにある   というときはいつも「悪の衝動」が我々を狙っている。これはヒレルの第1の質問を少しばかり変えて我々に問う:"   If   I   don't   get   such   and   such   for   myself   who   else   will   get   it   for   me   ?   "もし私がそんなに自分のために努力しなくても   誰か他人が私のためにそれをやってくれのではないか。しかしヒレルは問を続ける時に適切なバランスを持ってきている。実際に第2の質問において"   If   I   get   such   and   such   at   someone   else's   expense   or   harm   am   I   not   evil   ?   "もし私がそれほど誰か他人を傷つけているとしたら   私は悪ではないのか。ヒレルは「悪の衝動」が重要であることも分かっているが   しかしその2つの衝動がバランスされなければならないことも分かっている。このような場合にのみ   人は社会に   そして結局は自分に奉仕できる。このような場合にのみ   人は社会に   そして結局は自分に奉仕できる。   "   If   not   now   when   ?   ""   ヒレルの第3の質問はまた重要である。われわれは人間である。我々の全ては   明日まで物事を延期するのが好きである。さらに   もし我々が決して始めようとしない   あるいは"   I   will   let   myself   do   evil   just   this   one   time   "   この一回だけは悪をやってみようと言うならば   これは我々が奴隷になることである。我々は選択する自由を失っているのだ。   我々のうち誰かは   行き過ぎた利己主義で悩んでいる。また誰かは   自分たち自身のことをほとんど考えない行き過ぎた非利己主義で悩んでいる。もし我々が生活の中でのバランスを持つよう探し求めないのならば   我々はただ怠け者になるしか期待出来ない:変化や進歩への抵抗   何か新しいことの試みへの恐れ   我々をより良く   あるいはより豊かにする試みへの恐れ。   これに対する唯一の治療があるとヒレルは暗示している。今行動せよ!明日まで待つな   「私は明日始めよう」と言うな。すぐに始めなさい!   Reflection   この本は   「アボット」にあるヒレルの3つの質問を軸にして構成されている。「第1~4章」は   行動に対する我々自身の準備について考えている。「第5~11章」は   我々各々が   自分自身のために生活をする上で   選択しなければならない事柄について語る。(If   I   am   not   for   myself   who   will   be   for   me   ?   )「第12~21章」は   我々の共同体の中で一緒にうまく生活する場合に   選択しなければならない事柄について語る。(And   if   I   am   only   for   myself   what   am   I   ?)「第22~23章」は   われわれの進路を設定しそれを正しく設定するために   ただちにしなければならないことは何かについて語る。(And   if   not   now   when?)   いつでも   我々の学習では   このような考えに戻ってくる:・我々の各々は   複合した複雑な人間であり   しかも唯一で一人であるということ。・我々の誰もが   心の内で   良いことと悪いこととの間で苦闘している。そして同様に   我々自身のために正しいことと我々が住んでいる世界のために正しいこととの間で苦闘しているということ。・この苦闘が我々の生活に   そして我々のまわりの世界に意味を与えている   ということ。・そしてこの苦闘の成功は   我々自身の中でまた世界の中で   何が最良で何が最悪かのバランスをいかにして我々がうまくをとるか   最終的にこれにかかっているということ。   我々の苦闘に光を投げるために   そしてこの世界の複雑さの説明で我々を助けるために   我々自身の伝統(ラビの観点)を引き出そう。   ラビの観点:適切な行動と適切な考えを通して邪悪に打ち勝てるということ。邪悪なことをしようとする衝動「Yetzer   HaRa」は   良いことに代わるかもしれないということ。我々はラビ自身の行動   言葉および思考を調べよう。そして彼らの原理がいかに現実となって行くかを見てみよう。   正しさと邪悪の間の選択をするのはいつでもあなたである   ということを忘れずに記憶しなさい。なぜならば   選択の自由はあなたがユダヤ人としての世襲財産であり   また人間として生まれたあなたの権利だからである。じょうずに選ぶことは最終的にあなたの個人的な責任である。  

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アヴェ・ヴェルム・コルプス(お話です) 「啓蒙主義と敬虔主義と敬虔主義」「タルムード」「知識の価値」

アヴェ・ヴェルム・コルプス(お話です) 「ユダヤ啓蒙主義(ハスカラー)と 敬虔主義(けいけんしゅぎ:ハスィディズム)と敬虔主義の反対者(ミトナグディーム)とアンティ・セミティズム」「タルムード」「知識の価値」◎「知識の科価値」 迷信と固定的道徳が判断と行為の誤りから迫害を生みます。固定的道徳が予定因果であり 民衆が日常を問題意識なくすごしてしまい 儒教的道徳の場合 民衆が疑問に思うことを質問しにくいという問題がある。迷信と固定的道徳を乗り越える手立てが証拠の収集とこれらの分類を行って選択していくというstady(勉強)がある。 ◎「アブラハムの契約とシナイ契約」 ・アブラハムの契約が神ヤハウェがアブラハムにハラン(ユーフラテスの上流:現在の東トルコ)の地を離れてカナン(現在のイスラエル パレスチナ)の地に行きなさい。繁栄を約束する。という契約の約束型契約。 ・ヘブル人(tbri:ヘブル語・現在のイスラエル人)部族集団(エジプトを脱出した部族)とモーセの神ヤハウェの十戒の条文。という契約の義務型契約。 ◎「The struggle within us」 The forces within us. Needing impulses for both right and wrong. Selfishness. A formula. If I am not for myself who will be for me ? If I am only for myself what am I ? If not now when ? Reflection ◎「The struggle within us(我々の内での苦闘)」 ◎The forces within us 選択をする時に われわれの中で2つの力が働いていると ラビは信じている。一つは善をしようとする我々の欲求 他方は悪をしようとする我々の欲求である。善をしようとする衝動あるいは傾向を「Yetzer Tov」とラビは名づけた。Yetzerはヘブライ語で衝動(impulse)を意味し Tovは善(good)を意味する。他方 悪をしようとする衝動あるいは傾向を「Yetzer HaRa」名づけた。Raはヘブライ語で(evil)を意味する。「善の衝動」「悪の衝動」である。 われわれの各々の人は これら2つの衝動をいかに操作するか問われる。個人の意識にある「Yetzer Tov」は正義の人を操作し 他方「Yetzer HaRa」は邪悪をコントロールするが タルムードでは両方の衝動が 平均的な人の意識が衝動を操作することを示す(Berachot 61a)。 我々のほとんどはこの3番目のカテゴリーの「両方の衝動が平均的な人の意識が衝動を操作するということ」にあり 意識の全体が正義でなく全体が邪悪でもない。

投稿者:サイト名 有馬徳彦
投稿日時:2012-07-02 19:19:53.0
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タグ: アヴェ・ヴェルム・コルプス(お話です)   「ユダヤ啓蒙主義(ハスカラー)と   敬虔主義(けいけんしゅぎ:ハスィディズム)と敬虔主義の反対者(ミトナグディーム)とアンティ・セミティズム」「タルムード」「知識の価値」◎「知識の科価値」   迷信と固定的道徳が判断と行為の誤りから迫害を生みます。固定的道徳が予定因果であり   民衆が日常を問題意識なくすごしてしまい   儒教的道徳の場合   民衆が疑問に思うことを質問しにくいという問題がある。迷信と固定的道徳を乗り越える手立てが証拠の収集とこれらの分類を行って選択していくというstady(勉強)がある。   ◎「アブラハムの契約とシナイ契約」   ・アブラハムの契約が神ヤハウェがアブラハムにハラン(ユーフラテスの上流:現在の東トルコ)の地を離れてカナン(現在のイスラエル   パレスチナ)の地に行きなさい。繁栄を約束する。という契約の約束型契約。   ・ヘブル人(tbri:ヘブル語・現在のイスラエル人)部族集団(エジプトを脱出した部族)とモーセの神ヤハウェの十戒の条文。という契約の義務型契約。   ◎「The   struggle   within   us」   The   forces   within   us.   Needing   impulses   for   both   right   and   wrong.   Selfishness.   A   formula.   If   I   am   not   for   myself   who   will   be   for   me   ?   If   I   am   only   for   myself   what   am   I   ?   If   not   now   when   ?   Reflection   ◎「The   struggle   within   us(我々の内での苦闘)」   ◎The   forces   within   us   選択をする時に   われわれの中で2つの力が働いていると   ラビは信じている。一つは善をしようとする我々の欲求   他方は悪をしようとする我々の欲求である。善をしようとする衝動あるいは傾向を「Yetzer   Tov」とラビは名づけた。Yetzerはヘブライ語で衝動(impulse)を意味し   Tovは善(good)を意味する。他方   悪をしようとする衝動あるいは傾向を「Yetzer   HaRa」名づけた。Raはヘブライ語で(evil)を意味する。「善の衝動」「悪の衝動」である。   われわれの各々の人は   これら2つの衝動をいかに操作するか問われる。個人の意識にある「Yetzer   Tov」は正義の人を操作し   他方「Yetzer   HaRa」は邪悪をコントロールするが   タルムードでは両方の衝動が   平均的な人の意識が衝動を操作することを示す(Berachot   61a)。   我々のほとんどはこの3番目のカテゴリーの「両方の衝動が平均的な人の意識が衝動を操作するということ」にあり   意識の全体が正義でなく全体が邪悪でもない。   ◎Needing   impulses   for   both   right   and   wrong   このことから   何が正しいことで   何が悪いことか   われわれはいかにして判断するのであろうか。どうやって片方の衝動から他方の衝動を識別するのか。選択はいつも明瞭でない。いつでも邪悪な選択があり   正義の選択があるということを   ラビが暗示している時単純化しすぎてはいないのかも課題である。ラビの理解というのは実際にはもっとずっと複雑であったのだ。彼らは「Yetzer   HaRa」が邪悪だとは信じていなかった。それは邪悪に向かった傾斜であるといえる。彼らは   「Yetzer   HaRa」が多くの局面で有用になりえるということまでも理解している。このことを示すために   彼らはこんなたとえ話を言っている。     われらの善き者たちは「Yetzer   HaRa」を捕まえて   それを金の鎖で縛り上げた。最初彼らは自分たちでたいへん喜んでいた。盗みは止り   殺人は無くなった。人々は友好的になり   互いを愛するようになった。嫉妬は無くなり   イスラエルの全地においてイスラエル人と隣人との間の論争も無くなった。死ぬ者はいなくなった。   しかし突然   彼らは奇妙な出来事を見るようになり始めた。人々はとても満足したので精を出して働く心配がなくなった。競争が無くなったので人々は働くことを止めてしまった。新しい家はもう作られなくなった。人々はもはや   結婚もしないで   子供を欲しがらなくなった。ラビでさえ不精になり始めた。その時   ラビは「Yetzer   HaRa」が世界において如何に必要であったかを理解して彼らは縛ってあった鎖を壊してそれを自由にした。   (Genesisi   Rabbah   9:7)   ◎Selfishness   「Yetzer   HaRa」を理解する最も簡単な方法は   極端な利己主義としてそれを見てみることである。それは我々の一部でもあり   それは「私のもの」とか「私は欲しい」あるいは「私にくれ」とか言って要求することがそれである。「Yetzer   HaRa」が危険であるのは何かというと   もし我々がそれをバランスしコントロールしないと   それが我々をコントロールするようになる   ということである。   「Yetzer   HaRa」は   本を取り上げて返さない   といった小さなことをするように我々に問いかけてくることで   我々をつかみ始める。そしてやがて   もっと悪い事をするように我々に要求する。それは我々にこう言うかもしれない:「この一回だけやってごらん   あなたがただの一回だけやっても誰も傷つくことはないから」それからやがて   毎回に悪い事をするように要求してくる:「さあ来てこれを傷つけてごらん。彼がいかに弱いか見てみなさい。彼はあなたに仕返しなんか出来ないよ」   最初は   「Yetzer   HaRa」はくもの巣のようであるが   しかし最後には重いロープのようになる。最初は   「Yetzer   HaRa」は通行人のようであり   お客のようであるが   最後にはその家の主人になる。最初は   「Yetzer   HaRa」は甘いが   最後にはにがくなる。   (Sukkot   52a   52b   Jerusalem   Talmud   Shabbat   14c)   ◎A   formula   利己主義をコントロールすることはいつも簡単というわけではない。我々が自分たちに利己主義を許せば許すほど   我々が利己主義になる。その時   選択するという我々の能力を実際に失って行き   我々だけのためにいつも行動し始める。我々の自由   我々の自由意志を放棄し   それに代わって何でも瞬間に行動することが好きになる   これは自由の錯覚にすぎないのであるが。   このことは   もし我々が他の人々と一緒に生活する必要がなかったならば   全て正しいかもしれない。しかし   あなたがこの本の第2章の始めでリストアップしたものを思い出してみれば   あなたはすぐに分かるがあなたの生活のほとんどは他人の周りに   そしてあなたが属している人々の周りに作られている。そこで我々はバランスについてのある種類を探すために勉強しなければならない。利己主義になることはいつでも悪い   というわけではない。しかしまたいつでも正しい   というわけでもない。全てのものを皆で分けることがいつも良いわけではないが   いつも悪いはずがない。間のどこかに行くべき価値のある道がある。   ここで   ミシュナ時代の偉大な先生であるヒレルから   われわれは学習しよう。ヒレルは   自分の生活と繰り返しの教えを通して   知的な選択をする公式を探した。ヒレルは「アボット」に彼の公式をまとめた:"   If   I   am   not   for   myself   who   will   be   for   me   ?   And   if   I   am   only   for   myself   what   am   I   ?   And   if   not   now   when   ?   "   "   If   I   am   not   for   myself   who   will   be   for   me?   "   もしあなたが住んでいる世界にアクティブに参加するのであれば   何かのために耐えることが必要である。次のことに理解を持つようにしなければいけない:あなたが持っているもの   持ちたいもの   自分がなりたい事   喜んで働きたい事   世話をしたい事。言い換えれば   自分自身でスタートしなければならない。   自分自身のために欲しいものが全て利己主義だ   というわけではない。しかし   自分自身のため「だけ」に欲しいものはほとんどが利己主義である。   あなたは知識を得たいかもしれない。このこと自身は利己主義ではない。知識のある人は   無知な者よりも世界にとって役に立つ。しかしもしあなたが他人を傷つけるために   あるいはあなた自身のためにのみ   あなたの知識を使うのなら   あなたが害ある利己主義なものになる。   あなたは人気を得たいかもしれない。このこと自身は利己主義ではない。人気のある人は   接近して連帯したり   議論や討論をしたり   親切や理解を持たらしたりして   隣人を助けることができる。しかし人気のある人が   悪の方向に人々を導くために彼の才能を使う時   彼は「悪の衝動」への道にいるのである。人々を戦争から戦争へと導くために   自分の人気を使った場合   ナポレオンはフランス人民を助ける代わりに   彼らを傷つけ苦しめた。   あなたは財産を得たいかもしれない。このこと自身は利己主義ではない。財産のある人は他の人々を助けることができる。必要としている人々に彼の富を慈善に使うことによって   また貴重な仕事や行動のスポンサーなることで共同体への祝福となることで。しかしもし人が他の人々の犠牲によって財産を欲しがるならば   その時これは真の利己主義を通して「悪の衝動」の一つの例である。   ヒレル(Hillel)の最初の質問   "   If   I   am   not   for   myself   who   will   be   for   me   ?   "これは次のことを暗示している。人は自分自身を助けるために努力すべきである。あなたは自分がなりたい事になるために労働すべきであり   より良くなるために労働すべきである。なぜならば   もしあなたがあなた自身のために働かないのであれば   いったい誰があなたのためにそれを行なってくれるのか。   "   If   I   am   only   for   myself   what   am   I   ?   "   しかしもし全てのあなたの労働があなた自身だけのためであるならば   あなたは何の善であるのか。われわれはいつもここに戻ってくる:あなたの生活には   あなただけがいるのではない。あなたの生活が本当の意味で始まるのは   他人のことを考慮した仕事の方法を選択し始めた時からである。   もしあなた一人だけが生きているならば   いかに振る舞っても誰かとの差ができるわけではない。これがゆえに   ヒレル(Hillel)の第2の質問がとても重要なのである。   他の人々と生活することは   我々が自分たちのことを考えるの同様に   彼らが必要あるいは要望していることを我々が考えなければいけない。   我々だけのためにある   というときはいつも「悪の衝動」が我々を狙っている。これはヒレルの第1の質問を少しばかり変えて我々に問う:"   If   I   don't   get   such   and   such   for   myself   who   else   will   get   it   for   me   ?   "もし私がそんなに自分のために努力しなくても   誰か他人が私のためにそれをやってくれのではないか。しかしヒレルは問を続ける時に適切なバランスを持ってきている。実際に第2の質問において"   If   I   get   such   and   such   at   someone   else's   expense   or   harm   am   I   not   evil   ?   "もし私がそれほど誰か他人を傷つけているとしたら   私は悪ではないのか。ヒレルは「悪の衝動」が重要であることも分かっているが   しかしその2つの衝動がバランスされなければならないことも分かっている。このような場合にのみ   人は社会に   そして結局は自分に奉仕できる。このような場合にのみ   人は社会に   そして結局は自分に奉仕できる。   "   If   not   now   when   ?   ""   ヒレルの第3の質問はまた重要である。われわれは人間である。我々の全ては   明日まで物事を延期するのが好きである。さらに   もし我々が決して始めようとしない   あるいは"   I   will   let   myself   do   evil   just   this   one   time   "   この一回だけは悪をやってみようと言うならば   これは我々が奴隷になることである。我々は選択する自由を失っているのだ。   我々のうち誰かは   行き過ぎた利己主義で悩んでいる。また誰かは   自分たち自身のことをほとんど考えない行き過ぎた非利己主義で悩んでいる。もし我々が生活の中でのバランスを持つよう探し求めないのならば   我々はただ怠け者になるしか期待出来ない:変化や進歩への抵抗   何か新しいことの試みへの恐れ   我々をより良く   あるいはより豊かにする試みへの恐れ。   これに対する唯一の治療があるとヒレルは暗示している。今行動せよ!明日まで待つな   「私は明日始めよう」と言うな。すぐに始めなさい!   Reflection   この本は   「アボット」にあるヒレルの3つの質問を軸にして構成されている。「第1~4章」は   行動に対する我々自身の準備について考えている。「第5~11章」は   我々各々が   自分自身のために生活をする上で   選択しなければならない事柄について語る。(If   I   am   not   for   myself   who   will   be   for   me   ?   )「第12~21章」は   我々の共同体の中で一緒にうまく生活する場合に   選択しなければならない事柄について語る。(And   if   I   am   only   for   myself   what   am   I   ?)「第22~23章」は   われわれの進路を設定しそれを正しく設定するために   ただちにしなければならないことは何かについて語る。(And   if   not   now   when?)   いつでも   我々の学習では   このような考えに戻ってくる:・我々の各々は   複合した複雑な人間であり   しかも唯一で一人であるということ。・我々の誰もが   心の内で   良いことと悪いこととの間で苦闘している。そして同様に   我々自身のために正しいことと我々が住んでいる世界のために正しいこととの間で苦闘しているということ。・この苦闘が我々の生活に   そして我々のまわりの世界に意味を与えている   ということ。・そしてこの苦闘の成功は   我々自身の中でまた世界の中で   何が最良で何が最悪かのバランスをいかにして我々がうまくをとるか   最終的にこれにかかっているということ。   我々の苦闘に光を投げるために   そしてこの世界の複雑さの説明で我々を助けるために   我々自身の伝統(ラビの観点)を引き出そう。   ラビの観点:適切な行動と適切な考えを通して邪悪に打ち勝てるということ。邪悪なことをしようとする衝動「Yetzer   HaRa」は   良いことに代わるかもしれないということ。我々はラビ自身の行動   言葉および思考を調べよう。そして彼らの原理がいかに現実となって行くかを見てみよう。   正しさと邪悪の間の選択をするのはいつでもあなたである   ということを忘れずに記憶しなさい。なぜならば   選択の自由はあなたがユダヤ人としての世襲財産であり   また人間として生まれたあなたの権利だからである。じょうずに選ぶことは最終的にあなたの個人的な責任である。  

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Vivaldi Gloria in D Major RV 589(お話です)「ユダヤ教ラビ派カライ派」「タルムード:政府の価値」

Vivaldi Gloria in D Major RV 589 (お話です) 「ラビのユダヤ教のラビ派とサラセン帝国(イスラム系)のユダヤ教カライ派について」「スペインのキリスト教圏のユダヤ教のスファラド系と欧州のキリスト教圏のユダヤ教のアシュケナーズ系について」「スファラド系合理主義者とアシュケナーズ系神秘主義者のマイモニデス論争(マイモニデスが示した律法の再説ミシュナー・トーラーのミシュナ注解の十三か条)について」「ユダヤ啓蒙主義(ハスカラー)につて」「タルムード」「政府の価値」

投稿者:サイト名 有馬徳彦
投稿日時:2012-07-01 23:45:32.0
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タグ: Vivaldi   Gloria   in   D   Major   RV   589   (お話です)   「ラビのユダヤ教のラビ派と   サラセン帝国(イスラム系)の   ユダヤ教のカライ派について」   「スペインのキリスト教圏の   ユダヤ教のスファラド系と   欧州のキリスト教圏の   ユダヤ教のアシュケナーズ系について」   「スファラド系合理主義者と   アシュケナーズ系神秘主義者の   マイモニデス論争   (マイモニデスが示した律法の再説   ミシュナー・トーラーの   ミシュナ注解の十三か条)について」   「ユダヤ啓蒙主義(ハスカラー)につて」   「タルムード」   「政府の価値」   When   a   Jew   seeks   wisdom   「The   value   of   goverment」   The   importance   of   goverment   Law   enforcement   and   courts   An   eye   for   an   eye   The   perfect   goverment   The   evils   of   goverment   The   Bill   of   Rightst   All   are   created   equal   Unalienable   rights   The   secure   these   rights   Goverment   and   power   The   law   and   the   land   Creating   a   dream   「The   value   of   goverment:政府の価値」   ラビ・ハニナ   (Rabbi   Hanina)   は言った:政府の繁栄を祈りなさい   なぜならばそれに対する怖れがなければ   人は生きたままで互いを食べるであろうからである。   [   Avot   3:2   ]   The   importance   of   goverment   人々が住んでいるところの法律のシステムは   そこの人々のグループの価値に影響する。たとえそれが停止信号や鉄道信号のような小さなことであっても   それは基本的な価値に影響する   ---   社会のメンバーの安全を保護する価値に。停止信号や鉄道信号を建設することによって   我々自身の安全   我々の愛する人の安全   そして他人の安全   に対して我々の感心を行動の中に置く。価値を行動の中に置くことは政府の重要な一つの機能である   確かに政府を願ましくする機能である。   我々が個々に知っている言葉で   我々が政府を理解する最善の方法は   「Yetzer   HaRa(邪悪の衝動)」と「Yetzer   Tov(善の衝動)」との全体の質問を再び考えることである。トーラが我々に教えていることの一つは   「あなたの心の中で   あなたの隣人を憎んではなりません。」   (レビ記   19:17)   しかし   実際に他の人々を傷つけることから人々を防いでいるのは   まったく別のことである。「十戒」は数千年間存在してきている   そしていまだに毎日の新聞は   殺人や強盗   法廷で偽証を誓った人   他人をだましている人の記事でいっぱいである。明らかな事実は   我々の幾人かは我々の「Yetzer   HaRa」を制御しそれを役に立つ目的に向ける働きをしている一方   他の者はそうではない。彼らは   彼らの中にある「Yetzer   HaRa」を乱暴に走らせることを許している。酔っ払った運転手のように   その時   彼らは道路で他のあらゆる人にとって   危険になっている。   そんな人々から我々を保護するために   政府が作られている。我々が個々のレベルで   我々の「Yetzer   HaRa」を統治することを学ばねいけないということ同様に   「Yetzer   HaRa」が乱暴になっているレベルのグループを制御することが政府の一つの重要な目的である。   Law   enforcement   and   courts   政府が我々を効果的に保護するために   我々の各々は自分自身の自由な意志の幾らかを諦めなければなりません。どれだけ大きな力が政府に与えられるべきかについて継続的な大きな議論や論争がある。しかし   もし政府が我々を効果的に保護するならば   誰もが「幾らか」の力を諦めなければなりません   ということを我々は何の議論もなしで知ることができる。   この一つの良い例は   各個人としての報復の権利を放棄することである。報復はそのグループに破壊的である。AがBから盗みをしたとする   そしてそれからBが返礼にAから盗みをする   これでイーブンと言って。もしこれで終わるならばそれで結構なことであるが   けれども報復はめったに最初の不公平以上により公平にはならない。Bが報復する時   Aが彼から取ったよりも彼はAからより多く取るかもしれない。その時   Aは彼自身が報復の必要を感じる。すぐに   物は手から離れて   そしてAとBは互いに殺すという点にまでくる   ----   また   彼らの友人や親族がその行動に参加するかもしれない。   この種の事態を避けるために   警察や他の代理権の形で実行する法律を規定する力を我々は政府に許す。告訴が設定され聞かれる法廷と同様に。法律を実施する事務所や法廷はどちらも   我々すべてのために   個人よりもむしろグループによって最善に維持される力を代表している。   An   eye   for   an   eye   タルムードは   部分的には   行なわれてきた法廷の記録として見られる。ラビたちは政府の境界線を築くために   事例に事例を積み上げている。我々の例として   タルムードで扱われた古典的な報復の事例は   聖書のきまり文句である「目には目   歯には歯」   のまわりに集中してる。タルムードのラビたちが   「Yetzer   HaRa」のグループを制するために探していた政府とはどんなものかを見るために   次の議論を考えよう。   「目には目」   これは金での支払を意味する。あなたはそれが金での支払だと言うが   おそらくそれは実際に本当の目が没収されなければなりません。という意味だ!しかし   その人の目が一方は大きく他方が小さいとしたとする   そんな場合に「目には目」の法律を私はいかに適応することができるのか?...   あるいは   盲の人が他人の目をたたき出した場合は   またあるいは片足びっこの人が他人を片足びっこの人にした場合は   「目には目」の法律を私はいかに十分に満たすことができるのか?トーラはこう要求している   「あなたは同じ法律を適用せよ(レビ記24:22)」この意味は   あなたたちの全てに対して   法律が同じであるべきだということ。   [   Baba   Kamma   83b   ]   法律はいつも全ての人が同じであるとして扱われなければなりません。我々の基本的な価値は   全てが神によって平等に創造されていることである。もしそれがこの場合   ラビたちが議論した「目には目」の意味はただこうである:もし人が他人の目をたたき出したならば   その有罪人は彼が破壊した目を補償する金額を支払わなければなりません。   このように   社会の全てのメンバーの利益に法律を翻訳するために   政府が割り込む。目や足を失った人にとって   もし彼を傷つけた人が目や足を仕返しに失ったとしても   それは現実に善いことではない。金銭上の支払は   それが元の目や足を取り戻すことはできないが   少なくとも人が傷ついた時に生じた痛みや損失を埋め合わせるために   それはいくらかの方法に役立つ。   The   perfect   goverment   ラビたちはその日   各々の人が神の法律に従って自分自身を統治する時   を楽しみに待った。もし我々の全てがヒレルの原理   ---   「あなた自身が嫌なことを   他人にはするな」   ---   に従うならば   社会を制御する政府や統治者の必要はない。我々の各々は小型の政府であり   成功して「Yetzer   HaRa」を制し   良いことを行なうのに集中している。   このようにラビたちは日々の終わりを夢見た   各々の男も女も神の知恵と畏れの中で大きく成長し   もはや政府の必要がなくなった時を。しかし   彼らは夢想家であったけれども   そして彼らは世界が神だけで統治されるための計画をしていた一方で   ラビたちはまた現実主義者であった。人々が彼ら自身の「Yetzer   HaRa」の制御がまだできていないと彼らは認めていた。それで彼らは共通の政府の必要を認めた   「その理由はそれに対する怖れがないとき   人は生きたままで互いを食べるであろうからである」   「生きたままで互いを食べる」   この句はとても耳障りに見えるかもしれない。しかしそれは政府が働かない時に起こることの現実的な絵である。あの「Wild   West」としての19世紀のアメリカの西部のことを考えてみよう。法律や秩序は   破壊された方法で維持されていた。法律家たちは   彼らが反対した無法者たちのような全く同じ作法で行動した。その政府は   普通はより弱い者を殺す強い者の結果であった。   The   evils   of   goverment   ラビたちは   もはや政府を必要としない時の日を夢見た   その理由は政府から保護するものと期待していたその市民を   政府が「食べる」という事実を恐れていたからである。すなわち政府は力を成長させ統治されている人々からもっともっと多くの自由を奪い取る方法を持っている。預言者サミュエルの時代にさかのぼるユダヤの人々が   独裁主義の政府の悪を指摘してきている。   人々はサミュエルのところにやって来て   その時代には他の全ての国々がそうであったように   彼らを統治してくれる王様が欲しいと要求した。   「裁きを行なう王を与えよ」との彼らの言い分は   サミュエルには悪と写った。   そこで彼は主に祈った。主はサミュエルに言われた:民があなたに言うままに   彼らの声にしたがうがよい。その理由は彼らが退けたのはあなたではなくこの私だ   私が彼らの王として君臨することを退けているのだ。   [   サミュエル記上   8:6-7   ]   サミュエルはその時   彼らを統治する王を持つことの危険を人々に警告した。   あなたたちの上に君臨する王の権能は次の通りである。まず   あなたたちの息子を徴用する。それは   戦車兵や騎兵にして王の戦車の前に走らせ   千人隊の長   五十人隊の長として任命し   王のための耕作や刈り入れに従事させ   あるいは武器や戦車の用具を造らせるためである。また   あなたたちの娘を徴用し   香料作り   料理女   パン焼き女にする。また   あなたたちの最上の畑   ぶどう畑   オリーブ畑を没収し   家臣に分け与える。...........その日あなたたちは   自分が選んだ王ゆえに   泣き叫ぶ。しかし   主はその日   あなたたちに答えてはくださらない。   [   サミュエル記上   8:11-14   18   ]   これは王の力そして咲きすぎた政府の力に対する古典的なユダヤ人の警告である。我々が   我々自身を統治することを学ぶ代わりに   我々の権利を放棄して政府を形成する時はいつでも   その政府は我々の上に力を得る。   聖書の中では   ユダヤ人の族長   士師/英雄   預言者   王が登場しますが   特に親しまれている人物を時代に合わせてまとめると大体このようになります。   聖書   族長   師士/英雄     預言者   創世記   アブラハム   イサク   ヤコブ   ヨセフ   (12部族)         出エジプト記   レビ記   民数記   申命記         モーゼ   アロン   ヨシュア記     ヨシュア       士師記     ギデオン   サムソン       サムエル記       サウル   ダビデ   サムエル   列王記   歴代誌       ソロモン   アハブ   ...   エリア   エリシャ   ...   イザヤ書       ウジヤ   ヒゼキア   ...   イザヤ   ユダヤ人の最初の王様となったのは「サウル王」ですが   なぜ民は王を必要としたか   もう一度   サムエル記を読んで見ましょう。   サムエル記上   7:7~7:10   ペリシテの領主たちはイスラエル攻め上ってきた。イスラエルの人々はそのことを聞き   ペリシテ軍を恐れて   サムエルに乞うた。「どうか黙っていないで下さい。主がわれわれをペリシテ人の手から救ってくださるように   われわれの神   主に助けを求めて叫んでください。」サムエルはまだ乳離れしない子羊一匹を取り   焼き尽くす献げ物として主にささげ   イスラエルのため主に助けを求めて叫んだ。主は彼に答えられた。サムエルが焼き尽くす献げ物をささげている間に   ペリシテ軍はイスラエルに戦いを挑んできたが   主がこの日   ペリシテ軍の上に激しい雷鳴をとどろかせ   彼らを混乱に陥れたので   彼らはイスラエルに打ち負かされた。   サムエル記上   8:1~8:9   サムエルは年老い   ....イスラエルの長老たちは   全員集まり   ラマのサムエルのもとの来て   彼に申し入れた。「あなたはすでに年を取られ   息子たちはあなたの道を歩んでいません。今こそ   ほかのすべての国々のように   われわれのために裁きを行う王を立ててください。」裁きを行う王を与えよとの彼らの言い分は   サムエルの目には悪と映った。主はサムエルに言われた。「民があなたに言うままに   彼らの声に従うがよい。彼らが退けたのはあなたではない。彼らの上にわたしが王として君臨することを退けているのだ。彼らをエジプトから導き上がった日から今日に至るまで   彼らのすることといえば   わたしを捨てて他の神々に仕えることだった。あなたに対しても同じことをしているのだ。今は彼らの声に従いなさい。ただし   彼らにはっきり警告し   彼らの上に君臨する王の権能を教えておきなさい。」   こうして   預言者サムエルは主の指示に従い   若者のサウルを初代イスラエルの国王に任命することになったわけです。その後はダビデ王   ソロモン王が統治してイスラエルは繁栄するわけですが   神が言っていたように   その後の王たちは主の道をはずれて行き   ついにはイスラエルの国は滅びてしまう。   The   Bill   of   Rightst   聖書の時代には   王たちはトーラそれ自身によって幾分か制御されていた。   王がイスラエルの上に君臨するときは   王の最初の仕事は彼自身の手によって文書のトーラを全て書き写すことが義務であった   これは王が後になってから法律を知らなかったと主張できないように。   アメリカでは   我々の政府は憲法によって制御される   そして我々の基本的な権利は   「the   Bill   of   Rights」と呼ばれる憲法への最初の10の修正条項によって保護されている。ここには各々の人に   礼拝   演説   出版   集会   政府への請願   その自由の保証がある。さらに   兵役に服する権利   兵隊に対する住居を準備しなければならないことからの自由   不当な捜索や捕捉からの自由   犯罪に対する告発無しに監禁されることからの自由   同一犯罪に対して二度も裁判されることからの自由   自分自身に対して証言しなければならないことからの自由   そして「生命   自由あるいは繁栄が   法律の当然の進行無しにはく奪される」ことからの自由   を含む。The   Bill   of   Rights   はまた   公平な陪審によって素早く公開の裁判への我々の権利を護衛する   そして限度を超えた保釈金や罰金   そして「残酷で異常な刑罰」を禁止する。   法律のシステムは人々の価値に影響すると言って   我々はこの章を始めた。   The   Bill   of   Rights   の場合は   これらの価値はもっと初期の文書によって公に発表されている:第2回大陸議会(the   Second   Continental   Congress)で   1776年7月4日   独立宣言が採用された。   我々はこれらの真実を自明のものとして支持する:全ての人は平等に造られている   彼らは創造主によって確実な権利を授かっている   これらの中には生命   自由そして幸福の追及がある   ---   これらの権利を安全にするために   政府機構が人々の中に制定される   統治の同意から彼らの正しい力を引き出すように。   これは要点であるが   政府の位置付け   それを造り出す人々の位置付けについての表現である。   All   are   created   equal   独立宣言は   「全ての人は平等」   これが自明であると宣言することによって   始まっている。しかし   それはいつも自明であるということではなかった。エジプトでは   どんな平民もが自分を王様と平等とは考えてはいなかった。王様は神の人であり   分離され   他の全ての人々の上にあると考えられていた。誰一人として王様と平等ではなかった。   他方   イスラエルの王国がその最も偉大な力があって   王が最も力があった時でさえ   王は決して神とは混同されなかった。預言者ナタン(Nathan)はダビデ王を非難するための自由を感じていた:ダビデ王が   他の男の妻を盗み取りその夫を戦いに送り戦死させるという罪を犯した   そのことの間違いを非難した。そして応答においては   「私は王であり   私がしたいことをするのだ」と答えるのとはずっと違っていた。ダビデ王はそうではなくて   神から自分の罪の許しを祈った。   エジプトの王とイスラエルの王との違いは   全ての人々は等しいとユダヤの人々は教えられていたことにあった。なぜ人は一人だけで創造されたのか?   なぜ神は一人だけの男を創造したのか?我々の賢者は説明している   「私は高貴な血統である」と誰もがこのように自慢しないためである。全ての人類が同じ人からの子孫である。全ては神の前に等しい。   [   Sanhedrin   38a   ]   第2回大陸議会(the   Second   Continental   Congress)の人々が   「全ての人々が等しく造られた」のは自明な真実であると宣言した時の表現がこのラビの教えでした。どんな人も他の人より神により近いということはない   このことを我々が記憶するときのみ   それは自明である。   Unalienable   rights(譲渡されない権利)   生命   自由そして幸福の追及への我々の権利は   どれも我々自身が夢見てきた単純な価値ではない。独立宣言に従ってさえも   我々の国の市民の法律の多くがそれを基本としており   我々の権利は我々の主なる神から引き出されている。   どんな人も他人にこう言う権利はない   「私はあなたが生きることを許さない」----まさに殺人者が犠牲者言うことである。神は命じている   「あなたは人を殺してはいけない」   どんな人も他人にこう言う権利はない   「私はあなたを自由にすることを許さない」----まさに主人が奴隷に言うことである。神は命じている   「あなたは自由でありなさい」そして   他人が幸福の追及のための権利をどんな人も禁止することはできない。裁判で偽って誓うとか   盗みとか   あるいは隣人を傷つけることによっても。これらの行動のすべては神によって禁止されている   そして幸福を追及する権利は天の法律   神の戒律   によって保証されている。   The   secure   these   rights   今や我々は   人々の中に政府が必要であるという宣言で   第2回大陸議会(the   Second   Continental   Congress)の人々の論考を   偉大な集団の人々の論考と同様に   理解することができる。その必要は   人間として生まれた全ての人々   神のイメージで創造された人々   の相続財産である権利を保証し安全にするためである。   我々の自由を確実にするために   我々は   我々の自由を制限し安全にするための権力を持った政府を樹立する。その政府から我々自身を保護するために   我々は   今度は   人々のための保護の法律を樹立する。政府の権力はその時   政府が保護するために想定された価値の権力よりも偉大になることは   決して許されるべきではない。   政府の権力は   どこからやって来るのか?それは我々から   「その人々」から来る。しかし我々が見てきたように   政府はそれ自身で先に行きすぎて   より偉大にそしてより強力に成長する傾向を持つ。政府の後ろにある価値の権力は   どこからやって来るのか?この権力は神   創造主   からの授かりものである。「全ての人間は平等に   ...彼らの創造主によって授けられた   確かな譲渡されない権利を持って」   Goverment   and   power   我々が見てきたように   政府に対する必要と   政府を疑うための必要との間に緊張がある。お互いを「相食べる」ことから我々を保つために   我々は政府を必要とする。しかし政府から我々を保護するために   我々はthe   Bill   of   Rightsやタルムードのような手段を必要とするのだ!   しばしば   何を行なおうが   政府は良いことだけを行っていると主張する。「良いこと」とは   「政府の敵」を死に追いやること   市民へ重税をかけること   あるいは戦争に戦うことを意味するかもしれない。ラバン・ガマリエル(Rabban   Gamaliel)   が我々に警告したのは不思議ではない。   権力に気をつけなさい。なぜならばそれらは自分たちにとって必要でなければ人に近寄ってこない。それらは自分たちが得になる時には友だちのように見えるが   人が苦境に陥っている時にはそれらは彼のそばに立ってはくれない。   [   Avot   2:3   ]   我々は真に権力と友だちになることはできない。   典型的な政治家の選挙を考えてみなさい。選挙の前は   候補者の全ては選挙民に約束をする。候補者は   彼らに叫ぶあらゆる人に向かって友だちのようであり機嫌がよい。彼らは不平に耳を傾け   物事を正しくし   それらをより良くすることを約束する。結局   我々の投票を必要としている。しかし選挙が終わるや否や   約束はまた全てしばしば忘れられてしまう。特に   危機の時代   全ての側に苦境が増えている時は   政府の役人たちは人々の興味どころではなく   政府自身の興味で行動する。   おそらく   詩編の一つがなぜこう言っているかがこのことである:君主に信頼をおいてはいけない   なぜならば彼らには助けがない。   [   詩編   146:3   ]   14世紀の注解者のナフミアス(Nahmias)は権力の友情について   次のたとえ話をした:     ある王が彼の将校の一人を昇進させた。毎日   王はこの将校の前に上って彼の首に接吻をしていた。最後に   王は彼を殺して言った。「将校の首が切り落とされ時に   刀が落ちるその場所に接吻をしていたのだ」   人々は言っている   「ライオンが歯をむき出した時に   ライオンが笑っていると考えてはいけない   それはむさぼり食うためだけなのだ。人間の王は   また   しばしば動物王国のライオンのようである」   サミュエルの警告   ナフミアスのたとえ話   そしてガマリエルの警告は全ての政府の行く道と関連している。どんな政府も全体的に信頼されることはない。我々は絶えず権力の進行を見張らなければなりません。   The   law   and   the   land   たとえそうであっても   タルムードの格言ではこう言う:   その土地の法律は   法律である。   [   Baba   Kamma   113a   ]   人は   政府を尊敬しなければなりません。   [   Mechilta   Bo   ]   ここで我々は   また   我々の解釈をバランスしなければなりません。その土地の法律はいつでも法律であるとは限りません。ハドリアン皇帝がトーラの勉強とユダヤ教の実施を禁止した時   ラビはローマの法律を無視しなければならなかった。その土地の法律が神のより高い法律と衝突する時は   すべての政府が統治する権利を得ているのは神の法律からであり   従わなければいけないのは神の法律である。   Creating   a   dream   我々の夢はトーラの法律   すなわち同情と親切   正義と公正   熟考と尊敬の法律   に従って統治される一つの世界である。   しかしそんな夢を現実にするために   我々は「国々の上の光」にならなければならない。   もしユダヤ人が「選ばれた」人々であるならば   それは我々がトーラのメッセージを全てに運んでいるからである。   トーラは   誰もが不平を持っていなかった場所で   人前で公開して与えられた。   もしそれがイスラエルの土地で与えられていたならば   世界の国々は言ったであろう   「この中に我々の場所がない」   それゆえトーラは荒野で与えられた   人前で公開して   そして誰もが不平を持っていなかった場所で。   それを受け入れたい人は誰でも   来て受け入れなさい。   [   Mechilta   Bahodesh   Yitro   ]   その仕事は偉大であり   我々はそれを完成する希望さえできない。   しかし   我々の世界に神の法律をもたらす責任を   我々の各々が感じなければならない   ---   トーラを教えること   そして戒律に従って行動することに責任を。   我々は   共同社会から我々を分離すべきではないだけでなく   そこにできる限り多く参加しなければならない   そしてその地の法律をトーラの戒律にますます多く順応させなければならない。   その時には   タルムードの格言「その土地の法律は   法律である」   に従う時に何の問題も恐れもない。   Reflection   ラビたちは   二つの反対する力を認めていた:   人々が「生きたままで互いを食べる」ことがないように   政府を必要とすること。   そして政府が神の統治の前に敬意を払う時を我々が夢見て生き続ける間に   権力の進行を注意深く監視する必要があること。   我々の価値は   我々が通過させ従う法律の種類に反映されている。   それゆえに   地上に神の統治がやって来るために働くことは   共同体から我々自身を分離しないことを意味する。   それは   トーラの法律に対する採用を創造するために   共同体の中で働くことを意味する。   それは   その土地の法律にユダヤ人の教えの価値を反映させるために   懸命に努力することを意味する。   我々はユダヤ人として世界の中に我々を巻き込むことを要求される。   政府の何かが悪いと感じた時   我々は立ち上がって戦わなければならない。   また   我々が信じているところの方針にそのシステムを持ってゆくために   我々が住んでいる所の法律のシステムの範囲内で仕事をすることを   学ばなければならない。   簡潔に言うと   我々は良い市民で責任ある態度で   「その政府の繁栄を祈る」ことをしなければならない。   ラビ・オシャヤ(Rabbi   Oshaya)は教えた:   人間の実行において   人である王が宮殿を建てる時   それは王自身の技術ではなく建築家の技術で建てている。   さらに建築家は彼自身の頭からではなく   従業員が煙突やドアの配置をどうすればよいか知るために   計画し図面を作る。   このように   神は   トーラを相談相手とし   そしてその後に世界を創造した。   [   Genesis   Rabbah   1:1   ]   それと同じく   世界がいかに最善に統治されるかを知りたいならば   正しい世界の建築のための建築家の計画   すなわち   「トーラの法律」を相談相手にしなければならない。   実際に   全体の世界が基本にしているもの   すなわち   「神一人の政府」よりも良い政府はありえない。  

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Vivaldi Gloria in DMajorRV589(お話です) 2 「イスラエルと神ヤハウェ」「タルムード」「愛の価値」

Vivaldi Gloria in D Major RV 589 (お話です) 2 「イスラエルと神ヤハウェの信仰」「タルムード」「愛の価値」「イスラエルの民が繁栄した時期に 神ヤハウェーの信仰だけでなく エルサレム神殿の他に 聖所を造り、 異教のバアル神などの信仰の 礼拝も行ったことで 預言者エレミヤが シロにあったヤハウェの神殿が 滅亡したように このエルサレムの神殿も 必ず滅亡すると断言して イェホヤキム王と 神殿の祭司と預言者が エレミヤを排斥しました。 統治者が アッシリアからバヒロニアになり バビロニアが エルサレムを滅亡させて イスラエルの民を捕囚ました。 神ヤハウェーが 許さぬというお告げをしましたが 神ヤハウェが全知全能の神として 神ヤハウェイとスラエルの民という シナイ契約で成立した民族の 滅亡を放置するだろうか。 ここに、民族の断絶の先にある 「終わりの日」に成立する 「新しい契約」の希望を生み出して、 ここに、イ