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アヴェ・ヴェルム・コルプス (お話です) 2 「タルムード」「感受性の価値」 「イスラエルのヤハウェ信仰の回復」

アヴェ・ヴェルム・コルプス (お話です) 2 「タルムード」 「The value of sensitivity : 感受性の価値」 「イスラエルの民のヤハウェ信仰の回復」 紀元前926 イスラエル王国が 南王国ユダとベニヤミン族(2部族首都エルサレム) 北イスラエル王国(10部族首都サマリア) に分裂 紀元前722 北イスラエル王国が アッシリアに滅ぼされる (列王記下16~17章)   (失われた10部族) 北王国の10部族は アッシリアに虜囚されて滅亡した。 (文書は残されていない。) アッシリアの政策で異民族と混ざる。 紀元前640 ユダ王国のヨシヤ王が8歳で即位。在位31年 (列王記下22~23章)(暦代誌下34章) 予言者エレミア登場 紀元前625頃  新バビロニア王国建国 紀元前609 メギドの戦い(アッシリアの没落で エジプトと新バビロニアが争う) ユダはバビロニアの支配下で、 バビロニアのヨシヤ王が エジプト軍との戦いで戦死。 (列王記下23:29、歴代誌下35:20~24) 紀元前598 新バビロニア王国ネブカドネザル2世が エルサレムを包囲。 ユダ王国の人々がバビロンに捕囚。 第1次バビロン捕囚(列王記下24:10~17) 預言者エゼキエルも共に捕囚 バビロニア時代 紀元前586~538 名前がない極めて有能な預言者 仮に第三のイザヤが 神ヤハウェの信仰と エルサレムの未来について導く。 (イザヤ書 56章~66章) ペルシャ時代 紀元前538~333 第2神殿時代が紀元前538年のバビロン崩壊から 紀元70年ローマによる神殿破壊までの600年間 紀元前586 エルサレム陥落。南ユダ王国滅亡。 第2次バビロン捕囚 (列王記下25章) 神殿破壊され廃墟になる これらの民はバビロンの王に70年の間仕える。 (エレミヤ書25:11) 南ユダ王国新バビロニアの属州にる 紀元前582 第3次バビロン捕囚(745人) 紀元前538 ペルシャ帝国によるバビロン崩壊 ペルシャ王クロス2世が捕囚民の解放。 イスラエルの民が帰還 紀元前515 ペルシャ王クロス2世の勅令で 捕囚から帰還した民が神殿を再建 (エズラ記6章) 第1神殿破壊から71年で第2神殿が完成 (暦代誌下36章) ペルシャ国内が混乱していたため エルサレムでヤハウェ信仰と 神殿の礼拝を認めて、 かつて衝突していた サマリア人、アラブ人などの 周辺諸部族と混ざって行ったが、 特にサマリア人貴族と エルサレムの祭司の 縁戚関係が結ばれて行き ヤハウェ信仰の純粋性が減衰した。 エズラがバビロニア捕囚が終わっても 帰還が果たせぬまま バビロニアを滅ぼした ペルシャ帝国の寛容な政策で エズラがイスラエルの民でも ペルシャの高官になることができた。 このことから、 ペルシャ王 アルタクセルクセス1世 (紀元前464年~423年)の 第7年5月に「ソーフエール」 =書記(律法学者)の称号の エズラが、王から免税特権を与えられて バビロニアの力エルサレムに来たが、 ヤハウェ信仰の純粋性の衰退を指摘して エルサレムの祭司に サマリア人の貴族と エルサレムの祭司の縁戚関係を 離別させようとした「エズラ記10章」 がエルサレム民族共同体の説得に 失敗して13年間エルサレムを離れました。 ペルシャ王 アルタクセルクセス1世 (紀元前464年~423年)の 第20年紀元前445年に ペルシャ宮廷の 捕囚民出身の高官の ネヘミヤがユダヤ州知事に着任して、 神殿の城壁を修復して、 「安息日の遵守」 「1/10の税の神政共同体の維持」 「エルサレムの人口の調整」 「下級祭司とレビ人の 給与の支払いの保障」 「サマリア人の貴族と エルサレムの祭司の 縁戚関係の離別」 を断行して エルサレムに戻ったエズラが 「モーセの律法(五書)」 を読み上げた。 こうしてユダヤ人共同体の 社会改革(エヘミヤ記13章) トーラー(モーセ五書)を 聖典とするユダヤ教が確立しました。 * 「詩編、箴言(しんげん)」 「コヘレトの言葉(伝道の書)」 「雅歌」 「哀歌(エルサレムの滅亡を嘆く歌)」 がございます。

投稿者:サイト名 有馬徳彦
投稿日時:2012-06-25 21:55:32.0
視聴回数:15777回
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カテゴリ: 暮らし全般   エンタメ全般   教育全般  
タグ: アヴェ・ヴェルム・コルプス   (お話です)   2   「タルムード」   「The   value   of   sensitivity   :   感受性の価値」   「イスラエルの民のヤハウェ信仰の回復」   紀元前926   イスラエル王国が   南王国ユダとベニヤミン族(2部族首都エルサレム)   北イスラエル王国(10部族首都サマリア)   に分裂   紀元前722   北イスラエル王国が   アッシリアに滅ぼされる   (列王記下16~17章)   (失われた10部族)   北王国の10部族は   アッシリアに虜囚されて滅亡した。   (文書は残されていない。)   アッシリアの政策で異民族と混ざる。   紀元前640   ユダ王国のヨシヤ王が8歳で即位。在位31年   (列王記下22~23章)(暦代誌下34章)   予言者エレミア登場   紀元前625頃   新バビロニア王国建国   紀元前609   メギドの戦い(アッシリアの没落で   エジプトと新バビロニアが争う)   ユダはバビロニアの支配下で   バビロニアのヨシヤ王が   エジプト軍との戦いで戦死。   (列王記下23:29   歴代誌下35:20~24)   紀元前598   新バビロニア王国ネブカドネザル2世が   エルサレムを包囲。   ユダ王国の人々がバビロンに捕囚。   第1次バビロン捕囚(列王記下24:10~17)   預言者エゼキエルも共に捕囚   バビロニア時代   紀元前586~538   名前がない極めて有能な預言者   仮に第三のイザヤが   神ヤハウェの信仰と   エルサレムの未来について導く。   (イザヤ書   56章~66章)   ペルシャ時代   紀元前538~333   第2神殿時代が紀元前538年のバビロン崩壊から   紀元70年ローマによる神殿破壊までの600年間   紀元前586   エルサレム陥落。南ユダ王国滅亡。   第2次バビロン捕囚   (列王記下25章)   神殿破壊され廃墟になる   これらの民はバビロンの王に70年の間仕える。   (エレミヤ書25:11)   南ユダ王国新バビロニアの属州にる   紀元前582   第3次バビロン捕囚(745人)   紀元前538   ペルシャ帝国によるバビロン崩壊   ペルシャ王クロス2世が捕囚民の解放。   イスラエルの民が帰還   紀元前515   ペルシャ王クロス2世の勅令で   捕囚から帰還した民が神殿を再建   (エズラ記6章)   第1神殿破壊から71年で第2神殿が完成   (暦代誌下36章)   ペルシャ国内が混乱していたため   エルサレムでヤハウェ信仰と   神殿の礼拝を認めて   かつて衝突していた   サマリア人   アラブ人などの   周辺諸部族と混ざって行ったが   特にサマリア人貴族と   エルサレムの祭司の   縁戚関係が結ばれて行き   ヤハウェ信仰の純粋性が減衰した。   エズラがバビロニア捕囚が終わっても   帰還が果たせぬまま   バビロニアを滅ぼした   ペルシャ帝国の寛容な政策で   エズラがイスラエルの民でも   ペルシャの高官になることができた。   このことから   ペルシャ王   アルタクセルクセス1世   (紀元前464年~423年)の   第7年5月に「ソーフエール」   =書記(律法学者)の称号の   エズラが   王から免税特権を与えられて   バビロニアの力エルサレムに来たが   ヤハウェ信仰の純粋性の衰退を指摘して   エルサレムの祭司に   サマリア人の貴族と   エルサレムの祭司の縁戚関係を   離別させようとした「エズラ記10章」   がエルサレム民族共同体の説得に   失敗して13年間エルサレムを離れました。   ペルシャ王   アルタクセルクセス1世   (紀元前464年~423年)の   第20年紀元前445年に   ペルシャ宮廷の   捕囚民出身の高官の   ネヘミヤがユダヤ州知事に着任して   神殿の城壁を修復して   「安息日の遵守」   「1/10の税の神政共同体の維持」   「エルサレムの人口の調整」   「下級祭司とレビ人の   給与の支払いの保障」   「サマリア人の貴族と   エルサレムの祭司の   縁戚関係の離別」   を断行して   エルサレムに戻ったエズラが   「モーセの律法(五書)」   を読み上げた。   こうしてユダヤ人共同体の   社会改革(エヘミヤ記13章)   トーラー(モーセ五書)を   聖典とするユダヤ教が確立しました。     「詩編   箴言(しんげん)」   「コヘレトの言葉(伝道の書)」   「雅歌」   「哀歌(エルサレムの滅亡を嘆く歌)」   がございます。   When   a   Jew   seeks   wisdom   「The   value   of   sensitivity」   Sensitivity   Keeping   the   group   together   A   full-time   task   Sensitivity   is   sensible   Timing   is   important   The   hour   of   anger   Seeking   and   receiving   forgiveness   In   the   hour   of   death   In   the   time   of   vow   In   the   hour   of   embarrassment   「The   value   of   sensitivity   :   感受性の価値」   ラビ・シメオン・ベン・エルアザル(Rabbi   Simeon   ben   Eleazar)は言った。あなたの仲間が怒っている時に彼をなだめてはならない   そして死人が彼の前に横たわっている時に彼を慰めてはならない   そして彼が誓いを立てている時に彼に質問してはならない   そして恥ずかしい思いをしている時に彼を見ようとしないように。   (Avot   4:18)   Sensitivity   あなたが特別な秘密を友人に告げて   そして彼があなたの知らない誰かにそれを話したという最初の時をきっとあなたは憶えているでしょう。あなたの友人があなたを当惑させた理由によって   あなたは彼を「wicked」とさえ呼んだかもしれない。   あるいは   おそらくあなたがあるゲームの試合で上手でなかったので   両軍が組み直されあなたがその最後に選ばれた人になり   そして選んでいる選手があなたに陰うつに言った   「おれが思うに   お前はおれの側だよね!」それはチームで最も弱い連結として考えられていることで   正確にあなたを良い気持ちにさせない。   我々の全てはこの種の瞬間をもっている   そして我々の全てはまた他人を時々当惑させている   たとえ故意にではないとしても(そして時々我々は目的をもってまさに故意に他人を当惑させる)。実際に   いかにして他人を当惑させないか   を人は学ばなければならない。これを学ぶことは自然には出来ないのである。   我々は   何が他人を傷つけるか   に敏感であるようには生まれていない。我々は我々自身を訓練しなければならない   いかに他人が傷つくかを学ぶという観点で   それによって我々が他人を傷つけるのを避けるために。そして   もちろん我々のグループは   他人へより多く敏感であるように学ぶことを助ける点で   大きなくいを持っている。   Keeping   the   group   together   グループがしなければいけない   と我々が言ったところのものの一つは   一緒に留まることである。そのメンバーが互いに一緒に暮らさない理由で   もしそのグループが壊れ始めるならば   そのグループは共にいるという感じを失い   そしていずれは解散してしまう。   このことは我々が属している他のグループと同じように   我々のユダヤ人グループにも真である。ユダヤ人共同社会の場合は   そのくいはたいへん高い。もしその共同社会が解散すれば   各々の人は一人での残される;一緒に生活する目的は消え去り   より完全な社会になるように   そしてより良い世界を作ることに向けて   我々が一緒に作ってきたところの全ての前進は失われる。   それでラビたちは   あなたが「何を」するかだけでなく   あなたが「いつ」行なうべきか   そして他人に向けて「いかに」振る舞うべきか   というもっと困難な質問についてとても関心をもった。互いに対して敏感であることは我々を一緒に留める助けとなるであろうと彼らは我々に教えた。   A   full-time   task   互いに対して敏感であることはフルタイムの仕事である。我々が長い間一緒に親密に生活している時でさえ   それはより簡単になることはない。それはほとんどいつでも難しい。例えば   あなたの家族を取り上げてみよう。   あなたが属する他のどんなグループよりも長く   あなたは家族と一緒に生活してきた。ユダヤ人の家族は一緒に親密に   各家族を小さなユダヤ人の人々にして維持するようラビたちがそんなに強く強調しているのは   この理由のためである。   なおも   そして全て   兄弟あるいは姉妹に親切であったと思い出すのが難しい。   我々が自然に嫉妬深い時が何度もある。(ヨセフの物語そして彼の好みの服   彼の兄弟の全てがいかに嫉妬していたか   あなたは思い出すかもしれない。)   我々が両親を困惑させる時が何度もある   両親が我々を困惑させる時が何度もあると同様に。(友人があなたの家で夜を過ごす時に   「あなた」の就寝時刻にあなた方二人が寝なければならないことを思い出すかもしれない。)あなたの両親は他の全ての両親と違っているために   他の両親がそんなに重要であると考えていないような事を   あなたの両親は時々あなたにやらせることがあるかもしれない。それであなたの家族は   敏感な方法で他人と一緒に生活することがいかに難しいかという一つの良い例なのである。   Sensitivity   is   sensible   しかし他人に敏感になるようにやってみることは良いセンスを作る。我々の勉強を通して   全ての種類の支援においていかに多くお互いに依存しているか我々は見てきた。我々の家族は   世話   食物     そして愛を我々に与えている   たとえ他の誰もが与えない時でさえ。そしてユダヤ人民は一種の拡張された家族である----我々ユダヤ人の共同社会は   家族を持っていない人々を世話し   そして家族を持っている人々さえ世話する。我々は共同社会を一緒に築き   そして敏感さは建築の煉瓦の一つである。   それで   病人を訪れることは一つの戒律である。喪に服している人々を慰めることは一つの戒律である。怒っている人を平静に戻すことは一つの戒律である。慈善を与えることは一つの戒律である。必要な時に人を助けることは一つの戒律である。捕虜の身代金を支払うことは一つの戒律である。そして   これらの戒律を実行することは愛の一つの行動   敏感な人の行動である。この行動は   我々の共同社会を強くすること   そして我々人々を密接に一緒にすることを助ける。   Timing   is   important   さらに重要なことは   あなたが何をするかだけではなく   何時それをするかである。例えば   あなたがバレーボールをサービスする場合に   あなたは空中にボールを投げることによって始める。さてあなたは手でそれを打つ最善の瞬間を正確に待つ。もしあんまり早すぎて打つと   ボールは空中に飛んで行ってしまう。もしあまり長く待ち過ぎると   ボールはネットにぶつかる。あなたのタイミングが正確である時のみ   バレーボールであなたがそれを行ないたいことができる。   戒律を実行する場合にも同じことが真である。もしあなたがあんまり早くそれを必要とする前に実行すると   決して来ないかもしれない結果を待つというように   それは空中に止ってします。病気でない友人を病気訪問することを想像してみなさい-----あなたはこう言わないだろうか?「ちょうど今わたしはあなたを訪問している   それは将来ある時に   あなたが気分がすぐれない時に   わたしが遠くからやってきてあなたを訪問しなければならないのがいやだから」   あるいは   盲目の女性が通りを横切りたいと思う前に   彼女が横切るのを助けることを想像してみなさい。彼女は横切った時に感謝を表わし   そしてこう言ったとする   「私が本当に通りの反対側に行きたかったのですか?」あまりにも遅く戒律を実行することは   また   大きく役に立たない。慈善を施す前に   人が餓えて死んでしまうまで待つことは   ほとんど戒律としては数えられない。すでに4年前に死んだ愛する人を失った人を慰めることは   彼が必要な時に彼を慰めると同様な効果を持つことはできない。   戒律とその戒律の実行は正しいタイミングを要求する。そしてタイミングの良いセンスを習得することは   我々の宗教的な知覚の発展において   重要な部分を演じる。こつを習得することは   戒律を行なうための正しい時を知るようになることを含む。何時しゃべり   そして何時黙るか。   The   hour   of   anger   ラビ・シメオン・ベン・エルアザル(Rabbi   Simeon   ben   Eleazar)は我々が他人により敏感になるような4つの方法を話した:最初は   怒っている人をなだめることを含む。2番目は   喪に服している人に慰めをもたらすことを扱う。3番目は   誓いを立てている人にいかに対応するかを扱う。そして4番目は   我々がこの章を始めたところの主題に我々を戻す----当惑させるという話題に。   最初に   シメオンは言った   「あなたの仲間が怒っている時に彼をなだめてはなりません。」   (Avot   4:23)   人が怒の道に行く時   もし彼が善き人であれば   彼の知恵は彼から離れる。もし彼が預言者であれば   彼の預言の力は彼から離れる。そしてもし彼に対する偉大さが天によって認められていた時でさえも   怒る人は誰であれそれ(偉大さ)を失う。   (Pesahim   66b)   激怒と怒は   人の中に深く食い込む   まわりのあらゆるものが酸っぱく変わるまで。怒の発作の中で人は   長く後悔するであろうことを言うであろう。誰かがあなたに怒っている時は   あなたが謝罪することが良い   「soft   answer」を与えるために。差分をつぎ当てするよう試みるのが良い   しかしタイミングとこつが必須である。シメオンは我々に警告した   怒りの頂点にいる人に謝罪したり言い訳しないように   なぜならば彼はその時に「Yetzer   HaRa(邪悪の衝動)」によってのみ制御されているからである。   「地獄の全ての部門は一人の怒りの男が支配している」   (Nedarim   22a)   その代わりに待ちなさい。あなたの現われる時を選びなさい   その怒りの人から激怒が消えた時を。もしあなたがあまり早すぎて来ると   あなたの出現が彼をもっと怒らせるだけであり   そしてそれはあなたが望むこととはちょうど反対である。   一方   もしあなたがあまり長く待ち過ぎると   怒っていた人はあなたに対して恨みを持つようになる。彼は心の中であなたを嫌うことを覚えるかもしれない。なぜならば怒った人は   「もっともっと愚鈍(stupid)になっている」   (Nedarim   22b)   Seeking   and   receiving   forgiveness   あなたは恨みを持った人々との幾つかの経験があるかもしれない。あなたが何度も何度も謝罪した後でさえ   彼らはあなたが悪いことをしたあらゆることをなお憶えており   あなたを敵と考えている。ラビたちは教えた:   戒律は言う   「あなたは心の中であなたの兄弟を嫌ってはならない。」なぜならば人は考えるかもしれない   「私は彼を殴ってはいけない   あるいは彼を打ってはいけない   あるいは彼をののしってはいけない。(しかし私はなお彼を敵として嫌うことは出来る)」それゆえに戒律は言う   「あなたは心の中で」   (Arachin   16b)   あなたが心から謝罪した後で   そしてあなたが起こしたかもしれないどんな損失も   埋め合わせした後に   もう一人の人があなたを許すことを拒否する時   その時はその人に罪がある。   たとえ彼が侮辱をした他の人に彼が支払をしたとしても   彼は神によって許されてはいない   彼が侮辱をした人から許しを求めるまでは。もし彼が他人を許さないならば   その人は無慈悲と呼ばれる。   (Mishnah   Baba   Kamma   8:7)   我々は他の人に心の中のものを制御することはできない。彼だけが自分の心を制御できる。しかし我々はなお許しを求め   我々の敵を友人に向けることができる希望を求めなければならない。我々が悪い時にこれをすればするほど   我々はもっと多くの友人を持つようになり   我々の共同社会はより良くなるであろう。   時々   ラビは言った   議論で我々が正しいと考えた時でさえ   我々は屈服すべきである。もし重要な議論でないのであれば   正しいことによって勝つよりは平和の方がより重要である。そして我々があまりのも頑固なために恨みが成長することがよくある。不一致で分離するよりも   我々が少しかがむ方が良い。   In   the   hour   of   death   ラビ・シメオンはまた忠告した   「彼の死が彼の前に横たわっている」時に   我々は彼に慰めを提供すべきではない。喪に服している人を慰めることは戒律である。しかし愛する人が死んだまさにその時には   その喪に服している人は私的な深い悲しみと嘆きの時間を持つ権利を持っている。我々はあまりにも早まって慰めようとすべきではない   なぜならば我々は彼をもっと悲しく嘆くようにさせてしまうだけだからである。   この種のこつについてはヨブ記の中から引用される   ヨブの愛する人たちがを死んだ時に   ヨブの三人の友人が彼を慰めようとやって来た。   さてヨブの三人の友人は   ヨブにふりかかった悪の一部始終を聞くと   彼を慰めようとそれぞれの国からやって来た。....彼らは七日七晩   ヨブと共に座っていたが   誰も話しかけることはできなかった   なぜならば彼らはヨブの苦痛が激しいのを見たので。   (ヨブ記2:11-13)   その三人はヨブの気分に対してとても敏感であったので   彼らは実際に七日七晩待った!その最後の時に   「ヨブがしゃべった」。そしてこれが   彼らにとってヨブを慰めるに適切な時であるという彼らの合図であった。   死に直面しては   我々が言えることはほとんどない。時々我々ができる最もよいこつは   ただ黙って座っていることである。ただ我々が居ることが   苦しんでいる人に良い効果をもつことができる。なぜならば   死は共同社会から人の最後の離別である   そしてその別離はとても耐えることが困難である。   ラビ・シメオンは敏感な人の気持ちを表現した。死は開いている傷のようである。   「彼の死が彼の前に横たわっている時」   人は苦しまなければなりません。そして我々は苦しみを許すほど十分に機転がなければなりません。   「ヨブ記」について   聖書の中でも   「ヨブ記」が言わんとしている深い意味を理解するのは難かしいのですが   少し紹介します。   ヨブ記1:1-3   ヨブは正しい人で   神を畏れ   悪を避けて生きていた。   七人の息子と三人の娘をもち   東の国一番の富豪であった。   ヨブ記1:6-12   ある日   主の前に神の使いたちが集まり   サタンもきた。   サタンは言った   「ヨブが   利益もないのに神を敬うでしょうか。あなたは彼とその一族   全財産を守っておられるではありませんか。彼の手の業をすべて祝福なさいます。おかげで   彼の家畜はその地に溢れるほどです。   ひとつこの辺で   御手を伸ばして彼の財産に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うに違いありません」主はサタンに言われた   「それでは   彼のものを一切お前のいいようにしてみるがよい」   ヨブ記1:18-21   ヨブのもとに召使がやってきて言った   「御報告いたします。   御長男のお宅で   御子息   御息女のみなさまが宴会を開いておられました。すると   荒れ野から大風が吹きつけ   家が倒れ   若い方々は死んでしまわれました」ヨブは立ち上がり   衣を裂き   地にひれ伏した。「主は与え   主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」   このような時でも   ヨブは神を非難することはなく   罪を犯さなかった。   ヨブ記2:1-6   またある日   主の前に神の使いたちが集まり   サタンもきた。   主はサタンは言われた   「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で   神を畏れ   悪を避けて生きている。   お前は理由もなく   わたしをそそのかして彼を破滅させようとしたが   彼はどこまでも無垢だ」サタンは答えた   「皮には皮を   と申します。まして命のためには全財産を差し出すものです。   手を伸ばして彼の骨と肉に触れてごらんなさい。   面と向かってあなたを呪うに違いありません」主はサタンは言われた   「それでは   彼をお前のいいようにするがよい」   ヨブ記2:7-10   サタンはヨブに手を下し   頭のてっぺんから足の裏までひどい皮膚病にかからせた。   彼の妻は言った   「どこまでも無垢でいるのですか。神を呪って死ぬほうがましでしょう」   ヨブは答えた   「お前まで愚かなことを言うのか。   わたしたちは   神から幸福をいただいたのだから   不幸もいただこうではないか」   このようになっても   神を唇をもって罪を犯すことをしなかった。   ヨブ記2:11   さてヨブと親しいの三人の友人がヨブにふりかかった災難の一部始終を聞くと   見舞い慰めようと相談して   それぞれの国からやって来た。   ヨブ記2:13   彼らは七日七晩   ヨブと共に地面に座っていたが   その激しい苦痛を見ると   話しかけることもできなかった。   ヨブ記3:1   やがてヨブは口を開き   自分が生まれた日を呪って言った。「わたしの生まれた日は消えうせよ。.......   In   the   time   of   vow   ラビ・シメオンが誓いをしている時に見ていることを   我々の近代的な観点から理解することのより困難さは重要である。「彼の誓いの時間には彼に質問しないように」   シメオンは言った。   我々はこれを一般的な方法で理解できる:   人々が強い気持ちで一生懸命でそれがとても強く   それについて何かをすることを誓う時には   意見を言ったり議論せずに   我々は普通彼らの誓いを通すべきである。   普通   我々は人々に彼らの約束を維持してもらいたいと望んでいる   しかし我々が急いで約束をして   そしてそれをした後で後悔する時がよくある。シメオンがおそらく意味したことは   人ができないような約束をしたのを我々が聞いた時に   彼に質問をすべきではないということである。我々の質問は当惑させることになるかもしれない。それらはその人に   彼が本当にはしたくないことをさせるように強いるかもしれない。   もし我々がただ黙り続けることが全てより良いのである。それがこの場合のなすべき機転である。   例えば   友人が彼のための約束を忘れた理由で   「もう両親を決して信用しないと約束する」   というのをあなたが聞いたとしよう。あなたはその時にこんな質問をすべきではない:「あなたがもう両親を決して信用しない   というのは確かなの?」「もしあなたの両親でなければ   ほかの誰を信用できるの?」これらの質問はあなたの友人を当惑させるだけである。彼の誓いは怒り   あるいは急い状態の中で為された種類のものであり   それは本当には正直で真実なものを意味してはいない。   そんな時は少なくとも   あなたはそれを聞き過ごすべきである   たとえもしあなたがそれに不一致であろうとも。   In   the   hour   of   embarrassment   ラビ・シメオンのその最後の忠告は   「彼が不名誉な時間には彼を見ないように努力しなさい」   ここでシメオンは   うわさ話として進んでいる事をがつがつ見るような   機転のない人の話をしている。   ある人々は   他人について「悪い言葉」を広げて   他人を困惑させるの好きである。   しかし   Judaism   は我々に   各々の人間は貴重であり   神のイメージで造られていると教えている。   それでシメオンは   他の人を困惑させることを   人の精神を殺す種類のものとして見ている。   我々が公衆で困惑させられる時はいつでも   我々の中で血が反応を示す。ある善き人が教えた....:もし誰かが彼の隣人を公衆で恥をかかせると   それは彼が血を流すようなものである。   ラブ・ナフマンは答えた   すなわちこう言われている:顔の赤い血が退き   そして人が青ざめたように白さがやって来る   我々は知ることができるからである。   (Baba   Metzia   58b)   もしあなたがいかに困惑されているか感じることについて考えるとき   故意ではなくあながた何かをしたために   あるいはたまたまあなたに起こった何かのために   困惑がいかに深く傷つけるかあなたは知る。そこで   特に   我々が他の人々に敏感であることが必要である。ここに   また   タイミングとこつが重要である。   少女たちが   ダンスの後にちょうど一人の友達を探し出して   そして彼女とダンスをしようとした人は誰もいなかったという理由で彼女をからかった。   そんな少女たちは残酷である。   しかし少女が   ダンスの後にちょうど一人の友達を探し出して   そして彼女とダンスをしようとした人は誰もいなかったという理由で彼女を慰めた。   そんな少女は   また残酷である   たとえ同じ方法ではないけれども。   からかった彼女たちは邪悪な方法で残酷である。   彼女たちの行動は「Yetzer   HaRa(邪悪の衝動)」の行動である。   しかし   あまりにも早く慰めようとした彼女は   困惑させることを通して残酷である。   彼女は善い意味だけれども   彼女の行動は悪いタイミングであった:   それは機転がない。彼女は宗教的な知覚を使うことに失敗したのである。   あなたが友人に対して   いかにすまないかと感じていることを   彼に走っていって振り向いて告げる前に   あなたが本当にするかもしれないことが   本当に彼を助けることになるであろうかと   最初にあなた自身に質問すべきである。   さもなければ   あなたの「Yetzer   Tov(善の衝動)」を通してあなたが本当に行動していないで   あなたの「Yetzer   HaRa(邪悪の衝動)」を通して行動している   ということをあなたは見つけるかもしれない。   あなたの悪いタイミングが故意で残酷である   とあなたは見つけるであろう。   あなたはちょうど比較によって「大きく」見えたかったのかもしれない。   すなわちこれが   なぜシメオンが我々に   彼の不名誉な時間に」その友人を見ないようにと警告したかの理由である。   それは機転がなく   害がある。   そして   それは我々の現実の目的を忘れてしまう方法である。   その目的   ゴールとは   各々の人間は誰もがいかに重要であるか   我々の全てに対して平和がいかに大きく意味があるか   それを我々が思い出すことである。   我々のすべてが平等に造られている   そして我々の各々が唯一で価値がある   ということをただ知るだけでは十分ではない。   毎日の扱いについて   お互いに対して敏感であることを我々は学ばなければなりません。これをするために   我々は戒律を実行するタイミングを学ばなければならない   我々が物事を為されるべき時に正しい方法でするために。   正しい時間に正しい態度で物事を行なうことは   我々がこつと呼ぶところのものである。   我々が機転がある時   彼らを慰め支援することで我々の戒律は他人を助ける。   特に   緊張の時には   我々の情緒が興奮している時   ----   我々が怒っている時   我々が愛する人の死の喪に服している時   我々が急いで約束した時   我々が我々自身の行動によって困惑している時   ----   我々のまわりの人々   友人そして我々が愛する家族   の支援以上のものを我々は必要とする。   他人がそんな緊張を経験している時   彼らに対して良い友人であり   そしてまた親密な家族であることを   我々は同じく学ばなければなりません。   我々の宗教的な知覚を通して   我々は彼らを助ける最善の方法を見つける努力をすべきである   言葉によって   行動によって   あるいは沈黙のいずれかによって。   我々が何をしようとも   我々はより良い共同社会の我々のゴールの視点を   失ってはならない。   我々の行動は   我々自身   我々の友人   そして我々の親類を   ユダヤ人の生活の平和の流れにできるだけ早く戻す方向になされるべきである   そうすれば全体の共同社会が一つの家族として一緒に働くことができるようになる。  

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アヴェ・ヴェルム・コルプス (お話です) 1 「タルムード」「感受性の価値」 「イスラエルのヤハウェ信仰の回復」

アヴェ・ヴェルム・コルプス (お話です) 1 「タルムード」 「The value of sensitivity : 感受性の価値」 「イスラエルの民のヤハウェ信仰の回復」 紀元前926 イスラエル王国が 南王国ユダとベニヤミン族(2部族首都エルサレム) 北イスラエル王国(10部族首都サマリア) に分裂 紀元前722 北イスラエル王国が アッシリアに滅ぼされる (列王記下16~17章)   (失われた10部族) 北王国の10部族は アッシリアに虜囚されて滅亡した。 (文書は残されていない。) アッシリアの政策で異民族と混ざる。 紀元前640 ユダ王国のヨシヤ王が8歳で即位。在位31年 (列王記下22~23章)(暦代誌下34章) 予言者エレミア登場 紀元前625頃  新バビロニア王国建国 紀元前609 メギドの戦い(アッシリアの没落で エジプトと新バビロニアが争う) ユダはバビロニアの支配下で、 バビロニアのヨシヤ王が エジプト軍との戦いで戦死。 (列王記下23:29、歴代誌下35:20~24) 紀元前598 新バビロニア王国ネブカドネザル2世が エルサレムを包囲。 ユダ王国の人々がバビロンに捕囚。 第1次バビロン捕囚(列王記下24:10~17) 預言者エゼキエルも共に捕囚 バビロニア時代 紀元前586~538 名前がない極めて有能な預言者 仮に第三のイザヤが 神ヤハウェの信仰と エルサレムの未来について導く。 (イザヤ書 56章~66章) ペルシャ時代 紀元前538~333 第2神殿時代が紀元前538年のバビロン崩壊から 紀元70年ローマによる神殿破壊までの600年間 紀元前586 エルサレム陥落。南ユダ王国滅亡。 第2次バビロン捕囚 (列王記下25章) 神殿破壊され廃墟になる これらの民はバビロンの王に70年の間仕える。 (エレミヤ書25:11) 南ユダ王国新バビロニアの属州にる 紀元前582 第3次バビロン捕囚(745人) 紀元前538 ペルシャ帝国によるバビロン崩壊 ペルシャ王クロス2世が捕囚民の解放。 イスラエルの民が帰還 紀元前515 ペルシャ王クロス2世の勅令で 捕囚から帰還した民が神殿を再建 (エズラ記6章) 第1神殿破壊から71年で第2神殿が完成 (暦代誌下36章) ペルシャ国内が混乱していたため エルサレムでヤハウェ信仰と 神殿の礼拝を認めて、 かつて衝突していた サマリア人、アラブ人などの 周辺諸部族と混ざって行ったが、 特にサマリア人貴族と エルサレムの祭司の 縁戚関係が結ばれて行き ヤハウェ信仰の純粋性が減衰した。 エズラがバビロニア捕囚が終わっても 帰還が果たせぬまま バビロニアを滅ぼした ペルシャ帝国の寛容な政策で エズラがイスラエルの民でも ペルシャの高官になることができた。 このことから、 ペルシャ王 アルタクセルクセス1世 (紀元前464年~423年)の 第7年5月に「ソーフエール」 =書記(律法学者)の称号の エズラが、王から免税特権を与えられて バビロニアの力エルサレムに来たが、 ヤハウェ信仰の純粋性の衰退を指摘して エルサレムの祭司に サマリア人の貴族と エルサレムの祭司の縁戚関係を 離別させようとした「エズラ記10章」 がエルサレム民族共同体の説得に 失敗して13年間エルサレムを離れました。 ペルシャ王 アルタクセルクセス1世 (紀元前464年~423年)の 第20年紀元前445年に ペルシャ宮廷の 捕囚民出身の高官の ネヘミヤがユダヤ州知事に着任して、 神殿の城壁を修復して、 「安息日の遵守」 「1/10の税の神政共同体の維持」 「エルサレムの人口の調整」 「下級祭司とレビ人の 給与の支払いの保障」 「サマリア人の貴族と エルサレムの祭司の 縁戚関係の離別」 を断行して エルサレムに戻ったエズラが 「モーセの律法(五書)」 を読み上げた。 こうしてユダヤ人共同体の 社会改革(エヘミヤ記13章) トーラー(モーセ五書)を 聖典とするユダヤ教が確立しました。 * 「詩編、箴言(しんげん)」 「コヘレトの言葉(伝道の書)」 「雅歌」 「哀歌(エルサレムの滅亡を嘆く歌)」 がございます。

投稿者:サイト名 有馬徳彦
投稿日時:2012-06-25 17:55:33.0
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タグ: アヴェ・ヴェルム・コルプス   (お話です)   1   「タルムード」   「The   value   of   sensitivity   :   感受性の価値」   「イスラエルの民のヤハウェ信仰の回復」   紀元前926   イスラエル王国が   南王国ユダとベニヤミン族(2部族首都エルサレム)   北イスラエル王国(10部族首都サマリア)   に分裂   紀元前722   北イスラエル王国が   アッシリアに滅ぼされる   (列王記下16~17章)   (失われた10部族)   北王国の10部族は   アッシリアに虜囚されて滅亡した。   (文書は残されていない。)   アッシリアの政策で異民族と混ざる。   紀元前640   ユダ王国のヨシヤ王が8歳で即位。在位31年   (列王記下22~23章)(暦代誌下34章)   予言者エレミア登場   紀元前625頃   新バビロニア王国建国   紀元前609   メギドの戦い(アッシリアの没落で   エジプトと新バビロニアが争う)   ユダはバビロニアの支配下で   バビロニアのヨシヤ王が   エジプト軍との戦いで戦死。   (列王記下23:29   歴代誌下35:20~24)   紀元前598   新バビロニア王国ネブカドネザル2世が   エルサレムを包囲。   ユダ王国の人々がバビロンに捕囚。   第1次バビロン捕囚(列王記下24:10~17)   預言者エゼキエルも共に捕囚   バビロニア時代   紀元前586~538   名前がない極めて有能な預言者   仮に第三のイザヤが   神ヤハウェの信仰と   エルサレムの未来について導く。   (イザヤ書   56章~66章)   ペルシャ時代   紀元前538~333   第2神殿時代が紀元前538年のバビロン崩壊から   紀元70年ローマによる神殿破壊までの600年間   紀元前586   エルサレム陥落。南ユダ王国滅亡。   第2次バビロン捕囚   (列王記下25章)   神殿破壊され廃墟になる   これらの民はバビロンの王に70年の間仕える。   (エレミヤ書25:11)   南ユダ王国新バビロニアの属州にる   紀元前582   第3次バビロン捕囚(745人)   紀元前538   ペルシャ帝国によるバビロン崩壊   ペルシャ王クロス2世が捕囚民の解放。   イスラエルの民が帰還   紀元前515   ペルシャ王クロス2世の勅令で   捕囚から帰還した民が神殿を再建   (エズラ記6章)   第1神殿破壊から71年で第2神殿が完成   (暦代誌下36章)   ペルシャ国内が混乱していたため   エルサレムでヤハウェ信仰と   神殿の礼拝を認めて   かつて衝突していた   サマリア人   アラブ人などの   周辺諸部族と混ざって行ったが   特にサマリア人貴族と   エルサレムの祭司の   縁戚関係が結ばれて行き   ヤハウェ信仰の純粋性が減衰した。   エズラがバビロニア捕囚が終わっても   帰還が果たせぬまま   バビロニアを滅ぼした   ペルシャ帝国の寛容な政策で   エズラがイスラエルの民でも   ペルシャの高官になることができた。   このことから   ペルシャ王   アルタクセルクセス1世   (紀元前464年~423年)の   第7年5月に「ソーフエール」   =書記(律法学者)の称号の   エズラが   王から免税特権を与えられて   バビロニアの力エルサレムに来たが   ヤハウェ信仰の純粋性の衰退を指摘して   エルサレムの祭司に   サマリア人の貴族と   エルサレムの祭司の縁戚関係を   離別させようとした「エズラ記10章」   がエルサレム民族共同体の説得に   失敗して13年間エルサレムを離れました。   ペルシャ王   アルタクセルクセス1世   (紀元前464年~423年)の   第20年紀元前445年に   ペルシャ宮廷の   捕囚民出身の高官の   ネヘミヤがユダヤ州知事に着任して   神殿の城壁を修復して   「安息日の遵守」   「1/10の税の神政共同体の維持」   「エルサレムの人口の調整」   「下級祭司とレビ人の   給与の支払いの保障」   「サマリア人の貴族と   エルサレムの祭司の   縁戚関係の離別」   を断行して   エルサレムに戻ったエズラが   「モーセの律法(五書)」   を読み上げた。   こうしてユダヤ人共同体の   社会改革(エヘミヤ記13章)   トーラー(モーセ五書)を   聖典とするユダヤ教が確立しました。     「詩編   箴言(しんげん)」   「コヘレトの言葉(伝道の書)」   「雅歌」   「哀歌(エルサレムの滅亡を嘆く歌)」   がございます。   When   a   Jew   seeks   wisdom   「The   value   of   sensitivity」   Sensitivity   Keeping   the   group   together   A   full-time   task   Sensitivity   is   sensible   Timing   is   important   The   hour   of   anger   Seeking   and   receiving   forgiveness   In   the   hour   of   death   In   the   time   of   vow   In   the   hour   of   embarrassment   「The   value   of   sensitivity   :   感受性の価値」   ラビ・シメオン・ベン・エルアザル(Rabbi   Simeon   ben   Eleazar)は言った。あなたの仲間が怒っている時に彼をなだめてはならない   そして死人が彼の前に横たわっている時に彼を慰めてはならない   そして彼が誓いを立てている時に彼に質問してはならない   そして恥ずかしい思いをしている時に彼を見ようとしないように。   (Avot   4:18)   Sensitivity   あなたが特別な秘密を友人に告げて   そして彼があなたの知らない誰かにそれを話したという最初の時をきっとあなたは憶えているでしょう。あなたの友人があなたを当惑させた理由によって   あなたは彼を「wicked」とさえ呼んだかもしれない。   あるいは   おそらくあなたがあるゲームの試合で上手でなかったので   両軍が組み直されあなたがその最後に選ばれた人になり   そして選んでいる選手があなたに陰うつに言った   「おれが思うに   お前はおれの側だよね!」それはチームで最も弱い連結として考えられていることで   正確にあなたを良い気持ちにさせない。   我々の全てはこの種の瞬間をもっている   そして我々の全てはまた他人を時々当惑させている   たとえ故意にではないとしても(そして時々我々は目的をもってまさに故意に他人を当惑させる)。実際に   いかにして他人を当惑させないか   を人は学ばなければならない。これを学ぶことは自然には出来ないのである。   我々は   何が他人を傷つけるか   に敏感であるようには生まれていない。我々は我々自身を訓練しなければならない   いかに他人が傷つくかを学ぶという観点で   それによって我々が他人を傷つけるのを避けるために。そして   もちろん我々のグループは   他人へより多く敏感であるように学ぶことを助ける点で   大きなくいを持っている。   Keeping   the   group   together   グループがしなければいけない   と我々が言ったところのものの一つは   一緒に留まることである。そのメンバーが互いに一緒に暮らさない理由で   もしそのグループが壊れ始めるならば   そのグループは共にいるという感じを失い   そしていずれは解散してしまう。   このことは我々が属している他のグループと同じように   我々のユダヤ人グループにも真である。ユダヤ人共同社会の場合は   そのくいはたいへん高い。もしその共同社会が解散すれば   各々の人は一人での残される;一緒に生活する目的は消え去り   より完全な社会になるように   そしてより良い世界を作ることに向けて   我々が一緒に作ってきたところの全ての前進は失われる。   それでラビたちは   あなたが「何を」するかだけでなく   あなたが「いつ」行なうべきか   そして他人に向けて「いかに」振る舞うべきか   というもっと困難な質問についてとても関心をもった。互いに対して敏感であることは我々を一緒に留める助けとなるであろうと彼らは我々に教えた。   A   full-time   task   互いに対して敏感であることはフルタイムの仕事である。我々が長い間一緒に親密に生活している時でさえ   それはより簡単になることはない。それはほとんどいつでも難しい。例えば   あなたの家族を取り上げてみよう。   あなたが属する他のどんなグループよりも長く   あなたは家族と一緒に生活してきた。ユダヤ人の家族は一緒に親密に   各家族を小さなユダヤ人の人々にして維持するようラビたちがそんなに強く強調しているのは   この理由のためである。   なおも   そして全て   兄弟あるいは姉妹に親切であったと思い出すのが難しい。   我々が自然に嫉妬深い時が何度もある。(ヨセフの物語そして彼の好みの服   彼の兄弟の全てがいかに嫉妬していたか   あなたは思い出すかもしれない。)   我々が両親を困惑させる時が何度もある   両親が我々を困惑させる時が何度もあると同様に。(友人があなたの家で夜を過ごす時に   「あなた」の就寝時刻にあなた方二人が寝なければならないことを思い出すかもしれない。)あなたの両親は他の全ての両親と違っているために   他の両親がそんなに重要であると考えていないような事を   あなたの両親は時々あなたにやらせることがあるかもしれない。それであなたの家族は   敏感な方法で他人と一緒に生活することがいかに難しいかという一つの良い例なのである。   Sensitivity   is   sensible   しかし他人に敏感になるようにやってみることは良いセンスを作る。我々の勉強を通して   全ての種類の支援においていかに多くお互いに依存しているか我々は見てきた。我々の家族は   世話   食物     そして愛を我々に与えている   たとえ他の誰もが与えない時でさえ。そしてユダヤ人民は一種の拡張された家族である----我々ユダヤ人の共同社会は   家族を持っていない人々を世話し   そして家族を持っている人々さえ世話する。我々は共同社会を一緒に築き   そして敏感さは建築の煉瓦の一つである。   それで   病人を訪れることは一つの戒律である。喪に服している人々を慰めることは一つの戒律である。怒っている人を平静に戻すことは一つの戒律である。慈善を与えることは一つの戒律である。必要な時に人を助けることは一つの戒律である。捕虜の身代金を支払うことは一つの戒律である。そして   これらの戒律を実行することは愛の一つの行動   敏感な人の行動である。この行動は   我々の共同社会を強くすること   そして我々人々を密接に一緒にすることを助ける。   Timing   is   important   さらに重要なことは   あなたが何をするかだけではなく   何時それをするかである。例えば   あなたがバレーボールをサービスする場合に   あなたは空中にボールを投げることによって始める。さてあなたは手でそれを打つ最善の瞬間を正確に待つ。もしあんまり早すぎて打つと   ボールは空中に飛んで行ってしまう。もしあまり長く待ち過ぎると   ボールはネットにぶつかる。あなたのタイミングが正確である時のみ   バレーボールであなたがそれを行ないたいことができる。   戒律を実行する場合にも同じことが真である。もしあなたがあんまり早くそれを必要とする前に実行すると   決して来ないかもしれない結果を待つというように   それは空中に止ってします。病気でない友人を病気訪問することを想像してみなさい-----あなたはこう言わないだろうか?「ちょうど今わたしはあなたを訪問している   それは将来ある時に   あなたが気分がすぐれない時に   わたしが遠くからやってきてあなたを訪問しなければならないのがいやだから」   あるいは   盲目の女性が通りを横切りたいと思う前に   彼女が横切るのを助けることを想像してみなさい。彼女は横切った時に感謝を表わし   そしてこう言ったとする   「私が本当に通りの反対側に行きたかったのですか?」あまりにも遅く戒律を実行することは   また   大きく役に立たない。慈善を施す前に   人が餓えて死んでしまうまで待つことは   ほとんど戒律としては数えられない。すでに4年前に死んだ愛する人を失った人を慰めることは   彼が必要な時に彼を慰めると同様な効果を持つことはできない。   戒律とその戒律の実行は正しいタイミングを要求する。そしてタイミングの良いセンスを習得することは   我々の宗教的な知覚の発展において   重要な部分を演じる。こつを習得することは   戒律を行なうための正しい時を知るようになることを含む。何時しゃべり   そして何時黙るか。   The   hour   of   anger   ラビ・シメオン・ベン・エルアザル(Rabbi   Simeon   ben   Eleazar)は我々が他人により敏感になるような4つの方法を話した:最初は   怒っている人をなだめることを含む。2番目は   喪に服している人に慰めをもたらすことを扱う。3番目は   誓いを立てている人にいかに対応するかを扱う。そして4番目は   我々がこの章を始めたところの主題に我々を戻す----当惑させるという話題に。   最初に   シメオンは言った   「あなたの仲間が怒っている時に彼をなだめてはなりません。」   (Avot   4:23)   人が怒の道に行く時   もし彼が善き人であれば   彼の知恵は彼から離れる。もし彼が預言者であれば   彼の預言の力は彼から離れる。そしてもし彼に対する偉大さが天によって認められていた時でさえも   怒る人は誰であれそれ(偉大さ)を失う。   (Pesahim   66b)   激怒と怒は   人の中に深く食い込む   まわりのあらゆるものが酸っぱく変わるまで。怒の発作の中で人は   長く後悔するであろうことを言うであろう。誰かがあなたに怒っている時は   あなたが謝罪することが良い   「soft   answer」を与えるために。差分をつぎ当てするよう試みるのが良い   しかしタイミングとこつが必須である。シメオンは我々に警告した   怒りの頂点にいる人に謝罪したり言い訳しないように   なぜならば彼はその時に「Yetzer   HaRa(邪悪の衝動)」によってのみ制御されているからである。   「地獄の全ての部門は一人の怒りの男が支配している」   (Nedarim   22a)   その代わりに待ちなさい。あなたの現われる時を選びなさい   その怒りの人から激怒が消えた時を。もしあなたがあまり早すぎて来ると   あなたの出現が彼をもっと怒らせるだけであり   そしてそれはあなたが望むこととはちょうど反対である。   一方   もしあなたがあまり長く待ち過ぎると   怒っていた人はあなたに対して恨みを持つようになる。彼は心の中であなたを嫌うことを覚えるかもしれない。なぜならば怒った人は   「もっともっと愚鈍(stupid)になっている」   (Nedarim   22b)   Seeking   and   receiving   forgiveness   あなたは恨みを持った人々との幾つかの経験があるかもしれない。あなたが何度も何度も謝罪した後でさえ   彼らはあなたが悪いことをしたあらゆることをなお憶えており   あなたを敵と考えている。ラビたちは教えた:   戒律は言う   「あなたは心の中であなたの兄弟を嫌ってはならない。」なぜならば人は考えるかもしれない   「私は彼を殴ってはいけない   あるいは彼を打ってはいけない   あるいは彼をののしってはいけない。(しかし私はなお彼を敵として嫌うことは出来る)」それゆえに戒律は言う   「あなたは心の中で」   (Arachin   16b)   あなたが心から謝罪した後で   そしてあなたが起こしたかもしれないどんな損失も   埋め合わせした後に   もう一人の人があなたを許すことを拒否する時   その時はその人に罪がある。   たとえ彼が侮辱をした他の人に彼が支払をしたとしても   彼は神によって許されてはいない   彼が侮辱をした人から許しを求めるまでは。もし彼が他人を許さないならば   その人は無慈悲と呼ばれる。   (Mishnah   Baba   Kamma   8:7)   我々は他の人に心の中のものを制御することはできない。彼だけが自分の心を制御できる。しかし我々はなお許しを求め   我々の敵を友人に向けることができる希望を求めなければならない。我々が悪い時にこれをすればするほど   我々はもっと多くの友人を持つようになり   我々の共同社会はより良くなるであろう。   時々   ラビは言った   議論で我々が正しいと考えた時でさえ   我々は屈服すべきである。もし重要な議論でないのであれば   正しいことによって勝つよりは平和の方がより重要である。そして我々があまりのも頑固なために恨みが成長することがよくある。不一致で分離するよりも   我々が少しかがむ方が良い。   In   the   hour   of   death   ラビ・シメオンはまた忠告した   「彼の死が彼の前に横たわっている」時に   我々は彼に慰めを提供すべきではない。喪に服している人を慰めることは戒律である。しかし愛する人が死んだまさにその時には   その喪に服している人は私的な深い悲しみと嘆きの時間を持つ権利を持っている。我々はあまりにも早まって慰めようとすべきではない   なぜならば我々は彼をもっと悲しく嘆くようにさせてしまうだけだからである。   この種のこつについてはヨブ記の中から引用される   ヨブの愛する人たちがを死んだ時に   ヨブの三人の友人が彼を慰めようとやって来た。   さてヨブの三人の友人は   ヨブにふりかかった悪の一部始終を聞くと   彼を慰めようとそれぞれの国からやって来た。....彼らは七日七晩   ヨブと共に座っていたが   誰も話しかけることはできなかった   なぜならば彼らはヨブの苦痛が激しいのを見たので。   (ヨブ記2:11-13)   その三人はヨブの気分に対してとても敏感であったので   彼らは実際に七日七晩待った!その最後の時に   「ヨブがしゃべった」。そしてこれが   彼らにとってヨブを慰めるに適切な時であるという彼らの合図であった。   死に直面しては   我々が言えることはほとんどない。時々我々ができる最もよいこつは   ただ黙って座っていることである。ただ我々が居ることが   苦しんでいる人に良い効果をもつことができる。なぜならば   死は共同社会から人の最後の離別である   そしてその別離はとても耐えることが困難である。   ラビ・シメオンは敏感な人の気持ちを表現した。死は開いている傷のようである。   「彼の死が彼の前に横たわっている時」   人は苦しまなければなりません。そして我々は苦しみを許すほど十分に機転がなければなりません。   「ヨブ記」について   聖書の中でも   「ヨブ記」が言わんとしている深い意味を理解するのは難かしいのですが   少し紹介します。   ヨブ記1:1-3   ヨブは正しい人で   神を畏れ   悪を避けて生きていた。   七人の息子と三人の娘をもち   東の国一番の富豪であった。   ヨブ記1:6-12   ある日   主の前に神の使いたちが集まり   サタンもきた。   サタンは言った   「ヨブが   利益もないのに神を敬うでしょうか。あなたは彼とその一族   全財産を守っておられるではありませんか。彼の手の業をすべて祝福なさいます。おかげで   彼の家畜はその地に溢れるほどです。   ひとつこの辺で   御手を伸ばして彼の財産に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うに違いありません」主はサタンに言われた   「それでは   彼のものを一切お前のいいようにしてみるがよい」   ヨブ記1:18-21   ヨブのもとに召使がやってきて言った   「御報告いたします。   御長男のお宅で   御子息   御息女のみなさまが宴会を開いておられました。すると   荒れ野から大風が吹きつけ   家が倒れ   若い方々は死んでしまわれました」ヨブは立ち上がり   衣を裂き   地にひれ伏した。「主は与え   主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」   このような時でも   ヨブは神を非難することはなく   罪を犯さなかった。   ヨブ記2:1-6   またある日   主の前に神の使いたちが集まり   サタンもきた。   主はサタンは言われた   「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で   神を畏れ   悪を避けて生きている。   お前は理由もなく   わたしをそそのかして彼を破滅させようとしたが   彼はどこまでも無垢だ」サタンは答えた   「皮には皮を   と申します。まして命のためには全財産を差し出すものです。   手を伸ばして彼の骨と肉に触れてごらんなさい。   面と向かってあなたを呪うに違いありません」主はサタンは言われた   「それでは   彼をお前のいいようにするがよい」   ヨブ記2:7-10   サタンはヨブに手を下し   頭のてっぺんから足の裏までひどい皮膚病にかからせた。   彼の妻は言った   「どこまでも無垢でいるのですか。神を呪って死ぬほうがましでしょう」   ヨブは答えた   「お前まで愚かなことを言うのか。   わたしたちは   神から幸福をいただいたのだから   不幸もいただこうではないか」   このようになっても   神を唇をもって罪を犯すことをしなかった。   ヨブ記2:11   さてヨブと親しいの三人の友人がヨブにふりかかった災難の一部始終を聞くと   見舞い慰めようと相談して   それぞれの国からやって来た。   ヨブ記2:13   彼らは七日七晩   ヨブと共に地面に座っていたが   その激しい苦痛を見ると   話しかけることもできなかった。   ヨブ記3:1   やがてヨブは口を開き   自分が生まれた日を呪って言った。「わたしの生まれた日は消えうせよ。.......   In   the   time   of   vow   ラビ・シメオンが誓いをしている時に見ていることを   我々の近代的な観点から理解することのより困難さは重要である。「彼の誓いの時間には彼に質問しないように」   シメオンは言った。   我々はこれを一般的な方法で理解できる:   人々が強い気持ちで一生懸命でそれがとても強く   それについて何かをすることを誓う時には   意見を言ったり議論せずに   我々は普通彼らの誓いを通すべきである。   普通   我々は人々に彼らの約束を維持してもらいたいと望んでいる   しかし我々が急いで約束をして   そしてそれをした後で後悔する時がよくある。シメオンがおそらく意味したことは   人ができないような約束をしたのを我々が聞いた時に   彼に質問をすべきではないということである。我々の質問は当惑させることになるかもしれない。それらはその人に   彼が本当にはしたくないことをさせるように強いるかもしれない。   もし我々がただ黙り続けることが全てより良いのである。それがこの場合のなすべき機転である。   例えば   友人が彼のための約束を忘れた理由で   「もう両親を決して信用しないと約束する」   というのをあなたが聞いたとしよう。あなたはその時にこんな質問をすべきではない:「あなたがもう両親を決して信用しない   というのは確かなの?」「もしあなたの両親でなければ   ほかの誰を信用できるの?」これらの質問はあなたの友人を当惑させるだけである。彼の誓いは怒り   あるいは急い状態の中で為された種類のものであり   それは本当には正直で真実なものを意味してはいない。   そんな時は少なくとも   あなたはそれを聞き過ごすべきである   たとえもしあなたがそれに不一致であろうとも。   In   the   hour   of   embarrassment   ラビ・シメオンのその最後の忠告は   「彼が不名誉な時間には彼を見ないように努力しなさい」   ここでシメオンは   うわさ話として進んでいる事をがつがつ見るような   機転のない人の話をしている。   ある人々は   他人について「悪い言葉」を広げて   他人を困惑させるの好きである。   しかし   Judaism   は我々に   各々の人間は貴重であり   神のイメージで造られていると教えている。   それでシメオンは   他の人を困惑させることを   人の精神を殺す種類のものとして見ている。   我々が公衆で困惑させられる時はいつでも   我々の中で血が反応を示す。ある善き人が教えた....:もし誰かが彼の隣人を公衆で恥をかかせると   それは彼が血を流すようなものである。   ラブ・ナフマンは答えた   すなわちこう言われている:顔の赤い血が退き   そして人が青ざめたように白さがやって来る   我々は知ることができるからである。   (Baba   Metzia   58b)   もしあなたがいかに困惑されているか感じることについて考えるとき   故意ではなくあながた何かをしたために   あるいはたまたまあなたに起こった何かのために   困惑がいかに深く傷つけるかあなたは知る。そこで   特に   我々が他の人々に敏感であることが必要である。ここに   また   タイミングとこつが重要である。   少女たちが   ダンスの後にちょうど一人の友達を探し出して   そして彼女とダンスをしようとした人は誰もいなかったという理由で彼女をからかった。   そんな少女たちは残酷である。   しかし少女が   ダンスの後にちょうど一人の友達を探し出して   そして彼女とダンスをしようとした人は誰もいなかったという理由で彼女を慰めた。   そんな少女は   また残酷である   たとえ同じ方法ではないけれども。   からかった彼女たちは邪悪な方法で残酷である。   彼女たちの行動は「Yetzer   HaRa(邪悪の衝動)」の行動である。   しかし   あまりにも早く慰めようとした彼女は   困惑させることを通して残酷である。   彼女は善い意味だけれども   彼女の行動は悪いタイミングであった:   それは機転がない。彼女は宗教的な知覚を使うことに失敗したのである。   あなたが友人に対して   いかにすまないかと感じていることを   彼に走っていって振り向いて告げる前に   あなたが本当にするかもしれないことが   本当に彼を助けることになるであろうかと   最初にあなた自身に質問すべきである。   さもなければ   あなたの「Yetzer   Tov(善の衝動)」を通してあなたが本当に行動していないで   あなたの「Yetzer   HaRa(邪悪の衝動)」を通して行動している   ということをあなたは見つけるかもしれない。   あなたの悪いタイミングが故意で残酷である   とあなたは見つけるであろう。   あなたはちょうど比較によって「大きく」見えたかったのかもしれない。   すなわちこれが   なぜシメオンが我々に   彼の不名誉な時間に」その友人を見ないようにと警告したかの理由である。   それは機転がなく   害がある。   そして   それは我々の現実の目的を忘れてしまう方法である。   その目的   ゴールとは   各々の人間は誰もがいかに重要であるか   我々の全てに対して平和がいかに大きく意味があるか   それを我々が思い出すことである。   我々のすべてが平等に造られている   そして我々の各々が唯一で価値がある   ということをただ知るだけでは十分ではない。   毎日の扱いについて   お互いに対して敏感であることを我々は学ばなければなりません。これをするために   我々は戒律を実行するタイミングを学ばなければならない   我々が物事を為されるべき時に正しい方法でするために。   正しい時間に正しい態度で物事を行なうことは   我々がこつと呼ぶところのものである。   我々が機転がある時   彼らを慰め支援することで我々の戒律は他人を助ける。   特に   緊張の時には   我々の情緒が興奮している時   ----   我々が怒っている時   我々が愛する人の死の喪に服している時   我々が急いで約束した時   我々が我々自身の行動によって困惑している時   ----   我々のまわりの人々   友人そして我々が愛する家族   の支援以上のものを我々は必要とする。   他人がそんな緊張を経験している時   彼らに対して良い友人であり   そしてまた親密な家族であることを   我々は同じく学ばなければなりません。   我々の宗教的な知覚を通して   我々は彼らを助ける最善の方法を見つける努力をすべきである   言葉によって   行動によって   あるいは沈黙のいずれかによって。   我々が何をしようとも   我々はより良い共同社会の我々のゴールの視点を   失ってはならない。   我々の行動は   我々自身   我々の友人   そして我々の親類を   ユダヤ人の生活の平和の流れにできるだけ早く戻す方向になされるべきである   そうすれば全体の共同社会が一つの家族として一緒に働くことができるようになる。  

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アヴェ・ヴェルム・コルプス(お話です)「ユダヤ教の途絶えぬ信仰」「ミシュナータルムードアヴォート」「勇気の価値」「忍耐の価値」

アヴェ・ヴェルム・コルプス (お話です) ユダヤ教の 途絶えぬ信仰の根拠について ミシュナー・タルムード 「アヴォート(Avot)」篇 「勇気の価値」 The value of courage 「忍耐の価値」 The value of patience について ◎ユダヤ教の 途絶えぬ信仰の根拠 ユダヤ民族が信仰の地もなく国もない離散の状態で信仰が途絶えることなく存在してきた根拠に、「ユダヤ人と神の契約の履行」が極めて重要でございます。 新バビロニアが崩壊して解放されたユダヤの方々が第二神殿を造りましたが ユダヤ人と神の契約が不履行になるほど戒律がゆるくなりました。 この時期にエズラが人々に真の信仰の回帰を言い渡して聞かせました。具体的な事実としてのユダヤの方々のバビロニアの捕囚の歴史の史実を示しました。バビロニアの捕囚に苦しんだ根拠がユダヤ教徒と神の契約の不履行だったことであり契約を履行するべきであるということを示しましたが、他国と姻戚を結ぶ高位の階級の組織が反発して人々から冷遇されて追放されました。 他方、総督がネヘミアになり、神殿の城壁を修復して、信仰の回帰を掲げてユダヤ教の基盤をつくりました。 これだけでなく、移り行く時間に対して情勢も推移いたしますからここに、教義を行って聖典の編纂を行い続けて結集(けつじゅう)したものが「タルームード」に全てございます。 これらの、「ユダヤ人と神の契約の履行」と「タルムード」の2つの糸でユダヤ教の歴史の糸を途絶えることなく紡いで(つむいで)ございます。 ◎「勇気の価値」 The value of courage 我々が学んできた価値(value)の幾つかを一緒に置くならば、それらは我々を一つの興味深い質問に導く。我々の各々は神のイメージで創造されている、我々の各々の中に、利己主義に向かった我々の衝動「Yetzer Hara」と神聖に向かった我々の衝動「Yetzer Tov」との間に葛藤がある、 我々の各々は自由な意思を与えられているこのように、我々は教えられている。Judaismは、宗教的な知覚を発展させ、そして勉強を通して証拠を集める訓練をする助けとなるこのことを、我々は知っている。 それでは、なぜ我々は完全であることを要求されていないのか ◎「忍耐の価値」 The value of patience あなたは、人々が「欲求不満」になっている、と言うのをおそらく聞いたことがあるでしょう。心の病気の一つとして欲求不満の話を聞いたことがあるかもしれない。今日の米国で、欲求不満は最も共通な心の病気の現われである、と心理学者たちは信じている。欲求不満にあるということは、わなに捕えられているようなものである。我々が欲求不満になるのは、やっている事あるいはやりたい事がどれも到達しない時、それらが妨げられて挫折され、くじけられ、打ちのめされる時。欲求不満であるのは、我々の目標に到達することが出来ないという意味である。我々が何かをしたい時にそれが何も出来ない時に、欲求不満がやって来る。しかし多くの場合、我々のベストを尽くしたにもかかわらずにやって来る。 欲求不満はより悪くなるものだ。あなたは、あなたの制御を超えた全体的な事によって、自分が欲求不満になったことを知るかもしれない。 全てのものに対する時間の考えはラビたちの考えとはまさに違う。それはもっと以前に起こっている。聖書「コヘレトの言葉( Ecclesiastes)」で、我々は最も詩的な形でそれ見ることができる。 何事にも季節があり、 天でない世界の事態に すべて定められた時がある。 生まれる時、死ぬ時 植える時、植えたものを抜く時 殺す時、癒す時 破壊する時、建てる時、 泣く時、笑う時 嘆く時、踊る時 石を放つ時、石を集める時 抱擁の時、抱擁を遠ざける時 求める時、失う時 保つ時、放つ時 裂く時、縫う時 黙する時、語る時 愛する時、憎む時 戦いの時、平和の時 ( Ecclesiastes 3:1-8) これは我々の行動の全てに関して持っていなければならない態度である、全てのものには一つの時間があり、各々はその季節にやって来なければならない。 我々はすでに、この態度は我々を助けることが出来るという証拠をもっている、なぜならば我々は自然のうちに忍耐することを学んできているからである。

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投稿日時:2012-06-07 04:35:29.0
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タグ: アヴェ・ヴェルム・コルプス   (お話です)ユダヤ教の   途絶えぬ信仰の根拠について   ミシュナー・タルムード   「アヴォート(Avot)」篇   「勇気の価値」   The   value   of   courage   「忍耐の価値」   The   value   of   patience   について   ◎ユダヤ教の   途絶えぬ信仰の根拠   ユダヤ民族が信仰の地もなく国もない離散の状態で信仰が途絶えることなく存在してきた根拠に   「ユダヤ人と神の契約の履行」が極めて重要でございます。   新バビロニアが崩壊して解放されたユダヤの方々が第二神殿を造りましたが   ユダヤ人と神の契約が不履行になるほど戒律がゆるくなりました。   この時期にエズラが人々に真の信仰の回帰を言い渡して聞かせました。具体的な事実としてのユダヤの方々のバビロニアの捕囚の歴史の史実を示しました。バビロニアの捕囚に苦しんだ根拠がユダヤ教徒と神の契約の不履行だったことであり契約を履行するべきであるということを示しましたが   他国と姻戚を結ぶ高位の階級の組織が反発して人々から冷遇されて追放されました。   他方   総督がネヘミアになり   神殿の城壁を修復して   信仰の回帰を掲げてユダヤ教の基盤をつくりました。   これだけでなく   移り行く時間に対して情勢も推移いたしますからここに   教義を行って聖典の編纂を行い続けて結集(けつじゅう)したものが「タルームード」に全てございます。   これらの   「ユダヤ人と神の契約の履行」と「タルムード」の2つの糸でユダヤ教の歴史の糸を途絶えることなく紡いで(つむいで)ございます。   紀元前   ユダ王国   622年   ヨシア王宗教革命   597年   バビロン補囚   申命記文書   ゼファニヤ書   エレミヤ書   ナホム書   ハバクク書   ヨシュア記   士師記   サムエル記上下   列王記上下   バビロン補囚時代   587年   ユダ王国滅亡   538年   クロス王の解放令   帰還   祭司(P)文書   エゼキエル書   イザヤ書(40年~55年)   詩編・哀歌   ペルシャ支配   515年   第二神殿完成   458年   エズラの改革   445年   ネヘミヤの宗教改革   モーセ五書   創世記   出エジプト記   レビ記   民数記   申命記   ◎「勇気の価値」   The   value   of   courage   我々が学んできた価値(value)の幾つかを一緒に置くならば   それらは我々を一つの興味深い質問に導く。我々の各々は神のイメージで創造されている   我々の各々の中に   利己主義に向かった我々の衝動「Yetzer   Hara」と神聖に向かった我々の衝動「Yetzer   Tov」との間に葛藤がある   我々の各々は自由な意思を与えられているこのように   我々は教えられている。Judaismは   宗教的な知覚を発展させ   そして勉強を通して証拠を集める訓練をする助けとなるこのことを   我々は知っている。   それでは   なぜ我々は完全であることを要求されていないのか   ◎「忍耐の価値」   The   value   of   patience   あなたは   人々が「欲求不満」になっている   と言うのをおそらく聞いたことがあるでしょう。心の病気の一つとして欲求不満の話を聞いたことがあるかもしれない。今日の米国で   欲求不満は最も共通な心の病気の現われである   と心理学者たちは信じている。欲求不満にあるということは   わなに捕えられているようなものである。我々が欲求不満になるのは   やっている事あるいはやりたい事がどれも到達しない時   それらが妨げられて挫折され   くじけられ   打ちのめされる時。欲求不満であるのは   我々の目標に到達することが出来ないという意味である。我々が何かをしたい時にそれが何も出来ない時に   欲求不満がやって来る。しかし多くの場合   我々のベストを尽くしたにもかかわらずにやって来る。例えば   あなたは幾つかのあるいはほとんどのテーマでさえうまく行くが   しかしある一つのテーマには絶えず失敗している   と生物学者は言っている。あなたは挑戦し挑戦する   あなたは生活援助システムの定義とリストを記憶したとしも   しかし学年試験が公示され再び失敗したことを知る。そしてあなたは欲求不満になる。   欲求不満はより悪くなるものだ。あなたは   あなたの制御を超えた全体的な事によって   自分が欲求不満になったことを知るかもしれない。   全てのものに対する時間の考えはラビたちの考えとはまさに違う。それはもっと以前に起こっている。聖書「コヘレトの言葉(   Ecclesiastes)」で   我々は最も詩的な形でそれ見ることができる。   何事にも季節があり   天でない世界の事態に   すべて定められた時がある。   生まれる時   死ぬ時   植える時   植えたものを抜く時   殺す時   癒す時   破壊する時   建てる時   泣く時   笑う時   嘆く時   踊る時   石を放つ時   石を集める時   抱擁の時   抱擁を遠ざける時   求める時   失う時   保つ時   放つ時   裂く時   縫う時   黙する時   語る時   愛する時   憎む時   戦いの時   平和の時   (   Ecclesiastes   3:1-8)   これは我々の行動の全てに関して持っていなければならない態度である   全てのものには一つの時間があり   各々はその季節にやって来なければならない。   我々はすでに   この態度は我々を助けることが出来るという証拠をもっている   なぜならば我々は自然のうちに忍耐することを学んできているからである。   我々は   夏にりんごが熟すとか秋にももが熟すことを期待してはいない。農夫は種を蒔く時   雨の時   成長する時   そして収穫の時を忍耐強く待つ。我々は雪の季節   そして暑さの季節を期待することを学ぶ。  

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アヴェ・ヴェルム・コルプス(お話です)「ユダヤ教の途絶えぬ信仰」「ミシュナータルムードアヴォート」「勇気の価値」「忍耐の価値」

アヴェ・ヴェルム・コルプス (お話です) ユダヤ教の 途絶えぬ信仰の根拠について ミシュナー・タルムード 「アヴォート(Avot)」篇 「勇気の価値」 The value of courage 「忍耐の価値」 The value of patience について ◎ユダヤ教の 途絶えぬ信仰の根拠 ユダヤ民族が信仰の地もなく国もない離散の状態で信仰が途絶えることなく存在してきた根拠に、「ユダヤ人と神の契約の履行」が極めて重要でございます。 新バビロニアが崩壊して解放されたユダヤの方々が第二神殿を造りましたが ユダヤ人と神の契約が不履行になるほど戒律がゆるくなりました。 この時期にエズラが人々に真の信仰の回帰を言い渡して聞かせました。具体的な事実としてのユダヤの方々のバビロニアの捕囚の歴史の史実を示しました。バビロニアの捕囚に苦しんだ根拠がユダヤ教徒と神の契約の不履行だったことであり契約を履行するべきであるということを示しましたが、他国と姻戚を結ぶ高位の階級の組織が反発して人々から冷遇されて追放されました。 他方、総督がネヘミアになり、神殿の城壁を修復して、信仰の回帰を掲げてユダヤ教の基盤をつくりました。 これだけでなく、移り行く時間に対して情勢も推移いたしますからここに、教義を行って聖典の編纂を行い続けて結集(けつじゅう)したものが「タルームード」に全てございます。 これらの、「ユダヤ人と神の契約の履行」と「タルムード」の2つの糸でユダヤ教の歴史の糸を途絶えることなく紡いで(つむいで)ございます。 ◎「勇気の価値」 The value of courage 我々が学んできた価値(value)の幾つかを一緒に置くならば、それらは我々を一つの興味深い質問に導く。我々の各々は神のイメージで創造されている、我々の各々の中に、利己主義に向かった我々の衝動「Yetzer Hara」と神聖に向かった我々の衝動「Yetzer Tov」との間に葛藤がある、 我々の各々は自由な意思を与えられているこのように、我々は教えられている。Judaismは、宗教的な知覚を発展させ、そして勉強を通して証拠を集める訓練をする助けとなるこのことを、我々は知っている。 それでは、なぜ我々は完全であることを要求されていないのか ◎「忍耐の価値」 The value of patience あなたは、人々が「欲求不満」になっている、と言うのをおそらく聞いたことがあるでしょう。心の病気の一つとして欲求不満の話を聞いたことがあるかもしれない。今日の米国で、欲求不満は最も共通な心の病気の現われである、と心理学者たちは信じている。欲求不満にあるということは、わなに捕えられているようなものである。我々が欲求不満になるのは、やっている事あるいはやりたい事がどれも到達しない時、それらが妨げられて挫折され、くじけられ、打ちのめされる時。欲求不満であるのは、我々の目標に到達することが出来ないという意味である。我々が何かをしたい時にそれが何も出来ない時に、欲求不満がやって来る。しかし多くの場合、我々のベストを尽くしたにもかかわらずにやって来る。 欲求不満はより悪くなるものだ。あなたは、あなたの制御を超えた全体的な事によって、自分が欲求不満になったことを知るかもしれない。 全てのものに対する時間の考えはラビたちの考えとはまさに違う。それはもっと以前に起こっている。聖書「コヘレトの言葉( Ecclesiastes)」で、我々は最も詩的な形でそれ見ることができる。 何事にも季節があり、 天でない世界の事態に すべて定められた時がある。 生まれる時、死ぬ時 植える時、植えたものを抜く時 殺す時、癒す時 破壊する時、建てる時、 泣く時、笑う時 嘆く時、踊る時 石を放つ時、石を集める時 抱擁の時、抱擁を遠ざける時 求める時、失う時 保つ時、放つ時 裂く時、縫う時 黙する時、語る時 愛する時、憎む時 戦いの時、平和の時 ( Ecclesiastes 3:1-8) これは我々の行動の全てに関して持っていなければならない態度である、全てのものには一つの時間があり、各々はその季節にやって来なければならない。 我々はすでに、この態度は我々を助けることが出来るという証拠をもっている、なぜならば我々は自然のうちに忍耐することを学んできているからである。

投稿者:サイト名 有馬徳彦
投稿日時:2012-06-06 19:17:05.0
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タグ: アヴェ・ヴェルム・コルプス   (お話です)ユダヤ教の   途絶えぬ信仰の根拠について   ミシュナー・タルムード   「アヴォート(Avot)」篇   「勇気の価値」   The   value   of   courage   「忍耐の価値」   The   value   of   patience   について   ◎ユダヤ教の   途絶えぬ信仰の根拠   ユダヤ民族が信仰の地もなく国もない離散の状態で信仰が途絶えることなく存在してきた根拠に   「ユダヤ人と神の契約の履行」が極めて重要でございます。   新バビロニアが崩壊して解放されたユダヤの方々が第二神殿を造りましたが   ユダヤ人と神の契約が不履行になるほど戒律がゆるくなりました。   この時期にエズラが人々に真の信仰の回帰を言い渡して聞かせました。具体的な事実としてのユダヤの方々のバビロニアの捕囚の歴史の史実を示しました。バビロニアの捕囚に苦しんだ根拠がユダヤ教徒と神の契約の不履行だったことであり契約を履行するべきであるということを示しましたが   他国と姻戚を結ぶ高位の階級の組織が反発して人々から冷遇されて追放されました。   他方   総督がネヘミアになり   神殿の城壁を修復して   信仰の回帰を掲げてユダヤ教の基盤をつくりました。   これだけでなく   移り行く時間に対して情勢も推移いたしますからここに   教義を行って聖典の編纂を行い続けて結集(けつじゅう)したものが「タルームード」に全てございます。   これらの   「ユダヤ人と神の契約の履行」と「タルムード」の2つの糸でユダヤ教の歴史の糸を途絶えることなく紡いで(つむいで)ございます。   紀元前   ユダ王国   622年   ヨシア王宗教革命   597年   バビロン補囚   申命記文書   ゼファニヤ書   エレミヤ書   ナホム書   ハバクク書   ヨシュア記   士師記   サムエル記上下   列王記上下   バビロン補囚時代   587年   ユダ王国滅亡   538年   クロス王の解放令   帰還   祭司(P)文書   エゼキエル書   イザヤ書(40年~55年)   詩編・哀歌   ペルシャ支配   515年   第二神殿完成   458年   エズラの改革   445年   ネヘミヤの宗教改革   モーセ五書   創世記   出エジプト記   レビ記   民数記   申命記   ◎「勇気の価値」   The   value   of   courage   我々が学んできた価値(value)の幾つかを一緒に置くならば   それらは我々を一つの興味深い質問に導く。我々の各々は神のイメージで創造されている   我々の各々の中に   利己主義に向かった我々の衝動「Yetzer   Hara」と神聖に向かった我々の衝動「Yetzer   Tov」との間に葛藤がある   我々の各々は自由な意思を与えられているこのように   我々は教えられている。Judaismは   宗教的な知覚を発展させ   そして勉強を通して証拠を集める訓練をする助けとなるこのことを   我々は知っている。   それでは   なぜ我々は完全であることを要求されていないのか   ◎「忍耐の価値」   The   value   of   patience   あなたは   人々が「欲求不満」になっている   と言うのをおそらく聞いたことがあるでしょう。心の病気の一つとして欲求不満の話を聞いたことがあるかもしれない。今日の米国で   欲求不満は最も共通な心の病気の現われである   と心理学者たちは信じている。欲求不満にあるということは   わなに捕えられているようなものである。我々が欲求不満になるのは   やっている事あるいはやりたい事がどれも到達しない時   それらが妨げられて挫折され   くじけられ   打ちのめされる時。欲求不満であるのは   我々の目標に到達することが出来ないという意味である。我々が何かをしたい時にそれが何も出来ない時に   欲求不満がやって来る。しかし多くの場合   我々のベストを尽くしたにもかかわらずにやって来る。例えば   あなたは幾つかのあるいはほとんどのテーマでさえうまく行くが   しかしある一つのテーマには絶えず失敗している   と生物学者は言っている。あなたは挑戦し挑戦する   あなたは生活援助システムの定義とリストを記憶したとしも   しかし学年試験が公示され再び失敗したことを知る。そしてあなたは欲求不満になる。   欲求不満はより悪くなるものだ。あなたは   あなたの制御を超えた全体的な事によって   自分が欲求不満になったことを知るかもしれない。   全てのものに対する時間の考えはラビたちの考えとはまさに違う。それはもっと以前に起こっている。聖書「コヘレトの言葉(   Ecclesiastes)」で   我々は最も詩的な形でそれ見ることができる。   何事にも季節があり   天でない世界の事態に   すべて定められた時がある。   生まれる時   死ぬ時   植える時   植えたものを抜く時   殺す時   癒す時   破壊する時   建てる時   泣く時   笑う時   嘆く時   踊る時   石を放つ時   石を集める時   抱擁の時   抱擁を遠ざける時   求める時   失う時   保つ時   放つ時   裂く時   縫う時   黙する時   語る時   愛する時   憎む時   戦いの時   平和の時   (   Ecclesiastes   3:1-8)   これは我々の行動の全てに関して持っていなければならない態度である   全てのものには一つの時間があり   各々はその季節にやって来なければならない。   我々はすでに   この態度は我々を助けることが出来るという証拠をもっている   なぜならば我々は自然のうちに忍耐することを学んできているからである。   我々は   夏にりんごが熟すとか秋にももが熟すことを期待してはいない。農夫は種を蒔く時   雨の時   成長する時   そして収穫の時を忍耐強く待つ。我々は雪の季節   そして暑さの季節を期待することを学ぶ。  

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アヴェ・ヴェルム・コルプス(お話です) 2 ユダヤ教徒とイスラム教とクルアーンの第17章イスラエル(メッカ啓年)について

アヴェ・ヴェルム・コルプス (お話です) 2  ユダヤ教についてとイスラエルの歴史についてとキリスト教とユダヤ教の歴史について タルムード ユダヤ教の聖典は『旧約聖書』ですが、冒頭の5書、「創世記」「出エジプト記」「レビ記」「民数記」「申命記」は特に重要とされ「モーセ五書」または「トーラー」(律法)と呼ばれます。さらに、モーセが神から授けられた法で、成文におこされずに口伝で伝えられたものがあり、この口伝は3世紀頃に文書におこされ「ミシュナー」と呼ばています。このミシュナーと、ミシュナーをラビが解釈した「ゲマラ」から作成された日常生活の規範と、時代時代に対応した生きざまを記したものがタルムードです。  タルムードは、6部構成、63編から成る文書群で、現代のユダヤ教の主要教派のほとんどが聖典として認めており、ユダヤ教徒の生活、信仰の基となっているといわるものです。 ■ ユダヤ王は真の世界の法王、世界にまたがる教会の総大司教となる。だが、一方で、われわれが青年層を過渡期の新しい伝統の宗教に、後にはわれわれの宗教で再教育する間、われわれは明らさまには既存の教会には指一本触れないけれども、教会内部の軋轢を目ざし批判を加えて宗教人と闘う。その場合、一般的には、われわれの現代社会はゴイムの国家問題、宗教、ゴイムの無能さを断罪し続けるが、常に、わが民天与の才能を振い、あらゆる手段を駆使してかれらの威信を剥奪すべく、罵詈雑言を浴びせ百方中傷する。<十七> ■ 重ねて述べるが、臣民は自分たちとは絶対的にかけ離れた力強い手に対しては、盲目的に服従する。彼らはそこに自分たちを襲う社会的な鞭から守ってくれる防御の剣を感じて支持するのである……彼らは王者に天使の心を期待するのか? 彼らが王者に見たいのは力、力、力の権化なのである。<二十三> ■ ダヴィデ王の子孫のうちの数人が、相続権ではなく優れた資質を基準にして王と後継者を選定する。その人々には、政治の最高機密と政府の仕組とが伝授されるが、常に何びとにも極秘の知恵が漏れないように留意する。この方式の真意は、このような秘義を授けられたことがない者には、政府を委すことはできないということを徹底させることにある。これらの人々にのみ、何世紀にもわたる諸経験と比較しつつ、私がこれまでに述べたような計画の実際化や、政治経済運動や社会科学研究の全成果-一言で言えば、人間関係を律する動かしがたい天然法則の大真理-が伝授される。<二十四> ■ たとえ残忍であったとしても無条件に断固たる人物にのみ、われらの賢人長老たちから支配統治の手綱を渡されるのである。……通常の時間における王の行動計画と将来に関することはすべて、最も親しい助言者たちにも知らされない。王と三人の顧問のみが、将来の計画を知っている。断乎とした意志で自分と人類を律する王の人柄には、万人が神秘の宿命を認めるのである。何びとも王が何を行おうとしているのかを知らぬので、あえて知らぬ小路を遮ろうとする者はいない。王の頭の中には実行すべき政府計画を理解するに足りる知恵が貯えられていなければならない。王位に就く前に、前に述べた賢人長老たちが試験を行うのは、そのためである。<二十四> ■ ユダヤ王は自分の感情、とりわけ情欲のとりこになってはならない。王は自分の人格のどの一面でも、荒々しい本能に精神をしのがせることがあってはならぬ。情欲はいかなる精神的な欠点よりも、明晰に見る力を殺ぎ、思考を人間の性質中最悪の獣的なものに落とし込む。ダヴィデの聖なる子孫である全世界統治王その人は、人類の支柱であり、人民のためにはいかなる個人的希望をも犠牲にしなければならない。われらが至高の王は完全無欠の権化でなければならない。<二十四> ■ あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。(申命記、七章六) ■ 主はあなたの意のままにあしらわせ、あなたが彼らを撃つときは、彼らを必ず滅ぼし尽くさねばならない。彼らと協定を結んではならず、彼らを憐れんではならない。 (申命記、七章二)。 ■ 世界はただイスラエル人の為にのみ創造されたるなり。イスラエル人は実にして、他の民は空なる殻皮のみ。従ってイスラエルの他に民族なし。彼らはことごとく空皮に過ぎざればなり。<イェシャヤ法師> ■ 神言い給う、我は我が予言者を畜獣に過ぎざる偶像崇拜の徒の為に遣わしたるにあらず。人間なるイスラエル人の為に遣わしたるなり。(ミトラシュ・コヘレート) ■ 人間の獣に優れる如く、ユダヤ人は他の諸民族に優れるものなり。<アブラハム・ゼバ法師>

投稿者:サイト名 有馬徳彦
投稿日時:2012-05-31 12:43:35.0
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タグ: アヴェ・ヴェルム・コルプス   (お話です)   2   ユダヤ教についてと   イスラエルの歴史についてと   キリスト教とユダヤ教の歴史について   タルムード   ユダヤ教の聖典は『旧約聖書』ですが   冒頭の5書   「創世記」「出エジプト記」「レビ記」「民数記」「申命記」は特に重要とされ「モーセ五書」または「トーラー」(律法)と呼ばれます。さらに   モーセが神から授けられた法で   成文におこされずに口伝で伝えられたものがあり   この口伝は3世紀頃に文書におこされ「ミシュナー」と呼ばています。このミシュナーと   ミシュナーをラビが解釈した「ゲマラ」から作成された日常生活の規範と   時代時代に対応した生きざまを記したものがタルムードです。   タルムードは   6部構成   63編から成る文書群で   現代のユダヤ教の主要教派のほとんどが聖典として認めており   ユダヤ教徒の生活   信仰の基となっているといわるものです。     ユダヤ王は真の世界の法王   世界にまたがる教会の総大司教となる。だが   一方で   われわれが青年層を過渡期の新しい伝統の宗教に   後にはわれわれの宗教で再教育する間   われわれは明らさまには既存の教会には指一本触れないけれども   教会内部の軋轢を目ざし批判を加えて宗教人と闘う。その場合   一般的には   われわれの現代社会はゴイムの国家問題   宗教   ゴイムの無能さを断罪し続けるが   常に   わが民天与の才能を振い   あらゆる手段を駆使してかれらの威信を剥奪すべく   罵詈雑言を浴びせ百方中傷する。<十七>     重ねて述べるが   臣民は自分たちとは絶対的にかけ離れた力強い手に対しては   盲目的に服従する。彼らはそこに自分たちを襲う社会的な鞭から守ってくれる防御の剣を感じて支持するのである……彼らは王者に天使の心を期待するのか?   彼らが王者に見たいのは力     力の権化なのである。<二十三>     ダヴィデ王の子孫のうちの数人が   相続権ではなく優れた資質を基準にして王と後継者を選定する。その人々には   政治の最高機密と政府の仕組とが伝授されるが   常に何びとにも極秘の知恵が漏れないように留意する。この方式の真意は   このような秘義を授けられたことがない者には   政府を委すことはできないということを徹底させることにある。これらの人々にのみ   何世紀にもわたる諸経験と比較しつつ   私がこれまでに述べたような計画の実際化や   政治経済運動や社会科学研究の全成果-一言で言えば   人間関係を律する動かしがたい天然法則の大真理-が伝授される。<二十四>     たとえ残忍であったとしても無条件に断固たる人物にのみ   われらの賢人長老たちから支配統治の手綱を渡されるのである。……通常の時間における王の行動計画と将来に関することはすべて   最も親しい助言者たちにも知らされない。王と三人の顧問のみが   将来の計画を知っている。断乎とした意志で自分と人類を律する王の人柄には   万人が神秘の宿命を認めるのである。何びとも王が何を行おうとしているのかを知らぬので   あえて知らぬ小路を遮ろうとする者はいない。王の頭の中には実行すべき政府計画を理解するに足りる知恵が貯えられていなければならない。王位に就く前に   前に述べた賢人長老たちが試験を行うのは   そのためである。<二十四>     ユダヤ王は自分の感情   とりわけ情欲のとりこになってはならない。王は自分の人格のどの一面でも   荒々しい本能に精神をしのがせることがあってはならぬ。情欲はいかなる精神的な欠点よりも   明晰に見る力を殺ぎ   思考を人間の性質中最悪の獣的なものに落とし込む。ダヴィデの聖なる子孫である全世界統治王その人は   人類の支柱であり   人民のためにはいかなる個人的希望をも犠牲にしなければならない。われらが至高の王は完全無欠の権化でなければならない。<二十四>     あなたは   あなたの神   主の聖なる民である。あなたの神   主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び   御自分の宝の民とされた。(申命記   七章六)     主はあなたの意のままにあしらわせ   あなたが彼らを撃つときは   彼らを必ず滅ぼし尽くさねばならない。彼らと協定を結んではならず   彼らを憐れんではならない。   (申命記   七章二)。     世界はただイスラエル人の為にのみ創造されたるなり。イスラエル人は実にして   他の民は空なる殻皮のみ。従ってイスラエルの他に民族なし。彼らはことごとく空皮に過ぎざればなり。<イェシャヤ法師>     神言い給う   我は我が予言者を畜獣に過ぎざる偶像崇拜の徒の為に遣わしたるにあらず。人間なるイスラエル人の為に遣わしたるなり。(ミトラシュ・コヘレート)     人間の獣に優れる如く   ユダヤ人は他の諸民族に優れるものなり。<アブラハム・ゼバ法師>     もしイスラエル人無かりせば   この世に幸福なかりしならん。これ申命記二八の八に記されたる如し。またイスラエル人無かりせば   天の諸星も昇らざるべし。これエレミヤ記三三の三五に記されたる如し。また地の上に雨の降る事なかるべし。これ申命記二八の一二に記されたる如し。<シメオン・ハダルサン法師>     選ばれたる民のみ永遠の生命を受くるにふさわしく   他の国人はロバに等し。<アバルバネル法師>     「汝は主なる汝の神が汝に与え給いしすべての民を喰い尽くさん」との文句(申命記七ノ十六)は   今は亡き吾等の教法師達により次の如く解せられたり。すなわち   すべての民を喰い尽くし   すべての民より掠奪することは   彼らすべてが吾等の権力下に置かれる時に始まるべし   と。<ベハイ法師>     神はユダヤ人にすべての方法を用い   詐欺   強力   高利貸   窃盗によってキリスト教徒の財産を奪取することを命ずる。(オルディン一   トラクト一   ディスト四)     吾々はタルムードがモーゼの律法書に対して絶対的優越性を有することを認むるものなり。(イスラエル文庫   一八六四年)     律法(聖書)は多少とも重要ではあるが   長老方が聖典に記された言葉は常に重要である。     掟の言葉より法師の言葉を敬え。<アシ法師>     汝知るべし   法師の言葉は予言者の言葉より美し   と。<アシ法師>     教法師の言葉は   生ける神の言葉なり。<ベハイ法師>     教法師の日常の言辞も   誡律同様に重んずべきなり。(ヴェネツィア版ミトラシュ   一五一六年版)     もし法師   汝の右の手を左の手と言ひ   左の手を右の手と言ふとも   彼の言葉に違ふべからず。<アシ法師>     タルムードの決定は   生ける神の言葉である。エホバも天国で問題が起きたときは   現世のラビに意見を聞き給う。(ラビ・メナヘン   第五書の注解)     法師の言葉を嘲る者は   地獄の煮え立つ糞の中にて罰せらるべし。<アシェル法師>     ラビの言葉に背くことはトーラーに背くことよりも   さらに悪い。(ミズナ   サンヘドリン   十の三)。     ラビの言葉を変える者は死罪に処すべきである。(エルビン   二一のb)     トーラを学ぶゴイは死罪に当る者なり。<モシェー・バル・マエモン>     なんじらは人類であるが   世界の他の国民は人類にあらずして獣類である。(ババ・メチア   一四六の六)。     汝等イスラエル人は人間なれど   他の民族は人間に非ず。彼らの魂穢れし霊より出でたればなり。<メナヘム・ベン・シラ法師>     イスラエル人は人間と呼ばる。しかれども偶像礼拝者は汚れし霊より出でしものなれば   豚と呼ばるるなり。<ロイベン法師>     イスラエル人はアダム(人間)と呼ばれん。然れど他の諸族はアダムと呼ばるることなし。<アブラハム・ゼバ法師>     悪魔と世界の諸民族とは   畜獣に数えらるべきなり。<ナフタリ法師>     犬は異邦人より勝れたるものなり。<アシ法師>     聖書に「隣人」と記されたる個処はいづれも非ユダヤ人を含まざるなり。(「シュルハン・アルフ」の注釈書より)     レビ記十九章十一節には   汝は汝の隣人に不法を為すべからず   と記されたり。この文句は   ゴイ(非ユダヤ人)がその中に含まれ居らざる事を明白に示すものなり。     ゴイが住んでいる家を見て   人はこう言った。〝神は傲慢の家を亡ぼすだろう〟。そして家々が亡ぼされたのを見て人は言った。〝復讐の神が顕現されたのだ〟(バビロニアン・タルムード   ベラチョット   五八の六)。     汝殺すなかれ   との掟は   イスラエル人を殺すなかれ   との意なり。ゴイ   ノアの子等   異教徒はイスラエル人にあらず。<モシェー・バル・マエモン>     神はイスラエル人を審くには立ちてなし   尋問も簡単にして速かなり。世の諸民族を審く時は座して   厳格に長々と取調べをなす。<ラバ・バル・ナハマニ法師>     「世界はただイスラエル人のみの為に造られたり。」この文句は極めて明瞭なれど   人々はこれをなおよく熟考し   また味うべきなり。イスラエル人に掟の与えられし時   イスラエル人はその掟によりて種々の美点をことごとく保持せしが   他の民は掟を受入れざりしによりこれらの美点を全く有せざるなり。<アブラハム・ゼバ法師>     イスラエル人は   他のすべての民に対し優越する者なり   他の諸族の中には賢く利き者唯一人も居らざるに   イスラエル人にあっては全部が特に賢く利き人間なり。   <アブラハム・ゼバ法師>     一人のイスラエル人の魂は神の前において他の民族全部の魂より価値多く   また神によって悦ばるるところのものなり。<シェフテル・ホルヴィッツ法師>     ゴイがゴイもしくはユダヤ人を殺した場合は責めを負わねばならぬが   ユダヤ人がゴイを殺すも責めは負わず。(前掲書   Ⅷの五)     悪しき者(非ユダヤ人)を憐むことは   正しき者(ユダヤ人)に相応わしからぬなり。<ゲルソン法師>     ゴイに金を貸す時は必ず高利を以てすべし。<モシェー・バル・マエモン>     拾得物を紛失者に返却すべしとの戒は   ユダヤ人に対してのみ守らるべきものにして   ゴイに対しては然らず。この事に就き亡き吾等の教法師達の言えるあり。即ち   「遺失物とはすべて汝の兄弟の失いしところの物を指すものにして   ゴイの失える物は然らず。その理由は   ゴイは神に属する者に非ずして   地の邪神に属する者なる故なり。故にゴイの失える総べての物は   この世にては再び見付けらるる事なき遺失物にして   その所有者に還るべきにあらず。財宝は唯イスラエル人にふさわしく   他の民はこれに値いせざるものなればなり。これ預言者イザヤ(二六ノ一九)の言えるが如し」と。<ゲルソン法師>     ゴイの耳は不潔である。かれらの浴槽   住居   田園は不潔である。(トセフタ・ミクワト   vの一)     九歳と一日以上のゴイの少年と   三歳と一日以上の少女は   不潔とみなされる。(パーフォコヴィッツ   タルムード   t・v   一一頁)     他民族の有する所有物はすべてユダヤ民族に属すべきものである。ゆえになんらの遠慮なくこれをユダヤ民族の手に収むること差し支えなし。(シュルハンアルクのショッツェン・ハミッバッド三百四十八)     ゴイがゴイまたはユダヤ人を殺した場合には   その責任を負うべきであるが   ユダヤ人がゴイを殺した場合には責任を負うべきものでない。(トセフタ   アブダ・ザラ八の五)     〝盗賊〟という言葉の解釈。ゴイは   ゴイからであろうとユダヤ人からであろうと   盗むこと奪うこと女奴隷を使うことは禁じられる。だがユダヤ人はゴイに禁じられているこれらのすべてのことを為しても禁じられない。(トセフタ   アボダ・ザラ   Ⅷの五)。     すべてのイスラエル人は一定の法式により動物及び動物視されている非ユダヤ人を屠ることを許さる。(シュルハン・アルフ   第二巻智慧の教)     ユダヤ女を求め得る場合には   異邦女の乳を幼児に吸わしむべからず。異邦女の乳は心眼を閉ざし   悪しき性格を形成するが故なり。(シュルハン・アルフ   第二巻智慧の教)     偶像礼拝に帰依せる非ユダヤ人及び賎しき牧人はこれを殺すことを許さず。されど彼らが危険に面しまた死に瀕せりとて彼らを救うことは許されず。例えば彼らの一人水に落ちたる時   報酬ある場合といえども彼を救い上ぐるべからず。また彼らを瀕死の病よりも癒すべからず・・・報酬ある場合といえども。しかれども吾等と彼らの間に敵意の生ずるを防止する為ならば   報酬無き場合にも彼らを救出し   また癒すことを許さる。しかれども偶像を拝む者   罪を犯す者   掟と預言者を否む者は   これを殺すべし。しかして公然と殺すを得ば   その如くなせ。しかするを得ざる場合には   彼らの死を促進せよ。例えば彼らの一人井戸に落ちたる時   その井戸に梯子あらば   これを取去り   直ちに再び持来るべしとの遁辞を用い   かくすることにより落ちたる者の身を救い得べき道を奪うべし。(シュルハン・アルフ   第二巻智慧の教)     非ユダヤ人の証人たるところの証書はすべて無効なり。(シュルハン・アルフ   第三巻正義の楯)     成人せる非ユダヤ人奴隷は   牧者なき家畜の如し。(シュルハン・アルフ   第三巻正義の楯)     すべてゴイは月經時の子にして   根絶さるべきものなり。<ベハイ法師>     キリスト教徒は異教徒なり。<アバルバネル法師>     改宗してユダヤ人となれる者は   同様にユダヤ教に改宗せるその母あるいは伯母と婚姻するも差支えなし。改宗者は新たに生れたる者と見なされ得る故なり。(シュルハン・アルフ   第二巻智慧の教)     二十四項の罪あり。これに触るる者は除名さる。例えば第八項   その地所を非ユダヤ人に売りたる者   第九項   非ユダヤ人法廷においてその隣人(即ちイスラエル人)に対し不当なる証言を為せる者   等。(シュルハン・アルフ   第二巻智慧の教)     非ユダヤ人及び奴隷も証言を為す資格なし。敵・混血児・裏切者・自由思想家・変節者(背教者)   キリスト教の洗礼を受けたる者はゴイ(非ユダヤ人)より更に悪しければ   同じく証言を為すを得ず。(シュルハン・アルフ   第三巻正義の楯)     他の宗教に改宗したる者は   盗賊になりたると等し。(シュルハン・アルフ   第三巻正義の楯)     汝知るべし   イエスの教に従いて迷えるキリスト教諸国民は   その信仰には種々あれども   ことごとく偶像礼拝者なり。故に彼らは偶像礼拝者相応に扱わるべし。これタルムードの説くところなり。<モシェー・バル・マエモン>     決して偶像礼拝者と事を共にするなかれ。また彼らを憫むべからず。その故は   申命記七章二節にその如く記されたればなり。故に非ユダヤ人が生命の危険に瀕するか   あるいは河に溺るるを見るとも   これを救助することは許されず。<モシェー・バル・マエモン>     偽善はこの世においては許さる。すなわち   背神者に対し慇懃になし   彼らを敬い   彼らに向いて「我汝を愛す]と言うもよし。すなわち   必要上止むを得ざる場合   恐怖に駆られたる場合は然り。<ベハイ法師>     すべてこれらの条項(三十箇条のユダヤ信仰箇條)を信ぜざる者は異教徒なり。故にかかる者を憎むは吾等の義務にして   彼を賎しみ   出来得べくんばその亡ぼし   また根絶するは当然の事なり。<アバルバネル法師>     他の諸族はイスラエル人と同じ姿を有すれども   真の人間に比ぶれは模造に過ぎず。彼らは   ダニエル書四の十四・十七に記されたる如く   劣等なる種類の人間なり。これに対しイスラエル人はアダム(人間)なる語の真の意味における高き価値ある人間にして   この故にまた単に人間とも呼ばるるなり。<シメオン・ハダルサン法師>     偶像礼拝者は畜獣と呼ばるべきものにしてただ最広義においてのみ人間と呼ばれ得るに過ぎず。<ロイベン法師>     非ユダヤ人はイスラエル人の財産に対し所有権を有せず。(シュルハン・アルフ   第三巻正義の楯)     ゴイの財産は主なき物品のごとし。(シュルハン・アルーフ   コーゼン・ハミズパット   一一六の五)。     ゴイの土地は荒野のごとし。最初に鍬を入れた者に所有権が帰する。(ババ・バトラ   一四のb)。     ユダヤ人はゴイから奪ってよい。ユダヤ人はゴイから金を騙しとってよい。ゴイは金を持つべきではなく   持てば神の名において不名誉となるだろう。(シュルハン・アルーフ   コーゼン・ハミズパット   三四八)     ノアの息子は小銭たりとも盗めば死罪に処せらるべきであるが   イスラエル人がゴイに損害を負わせることは差支えなし。なんじの隣人を傷つけるなかれとは書いてあるが   ゴイを傷つけるなかれとは書かれていない。(ミズナ   サンヘドリン   五七)。     ゴイの失せ物を見付けた者は自分の所有にしてはならないが   ゴイに返すことは禁じられている。(シュルハン・アルーフ   コーゼン・ハミズパット   二六六の一)。     ユダヤ人はユダヤ同族より利子を取るべからず。唯アクムよりのみこれを取るべし。しかしてかかる取引は使者をしてこれをなさしむべし。使者ならば   かく為しても   罪を犯したるには非ずして   戒律もまた遵守されたるなり。(シュルハン・アルフ   第二巻智慧の教)     タルムードの誡において神は命じて曰く   ゴイに金を貸すには必ず高利を以てすべし   と。これ   彼らが借りたる金により利する事なからんため   かつまた   我らが金銭にて彼らに助力を与うることなく   むしろ損害を与えんがためなり。<モシェー・バル・マエモン>     非ユダヤ人より盗みたる物を用いて女と婚約するは差支えなし。(シュルハン・アルフ   第四巻救いの岩)     ゴイに向って誓いを立てた者は   盗賊であれ税吏であれ   責任を取らなくてよい。(トセフタ・スゼブノット   一一)     結婚   誓約   約束を取り消すには   ユダヤ人はラビの所に行かねばならぬが   ラビが不在の場合は   他のユダヤ人を三人呼び集め   かれらに残念ながら取り消すと言えばよい。そうすると三人は〝なんじは許された〟と言う。(シュルハン・アルーフ     一の二四七)     ゴイにわれらの信教を教える者は   ユダヤ人を殺すに等しい。もしもゴイがわれらの教説を知ったならば   かれらは公然とわれらを殺すだろう。(リブル・デヴィッドの書   三七)     律法の秘密を公にすることは禁ぜられる。これを破る者は全世界を葬るに等しい犯罪である。(ジャクトゥ・ハダズ   一七一の二)     ユダヤ人がラビの書物のどこかを説明してくれと頼まれたなら   ただただ嘘の説明をするべきであり   ほんとうのことを教えてこの指示を裏切る共犯者となってはならない。この律法を破る者は生かしておいてはならない。(リブル・デイヴィド   三七)     ゴイがわれらの書物には何かゴイを害することが書いてあるのではないかと聞いたら   偽りの誓いを立てなければならない。そして   そのようなことは誓って書いてないと言わなければならない。(ザーロット・ウザボット   ジュル・ダの書   一七)     タルムードを学ぶゴイ   それを助けるユダヤ人はことごとく生かしておいてはならない。(サンヘドリン   五九   ア・アボダ・ゾラ   八の六。ザギガ   一三)     神よ   あなたを信ずることなく   その御名を称えざる民どもの上に   あなたの怒りを注がしめ給わんことを。かかる民どもの上にあなたの怒りを下らしめ   あなたの怒りもて屈伏せしめ給え。かの民どもをあなたの怒りもて追い散らし   粉々に打ち砕き給え。おお神よ   かの民どもの骨をすべて抜き取り給え。あなたの民に敵対するものすべてを瞬時に殺傷し給え。これら存在の価値なき民どもを根絶   四散   殱滅し給え。誅殺し給え!   今ただちに誅殺し給え!(プラナイティス   クリスマス・イン・タルムード・ジュデオラム   『シナゴーガ・ジュダイカ』二一二頁   『ミンハギン』二三頁   『クラチ・シャイム』四八〇頁。過越祭の夕の祈りで現在も唱えられているもの)     (新年二日以前のもの)彼ら非ユダヤ人の評議を狂気をもって悩まし   その思想を乱し給え。彼らの君侯を狂気ならしめ   彼らが吾々になしし如く彼らになし給え。(「ユダヤ祈祷集」より)     何者かが三度ユダヤ人を裏切るか   もしくは(ユダヤ人の)金をゴイどもに渡したことが疑いない場合は   賢人会議はその男を放逐しなければならない。     裏切り者を放逐せんがために   何人も共同体に寄付をしなければならない。(前掲書)     涜神者(非ユダヤ人)の血を流す者は   神に生贄を捧ぐるに等しきなり。<シメオン・ハダルサン法師>     自由思想家及びトーラと預言者を否む者を殺すは掟なり。公然と刀剣を以て為し得る時は然かなすべし。もし然か為し得ずば   策計をめぐらして死に至らしむべし。(シュルハン・アルフ   第三巻正義の楯)     トーラーを持たざる者と予言する者とを   すべて殺さなければならない。彼らを殺す力ある者は   剣あれば憚ることなく剣もて殺せ。剣なければ策略もて放逐せよ。(シュルハン・アルーフ   コーゼン・ハミズパット   四二五の五〇)。     キリスト教徒の中最も善き者を絞殺すべし。<アシ法師>   クルアーン   <特大>   第17章   イスラエル   (メッカ啓年)</特大>   慈悲あまねく慈愛深きアッラーの御名において。   17-1.   かれに栄光あれ。そのしもべを   (マッカの)聖なるマスジドから   われが周囲を祝福した至遠の(エルサレムの)マスジドに   夜間   旅をさせた。わが種々の印をかれ(ムハンマド)に示すためである。本当にかれこそは全聴にして全視であられる。   17-2.   われはムーサーに啓典を授け   イスラエルの子孫ヘの導きとさせ(命じ)た。「われの外に守護者を持ってはならない。」   17-3.   われがヌーフと一緒に(方舟で)運んだ者の子孫よ。本当にかれは感謝するしもベであった。   17-4.   またわれは啓典の中で   イスラエルの子孫に対しこう啓示を与えた。「あなたがたは必ず地上で2度悪を犯し   必ず甚だしく高慢に思いあがるであろう。」   17-5.   それで2つの中最初の時(預言)が来た時   われはしもべの中の武勇に富んだ者を   あなたがたに遣わし   かれらは家々の最も奥に入り   約束は成し遂げられた。   17-6.   次いでわれは   あなたがたがかれらに勝利を得るようにし   またあなたがたの財産と子女を増やして多くの人々とした。   17-7.   (そして仰せられた。)「もしあなたがたが善を行うなら   自分の身のために善を行うのであり   また悪を行っても   自分のため(に行うの)である。」それで2番目の時が来た時   あなたがたの顔は曇り   最初の時のように   かれらはマスジドに侵入し   凡てはかれらによって徹底して踏み躙られ壊滅に帰した。   17-8.   或るいは主もあなたがたに情けを与えるであろう。だがあなたがたが(罪を)繰り返すならば   われも(懲罰を)繰り返すであろう。われは不信者のために   地獄を牢獄として設けた。   17-9.   本当にこのクルアーンは   正しい(道への)導きであり   また善い行いをする信者への吉報である。かれらには偉大な報奨が授けられる。   17-10.   また来世を信じない者には   われはかれらのために痛ましい懲罰を準備した。   17-11.   人間の祈りは幸福のためであるべきなのに   かれは災厄のために祈る。凡そ人間はいつも性急である。   17-12.   われは夜と昼の2つの印を設け   夜の印を暗くした。だが昼の印は明るくして   あなたがたに(働いて)主の恩恵を祈らせ   また年数を知り   (暦法を)計算させる。われは凡てのことを詳細に説き明かした。   17-13.   一人ひとりに   われはその運命を首に結び付けた。そして復活の日には   (行いの)記録された一巻が突き付けられ   かれは開いて見る。   17-14.   (かれは仰せられよう。)「あなたがたの記録を読みなさい。今日こそは   あなた自身が自分の清算者である」   17-15.   誰でも導かれる者は   只自分の魂を益するために導かれ   また誰でも迷う者は   只自分を損うために迷う。重荷を負う者は   他人の重荷を負うことは出来ない。われは(警告のため)一人の使徒を遣わさない限り決して懲罰を下さない。   17-16.   われが一つの町を滅ぼそうとする時は   かれらの中で裕福に生活し   そこで罪を犯している者に(先ず)命令を下し   言葉(の真実)がかれらに確認されて   それからわれはそれを徹底的に壊滅する。   17-17.   ヌーフの後   如何に多くの世代を   われは滅ぼしたことであろうか。あなたの主は   そのしもべたちのいろいろな罪を知っておられ   見ておられる方として万全である。   17-18.   誰でも束の間(のこの世の事物)を望む者には   われも急いでかれのために   われの欲する物をわれが望む者に与える。それからかれのために地獄を準備する。かれはそこで焼かれ   恥辱を被り   (慈悲を)拒否されるであろう。   17-19.   しかし誰でも来世を望み   それに向かい精出し努力し   信仰する者   これらの者の努力は嘉納される。   17-20.   われは凡ての者に   これらの者にもまたかれらにも   あなたの主の賜物を広く授ける。あなたの主の賜物には限界はないのである。   17-21.   見なさい。われはある者に   如何に外よりも優れた恩恵を与えるかを。しかし来世では   必ずもっと大きい等級や偉大な特典がある。   17-22.   アッラーと一緒に外の神を立ててはならない。さもないと   あなたがたは軽蔑され見捨てられるであろう。   17-23.   あなたの主は命じられる。かれの外何者をも崇拝してはならない。また両親に孝行しなさい。もし両親かまたそのどちらかが   あなたと一緒にいて老齢に達しても   かれらに「ちえっ」とか荒い言葉を使わず   親切な言葉で話しなさい。   17-24.   そして敬愛の情を込め   両親に対し謙虚に翼を低く垂れ(優しくし)て   「主よ   幼少の頃   わたしを愛育してくれたように   2人の上に御慈悲を御授け下さい。」と(祈りを)言うがいい。   17-25.   主はあなたがたの心の中に抱くことを熟知なされる。もしあなたがたが正しい行いをするならば   かれは悔悟して度々(主に)返る者に対し   本当に寛容である。   17-26.   近親者に   当然与えるべきものは与えなさい。また貧者や旅人にも。だが粗末に浪費してはならない。   17-27.   浪費者は本当に悪魔の兄弟である。悪魔は主に対し恩を忘れる。   17-28.   あなたは主からの慈悲を請い願うために   仮令かれらから遠ざかっていても   あなたはかれらに対し優しく語りなさい。   17-29.   あなたの手を   自分の首に縛り付けてはならない。また限界を越え極端に手を開き   恥辱を被り困窮に陥ってはならない。   17-30.   本当にあなたの主は   御心に適う者への報酬を豊かにされ   また控えられる。かれはそのしもべに関し   本当に全知にして全視であられる。   17-31.   貧困を恐れてあなたがたの子女を殺してはならない。われはかれらとあなたがたのために給養する。かれらを殺すのは   本当に大罪である。   17-32.   私通(の危険)に近付いてはならない。それは醜行である。憎むべき道である。   17-33.   正当な理由による以外は   アッラーが尊いものとされた生命を奪ってはならない。誰でも不当に殺害されたならば   われはその相続者に賠償または報復を求める権利を与える。殺害に関して法を越えさせてはならない。本当にかれは(法によって)救護されているのである。   17-34.   孤児が力量(ある年齢)に達するまでは   最善(の管理)をなすための外   かれの財産に近付いてはならない。約束を果たしなさい。凡ての約束は   (審判の日)尋問されるのである。   17-35.   それからあなたがたが計量する時は   (買い手のために)その量を十分にしなさい。また正しい秤で計りなさい。それは立派であり   その方が結果として最良になる。   17-36.   またあなたは   自分の知識のないことに従ってはならない。本当に聴覚   視覚   また心の働きの凡てが(審判の日において)尋問されるであろう。   17-37.   また横柄に地上を歩いてはならない。あなたがたは大地を裂くことも出来ず   また(背丈が)山の高さにもなれない。   17-38.   これらの凡ては悪事で   あなたの主は   これを憎まれる。   17-39.   これらは   主があなたに啓示された英知である。アッラーと一緒に外の神を立ててはならない。そうでないと恥辱を受け(慈悲を)拒否され地獄に投げ込まれるであろう。   17-40.   (多神教徒よ)主は男児をあなたがたに授け   (御自分は)天使の中から女児を取られたとするのか。本当にあなたがたは由々しき言葉を口にする者である。   17-41.   本当にわれはこのクルアーンで   かれらを戒しめるために繰り返し説いた。しかしそれは   只かれらの(真理からの)離反を加えるだけであった。  

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アヴェ・ヴェルム・コルプス(お話です) 1 ユダヤ教徒とイスラム教とクルアーンの第17章イスラエル(メッカ啓年)について

アヴェ・ヴェルム・コルプス (お話です) 1  ユダヤ教についてと イスラエルの歴史についてと キリスト教とユダヤ教の歴史について タルムード ユダヤ教の聖典は『旧約聖書』ですが、冒頭の5書、「創世記」「出エジプト記」「レビ記」「民数記」「申命記」は特に重要とされ「モーセ五書」または「トーラー」(律法)と呼ばれます。さらに、モーセが神から授けられた法で、成文におこされずに口伝で伝えられたものがあり、この口伝は3世紀頃に文書におこされ「ミシュナー」と呼ばています。このミシュナーと、ミシュナーをラビが解釈した「ゲマラ」から作成された日常生活の規範と、時代時代に対応した生きざまを記したものがタルムードです。  タルムードは、6部構成、63編から成る文書群で、現代のユダヤ教の主要教派のほとんどが聖典として認めており、ユダヤ教徒の生活、信仰の基となっているといわるものです。 ■ ユダヤ王は真の世界の法王、世界にまたがる教会の総大司教となる。だが、一方で、われわれが青年層を過渡期の新しい伝統の宗教に、後にはわれわれの宗教で再教育する間、われわれは明らさまには既存の教会には指一本触れないけれども、教会内部の軋轢を目ざし批判を加えて宗教人と闘う。その場合、一般的には、われわれの現代社会はゴイムの国家問題、宗教、ゴイムの無能さを断罪し続けるが、常に、わが民天与の才能を振い、あらゆる手段を駆使してかれらの威信を剥奪すべく、罵詈雑言を浴びせ百方中傷する。<十七> ■ 重ねて述べるが、臣民は自分たちとは絶対的にかけ離れた力強い手に対しては、盲目的に服従する。彼らはそこに自分たちを襲う社会的な鞭から守ってくれる防御の剣を感じて支持するのである……彼らは王者に天使の心を期待するのか? 彼らが王者に見たいのは力、力、力の権化なのである。<二十三> ■ ダヴィデ王の子孫のうちの数人が、相続権ではなく優れた資質を基準にして王と後継者を選定する。その人々には、政治の最高機密と政府の仕組とが伝授されるが、常に何びとにも極秘の知恵が漏れないように留意する。この方式の真意は、このような秘義を授けられたことがない者には、政府を委すことはできないということを徹底させることにある。これらの人々にのみ、何世紀にもわたる諸経験と比較しつつ、私がこれまでに述べたような計画の実際化や、政治経済運動や社会科学研究の全成果-一言で言えば、人間関係を律する動かしがたい天然法則の大真理-が伝授される。<二十四> ■ たとえ残忍であったとしても無条件に断固たる人物にのみ、われらの賢人長老たちから支配統治の手綱を渡されるのである。……通常の時間における王の行動計画と将来に関することはすべて、最も親しい助言者たちにも知らされない。王と三人の顧問のみが、将来の計画を知っている。断乎とした意志で自分と人類を律する王の人柄には、万人が神秘の宿命を認めるのである。何びとも王が何を行おうとしているのかを知らぬので、あえて知らぬ小路を遮ろうとする者はいない。王の頭の中には実行すべき政府計画を理解するに足りる知恵が貯えられていなければならない。王位に就く前に、前に述べた賢人長老たちが試験を行うのは、そのためである。<二十四> ■ ユダヤ王は自分の感情、とりわけ情欲のとりこになってはならない。王は自分の人格のどの一面でも、荒々しい本能に精神をしのがせることがあってはならぬ。情欲はいかなる精神的な欠点よりも、明晰に見る力を殺ぎ、思考を人間の性質中最悪の獣的なものに落とし込む。ダヴィデの聖なる子孫である全世界統治王その人は、人類の支柱であり、人民のためにはいかなる個人的希望をも犠牲にしなければならない。われらが至高の王は完全無欠の権化でなければならない。<二十四> ■ あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。(申命記、七章六) ■ 主はあなたの意のままにあしらわせ、あなたが彼らを撃つときは、彼らを必ず滅ぼし尽くさねばならない。彼らと協定を結んではならず、彼らを憐れんではならない。 (申命記、七章二)。 ■ 世界はただイスラエル人の為にのみ創造されたるなり。イスラエル人は実にして、他の民は空なる殻皮のみ。従ってイスラエルの他に民族なし。彼らはことごとく空皮に過ぎざればなり。<イェシャヤ法師> ■ 神言い給う、我は我が予言者を畜獣に過ぎざる偶像崇拜の徒の為に遣わしたるにあらず。人間なるイスラエル人の為に遣わしたるなり。(ミトラシュ・コヘレート) ■ 人間の獣に優れる如く、ユダヤ人は他の諸民族に優れるものなり。<アブラハム・ゼバ法師>

投稿者:サイト名 有馬徳彦
投稿日時:2012-05-30 19:34:14.0
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タグ: アヴェ・ヴェルム・コルプス   (お話です)   1   ユダヤ教についてと   イスラエルの歴史についてと   キリスト教とユダヤ教の歴史について   タルムード   ユダヤ教の聖典は『旧約聖書』ですが   冒頭の5書   「創世記」「出エジプト記」「レビ記」「民数記」「申命記」は特に重要とされ「モーセ五書」または「トーラー」(律法)と呼ばれます。さらに   モーセが神から授けられた法で   成文におこされずに口伝で伝えられたものがあり   この口伝は3世紀頃に文書化され「ミシュナー」と呼ばています。このミシュナーと   ミシュナーをラビが解釈した「ゲマラ」から作成された日常生活の規範と   時代時代に対応した生きざまを記したものがタルムードです。   タルムードは   6部構成   63編から成る文書群で   現代のユダヤ教の主要教派のほとんどが聖典として認めており   ユダヤ教徒の生活   信仰の基となっているといわるものです。     ユダヤ王は真の世界の法王   世界にまたがる教会の総大司教となる。だが   一方で   われわれが青年層を過渡期の新しい伝統の宗教に   後にはわれわれの宗教で再教育する間   われわれは明らさまには既存の教会には指一本触れないけれども   教会内部の軋轢を目ざし批判を加えて宗教人と闘う。その場合   一般的には   われわれの現代社会はゴイムの国家問題   宗教   ゴイムの無能さを断罪し続けるが   常に   わが民天与の才能を振い   あらゆる手段を駆使してかれらの威信を剥奪すべく   罵詈雑言を浴びせ百方中傷する。<十七>     重ねて述べるが   臣民は自分たちとは絶対的にかけ離れた力強い手に対しては   盲目的に服従する。彼らはそこに自分たちを襲う社会的な鞭から守ってくれる防御の剣を感じて支持するのである……彼らは王者に天使の心を期待するのか?   彼らが王者に見たいのは力     力の権化なのである。<二十三>     ダヴィデ王の子孫のうちの数人が   相続権ではなく優れた資質を基準にして王と後継者を選定する。その人々には   政治の最高機密と政府の仕組とが伝授されるが   常に何びとにも極秘の知恵が漏れないように留意する。この方式の真意は   このような秘義を授けられたことがない者には   政府を委すことはできないということを徹底させることにある。これらの人々にのみ   何世紀にもわたる諸経験と比較しつつ   私がこれまでに述べたような計画の実際化や   政治経済運動や社会科学研究の全成果-一言で言えば   人間関係を律する動かしがたい天然法則の大真理-が伝授される。<二十四>     たとえ残忍であったとしても無条件に断固たる人物にのみ   われらの賢人長老たちから支配統治の手綱を渡されるのである。……通常の時間における王の行動計画と将来に関することはすべて   最も親しい助言者たちにも知らされない。王と三人の顧問のみが   将来の計画を知っている。断乎とした意志で自分と人類を律する王の人柄には   万人が神秘の宿命を認めるのである。何びとも王が何を行おうとしているのかを知らぬので   あえて知らぬ小路を遮ろうとする者はいない。王の頭の中には実行すべき政府計画を理解するに足りる知恵が貯えられていなければならない。王位に就く前に   前に述べた賢人長老たちが試験を行うのは   そのためである。<二十四>     ユダヤ王は自分の感情   とりわけ情欲のとりこになってはならない。王は自分の人格のどの一面でも   荒々しい本能に精神をしのがせることがあってはならぬ。情欲はいかなる精神的な欠点よりも   明晰に見る力を殺ぎ   思考を人間の性質中最悪の獣的なものに落とし込む。ダヴィデの聖なる子孫である全世界統治王その人は   人類の支柱であり   人民のためにはいかなる個人的希望をも犠牲にしなければならない。われらが至高の王は完全無欠の権化でなければならない。<二十四>     あなたは   あなたの神   主の聖なる民である。あなたの神   主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び   御自分の宝の民とされた。(申命記   七章六)     主はあなたの意のままにあしらわせ   あなたが彼らを撃つときは   彼らを必ず滅ぼし尽くさねばならない。彼らと協定を結んではならず   彼らを憐れんではならない。   (申命記   七章二)。     世界はただイスラエル人の為にのみ創造されたるなり。イスラエル人は実にして   他の民は空なる殻皮のみ。従ってイスラエルの他に民族なし。彼らはことごとく空皮に過ぎざればなり。<イェシャヤ法師>     神言い給う   我は我が予言者を畜獣に過ぎざる偶像崇拜の徒の為に遣わしたるにあらず。人間なるイスラエル人の為に遣わしたるなり。(ミトラシュ・コヘレート)     人間の獣に優れる如く   ユダヤ人は他の諸民族に優れるものなり。<アブラハム・ゼバ法師>     もしイスラエル人無かりせば   この世に幸福なかりしならん。これ申命記二八の八に記されたる如し。またイスラエル人無かりせば   天の諸星も昇らざるべし。これエレミヤ記三三の三五に記されたる如し。また地の上に雨の降る事なかるべし。これ申命記二八の一二に記されたる如し。<シメオン・ハダルサン法師>     選ばれたる民のみ永遠の生命を受くるにふさわしく   他の国人はロバに等し。<アバルバネル法師>     「汝は主なる汝の神が汝に与え給いしすべての民を喰い尽くさん」との文句(申命記七ノ十六)は   今は亡き吾等の教法師達により次の如く解せられたり。すなわち   すべての民を喰い尽くし   すべての民より掠奪することは   彼らすべてが吾等の権力下に置かれる時に始まるべし   と。<ベハイ法師>     神はユダヤ人にすべての方法を用い   詐欺   強力   高利貸   窃盗によってキリスト教徒の財産を奪取することを命ずる。(オルディン一   トラクト一   ディスト四)     吾々はタルムードがモーゼの律法書に対して絶対的優越性を有することを認むるものなり。(イスラエル文庫   一八六四年)     律法(聖書)は多少とも重要ではあるが   長老方が聖典に記された言葉は常に重要である。     掟の言葉より法師の言葉を敬え。<アシ法師>     汝知るべし   法師の言葉は予言者の言葉より美し   と。<アシ法師>     教法師の言葉は   生ける神の言葉なり。<ベハイ法師>     教法師の日常の言辞も   誡律同様に重んずべきなり。(ヴェネツィア版ミトラシュ   一五一六年版)     もし法師   汝の右の手を左の手と言ひ   左の手を右の手と言ふとも   彼の言葉に違ふべからず。<アシ法師>     タルムードの決定は   生ける神の言葉である。エホバも天国で問題が起きたときは   現世のラビに意見を聞き給う。(ラビ・メナヘン   第五書の注解)     法師の言葉を嘲る者は   地獄の煮え立つ糞の中にて罰せらるべし。<アシェル法師>     ラビの言葉に背くことはトーラーに背くことよりも   さらに悪い。(ミズナ   サンヘドリン   十の三)。     ラビの言葉を変える者は死罪に処すべきである。(エルビン   二一のb)     トーラを学ぶゴイは死罪に当る者なり。<モシェー・バル・マエモン>     なんじらは人類であるが   世界の他の国民は人類にあらずして獣類である。(ババ・メチア   一四六の六)。     汝等イスラエル人は人間なれど   他の民族は人間に非ず。彼らの魂穢れし霊より出でたればなり。<メナヘム・ベン・シラ法師>     イスラエル人は人間と呼ばる。しかれども偶像礼拝者は汚れし霊より出でしものなれば   豚と呼ばるるなり。<ロイベン法師>     イスラエル人はアダム(人間)と呼ばれん。然れど他の諸族はアダムと呼ばるることなし。<アブラハム・ゼバ法師>     悪魔と世界の諸民族とは   畜獣に数えらるべきなり。<ナフタリ法師>     犬は異邦人より勝れたるものなり。<アシ法師>     聖書に「隣人」と記されたる個処はいづれも非ユダヤ人を含まざるなり。(「シュルハン・アルフ」の注釈書より)     レビ記十九章十一節には   汝は汝の隣人に不法を為すべからず   と記されたり。この文句は   ゴイ(非ユダヤ人)がその中に含まれ居らざる事を明白に示すものなり。     ゴイが住んでいる家を見て   人はこう言った。〝神は傲慢の家を亡ぼすだろう〟。そして家々が亡ぼされたのを見て人は言った。〝復讐の神が顕現されたのだ〟(バビロニアン・タルムード   ベラチョット   五八の六)。     汝殺すなかれ   との掟は   イスラエル人を殺すなかれ   との意なり。ゴイ   ノアの子等   異教徒はイスラエル人にあらず。<モシェー・バル・マエモン>     神はイスラエル人を審くには立ちてなし   尋問も簡単にして速かなり。世の諸民族を審く時は座して   厳格に長々と取調べをなす。<ラバ・バル・ナハマニ法師>     「世界はただイスラエル人のみの為に造られたり。」この文句は極めて明瞭なれど   人々はこれをなおよく熟考し   また味うべきなり。イスラエル人に掟の与えられし時   イスラエル人はその掟によりて種々の美点をことごとく保持せしが   他の民は掟を受入れざりしによりこれらの美点を全く有せざるなり。<アブラハム・ゼバ法師>     イスラエル人は   他のすべての民に対し優越する者なり   他の諸族の中には賢く利き者唯一人も居らざるに   イスラエル人にあっては全部が特に賢く利き人間なり。   <アブラハム・ゼバ法師>     一人のイスラエル人の魂は神の前において他の民族全部の魂より価値多く   また神によって悦ばるるところのものなり。<シェフテル・ホルヴィッツ法師>     ゴイがゴイもしくはユダヤ人を殺した場合は責めを負わねばならぬが   ユダヤ人がゴイを殺すも責めは負わず。(前掲書   Ⅷの五)     悪しき者(非ユダヤ人)を憐むことは   正しき者(ユダヤ人)に相応わしからぬなり。<ゲルソン法師>     ゴイに金を貸す時は必ず高利を以てすべし。<モシェー・バル・マエモン>     拾得物を紛失者に返却すべしとの戒は   ユダヤ人に対してのみ守らるべきものにして   ゴイに対しては然らず。この事に就き亡き吾等の教法師達の言えるあり。即ち   「遺失物とはすべて汝の兄弟の失いしところの物を指すものにして   ゴイの失える物は然らず。その理由は   ゴイは神に属する者に非ずして   地の邪神に属する者なる故なり。故にゴイの失える総べての物は   この世にては再び見付けらるる事なき遺失物にして   その所有者に還るべきにあらず。財宝は唯イスラエル人にふさわしく   他の民はこれに値いせざるものなればなり。これ預言者イザヤ(二六ノ一九)の言えるが如し」と。<ゲルソン法師>     ゴイの耳は不潔である。かれらの浴槽   住居   田園は不潔である。(トセフタ・ミクワト   vの一)     九歳と一日以上のゴイの少年と   三歳と一日以上の少女は   不潔とみなされる。(パーフォコヴィッツ   タルムード   t・v   一一頁)     他民族の有する所有物はすべてユダヤ民族に属すべきものである。ゆえになんらの遠慮なくこれをユダヤ民族の手に収むること差し支えなし。(シュルハンアルクのショッツェン・ハミッバッド三百四十八)     ゴイがゴイまたはユダヤ人を殺した場合には   その責任を負うべきであるが   ユダヤ人がゴイを殺した場合には責任を負うべきものでない。(トセフタ   アブダ・ザラ八の五)     〝盗賊〟という言葉の解釈。ゴイは   ゴイからであろうとユダヤ人からであろうと   盗むこと奪うこと女奴隷を使うことは禁じられる。だがユダヤ人はゴイに禁じられているこれらのすべてのことを為しても禁じられない。(トセフタ   アボダ・ザラ   Ⅷの五)。     すべてのイスラエル人は一定の法式により動物及び動物視されている非ユダヤ人を屠ることを許さる。(シュルハン・アルフ   第二巻智慧の教)     ユダヤ女を求め得る場合には   異邦女の乳を幼児に吸わしむべからず。異邦女の乳は心眼を閉ざし   悪しき性格を形成するが故なり。(シュルハン・アルフ   第二巻智慧の教)     偶像礼拝に帰依せる非ユダヤ人及び賎しき牧人はこれを殺すことを許さず。されど彼らが危険に面しまた死に瀕せりとて彼らを救うことは許されず。例えば彼らの一人水に落ちたる時   報酬ある場合といえども彼を救い上ぐるべからず。また彼らを瀕死の病よりも癒すべからず・・・報酬ある場合といえども。しかれども吾等と彼らの間に敵意の生ずるを防止する為ならば   報酬無き場合にも彼らを救出し   また癒すことを許さる。しかれども偶像を拝む者   罪を犯す者   掟と預言者を否む者は   これを殺すべし。しかして公然と殺すを得ば   その如くなせ。しかするを得ざる場合には   彼らの死を促進せよ。例えば彼らの一人井戸に落ちたる時   その井戸に梯子あらば   これを取去り   直ちに再び持来るべしとの遁辞を用い   かくすることにより落ちたる者の身を救い得べき道を奪うべし。(シュルハン・アルフ   第二巻智慧の教)     非ユダヤ人の証人たるところの証書はすべて無効なり。(シュルハン・アルフ   第三巻正義の楯)     成人せる非ユダヤ人奴隷は   牧者なき家畜の如し。(シュルハン・アルフ   第三巻正義の楯)     すべてゴイは月經時の子にして   根絶さるべきものなり。<ベハイ法師>     キリスト教徒は異教徒なり。<アバルバネル法師>     改宗してユダヤ人となれる者は   同様にユダヤ教に改宗せるその母あるいは伯母と婚姻するも差支えなし。改宗者は新たに生れたる者と見なされ得る故なり。(シュルハン・アルフ   第二巻智慧の教)     二十四項の罪あり。これに触るる者は除名さる。例えば第八項   その地所を非ユダヤ人に売りたる者   第九項   非ユダヤ人法廷においてその隣人(即ちイスラエル人)に対し不当なる証言を為せる者   等。(シュルハン・アルフ   第二巻智慧の教)     非ユダヤ人及び奴隷も証言を為す資格なし。敵・混血児・裏切者・自由思想家・変節者(背教者)   キリスト教の洗礼を受けたる者はゴイ(非ユダヤ人)より更に悪しければ   同じく証言を為すを得ず。(シュルハン・アルフ   第三巻正義の楯)     他の宗教に改宗したる者は   盗賊になりたると等し。(シュルハン・アルフ   第三巻正義の楯)     汝知るべし   イエスの教に従いて迷えるキリスト教諸国民は   その信仰には種々あれども   ことごとく偶像礼拝者なり。故に彼らは偶像礼拝者相応に扱わるべし。これタルムードの説くところなり。<モシェー・バル・マエモン>     決して偶像礼拝者と事を共にするなかれ。また彼らを憫むべからず。その故は   申命記七章二節にその如く記されたればなり。故に非ユダヤ人が生命の危険に瀕するか   あるいは河に溺るるを見るとも   これを救助することは許されず。<モシェー・バル・マエモン>     偽善はこの世においては許さる。すなわち   背神者に対し慇懃になし   彼らを敬い   彼らに向いて「我汝を愛す]と言うもよし。すなわち   必要上止むを得ざる場合   恐怖に駆られたる場合は然り。<ベハイ法師>     すべてこれらの条項(三十箇条のユダヤ信仰箇條)を信ぜざる者は異教徒なり。故にかかる者を憎むは吾等の義務にして   彼を賎しみ   出来得べくんばその亡ぼし   また根絶するは当然の事なり。<アバルバネル法師>     他の諸族はイスラエル人と同じ姿を有すれども   真の人間に比ぶれは模造に過ぎず。彼らは   ダニエル書四の十四・十七に記されたる如く   劣等なる種類の人間なり。これに対しイスラエル人はアダム(人間)なる語の真の意味における高き価値ある人間にして   この故にまた単に人間とも呼ばるるなり。<シメオン・ハダルサン法師>     偶像礼拝者は畜獣と呼ばるべきものにしてただ最広義においてのみ人間と呼ばれ得るに過ぎず。<ロイベン法師>     非ユダヤ人はイスラエル人の財産に対し所有権を有せず。(シュルハン・アルフ   第三巻正義の楯)     ゴイの財産は主なき物品のごとし。(シュルハン・アルーフ   コーゼン・ハミズパット   一一六の五)。     ゴイの土地は荒野のごとし。最初に鍬を入れた者に所有権が帰する。(ババ・バトラ   一四のb)。     ユダヤ人はゴイから奪ってよい。ユダヤ人はゴイから金を騙しとってよい。ゴイは金を持つべきではなく   持てば神の名において不名誉となるだろう。(シュルハン・アルーフ   コーゼン・ハミズパット   三四八)     ノアの息子は小銭たりとも盗めば死罪に処せらるべきであるが   イスラエル人がゴイに損害を負わせることは差支えなし。なんじの隣人を傷つけるなかれとは書いてあるが   ゴイを傷つけるなかれとは書かれていない。(ミズナ   サンヘドリン   五七)。     ゴイの失せ物を見付けた者は自分の所有にしてはならないが   ゴイに返すことは禁じられている。(シュルハン・アルーフ   コーゼン・ハミズパット   二六六の一)。     ユダヤ人はユダヤ同族より利子を取るべからず。唯アクムよりのみこれを取るべし。しかしてかかる取引は使者をしてこれをなさしむべし。使者ならば   かく為しても   罪を犯したるには非ずして   戒律もまた遵守されたるなり。(シュルハン・アルフ   第二巻智慧の教)     タルムードの誡において神は命じて曰く   ゴイに金を貸すには必ず高利を以てすべし   と。これ   彼らが借りたる金により利する事なからんため   かつまた   我らが金銭にて彼らに助力を与うることなく   むしろ損害を与えんがためなり。<モシェー・バル・マエモン>     非ユダヤ人より盗みたる物を用いて女と婚約するは差支えなし。(シュルハン・アルフ   第四巻救いの岩)     ゴイに向って誓いを立てた者は   盗賊であれ税吏であれ   責任を取らなくてよい。(トセフタ・スゼブノット   一一)     結婚   誓約   約束を取り消すには   ユダヤ人はラビの所に行かねばならぬが   ラビが不在の場合は   他のユダヤ人を三人呼び集め   かれらに残念ながら取り消すと言えばよい。そうすると三人は〝なんじは許された〟と言う。(シュルハン・アルーフ     一の二四七)     ゴイにわれらの信教を教える者は   ユダヤ人を殺すに等しい。もしもゴイがわれらの教説を知ったならば   かれらは公然とわれらを殺すだろう。(リブル・デヴィッドの書   三七)     律法の秘密を公にすることは禁ぜられる。これを破る者は全世界を葬るに等しい犯罪である。(ジャクトゥ・ハダズ   一七一の二)     ユダヤ人がラビの書物のどこかを説明してくれと頼まれたなら   ただただ嘘の説明をするべきであり   ほんとうのことを教えてこの指示を裏切る共犯者となってはならない。この律法を破る者は生かしておいてはならない。(リブル・デイヴィド   三七)     ゴイがわれらの書物には何かゴイを害することが書いてあるのではないかと聞いたら   偽りの誓いを立てなければならない。そして   そのようなことは誓って書いてないと言わなければならない。(ザーロット・ウザボット   ジュル・ダの書   一七)     タルムードを学ぶゴイ   それを助けるユダヤ人はことごとく生かしておいてはならない。(サンヘドリン   五九   ア・アボダ・ゾラ   八の六。ザギガ   一三)     神よ   あなたを信ずることなく   その御名を称えざる民どもの上に   あなたの怒りを注がしめ給わんことを。かかる民どもの上にあなたの怒りを下らしめ   あなたの怒りもて屈伏せしめ給え。かの民どもをあなたの怒りもて追い散らし   粉々に打ち砕き給え。おお神よ   かの民どもの骨をすべて抜き取り給え。あなたの民に敵対するものすべてを瞬時に殺傷し給え。これら存在の価値なき民どもを根絶   四散   殱滅し給え。誅殺し給え!   今ただちに誅殺し給え!(プラナイティス   クリスマス・イン・タルムード・ジュデオラム   『シナゴーガ・ジュダイカ』二一二頁   『ミンハギン』二三頁   『クラチ・シャイム』四八〇頁。過越祭の夕の祈りで現在も唱えられているもの)     (新年二日以前のもの)彼ら非ユダヤ人の評議を狂気をもって悩まし   その思想を乱し給え。彼らの君侯を狂気ならしめ   彼らが吾々になしし如く彼らになし給え。(「ユダヤ祈祷集」より)     何者かが三度ユダヤ人を裏切るか   もしくは(ユダヤ人の)金をゴイどもに渡したことが疑いない場合は   賢人会議はその男を放逐しなければならない。     裏切り者を放逐せんがために   何人も共同体に寄付をしなければならない。(前掲書)     涜神者(非ユダヤ人)の血を流す者は   神に生贄を捧ぐるに等しきなり。<シメオン・ハダルサン法師>     自由思想家及びトーラと預言者を否む者を殺すは掟なり。公然と刀剣を以て為し得る時は然かなすべし。もし然か為し得ずば   策計をめぐらして死に至らしむべし。(シュルハン・アルフ   第三巻正義の楯)     トーラーを持たざる者と予言する者とを   すべて殺さなければならない。彼らを殺す力ある者は   剣あれば憚ることなく剣もて殺せ。剣なければ策略もて放逐せよ。(シュルハン・アルーフ   コーゼン・ハミズパット   四二五の五〇)。     キリスト教徒の中最も善き者を絞殺すべし。<アシ法師>   クルアーン   <特大>   第17章   イスラエル   (メッカ啓年)</特大>   慈悲あまねく慈愛深きアッラーの御名において。   17-1.   かれに栄光あれ。そのしもべを   (マッカの)聖なるマスジドから   われが周囲を祝福した至遠の(エルサレムの)マスジドに   夜間   旅をさせた。わが種々の印をかれ(ムハンマド)に示すためである。本当にかれこそは全聴にして全視であられる。   17-2.   われはムーサーに啓典を授け   イスラエルの子孫ヘの導きとさせ(命じ)た。「われの外に守護者を持ってはならない。」   17-3.   われがヌーフと一緒に(方舟で)運んだ者の子孫よ。本当にかれは感謝するしもベであった。   17-4.   またわれは啓典の中で   イスラエルの子孫に対しこう啓示を与えた。「あなたがたは必ず地上で2度悪を犯し   必ず甚だしく高慢に思いあがるであろう。」   17-5.   それで2つの中最初の時(預言)が来た時   われはしもべの中の武勇に富んだ者を   あなたがたに遣わし   かれらは家々の最も奥に入り   約束は成し遂げられた。   17-6.   次いでわれは   あなたがたがかれらに勝利を得るようにし   またあなたがたの財産と子女を増やして多くの人々とした。   17-7.   (そして仰せられた。)「もしあなたがたが善を行うなら   自分の身のために善を行うのであり   また悪を行っても   自分のため(に行うの)である。」それで2番目の時が来た時   あなたがたの顔は曇り   最初の時のように   かれらはマスジドに侵入し   凡てはかれらによって徹底して踏み躙られ壊滅に帰した。   17-8.   或るいは主もあなたがたに情けを与えるであろう。だがあなたがたが(罪を)繰り返すならば   われも(懲罰を)繰り返すであろう。われは不信者のために   地獄を牢獄として設けた。   17-9.   本当にこのクルアーンは   正しい(道への)導きであり   また善い行いをする信者への吉報である。かれらには偉大な報奨が授けられる。   17-10.   また来世を信じない者には   われはかれらのために痛ましい懲罰を準備した。   17-11.   人間の祈りは幸福のためであるべきなのに   かれは災厄のために祈る。凡そ人間はいつも性急である。   17-12.   われは夜と昼の2つの印を設け   夜の印を暗くした。だが昼の印は明るくして   あなたがたに(働いて)主の恩恵を祈らせ   また年数を知り   (暦法を)計算させる。われは凡てのことを詳細に説き明かした。   17-13.   一人ひとりに   われはその運命を首に結び付けた。そして復活の日には   (行いの)記録された一巻が突き付けられ   かれは開いて見る。   17-14.   (かれは仰せられよう。)「あなたがたの記録を読みなさい。今日こそは   あなた自身が自分の清算者である」   17-15.   誰でも導かれる者は   只自分の魂を益するために導かれ   また誰でも迷う者は   只自分を損うために迷う。重荷を負う者は   他人の重荷を負うことは出来ない。われは(警告のため)一人の使徒を遣わさない限り決して懲罰を下さない。   17-16.   われが一つの町を滅ぼそうとする時は   かれらの中で裕福に生活し   そこで罪を犯している者に(先ず)命令を下し   言葉(の真実)がかれらに確認されて   それからわれはそれを徹底的に壊滅する。   17-17.   ヌーフの後   如何に多くの世代を   われは滅ぼしたことであろうか。あなたの主は   そのしもべたちのいろいろな罪を知っておられ   見ておられる方として万全である。   17-18.   誰でも束の間(のこの世の事物)を望む者には   われも急いでかれのために   われの欲する物をわれが望む者に与える。それからかれのために地獄を準備する。かれはそこで焼かれ   恥辱を被り   (慈悲を)拒否されるであろう。   17-19.   しかし誰でも来世を望み   それに向かい精出し努力し   信仰する者   これらの者の努力は嘉納される。   17-20.   われは凡ての者に   これらの者にもまたかれらにも   あなたの主の賜物を広く授ける。あなたの主の賜物には限界はないのである。   17-21.   見なさい。われはある者に   如何に外よりも優れた恩恵を与えるかを。しかし来世では   必ずもっと大きい等級や偉大な特典がある。   17-22.   アッラーと一緒に外の神を立ててはならない。さもないと   あなたがたは軽蔑され見捨てられるであろう。   17-23.   あなたの主は命じられる。かれの外何者をも崇拝してはならない。また両親に孝行しなさい。もし両親かまたそのどちらかが   あなたと一緒にいて老齢に達しても   かれらに「ちえっ」とか荒い言葉を使わず   親切な言葉で話しなさい。   17-24.   そして敬愛の情を込め   両親に対し謙虚に翼を低く垂れ(優しくし)て   「主よ   幼少の頃   わたしを愛育してくれたように   2人の上に御慈悲を御授け下さい。」と(祈りを)言うがいい。   17-25.   主はあなたがたの心の中に抱くことを熟知なされる。もしあなたがたが正しい行いをするならば   かれは悔悟して度々(主に)返る者に対し   本当に寛容である。   17-26.   近親者に   当然与えるべきものは与えなさい。また貧者や旅人にも。だが粗末に浪費してはならない。   17-27.   浪費者は本当に悪魔の兄弟である。悪魔は主に対し恩を忘れる。   17-28.   あなたは主からの慈悲を請い願うために   仮令かれらから遠ざかっていても   あなたはかれらに対し優しく語りなさい。   17-29.   あなたの手を   自分の首に縛り付けてはならない。また限界を越え極端に手を開き   恥辱を被り困窮に陥ってはならない。   17-30.   本当にあなたの主は   御心に適う者への報酬を豊かにされ   また控えられる。かれはそのしもべに関し   本当に全知にして全視であられる。   17-31.   貧困を恐れてあなたがたの子女を殺してはならない。われはかれらとあなたがたのために給養する。かれらを殺すのは   本当に大罪である。   17-32.   私通(の危険)に近付いてはならない。それは醜行である。憎むべき道である。   17-33.   正当な理由による以外は   アッラーが尊いものとされた生命を奪ってはならない。誰でも不当に殺害されたならば   われはその相続者に賠償または報復を求める権利を与える。殺害に関して法を越えさせてはならない。本当にかれは(法によって)救護されているのである。   17-34.   孤児が力量(ある年齢)に達するまでは   最善(の管理)をなすための外   かれの財産に近付いてはならない。約束を果たしなさい。凡ての約束は   (審判の日)尋問されるのである。   17-35.   それからあなたがたが計量する時は   (買い手のために)その量を十分にしなさい。また正しい秤で計りなさい。それは立派であり   その方が結果として最良になる。   17-36.   またあなたは   自分の知識のないことに従ってはならない。本当に聴覚   視覚   また心の働きの凡てが(審判の日において)尋問されるであろう。   17-37.   また横柄に地上を歩いてはならない。あなたがたは大地を裂くことも出来ず   また(背丈が)山の高さにもなれない。   17-38.   これらの凡ては悪事で   あなたの主は   これを憎まれる。   17-39.   これらは   主があなたに啓示された英知である。アッラーと一緒に外の神を立ててはならない。そうでないと恥辱を受け(慈悲を)拒否され地獄に投げ込まれるであろう。   17-40.   (多神教徒よ)主は男児をあなたがたに授け   (御自分は)天使の中から女児を取られたとするのか。本当にあなたがたは由々しき言葉を口にする者である。   17-41.   本当にわれはこのクルアーンで   かれらを戒しめるために繰り返し説いた。しかしそれは   只かれらの(真理からの)離反を加えるだけであった。  

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アヴェ・ヴェルム・コルプス(お話です) 1 ユダヤ教徒とイスラム教と聖クルアーンの第17章イスラエル(メッカ啓年)について

アヴェ・ヴェルム・コルプス(お話です) 1   ユダヤ教についてと イスラエルの歴史についてと キリスト教とユダヤ教の歴史について イスラム教の聖典の聖クルアーンの 第17章イスラエル(メッカ啓年)について。 イスラエルとユダヤ教徒、キリスト教徒など他宗教の信者に対する破邪がございますが、他宗教の信者の方々自身に対しては非常に敬意を持って領納してございますから、経の表象も敬意を持って領解(りょうげ)してございます。 聖クルアーン 第17章 イスラエル (メッカ啓年) 慈悲深く、恵み遍くアッラーの御名において。 17-1. かれに栄光あれ。そのしもべを、(マッカの)聖なるマスジドから、われが周囲を祝福した至遠の(エルサレムの)マスジドに、夜間、旅をさせた。わが種々の印をかれ(ムハンマド)に示すためである。本当にかれこそは全聴にして全視であられる。 17-2. われはムーサーに啓典を授け、イスラエルの子孫ヘの導きとさせ(命じ)た。「われの外に守護者を持ってはならない。」 17-3. われがヌーフと一緒に(方舟で)運んだ者の子孫よ。本当にかれは感謝するしもベであった。 17-4. またわれは啓典の中で、イスラエルの子孫に対しこう啓示を与えた。「あなたがたは必ず地上で2度悪を犯し、必ず甚だしく高慢に思いあがるであろう。」 17-5. それで2つの中最初の時(預言)が来た時、われはしもべの中の武勇に富んだ者を、あなたがたに遣わし、かれらは家々の最も奥に入り、約束は成し遂げられた。 17-6. 次いでわれは、あなたがたがかれらに勝利を得るようにし、またあなたがたの財産と子女を増やして多くの人々とした。 17-7. (そして仰せられた。)「もしあなたがたが善を行うなら、自分の身のために善を行うのであり、また悪を行っても、自分のため(に行うの)である。」それで2番目の時が来た時、あなたがたの顔は曇り、最初の時のように、かれらはマスジドに侵入し、凡てはかれらによって徹底して踏み躙られ壊滅に帰した。 17-8. 或るいは主もあなたがたに情けを与えるであろう。だがあなたがたが(罪を)繰り返すならば、われも(懲罰を)繰り返すであろう。われは不信者のために、地獄を牢獄として設けた。 17-9. 本当にこのクルアーンは、正しい(道への)導きであり、また善い行いをする信者への吉報である。かれらには偉大な報奨が授けられる。 17-10. また来世を信じない者には、われはかれらのために痛ましい懲罰を準備した。 17-11. 人間の祈りは幸福のためであるべきなのに、かれは災厄のために祈る。凡そ人間はいつも性急である。 17-12. われは夜と昼の2つの印を設け、夜の印を暗くした。だが昼の印は明るくして、あなたがたに(働いて)主の恩恵を祈らせ、また年数を知り、(暦法を)計算させる。われは凡てのことを詳細に説き明かした。 17-13. 一人ひとりに、われはその運命を首に結び付けた。そして復活の日には、(行いの)記録された一巻が突き付けられ、かれは開いて見る。 17-14. (かれは仰せられよう。)「あなたがたの記録を読みなさい。今日こそは、あなた自身が自分の清算者である」 17-15. 誰でも導かれる者は、只自分の魂を益するために導かれ、また誰でも迷う者は、只自分を損うために迷う。重荷を負う者は、他人の重荷を負うことは出来ない。われは(警告のため)一人の使徒を遣わさない限り決して懲罰を下さない。 17-16. われが一つの町を滅ぼそうとする時は、かれらの中で裕福に生活し、そこで罪を犯している者に(先ず)命令を下し、言葉(の真実)がかれらに確認されて、それからわれはそれを徹底的に壊滅する。 17-17. ヌーフの後、如何に多くの世代を、われは滅ぼしたことであろうか。あなたの主は、そのしもべたちのいろいろな罪を知っておられ、見ておられる方として万全である。 17-18. 誰でも束の間(のこの世の事物)を望む者には、われも急いでかれのために、われの欲する物をわれが望む者に与える。それからかれのために地獄を準備する。かれはそこで焼かれ、恥辱を被り、(慈悲を)拒否されるであろう。 17-19. しかし誰でも来世を望み、それに向かい精出し努力し、信仰する者、これらの者の努力は嘉納される。 17-20. われは凡ての者に、これらの者にもまたかれらにも、あなたの主の賜物を広く授ける。あなたの主の賜物には限界はないのである。

投稿者:サイト名 有馬徳彦
投稿日時:2012-05-30 18:23:35.0
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タグ: アヴェ・ヴェルム・コルプス   (お話です)   1   ユダヤ教についてと   イスラエルの歴史についてと   キリスト教とユダヤ教の歴史について   イスラム教の聖典クルアーンの   第17章イスラエル(メッカ啓年)の   イスラエルとユダヤ教徒   キリスト教徒など他宗教の信者に対する破邪がございますが   他宗教の信者の方々自身に対しては非常に敬意を持って領納してございますから   経の表象も敬意を持って領解(りょうげ)してございます。   クルアーン   第17章   イスラエル   (メッカ啓年)   慈悲あまねく慈愛深きアッラーの御名において。   17-1.   かれに栄光あれ。そのしもべを   (マッカの)聖なるマスジドから   われが周囲を祝福した至遠の(エルサレムの)マスジドに   夜間   旅をさせた。わが種々の印をかれ(ムハンマド)に示すためである。本当にかれこそは全聴にして全視であられる。   17-2.   われはムーサーに啓典を授け   イスラエルの子孫ヘの導きとさせ(命じ)た。「われの外に守護者を持ってはならない。」   17-3.   われがヌーフと一緒に(方舟で)運んだ者の子孫よ。本当にかれは感謝するしもベであった。   17-4.   またわれは啓典の中で   イスラエルの子孫に対しこう啓示を与えた。「あなたがたは必ず地上で2度悪を犯し   必ず甚だしく高慢に思いあがるであろう。」   17-5.   それで2つの中最初の時(預言)が来た時   われはしもべの中の武勇に富んだ者を   あなたがたに遣わし   かれらは家々の最も奥に入り   約束は成し遂げられた。   17-6.   次いでわれは   あなたがたがかれらに勝利を得るようにし   またあなたがたの財産と子女を増やして多くの人々とした。   17-7.   (そして仰せられた。)「もしあなたがたが善を行うなら   自分の身のために善を行うのであり   また悪を行っても   自分のため(に行うの)である。」それで2番目の時が来た時   あなたがたの顔は曇り   最初の時のように   かれらはマスジドに侵入し   凡てはかれらによって徹底して踏み躙られ壊滅に帰した。   17-8.   或るいは主もあなたがたに情けを与えるであろう。だがあなたがたが(罪を)繰り返すならば   われも(懲罰を)繰り返すであろう。われは不信者のために   地獄を牢獄として設けた。   17-9.   本当にこのクルアーンは   正しい(道への)導きであり   また善い行いをする信者への吉報である。かれらには偉大な報奨が授けられる。   17-10.   また来世を信じない者には   われはかれらのために痛ましい懲罰を準備した。   17-11.   人間の祈りは幸福のためであるべきなのに   かれは災厄のために祈る。凡そ人間はいつも性急である。   17-12.   われは夜と昼の2つの印を設け   夜の印を暗くした。だが昼の印は明るくして   あなたがたに(働いて)主の恩恵を祈らせ   また年数を知り   (暦法を)計算させる。われは凡てのことを詳細に説き明かした。   17-13.   一人ひとりに   われはその運命を首に結び付けた。そして復活の日には   (行いの)記録された一巻が突き付けられ   かれは開いて見る。   17-14.   (かれは仰せられよう。)「あなたがたの記録を読みなさい。今日こそは   あなた自身が自分の清算者である」   17-15.   誰でも導かれる者は   只自分の魂を益するために導かれ   また誰でも迷う者は   只自分を損うために迷う。重荷を負う者は   他人の重荷を負うことは出来ない。われは(警告のため)一人の使徒を遣わさない限り決して懲罰を下さない。   17-16.   われが一つの町を滅ぼそうとする時は   かれらの中で裕福に生活し   そこで罪を犯している者に(先ず)命令を下し   言葉(の真実)がかれらに確認されて   それからわれはそれを徹底的に壊滅する。   17-17.   ヌーフの後   如何に多くの世代を   われは滅ぼしたことであろうか。あなたの主は   そのしもべたちのいろいろな罪を知っておられ   見ておられる方として万全である。   17-18.   誰でも束の間(のこの世の事物)を望む者には   われも急いでかれのために   われの欲する物をわれが望む者に与える。それからかれのために地獄を準備する。かれはそこで焼かれ   恥辱を被り   (慈悲を)拒否されるであろう。   17-19.   しかし誰でも来世を望み   それに向かい精出し努力し   信仰する者   これらの者の努力は嘉納される。   17-20.   われは凡ての者に   これらの者にもまたかれらにも   あなたの主の賜物を広く授ける。あなたの主の賜物には限界はないのである。   17-21.   見なさい。われはある者に   如何に外よりも優れた恩恵を与えるかを。しかし来世では   必ずもっと大きい等級や偉大な特典がある。   17-22.   アッラーと一緒に外の神を立ててはならない。さもないと   あなたがたは軽蔑され見捨てられるであろう。   17-23.   あなたの主は命じられる。かれの外何者をも崇拝してはならない。また両親に孝行しなさい。もし両親かまたそのどちらかが   あなたと一緒にいて老齢に達しても   かれらに「ちえっ」とか荒い言葉を使わず   親切な言葉で話しなさい。   17-24.   そして敬愛の情を込め   両親に対し謙虚に翼を低く垂れ(優しくし)て   「主よ   幼少の頃   わたしを愛育してくれたように   2人の上に御慈悲を御授け下さい。」と(祈りを)言うがいい。   17-25.   主はあなたがたの心の中に抱くことを熟知なされる。もしあなたがたが正しい行いをするならば   かれは悔悟して度々(主に)返る者に対し   本当に寛容である。   17-26.   近親者に   当然与えるべきものは与えなさい。また貧者や旅人にも。だが粗末に浪費してはならない。   17-27.   浪費者は本当に悪魔の兄弟である。悪魔は主に対し恩を忘れる。   17-28.   あなたは主からの慈悲を請い願うために   仮令かれらから遠ざかっていても   あなたはかれらに対し優しく語りなさい。   17-29.   あなたの手を   自分の首に縛り付けてはならない。また限界を越え極端に手を開き   恥辱を被り困窮に陥ってはならない。   17-30.   本当にあなたの主は   御心に適う者への報酬を豊かにされ   また控えられる。かれはそのしもべに関し   本当に全知にして全視であられる。   17-31.   貧困を恐れてあなたがたの子女を殺してはならない。われはかれらとあなたがたのために給養する。かれらを殺すのは   本当に大罪である。   17-32.   私通(の危険)に近付いてはならない。それは醜行である。憎むべき道である。   17-33.   正当な理由による以外は   アッラーが尊いものとされた生命を奪ってはならない。誰でも不当に殺害されたならば   われはその相続者に賠償または報復を求める権利を与える。殺害に関して法を越えさせてはならない。本当にかれは(法によって)救護されているのである。   17-34.   孤児が力量(ある年齢)に達するまでは   最善(の管理)をなすための外   かれの財産に近付いてはならない。約束を果たしなさい。凡ての約束は   (審判の日)尋問されるのである。   17-35.   それからあなたがたが計量する時は   (買い手のために)その量を十分にしなさい。また正しい秤で計りなさい。それは立派であり   その方が結果として最良になる。   17-36.   またあなたは   自分の知識のないことに従ってはならない。本当に聴覚   視覚   また心の働きの凡てが(審判の日において)尋問されるであろう。   17-37.   また横柄に地上を歩いてはならない。あなたがたは大地を裂くことも出来ず   また(背丈が)山の高さにもなれない。   17-38.   これらの凡ては悪事で   あなたの主は   これを憎まれる。   17-39.   これらは   主があなたに啓示された英知である。アッラーと一緒に外の神を立ててはならない。そうでないと恥辱を受け(慈悲を)拒否され地獄に投げ込まれるであろう。   17-40.   (多神教徒よ)主は男児をあなたがたに授け   (御自分は)天使の中から女児を取られたとするのか。本当にあなたがたは由々しき言葉を口にする者である。   17-41.   本当にわれはこのクルアーンで   かれらを戒しめるために繰り返し説いた。しかしそれは   只かれらの(真理からの)離反を加えるだけであった。   タルムード   ユダヤ教の聖典は『旧約聖書』ですが   冒頭の5書   「創世記」「出エジプト記」「レビ記」「民数記」「申命記」は特に重要とされ「モーセ五書」または「トーラー」(律法)と呼ばれます。さらに   モーセが神から授けられた法で   成文化されずに口伝で伝えられたものがあり   この口伝は3世紀頃に文書化され「ミシュナ」と呼ばています。このミシュナと   ミシュナをラビが解釈した「ゲマラ」から作成された日常生活の規範と   時代時代に対応した生きざまを記したものがタルムードです。   タルムードは   6部構成   63編から成る文書群で   現代のユダヤ教の主要教派のほとんどが聖典として認めており   ユダヤ教徒の生活   信仰の基となっているといわるものです。     ユダヤ王は真の世界の法王   世界にまたがる教会の総大司教となる。だが   一方で   われわれが青年層を過渡期の新しい伝統の宗教に   後にはわれわれの宗教で再教育する間   われわれは明らさまには既存の教会には指一本触れないけれども   教会内部の軋轢を目ざし批判を加えて宗教人と闘う。その場合   一般的には   われわれの現代社会はゴイムの国家問題   宗教   ゴイムの無能さを断罪し続けるが   常に   わが民天与の才能を振い   あらゆる手段を駆使してかれらの威信を剥奪すべく   罵詈雑言を浴びせ百方中傷する。<十七>     重ねて述べるが   臣民は自分たちとは絶対的にかけ離れた力強い手に対しては   盲目的に服従する。彼らはそこに自分たちを襲う社会的な鞭から守ってくれる防御の剣を感じて支持するのである……彼らは王者に天使の心を期待するのか?   彼らが王者に見たいのは力     力の権化なのである。<二十三>     ダヴィデ王の子孫のうちの数人が   相続権ではなく優れた資質を基準にして王と後継者を選定する。その人々には   政治の最高機密と政府の仕組とが伝授されるが   常に何びとにも極秘の知恵が漏れないように留意する。この方式の真意は   このような秘義を授けられたことがない者には   政府を委すことはできないということを徹底させることにある。これらの人々にのみ   何世紀にもわたる諸経験と比較しつつ   私がこれまでに述べたような計画の実際化や   政治経済運動や社会科学研究の全成果-一言で言えば   人間関係を律する動かしがたい天然法則の大真理-が伝授される。<二十四>     たとえ残忍であったとしても無条件に断固たる人物にのみ   われらの賢人長老たちから支配統治の手綱を渡されるのである。……通常の時間における王の行動計画と将来に関することはすべて   最も親しい助言者たちにも知らされない。王と三人の顧問のみが   将来の計画を知っている。断乎とした意志で自分と人類を律する王の人柄には   万人が神秘の宿命を認めるのである。何びとも王が何を行おうとしているのかを知らぬので   あえて知らぬ小路を遮ろうとする者はいない。王の頭の中には実行すべき政府計画を理解するに足りる知恵が貯えられていなければならない。王位に就く前に   前に述べた賢人長老たちが試験を行うのは   そのためである。<二十四>     ユダヤ王は自分の感情   とりわけ情欲のとりこになってはならない。王は自分の人格のどの一面でも   荒々しい本能に精神をしのがせることがあってはならぬ。情欲はいかなる精神的な欠点よりも   明晰に見る力を殺ぎ   思考を人間の性質中最悪の獣的なものに落とし込む。ダヴィデの聖なる子孫である全世界統治王その人は   人類の支柱であり   人民のためにはいかなる個人的希望をも犠牲にしなければならない。われらが至高の王は完全無欠の権化でなければならない。<二十四>     あなたは   あなたの神   主の聖なる民である。あなたの神   主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び   御自分の宝の民とされた。(申命記   七章六)     主はあなたの意のままにあしらわせ   あなたが彼らを撃つときは   彼らを必ず滅ぼし尽くさねばならない。彼らと協定を結んではならず   彼らを憐れんではならない。   (申命記   七章二)。     世界はただイスラエル人の為にのみ創造されたるなり。イスラエル人は実にして   他の民は空なる殻皮のみ。従ってイスラエルの他に民族なし。彼らはことごとく空皮に過ぎざればなり。<イェシャヤ法師>     神言い給う   我は我が予言者を畜獣に過ぎざる偶像崇拜の徒の為に遣わしたるにあらず。人間なるイスラエル人の為に遣わしたるなり。(ミトラシュ・コヘレート)     人間の獣に優れる如く   ユダヤ人は他の諸民族に優れるものなり。<アブラハム・ゼバ法師>     もしイスラエル人無かりせば   この世に幸福なかりしならん。これ申命記二八の八に記されたる如し。またイスラエル人無かりせば   天の諸星も昇らざるべし。これエレミヤ記三三の三五に記されたる如し。また地の上に雨の降る事なかるべし。これ申命記二八の一二に記されたる如し。<シメオン・ハダルサン法師>     選ばれたる民のみ永遠の生命を受くるにふさわしく   他の国人はロバに等し。<アバルバネル法師>     「汝は主なる汝の神が汝に与え給いしすべての民を喰い尽くさん」との文句(申命記七ノ十六)は   今は亡き吾等の教法師達により次の如く解せられたり。すなわち   すべての民を喰い尽くし   すべての民より掠奪することは   彼らすべてが吾等の権力下に置かれる時に始まるべし   と。<ベハイ法師>     神はユダヤ人にすべての方法を用い   詐欺   強力   高利貸   窃盗によってキリスト教徒の財産を奪取することを命ずる。(オルディン一   トラクト一   ディスト四)     吾々はタルムードがモーゼの律法書に対して絶対的優越性を有することを認むるものなり。(イスラエル文庫   一八六四年)     律法(聖書)は多少とも重要ではあるが   長老方が聖典に記された言葉は常に重要である。     掟の言葉より法師の言葉を敬え。<アシ法師>     汝知るべし   法師の言葉は予言者の言葉より美し   と。<アシ法師>     教法師の言葉は   生ける神の言葉なり。<ベハイ法師>     教法師の日常の言辞も   誡律同様に重んずべきなり。(ヴェネツィア版ミトラシュ   一五一六年版)     もし法師   汝の右の手を左の手と言ひ   左の手を右の手と言ふとも   彼の言葉に違ふべからず。<アシ法師>     タルムードの決定は   生ける神の言葉である。エホバも天国で問題が起きたときは   現世のラビに意見を聞き給う。(ラビ・メナヘン   第五書の注解)     法師の言葉を嘲る者は   地獄の煮え立つ糞の中にて罰せらるべし。<アシェル法師>     ラビの言葉に背くことはトーラーに背くことよりも   さらに悪い。(ミズナ   サンヘドリン   十の三)。     ラビの言葉を変える者は死罪に処すべきである。(エルビン   二一のb)     トーラを学ぶゴイは死罪に当る者なり。<モシェー・バル・マエモン>     なんじらは人類であるが   世界の他の国民は人類にあらずして獣類である。(ババ・メチア   一四六の六)。     汝等イスラエル人は人間なれど   他の民族は人間に非ず。彼らの魂穢れし霊より出でたればなり。<メナヘム・ベン・シラ法師>     イスラエル人は人間と呼ばる。しかれども偶像礼拝者は汚れし霊より出でしものなれば   豚と呼ばるるなり。<ロイベン法師>     イスラエル人はアダム(人間)と呼ばれん。然れど他の諸族はアダムと呼ばるることなし。<アブラハム・ゼバ法師>     悪魔と世界の諸民族とは   畜獣に数えらるべきなり。<ナフタリ法師>     犬は異邦人より勝れたるものなり。<アシ法師>     聖書に「隣人」と記されたる個処はいづれも非ユダヤ人を含まざるなり。(「シュルハン・アルフ」の注釈書より)     レビ記十九章十一節には   汝は汝の隣人に不法を為すべからず   と記されたり。この文句は   ゴイ(非ユダヤ人)がその中に含まれ居らざる事を明白に示すものなり。     ゴイが住んでいる家を見て   人はこう言った。〝神は傲慢の家を亡ぼすだろう〟。そして家々が亡ぼされたのを見て人は言った。〝復讐の神が顕現されたのだ〟(バビロニアン・タルムード   ベラチョット   五八の六)。     汝殺すなかれ   との掟は   イスラエル人を殺すなかれ   との意なり。ゴイ   ノアの子等   異教徒はイスラエル人にあらず。<モシェー・バル・マエモン>     神はイスラエル人を審くには立ちてなし   尋問も簡単にして速かなり。世の諸民族を審く時は座して   厳格に長々と取調べをなす。<ラバ・バル・ナハマニ法師>     「世界はただイスラエル人のみの為に造られたり。」この文句は極めて明瞭なれど   人々はこれをなおよく熟考し   また味うべきなり。イスラエル人に掟の与えられし時   イスラエル人はその掟によりて種々の美点をことごとく保持せしが   他の民は掟を受入れざりしによりこれらの美点を全く有せざるなり。<アブラハム・ゼバ法師>     イスラエル人は   他のすべての民に対し優越する者なり   他の諸族の中には賢く利き者唯一人も居らざるに   イスラエル人にあっては全部が特に賢く利き人間なり。   <アブラハム・ゼバ法師>     一人のイスラエル人の魂は神の前において他の民族全部の魂より価値多く   また神によって悦ばるるところのものなり。<シェフテル・ホルヴィッツ法師>     ゴイがゴイもしくはユダヤ人を殺した場合は責めを負わねばならぬが   ユダヤ人がゴイを殺すも責めは負わず。(前掲書   Ⅷの五)     悪しき者(非ユダヤ人)を憐むことは   正しき者(ユダヤ人)に相応わしからぬなり。<ゲルソン法師>     ゴイに金を貸す時は必ず高利を以てすべし。<モシェー・バル・マエモン>     拾得物を紛失者に返却すべしとの戒は   ユダヤ人に対してのみ守らるべきものにして   ゴイに対しては然らず。この事に就き亡き吾等の教法師達の言えるあり。即ち   「遺失物とはすべて汝の兄弟の失いしところの物を指すものにして   ゴイの失える物は然らず。その理由は   ゴイは神に属する者に非ずして   地の邪神に属する者なる故なり。故にゴイの失える総べての物は   この世にては再び見付けらるる事なき遺失物にして   その所有者に還るべきにあらず。財宝は唯イスラエル人にふさわしく   他の民はこれに値いせざるものなればなり。これ預言者イザヤ(二六ノ一九)の言えるが如し」と。<ゲルソン法師>     ゴイの耳は不潔である。かれらの浴槽   住居   田園は不潔である。(トセフタ・ミクワト   vの一)     九歳と一日以上のゴイの少年と   三歳と一日以上の少女は   不潔とみなされる。(パーフォコヴィッツ   タルムード   t・v   一一頁)     他民族の有する所有物はすべてユダヤ民族に属すべきものである。ゆえになんらの遠慮なくこれをユダヤ民族の手に収むること差し支えなし。(シュルハンアルクのショッツェン・ハミッバッド三百四十八)     ゴイがゴイまたはユダヤ人を殺した場合には   その責任を負うべきであるが   ユダヤ人がゴイを殺した場合には責任を負うべきものでない。(トセフタ   アブダ・ザラ八の五)     〝盗賊〟という言葉の解釈。ゴイは   ゴイからであろうとユダヤ人からであろうと   盗むこと奪うこと女奴隷を使うことは禁じられる。だがユダヤ人はゴイに禁じられているこれらのすべてのことを為しても禁じられない。(トセフタ   アボダ・ザラ   Ⅷの五)。     すべてのイスラエル人は一定の法式により動物及び動物視されている非ユダヤ人を屠ることを許さる。(シュルハン・アルフ   第二巻智慧の教)     ユダヤ女を求め得る場合には   異邦女の乳を幼児に吸わしむべからず。異邦女の乳は心眼を閉ざし   悪しき性格を形成するが故なり。(シュルハン・アルフ   第二巻智慧の教)     偶像礼拝に帰依せる非ユダヤ人及び賎しき牧人はこれを殺すことを許さず。されど彼らが危険に面しまた死に瀕せりとて彼らを救うことは許されず。例えば彼らの一人水に落ちたる時   報酬ある場合といえども彼を救い上ぐるべからず。また彼らを瀕死の病よりも癒すべからず・・・報酬ある場合といえども。しかれども吾等と彼らの間に敵意の生ずるを防止する為ならば   報酬無き場合にも彼らを救出し   また癒すことを許さる。しかれども偶像を拝む者   罪を犯す者   掟と預言者を否む者は   これを殺すべし。しかして公然と殺すを得ば   その如くなせ。しかするを得ざる場合には   彼らの死を促進せよ。例えば彼らの一人井戸に落ちたる時   その井戸に梯子あらば   これを取去り   直ちに再び持来るべしとの遁辞を用い   かくすることにより落ちたる者の身を救い得べき道を奪うべし。(シュルハン・アルフ   第二巻智慧の教)     非ユダヤ人の証人たるところの証書はすべて無効なり。(シュルハン・アルフ   第三巻正義の楯)     成人せる非ユダヤ人奴隷は   牧者なき家畜の如し。(シュルハン・アルフ   第三巻正義の楯)     すべてゴイは月經時の子にして   根絶さるべきものなり。<ベハイ法師>     キリスト教徒は異教徒なり。<アバルバネル法師>     改宗してユダヤ人となれる者は   同様にユダヤ教に改宗せるその母あるいは伯母と婚姻するも差支えなし。改宗者は新たに生れたる者と見なされ得る故なり。(シュルハン・アルフ   第二巻智慧の教)     二十四項の罪あり。これに触るる者は除名さる。例えば第八項   その地所を非ユダヤ人に売りたる者   第九項   非ユダヤ人法廷においてその隣人(即ちイスラエル人)に対し不当なる証言を為せる者   等。(シュルハン・アルフ   第二巻智慧の教)     非ユダヤ人及び奴隷も証言を為す資格なし。敵・混血児・裏切者・自由思想家・変節者(背教者)   キリスト教の洗礼を受けたる者はゴイ(非ユダヤ人)より更に悪しければ   同じく証言を為すを得ず。(シュルハン・アルフ   第三巻正義の楯)     他の宗教に改宗したる者は   盗賊になりたると等し。(シュルハン・アルフ   第三巻正義の楯)     汝知るべし   イエスの教に従いて迷えるキリスト教諸国民は   その信仰には種々あれども   ことごとく偶像礼拝者なり。故に彼らは偶像礼拝者相応に扱わるべし。これタルムードの説くところなり。<モシェー・バル・マエモン>     決して偶像礼拝者と事を共にするなかれ。また彼らを憫むべからず。その故は   申命記七章二節にその如く記されたればなり。故に非ユダヤ人が生命の危険に瀕するか   あるいは河に溺るるを見るとも   これを救助することは許されず。<モシェー・バル・マエモン>     偽善はこの世においては許さる。すなわち   背神者に対し慇懃になし   彼らを敬い   彼らに向いて「我汝を愛す]と言うもよし。すなわち   必要上止むを得ざる場合   恐怖に駆られたる場合は然り。<ベハイ法師>     すべてこれらの条項(三十箇条のユダヤ信仰箇條)を信ぜざる者は異教徒なり。故にかかる者を憎むは吾等の義務にして   彼を賎しみ   出来得べくんばその亡ぼし   また根絶するは当然の事なり。<アバルバネル法師>     他の諸族はイスラエル人と同じ姿を有すれども   真の人間に比ぶれは模造に過ぎず。彼らは   ダニエル書四の十四・十七に記されたる如く   劣等なる種類の人間なり。これに対しイスラエル人はアダム(人間)なる語の真の意味における高き価値ある人間にして   この故にまた単に人間とも呼ばるるなり。<シメオン・ハダルサン法師>     偶像礼拝者は畜獣と呼ばるべきものにしてただ最広義においてのみ人間と呼ばれ得るに過ぎず。<ロイベン法師>     非ユダヤ人はイスラエル人の財産に対し所有権を有せず。(シュルハン・アルフ   第三巻正義の楯)     ゴイの財産は主なき物品のごとし。(シュルハン・アルーフ   コーゼン・ハミズパット   一一六の五)。     ゴイの土地は荒野のごとし。最初に鍬を入れた者に所有権が帰する。(ババ・バトラ   一四のb)。     ユダヤ人はゴイから奪ってよい。ユダヤ人はゴイから金を騙しとってよい。ゴイは金を持つべきではなく   持てば神の名において不名誉となるだろう。(シュルハン・アルーフ   コーゼン・ハミズパット   三四八)     ノアの息子は小銭たりとも盗めば死罪に処せらるべきであるが   イスラエル人がゴイに損害を負わせることは差支えなし。なんじの隣人を傷つけるなかれとは書いてあるが   ゴイを傷つけるなかれとは書かれていない。(ミズナ   サンヘドリン   五七)。     ゴイの失せ物を見付けた者は自分の所有にしてはならないが   ゴイに返すことは禁じられている。(シュルハン・アルーフ   コーゼン・ハミズパット   二六六の一)。     ユダヤ人はユダヤ同族より利子を取るべからず。唯アクムよりのみこれを取るべし。しかしてかかる取引は使者をしてこれをなさしむべし。使者ならば   かく為しても   罪を犯したるには非ずして   戒律もまた遵守されたるなり。(シュルハン・アルフ   第二巻智慧の教)     タルムードの誡において神は命じて曰く   ゴイに金を貸すには必ず高利を以てすべし   と。これ   彼らが借りたる金により利する事なからんため   かつまた   我らが金銭にて彼らに助力を与うることなく   むしろ損害を与えんがためなり。<モシェー・バル・マエモン>     非ユダヤ人より盗みたる物を用いて女と婚約するは差支えなし。(シュルハン・アルフ   第四巻救いの岩)     ゴイに向って誓いを立てた者は   盗賊であれ税吏であれ   責任を取らなくてよい。(トセフタ・スゼブノット   一一)     結婚   誓約   約束を取り消すには   ユダヤ人はラビの所に行かねばならぬが   ラビが不在の場合は   他のユダヤ人を三人呼び集め   かれらに残念ながら取り消すと言えばよい。そうすると三人は〝なんじは許された〟と言う。(シュルハン・アルーフ     一の二四七)     ゴイにわれらの信教を教える者は   ユダヤ人を殺すに等しい。もしもゴイがわれらの教説を知ったならば   かれらは公然とわれらを殺すだろう。(リブル・デヴィッドの書   三七)     律法の秘密を公にすることは禁ぜられる。これを破る者は全世界を葬るに等しい犯罪である。(ジャクトゥ・ハダズ   一七一の二)     ユダヤ人がラビの書物のどこかを説明してくれと頼まれたなら   ただただ嘘の説明をするべきであり   ほんとうのことを教えてこの指示を裏切る共犯者となってはならない。この律法を破る者は生かしておいてはならない。(リブル・デイヴィド   三七)     ゴイがわれらの書物には何かゴイを害することが書いてあるのではないかと聞いたら   偽りの誓いを立てなければならない。そして   そのようなことは誓って書いてないと言わなければならない。(ザーロット・ウザボット   ジュル・ダの書   一七)     タルムードを学ぶゴイ   それを助けるユダヤ人はことごとく生かしておいてはならない。(サンヘドリン   五九   ア・アボダ・ゾラ   八の六。ザギガ   一三)     神よ   あなたを信ずることなく   その御名を称えざる民どもの上に   あなたの怒りを注がしめ給わんことを。かかる民どもの上にあなたの怒りを下らしめ   あなたの怒りもて屈伏せしめ給え。かの民どもをあなたの怒りもて追い散らし   粉々に打ち砕き給え。おお神よ   かの民どもの骨をすべて抜き取り給え。あなたの民に敵対するものすべてを瞬時に殺傷し給え。これら存在の価値なき民どもを根絶   四散   殱滅し給え。誅殺し給え!   今ただちに誅殺し給え!(プラナイティス   クリスマス・イン・タルムード・ジュデオラム   『シナゴーガ・ジュダイカ』二一二頁   『ミンハギン』二三頁   『クラチ・シャイム』四八〇頁。過越祭の夕の祈りで現在も唱えられているもの)     (新年二日以前のもの)彼ら非ユダヤ人の評議を狂気をもって悩まし   その思想を乱し給え。彼らの君侯を狂気ならしめ   彼らが吾々になしし如く彼らになし給え。(「ユダヤ祈祷集」より)     何者かが三度ユダヤ人を裏切るか   もしくは(ユダヤ人の)金をゴイどもに渡したことが疑いない場合は   賢人会議はその男を放逐しなければならない。     裏切り者を放逐せんがために   何人も共同体に寄付をしなければならない。(前掲書)     涜神者(非ユダヤ人)の血を流す者は   神に生贄を捧ぐるに等しきなり。<シメオン・ハダルサン法師>     自由思想家及びトーラと預言者を否む者を殺すは掟なり。公然と刀剣を以て為し得る時は然かなすべし。もし然か為し得ずば   策計をめぐらして死に至らしむべし。(シュルハン・アルフ   第三巻正義の楯)     トーラーを持たざる者と予言する者とを   すべて殺さなければならない。彼らを殺す力ある者は   剣あれば憚ることなく剣もて殺せ。剣なければ策略もて放逐せよ。(シュルハン・アルーフ   コーゼン・ハミズパット   四二五の五〇)。     キリスト教徒の中最も善き者を絞殺すべし。<アシ法師>  

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