こんばんわ オレンジルームの黒澤です。 本日は 文京区 「湯立坂」 のご紹介です。 丸ノ内線「茗荷谷」 から徒歩1分 教育の森公園(旧教育大学)の脇から、氷川下の交差点に下る坂です。 「松平大学頭屋敷脇より安房殿町へ上る坂也」『小石川志料』 松平大学頭は陸奥国守山二万石の藩主でここに上屋敷がありました。 この敷地がそっくり旧東京教育大の跡地となったそうです。 「里談に云。往古は此坂下大河入江にて、氷川明神へは川を隔てて渡ることを得ず。故にこの氏子此坂にて湯花を奉るより坂の名とす」『江戸志』 昔この坂の下は川があり氷川神社に渡ることができなかったので, 神社の氏子は川の手前で 湯花を捧げたため,この名がついた。(標識より) (湯花とは,湯の沸騰時に上がる泡のこと。 神社で巫女などがこれを笹の葉につけ,参詣人にかけ浄めました。この儀式を“湯立”と呼びます。) 湯立坂の名はこの故事にちなみます。 氷川明神(現簸川神社)に川を隔てて献花する、古人の信仰深さを物語る言い伝えですね。 「簸 川原と云、鰻、鮎、芹・・・・為民用」と『武蔵風土記』にあります。 当時の人たちは簸川流域の恩恵を受け、自給自足の生活をしていたのであろう。 湯立坂下の千川では 蛍狩りをし、夜はカンテラをつけてどじょうを取ったという 古老の話が残っています。また当時あった生薬工場では水車の動力で生薬をついたと伝えられています。 湯立坂 ゆたてざか 「里人の説に 往古はこの坂の下は大河の入江にて 氷川の明神へは河を隔てて渡ることを得ず。故に 此所の氏子ども 此坂にて湯花を奉りしより 坂の名となれり。」(江戸志) 武蔵風土記には,このあたりのことを簸川原とあり,アユ,ウナギそしてセリなどのとれる所としている。事実小石河(千川とも後年云う)が流れていた。 我方(わがかた)を 思ひふかめて 小石河 いづこを瀬とか こひ渡るらむ 道興准皇「廻国雑記」(文明18年<1484>6月より3月までの 北陸,関東,奥州諸国の遊歴見記)より。 文京区 昭和48年3月 文京区の重要文化財*銅御殿は、タモリもお勧めする湯立坂にある歴史的建造物です。 湯立坂頂上付近に面しています。 建材には国産の檜を用い、釘を一切使わぬ伝統工法で組み立てられているとのこと。 建築に7年の歳月を費やしたということです。 立ち上がった当初は、建物は銅の色で、金ぴかに光っていたそうです。 次回はぜひ中に入ってみようとおもいます。
投稿者: orangeroom
投稿日時:2011-08-03 18:36:50.0
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本編は、→ http://www.cyberart.gr.jp/nekka/ 朗読絵物語 「熱火燃ゆる日」 (2010/4 公開) 総監修 :山口十八良(角川書店) ディレクター:神佑輔(ゼロカンパニー、アドレナリン21) 主演 :千葉ともこ 原作 :清水境一 脚色 :井上順一 朗読 :いぬゐじゅん 撮影 :坂本匡在 渡邊修一 小沼努 二世紀後半、北九州の奴国(ナコク)は、末廬国(マツロコク)戦にやぶれ、幼い奴国王女「夕姫」は、末廬王族として育てられた。やがて邪馬台国(ヤマタイコク)誕生とともに、夕姫はヒミコとして君臨する。 だが、東夷で覇を競う高句麗は、九州南部の狗奴国(クナコク)に上陸し、これを阻んだ。 邪馬台と狗奴の決戦の日が迫る!
投稿者: starsky
投稿日時:2010-03-31 21:38:46.0
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