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Vivaldi Gloria in DMajorRV589(お話です) 2 「イスラエルと神ヤハウェ」「タルムード」「愛の価値」

Vivaldi Gloria in D Major RV 589 (お話です) 2 「イスラエルと神ヤハウェの信仰」「タルムード」「愛の価値」「イスラエルの民が繁栄した時期に 神ヤハウェーの信仰だけでなく エルサレム神殿の他に 聖所を造り、 異教のバアル神などの信仰の 礼拝も行ったことで 預言者エレミヤが シロにあったヤハウェの神殿が 滅亡したように このエルサレムの神殿も 必ず滅亡すると断言して イェホヤキム王と 神殿の祭司と預言者が エレミヤを排斥しました。 統治者が アッシリアからバヒロニアになり バビロニアが エルサレムを滅亡させて イスラエルの民を捕囚ました。 神ヤハウェーが 許さぬというお告げをしましたが 神ヤハウェが全知全能の神として 神ヤハウェイとスラエルの民という シナイ契約で成立した民族の 滅亡を放置するだろうか。 ここに、民族の断絶の先にある 「終わりの日」に成立する 「新しい契約」の希望を生み出して、 ここに、イスラエル民族が 捕囚を経験して ユダヤ民族に回帰した 奇跡が起きました。 「The value of love:愛の価値」 アボットは、ラビ・ヨハナン・ベン・ザカイ (Rabbi Yohanan ben Zakkai) が、ラビである五人の生徒に与えら普通でない宿題の記録を含んでいる。それは二つの質問からなる。 どれが人の固守すべき正しい道なのか、出て行って見てきなさい......。人が遠ざけなければならない邪悪な道はどれなのか、出て行って見てきなさい。 [ Avot 2:9 ] ヨハナン・ベン・ザカイが「出て行って」と言っているように、彼らの答えを教室の外で、毎日の行動の世界の中で、探すように告げていた。あなたは、五人の学生ラビが彼に与える答えを読み進む前に、紙とペンを取ってあなた自身の答えを少ない言葉で書いてみなさい。正義と公平をするための鍵は何だと思いますか。もし我々が邪悪を避けるつもりなら、避けなければならないものは何だと思いますか。 The answers 五人の学生ラビの答えは、この本の前半の我々の勉強の要約となるのものである。ユダヤ人の行動に対して我々自身がいかに準備したらよいか、これに関してここに集められたアイデアの多くは、ラビたちが与えた答の中に含まれている。これらのアイデアの幾つかは、またあなたが書いた短い答えの中に、おそらく含まれている。我々が勉強してきた道にあなたがどれだけ近づいてきたか見てみよう。あなたはこれらの質問にどのように答えるのでしょうか?

投稿者:サイト名 有馬徳彦
投稿日時:2012.6.23. 12:14
視聴回数:9629回
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カテゴリ: 暮らし全般   エンタメ全般   教育全般  
タグ: Vivaldi   Gloria   in   D   Major   RV   589   (お話です)   2   「イスラエルと神ヤハウェの信仰」「タルムード」「愛の価値」「イスラエルの民が繁栄した時期に   神ヤハウェーの信仰だけでなく   エルサレム神殿の他に   聖所を造り   異教のバアル神などの信仰の   礼拝も行ったことで   預言者エレミヤが   シロにあったヤハウェの神殿が   滅亡したように   このエルサレムの神殿も   必ず滅亡すると断言して   イェホヤキム王と   神殿の祭司と預言者が   エレミヤを排斥しました。   統治者が   アッシリアからバヒロニアになり   バビロニアが   エルサレムを滅亡させて   イスラエルの民を捕囚ました。   神ヤハウェーが   許さぬというお告げをしましたが   神ヤハウェが全知全能の神として   神ヤハウェイとスラエルの民という   シナイ契約で成立した民族の   滅亡を放置するだろうか。   ここに   民族の断絶の先にある   「終わりの日」に成立する   「新しい契約」の希望を生み出して   ここに   イスラエル民族が   捕囚を経験して   ユダヤ民族に回帰した   奇跡が起きました。   「The   value   of   love:愛の価値」   アボットは   ラビ・ヨハナン・ベン・ザカイ   (Rabbi   Yohanan   ben   Zakkai)     ラビである五人の生徒に与えら普通でない宿題の記録を含んでいる。それは二つの質問からなる。   どれが人の固守すべき正しい道なのか   出て行って見てきなさい......。人が遠ざけなければならない邪悪な道はどれなのか   出て行って見てきなさい。   [   Avot   2:9   ]   ヨハナン・ベン・ザカイが「出て行って」と言っているように   彼らの答えを教室の外で   毎日の行動の世界の中で   探すように告げていた。あなたは   五人の学生ラビが彼に与える答えを読み進む前に   紙とペンを取ってあなた自身の答えを少ない言葉で書いてみなさい。正義と公平をするための鍵は何だと思いますか。もし我々が邪悪を避けるつもりなら   避けなければならないものは何だと思いますか。   The   answers   五人の学生ラビの答えは   この本の前半の我々の勉強の要約となるのものである。ユダヤ人の行動に対して我々自身がいかに準備したらよいか   これに関してここに集められたアイデアの多くは   ラビたちが与えた答の中に含まれている。これらのアイデアの幾つかは   またあなたが書いた短い答えの中に   おそらく含まれている。我々が勉強してきた道にあなたがどれだけ近づいてきたか見てみよう。あなたはこれらの質問にどのように答えるのでしょうか?   The   answers   of   Rabbi   Eliezer   (1)ラビ・エリエゼルの答え   エリエゼルはスポンジのような記憶力を持った学生であった。注がれた水の全ての一滴までも捕えてしまう水がめのようなので   彼の先生は彼を「セメントの水がめ」と呼んだ。エリエゼルはかって聞いたトーラの全ての教えを記憶していた。そんな人はこの二つの質問にどう答えるであろうか?   エリエゼルは言った   固守すべき正しい道は「良い目」で   避けるべき邪悪な道は「邪悪な目」である。我々は「邪悪な目」によって意味していることを簡単に理解することができる。それは世界を見て   生きる所として醜い   不幸な   みすぼらしい場所を探す道である。「邪悪な目」は   ねたみ   嫉妬   絶えず続く不平そして不幸に耐える。     ある男が彼のラビの前に現われて言った:「私は良いことをするという仕事を止めましたよ。私の一生で   人々は私が良かったら成功するだろうと言っていた。しかし見よ   ここに邪悪であったが成功した人の20人のリストを持っているこれから   私の客をだますことにしよう   そして私もまた金持ちになろう。」ラビは笑って言った:「私は邪悪で成功した人のあなたのリストを見た。しかし   良いことで成功した人のあなたのリストはどこにあるのか?」   人が「邪悪な目」を通して世界を見る時   彼は自然に邪悪であるところの事のみを見ている   そして彼はすべてのものによって妨害されているのだ。「良い目」の人はちょうどその反対である。「良い目」を通しての世界は   喜び   歓声そして   満足   安心の場所である。「良い目」は我々の宗教的な知覚であり   我々を通して世界の中にどんな良いことがもたらせられるのかを知るための我々の能力である。   エリエゼルの答えは   我々にこう告げている:我々が本当に何を見ているかは   我々が物事を見る方法に依存しているのだ。   ことわざが言う:「良い目」を持った人は祝福されるであろう   彼は貧しい者にパンを与えるからである。   (箴言22:9)   言い換えれば   たとえ「良い目」を持った人彼自身が貧しくても   彼はもっと貧しい人を見つけて慈善をするであろう   なぜならば彼の「良い目」が彼自身を金持ちであるとして自分を認めるからである。   箴言=しんげん   箴言22:9の解説:   「良い目」を持った人は祝福されるであろう   彼は貧しい者にパンを与えるからである。   (箴言22:9)   これは聖書の原文であるヘブライ語からの翻訳ですが   日本語や英語の聖書を読むと訳が違っているのに気づきます。   例えば   「新共同訳」聖書では   「寛大な人」は祝福を受ける   自分のパンをさいて弱い人に与えるから。   (箴言22:9)   また   英訳の「Holy   Bible」では   A   generous   man   will   himself   be   blessed   for   he   shares   his   food   with   the   poor.   (   Proverbs   22:9   )   この日本語や英訳の   「寛大な人/generous   man」が慈善をする   というのはあたりまえで   ここには新しい教訓がなく   面白くも何ともない。ヘブライ語原文の   「良い目の人」が慈善をする   という謎めいた教訓の方がはるかに知的で感動しませんか。偉大なソロモン王が創作したことわざ集と言われる「箴言」   その彼の作品の苦労の一端を少し理解できたわけです。   Rabbi   Joshua's   answer   (2)ラビ・ヨシュアの答え   ヨシュアによると   従うべき良い道は「良い友」であり   避けるべき道は「邪悪な友」である。ヨシュアの答えは「腐ったリンゴは束をだめにする」という古い格言を思い起こさせる。しかし彼の考えは   アボットの他の所で別の人々が表現しているものとそんなに変わらなかった。例えばアルベル人のニッタイ   (Nittai   the   Arbelite)   がこう言った:邪悪な友人からあなた自身が離れているように   邪悪と組するな。   [   Avot   1:7   ]   ザドク   (Zadok)   とヒレル   (Hillel)   は同意した:人は共同体社会から彼自身を分離すべきではない。そして   これはまたこう教えられた   我々は邪悪の人々から我々自身を分離すべきであると。あなたはきっと「腐ったリンゴ   (rotten   apple)   」のタイプを知っているでしょう。彼はこう言う人です:「この雑誌を盗もう   本屋は絶対に気付かないから」「今日だけ学校をさぼろう   何と時間を持てるんだから!」彼は   これらの事は結局そんな悪いことではないのだと   あなたに考えさせるような人なのだ。「他の人たちもそうしている   罰っせられないよ。あんたはなぜしないの?」腐ったリンゴの人はあなたに「邪悪の衝動」を直接にしゃべる人なのだ。   ヨシュアによると   従うのに最も悪い道は   邪悪な仲間があなたを導くその道である。最も良い道は   良い友人と共同体社会の道である。我々が選んだ友人たちが良い道の人たちである時   我々は彼らをもっと好きになる。また我々自身が他の人々に良い友人となり   正しい道に彼らを導く。ヨシュアはこの彼自身のようであった。彼は   彼を知っている全てへの祝福であった。   Rabbi   Yose's   answer   (3)ラビ・ヨセの答え   ヨセの答えはヨシュアの答えにとても類似していた。ヨセは答えた:従うべき良い道は「良い隣人」であり   避けるべき道は「邪悪な隣人」である。共同体社会という言葉の考えを除いて   実際に「良い友」と「良い隣人」との差はないであろう。   ヨセが区別しているのはこういうことである。「良い隣人」はグループで一緒に仕事することによってなされる事に関連している。「良い隣人」は彼の芝生が保持されている道を気にかけ   彼のごみをいかに処理するかに気を使う。一般に   彼のまわりに住んでいる人々の気持ちを深く考える。「良い隣人」になるということは   緊張が関係しているところの他の物事に向かってゆく態度を開発するという意味がある:近所に住んでいる人々全ての幸福への関係   共同体社会の将来への関係   共同体社会が選択するところの生活の道への関係。そんな関係は「良い隣人」のしるしである。   「邪悪な隣人」がすることは利己主義である。「邪悪な衝動」が成し遂げることができる最大の害の一つが「邪悪な隣人」に人を変えることである。他の人々は共同体社会にプライドを持つが   一方   「邪悪な隣人」は自分だけのためにしか注意を払わない。共同体社会が危険な状態になる   あるいは悪い時期に落ちる時は   それは単純に「邪悪な隣人」が移り住んで来て   彼はもう一つの共同体社会の中で自分の安らぎを探そうとする時である。   我々は時々   近所が「悪くなってきている」あるいは住むのに難しくなってきている   ということを聞く。通常このことは   近所の人々がお互いに「良い隣人」になることを止めて   彼ら自身のためだけに心配するという「邪悪な隣人」の作法を行ない始めたためなのである。   Rabbi   Simeon's   answer   (4)ラビ・シモンの答え   シモンの答えは全く異なっていた。シモンは言った:従うべき良い道は   自らの行動の「結果を考える人」である。人がある方法で行動するときにその結果が何かを知る   そのことの助けとして宗教的な知覚を使う人は   他人に害を与えるような過ちを少なくするであろう。人々は通常は残酷な行動をとろうとはしないものだ   しかし   しばしば考え無しで行動することがある。   例えば   しばしば我々を勝たせるために我々の怒りを許してしまい   そして我々が本当は世話するところの他人を侮辱してしまう。そんな振る舞いが他人に起こす苦痛を前もって考えておくことが   普通にはこんな風に我々の怒りを表わさないで維持できるであろう。   また   我々の行動の「結果を考える」ためには   我々は行動する前に証拠を集めなければならない。我々にとって   このことは結果あるいはその可能な結果を学ぶことを意味する。我々が前もって行動の可能な結果を学ぶ時   我々はもっと親切に行動するようになる。なぜならば我々の行動が他人   そして結局は我々自身   をいかに害するかもしれないと知るからである。   このような老人の物語がある。ある老人が彼の最後の年に彼の息子の家族のもとで住むためにやって来た。さて彼の息子は   彼の父に食事に使うのを許したら   父がその上等な陶器を壊してはしまわないかと恐れた。それでその息子は老人のために食事に使う木のおわんと木のスプーンを準備した。   さてある日   その息子が家に帰ってきて   彼自身の息子がナイフで木の片を削っているのを見た。「何をしているのかい?」   彼は子供に言った。「お父さんがおじいちゃんのように年とった時に   お父さんが食べるための木のおわんを作っているんだよ」   と子供は言った。   シモンの二つ目の質問の答えは   人が避けるべき道は「借りたのに返さない人」であった。最初は   これは彼の行動の「結果を考える」ことの正反対ではないように思われるが   しかし本当の意味では正反対なのである。返すことを考えずに借りる人は明らかに彼の行動の結果を深く考えてはいない。ラビはこう教えた:我々は   自分自身の財産と同じように   他人の財産を尊重すべきである。我々が何かを借りた時   我々自身の所有物にするのと同じように注意深く扱うべきである。   シモンは説明を続けた:我々が他の人から借りた時   我々は「神から借りている人」のようである。最後の分析では   我々が所有している全てのものは「神から借りている」。慈善をすることは我々が借りていたものに対する払戻しの一種である。詩に書かれているように   邪悪な者は借り   そして返さない   正義の者は憐み   そして与える。   (詩編37:21)   The   answers   of   Rabbi   Eleazar   (5)ラビ・エルアザルの答え   最後の答えはラビ・エルアザル・ベン・アラクのものである。エルアザルは言った:従うべき良い道は「良い心」であり   避けるべき道は「邪悪な心」である。   ラビ・ヨハナンは彼の学生たちにの答えをよく聞いた後に   彼は言った:わたしはラビ・エルアザル・ベン・アラクの言葉を取る。あなたたちの言葉は彼の言葉に含まれているからだ。   [   Avot   2:9   ]   「良い心」の考えは   おそらく   我々がもう終わっている「study」の(The   value   of   study   :   勉強の価値)で最もよく要約されている。全ての事が「良い心」を持つという考えの中に入ってゆく......我々の各々が持ち得る人間という種類の性質の全ての事。   「良い心」を持った人は   彼のまわりの全てにあるところの良いものと見る   そして彼自身の行動を通してそれに加える。「良い心」を持った人は   神のイメージで生活し   他の人々を尊敬するよう努力している。ラビの有名な話の一が良い例である:私は(神の)創造物であり   私の隣人もまた彼の創造物である。私の仕事は町にあり   彼の仕事は畑にある。私は私の仕事のために早く起きる   彼は彼の仕事のために早く起きる。彼は私の仕事を越えることはできないように   私も彼の仕事を越えることはできない。しかしあなたは言うであろう   私は大きなことをしている   そして彼は小さなことをしている。我々は学んだ   人がすることが多かろうが少なかろうがそれが問題ではない   もし彼が天に向けて彼の心を導いてさえいれば。   [   Berachot   17a   ]   The   path   of   the   good   heart   我々はこの教えを「良い心の道」と呼ぶかもしれない。ラビがヤバネの学校   (the   academy   at   Yavneh)   時代に教えていた時と同様に   それは今でも真実である。あなたが医者あるいは労働者   料理長   店員   警官あるいは店主であろうともそれが問題ではない。人間を偉大にするところのものは「良い心の道」に従うことである。   人は言うかもしれない   私は賢人になるほど学んでいなかった   私は法律(トーラ)を勉強しなかった   私はすべき何なのか(what   am   I   to   do)?しかし神はそのイスラエル人に言った   全ての知恵も全トーラも簡単な一つのことなのだ。私を恐れる者   そしてトーラを行なう者は   彼の心の中に全ての知恵と全トーラを持っているのだ。   [   Deuteronomy   Rabbah   11:6   ]   全トーラが行ないで見られる   ということを示すために   ラビはこう教えた:トーラの最後の文字は「lamed」であり   トーラの最初の文字は「bet」である。これらの文字を連げると単語「レブ」となる   これは「心」を意味する。このことは   イスラエルの法律であるトーラの中に含まれている全てのものは   各々のユダヤ人の心の中に含まれている   ということを示しているのだ。   トーラの最後の文字は「lamed」であり   トーラの最初の文字は「bet」である。   これについて解説します。トーラの最後の文は   申命記の最後の文章:また   モーセが全イスラエルの目の前で   あらゆる力ある業とあらゆる大いなる恐るべき出来事を示すためであった。   (申命記34:12)   ヘブライ語での原書では   最後の単語が「イスラエル」ですから   最後の文字は「ル」つまりヘブル文字「lamed」です。トーラの最初の文は   創世記の最初の文章:初めに   神は天地を創造された。   (創世記1:1)   ヘブライ語での原書では   最初の単語が「ベレッシート」ですから   最初の文字は「ベ」つまりヘブル文字「bet」です。トーラの最後と最初をつなげる   という発想がユニークなんですが   「..............イスラエル」+「ベレッシート...............」これらの文字を連げると   「ル」+「ベ」   つまり「lamed」+「bet」これは単語「レブ」と発音して「heart(心)」を意味します。   我々はヒレル   (Hillel)   によて提案された質問:   If   I   am   not   for   myself   who   will   be   for   me   ?   について各々が答えを見つけなければならない。   我々の伝統だけではこの質問の答えを我々に教えることはできない   その答えはもっと身近にあるからであり   それは我々の各々の心の中にある。我々の伝統が我々に教えることができるのは   それがあなた自身の「ために」なると意味していることであり   そして   Who   will   be   "for"   you   when   you   act   for   yourself.   ヒレルの質問は一つの中に百の質問がある:   If   I   am   not   myself   who   will   be   me   ?   If   I   do   not   take   part   in   my   community   who   in   the   community   will   take   my   part   for   me   ?   If   I   do   not   take   a   stand   in   my   own   name   who   will   fight   for   what   I   believe   ?   If   I   do   not   work   to   make   myself   better   who   will   do   that   work   for   me   ?   If   I   do   not   direct   my   actions   who   will   direct   them   for   me   ?   And   more.   我々の伝統が我々に教えているのは   我々は我々の行動を通して良くなることができ   良くなることは達成するのにそんなに難しいことではなく   そして良くなることへの報酬は結果として良いことである   ということである。それで   彼自身の「ために」実行することを欲する人は   他の人々の「ために」もまた実行するであろう。   トーラの戒律「あなた自身のようにあなたの隣人を愛しなさい」   これは他の人々を愛すためにはまず最初にあなた自身を愛さなくてはならない   ということを意味している。     ラビがこう教えていた。トーラが「あなた自身のようにあなたの隣人を愛しなさい」と言う時は   何を意味しているのか。彼は一人の学生の方に向いて聞いた。「私を愛していますか?」学生は少し考えてから正直に答えた。「私はそう思います。」ラビは言った。「では   私を痛めているものは何か   言ってみなさい。」学生は答えた。「あなたを痛めているものは何か知りません。」「それなら   あなたは私を愛してはいない。」ラビは言った。「誰かを愛することは彼を痛めているものは何かを知ることを意味する。」   我々の各々は   何が我々を痛めているか   我々が痛い時はいつかを知っている。我々が自分自身を愛している時   自分が痛くないようにと   痛くなることから自分を保持しようと努力している。我々が痛みの意味を理解した時のみ   我々は他人がいかに感じるかを理解し始める。   つまりこのことが   ヒレルの質問がこの文で終わっていない理由である。   "If   I   am   not   for   myself   who   will   be   for   me   ?"   ヒレルの質問はつづく。   "And   if   I   am   only   for   myself   what   am   I   ?"   "And   if   not   now   when   ?"   もし人が彼自身のためだけならば   もし彼が重大な人は自分だけであると考えるほど利己的であるならば   彼は全ての意味を失っている。それは現実を離れて横に歩く道であり   真の愛からはずれた臆病者の道である。臆病者は彼自身を愛すことができない。   ヒレルの質問   "If   I   am   not   for   myself   who   will   be   for   me   ?"     我々が自分自身を評価し我々の可能性を評価しなければならない   我々が自重して行動するよう自分自身を訓練しなければならない   ことを意味している。もし我々がそうすれば   我々が他の人々に対して正しく行動することに   そして自分自身を尊敬すると同様に他の人々を尊敬することについて我々が基礎をもつであろう。何が良いことで寛大なことか   そして何が悪いことで利己的なことか   我々がその間の内部バランスを創る努力をするのとちょうど同じように   また我々自身の考慮と我々の隣人たちの考慮との間の内部バランスを創る努力をしなければならない。我々はお互いを愛さなければならない。   そして   我々の伝統は我々自身を良くする訓練を助け   我々がとる行動の種類において我々自身を愛する理由の発見を助ける   これと同様に   それは他の人々と一緒に我々自身が生活する訓練を助ける。我々の各々が「良い心の道」に従う努力をして   我々がお互いに痛みを避ける努力をするような社会を一緒に築かなければならない。共同体社会の全てのメンバーが個々に良いという理由で   共同体社会が「良い心の道」に従う   そんな社会を我々は築かなければなりません。   これが「The   value   of   community」共同体の価値の本質である   そこでは   ヒレルの第二の質問を答える努力をする。   "And   if   I   am   only   for   myself   what   am   I   ?"  

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Vivaldi Gloria in DMajorRV589(お話です) 1 「イスラエルと神ヤハウェ」「タルムード」「愛の価値」

Vivaldi Gloria in D Major RV 589 (お話です) 1 「イスラエルと神ヤハウェの信仰」「タルムード」「愛の価値」「イスラエルの民が繁栄した時期に 神ヤハウェーの信仰だけでなく エルサレム神殿の他に 聖所を造り、 異教のバアル神などの信仰の 礼拝も行ったことで 預言者エレミヤが シロにあったヤハウェの神殿が 滅亡したように このエルサレムの神殿も 必ず滅亡すると断言して イェホヤキム王と 神殿の祭司と預言者が エレミヤを排斥しました。 統治者が アッシリアからバヒロニアになり バビロニアが エルサレムを滅亡させて イスラエルの民を捕囚ました。 神ヤハウェーが 許さぬというお告げをしましたが 神ヤハウェが全知全能の神として 神ヤハウェイとスラエルの民という シナイ契約で成立した民族の 滅亡を放置するだろうか。 ここに、民族の断絶の先にある 「終わりの日」に成立する 「新しい契約」の希望を生み出して、 ここに、イスラエル民族が 捕囚を経験して ユダヤ民族に回帰した 奇跡が起きました。 「The value of love:愛の価値」 アボットは、ラビ・ヨハナン・ベン・ザカイ (Rabbi Yohanan ben Zakkai) が、ラビである五人の生徒に与えら普通でない宿題の記録を含んでいる。それは二つの質問からなる。 どれが人の固守すべき正しい道なのか、出て行って見てきなさい......。人が遠ざけなければならない邪悪な道はどれなのか、出て行って見てきなさい。 [ Avot 2:9 ] ヨハナン・ベン・ザカイが「出て行って」と言っているように、彼らの答えを教室の外で、毎日の行動の世界の中で、探すように告げていた。あなたは、五人の学生ラビが彼に与える答えを読み進む前に、紙とペンを取ってあなた自身の答えを少ない言葉で書いてみなさい。正義と公平をするための鍵は何だと思いますか。もし我々が邪悪を避けるつもりなら、避けなければならないものは何だと思いますか。 The answers 五人の学生ラビの答えは、この本の前半の我々の勉強の要約となるのものである。ユダヤ人の行動に対して我々自身がいかに準備したらよいか、これに関してここに集められたアイデアの多くは、ラビたちが与えた答の中に含まれている。これらのアイデアの幾つかは、またあなたが書いた短い答えの中に、おそらく含まれている。我々が勉強してきた道にあなたがどれだけ近づいてきたか見てみよう。あなたはこれらの質問にどのように答えるのでしょうか?

投稿者:サイト名 有馬徳彦
投稿日時:2012.6.23. 05:20
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タグ: Vivaldi   Gloria   in   D   Major   RV   589   (お話です)   1   「イスラエルと神ヤハウェの信仰」「タルムード」「愛の価値」「イスラエルの民が繁栄した時期に   神ヤハウェーの信仰だけでなく   エルサレム神殿の他に   聖所を造り   異教のバアル神などの信仰の   礼拝も行ったことで   預言者エレミヤが   シロにあったヤハウェの神殿が   滅亡したように   このエルサレムの神殿も   必ず滅亡すると断言して   イェホヤキム王と   神殿の祭司と預言者が   エレミヤを排斥しました。   統治者が   アッシリアからバヒロニアになり   バビロニアが   エルサレムを滅亡させて   イスラエルの民を捕囚ました。   神ヤハウェーが   許さぬというお告げをしましたが   神ヤハウェが全知全能の神として   神ヤハウェイとスラエルの民という   シナイ契約で成立した民族の   滅亡を放置するだろうか。   ここに   民族の断絶の先にある   「終わりの日」に成立する   「新しい契約」の希望を生み出して   ここに   イスラエル民族が   捕囚を経験して   ユダヤ民族に回帰した   奇跡が起きました。   「The   value   of   love:愛の価値」   アボットは   ラビ・ヨハナン・ベン・ザカイ   (Rabbi   Yohanan   ben   Zakkai)     ラビである五人の生徒に与えら普通でない宿題の記録を含んでいる。それは二つの質問からなる。   どれが人の固守すべき正しい道なのか   出て行って見てきなさい......。人が遠ざけなければならない邪悪な道はどれなのか   出て行って見てきなさい。   [   Avot   2:9   ]   ヨハナン・ベン・ザカイが「出て行って」と言っているように   彼らの答えを教室の外で   毎日の行動の世界の中で   探すように告げていた。あなたは   五人の学生ラビが彼に与える答えを読み進む前に   紙とペンを取ってあなた自身の答えを少ない言葉で書いてみなさい。正義と公平をするための鍵は何だと思いますか。もし我々が邪悪を避けるつもりなら   避けなければならないものは何だと思いますか。   The   answers   五人の学生ラビの答えは   この本の前半の我々の勉強の要約となるのものである。ユダヤ人の行動に対して我々自身がいかに準備したらよいか   これに関してここに集められたアイデアの多くは   ラビたちが与えた答の中に含まれている。これらのアイデアの幾つかは   またあなたが書いた短い答えの中に   おそらく含まれている。我々が勉強してきた道にあなたがどれだけ近づいてきたか見てみよう。あなたはこれらの質問にどのように答えるのでしょうか?   The   answers   of   Rabbi   Eliezer   (1)ラビ・エリエゼルの答え   エリエゼルはスポンジのような記憶力を持った学生であった。注がれた水の全ての一滴までも捕えてしまう水がめのようなので   彼の先生は彼を「セメントの水がめ」と呼んだ。エリエゼルはかって聞いたトーラの全ての教えを記憶していた。そんな人はこの二つの質問にどう答えるであろうか?   エリエゼルは言った   固守すべき正しい道は「良い目」で   避けるべき邪悪な道は「邪悪な目」である。我々は「邪悪な目」によって意味していることを簡単に理解することができる。それは世界を見て   生きる所として醜い   不幸な   みすぼらしい場所を探す道である。「邪悪な目」は   ねたみ   嫉妬   絶えず続く不平そして不幸に耐える。     ある男が彼のラビの前に現われて言った:「私は良いことをするという仕事を止めましたよ。私の一生で   人々は私が良かったら成功するだろうと言っていた。しかし見よ   ここに邪悪であったが成功した人の20人のリストを持っているこれから   私の客をだますことにしよう   そして私もまた金持ちになろう。」ラビは笑って言った:「私は邪悪で成功した人のあなたのリストを見た。しかし   良いことで成功した人のあなたのリストはどこにあるのか?」   人が「邪悪な目」を通して世界を見る時   彼は自然に邪悪であるところの事のみを見ている   そして彼はすべてのものによって妨害されているのだ。「良い目」の人はちょうどその反対である。「良い目」を通しての世界は   喜び   歓声そして   満足   安心の場所である。「良い目」は我々の宗教的な知覚であり   我々を通して世界の中にどんな良いことがもたらせられるのかを知るための我々の能力である。   エリエゼルの答えは   我々にこう告げている:我々が本当に何を見ているかは   我々が物事を見る方法に依存しているのだ。   ことわざが言う:「良い目」を持った人は祝福されるであろう   彼は貧しい者にパンを与えるからである。   (箴言22:9)   言い換えれば   たとえ「良い目」を持った人彼自身が貧しくても   彼はもっと貧しい人を見つけて慈善をするであろう   なぜならば彼の「良い目」が彼自身を金持ちであるとして自分を認めるからである。   箴言=しんげん   箴言22:9の解説:   「良い目」を持った人は祝福されるであろう   彼は貧しい者にパンを与えるからである。   (箴言22:9)   これは聖書の原文であるヘブライ語からの翻訳ですが   日本語や英語の聖書を読むと訳が違っているのに気づきます。   例えば   「新共同訳」聖書では   「寛大な人」は祝福を受ける   自分のパンをさいて弱い人に与えるから。   (箴言22:9)   また   英訳の「Holy   Bible」では   A   generous   man   will   himself   be   blessed   for   he   shares   his   food   with   the   poor.   (   Proverbs   22:9   )   この日本語や英訳の   「寛大な人/generous   man」が慈善をする   というのはあたりまえで   ここには新しい教訓がなく   面白くも何ともない。ヘブライ語原文の   「良い目の人」が慈善をする   という謎めいた教訓の方がはるかに知的で感動しませんか。偉大なソロモン王が創作したことわざ集と言われる「箴言」   その彼の作品の苦労の一端を少し理解できたわけです。   Rabbi   Joshua's   answer   (2)ラビ・ヨシュアの答え   ヨシュアによると   従うべき良い道は「良い友」であり   避けるべき道は「邪悪な友」である。ヨシュアの答えは「腐ったリンゴは束をだめにする」という古い格言を思い起こさせる。しかし彼の考えは   アボットの他の所で別の人々が表現しているものとそんなに変わらなかった。例えばアルベル人のニッタイ   (Nittai   the   Arbelite)   がこう言った:邪悪な友人からあなた自身が離れているように   邪悪と組するな。   [   Avot   1:7   ]   ザドク   (Zadok)   とヒレル   (Hillel)   は同意した:人は共同体社会から彼自身を分離すべきではない。そして   これはまたこう教えられた   我々は邪悪の人々から我々自身を分離すべきであると。あなたはきっと「腐ったリンゴ   (rotten   apple)   」のタイプを知っているでしょう。彼はこう言う人です:「この雑誌を盗もう   本屋は絶対に気付かないから」「今日だけ学校をさぼろう   何と時間を持てるんだから!」彼は   これらの事は結局そんな悪いことではないのだと   あなたに考えさせるような人なのだ。「他の人たちもそうしている   罰っせられないよ。あんたはなぜしないの?」腐ったリンゴの人はあなたに「邪悪の衝動」を直接にしゃべる人なのだ。   ヨシュアによると   従うのに最も悪い道は   邪悪な仲間があなたを導くその道である。最も良い道は   良い友人と共同体社会の道である。我々が選んだ友人たちが良い道の人たちである時   我々は彼らをもっと好きになる。また我々自身が他の人々に良い友人となり   正しい道に彼らを導く。ヨシュアはこの彼自身のようであった。彼は   彼を知っている全てへの祝福であった。   Rabbi   Yose's   answer   (3)ラビ・ヨセの答え   ヨセの答えはヨシュアの答えにとても類似していた。ヨセは答えた:従うべき良い道は「良い隣人」であり   避けるべき道は「邪悪な隣人」である。共同体社会という言葉の考えを除いて   実際に「良い友」と「良い隣人」との差はないであろう。   ヨセが区別しているのはこういうことである。「良い隣人」はグループで一緒に仕事することによってなされる事に関連している。「良い隣人」は彼の芝生が保持されている道を気にかけ   彼のごみをいかに処理するかに気を使う。一般に   彼のまわりに住んでいる人々の気持ちを深く考える。「良い隣人」になるということは   緊張が関係しているところの他の物事に向かってゆく態度を開発するという意味がある:近所に住んでいる人々全ての幸福への関係   共同体社会の将来への関係   共同体社会が選択するところの生活の道への関係。そんな関係は「良い隣人」のしるしである。   「邪悪な隣人」がすることは利己主義である。「邪悪な衝動」が成し遂げることができる最大の害の一つが「邪悪な隣人」に人を変えることである。他の人々は共同体社会にプライドを持つが   一方   「邪悪な隣人」は自分だけのためにしか注意を払わない。共同体社会が危険な状態になる   あるいは悪い時期に落ちる時は   それは単純に「邪悪な隣人」が移り住んで来て   彼はもう一つの共同体社会の中で自分の安らぎを探そうとする時である。   我々は時々   近所が「悪くなってきている」あるいは住むのに難しくなってきている   ということを聞く。通常このことは   近所の人々がお互いに「良い隣人」になることを止めて   彼ら自身のためだけに心配するという「邪悪な隣人」の作法を行ない始めたためなのである。   Rabbi   Simeon's   answer   (4)ラビ・シモンの答え   シモンの答えは全く異なっていた。シモンは言った:従うべき良い道は   自らの行動の「結果を考える人」である。人がある方法で行動するときにその結果が何かを知る   そのことの助けとして宗教的な知覚を使う人は   他人に害を与えるような過ちを少なくするであろう。人々は通常は残酷な行動をとろうとはしないものだ   しかし   しばしば考え無しで行動することがある。   例えば   しばしば我々を勝たせるために我々の怒りを許してしまい   そして我々が本当は世話するところの他人を侮辱してしまう。そんな振る舞いが他人に起こす苦痛を前もって考えておくことが   普通にはこんな風に我々の怒りを表わさないで維持できるであろう。   また   我々の行動の「結果を考える」ためには   我々は行動する前に証拠を集めなければならない。我々にとって   このことは結果あるいはその可能な結果を学ぶことを意味する。我々が前もって行動の可能な結果を学ぶ時   我々はもっと親切に行動するようになる。なぜならば我々の行動が他人   そして結局は我々自身   をいかに害するかもしれないと知るからである。   このような老人の物語がある。ある老人が彼の最後の年に彼の息子の家族のもとで住むためにやって来た。さて彼の息子は   彼の父に食事に使うのを許したら   父がその上等な陶器を壊してはしまわないかと恐れた。それでその息子は老人のために食事に使う木のおわんと木のスプーンを準備した。   さてある日   その息子が家に帰ってきて   彼自身の息子がナイフで木の片を削っているのを見た。「何をしているのかい?」   彼は子供に言った。「お父さんがおじいちゃんのように年とった時に   お父さんが食べるための木のおわんを作っているんだよ」   と子供は言った。   シモンの二つ目の質問の答えは   人が避けるべき道は「借りたのに返さない人」であった。最初は   これは彼の行動の「結果を考える」ことの正反対ではないように思われるが   しかし本当の意味では正反対なのである。返すことを考えずに借りる人は明らかに彼の行動の結果を深く考えてはいない。ラビはこう教えた:我々は   自分自身の財産と同じように   他人の財産を尊重すべきである。我々が何かを借りた時   我々自身の所有物にするのと同じように注意深く扱うべきである。   シモンは説明を続けた:我々が他の人から借りた時   我々は「神から借りている人」のようである。最後の分析では   我々が所有している全てのものは「神から借りている」。慈善をすることは我々が借りていたものに対する払戻しの一種である。詩に書かれているように   邪悪な者は借り   そして返さない   正義の者は憐み   そして与える。   (詩編37:21)   The   answers   of   Rabbi   Eleazar   (5)ラビ・エルアザルの答え   最後の答えはラビ・エルアザル・ベン・アラクのものである。エルアザルは言った:従うべき良い道は「良い心」であり   避けるべき道は「邪悪な心」である。   ラビ・ヨハナンは彼の学生たちにの答えをよく聞いた後に   彼は言った:わたしはラビ・エルアザル・ベン・アラクの言葉を取る。あなたたちの言葉は彼の言葉に含まれているからだ。   [   Avot   2:9   ]   「良い心」の考えは   おそらく   我々がもう終わっている「study」の(The   value   of   study   :   勉強の価値)で最もよく要約されている。全ての事が「良い心」を持つという考えの中に入ってゆく......我々の各々が持ち得る人間という種類の性質の全ての事。   「良い心」を持った人は   彼のまわりの全てにあるところの良いものと見る   そして彼自身の行動を通してそれに加える。「良い心」を持った人は   神のイメージで生活し   他の人々を尊敬するよう努力している。ラビの有名な話の一が良い例である:私は(神の)創造物であり   私の隣人もまた彼の創造物である。私の仕事は町にあり   彼の仕事は畑にある。私は私の仕事のために早く起きる   彼は彼の仕事のために早く起きる。彼は私の仕事を越えることはできないように   私も彼の仕事を越えることはできない。しかしあなたは言うであろう   私は大きなことをしている   そして彼は小さなことをしている。我々は学んだ   人がすることが多かろうが少なかろうがそれが問題ではない   もし彼が天に向けて彼の心を導いてさえいれば。   [   Berachot   17a   ]   The   path   of   the   good   heart   我々はこの教えを「良い心の道」と呼ぶかもしれない。ラビがヤバネの学校   (the   academy   at   Yavneh)   時代に教えていた時と同様に   それは今でも真実である。あなたが医者あるいは労働者   料理長   店員   警官あるいは店主であろうともそれが問題ではない。人間を偉大にするところのものは「良い心の道」に従うことである。   人は言うかもしれない   私は賢人になるほど学んでいなかった   私は法律(トーラ)を勉強しなかった   私はすべき何なのか(what   am   I   to   do)?しかし神はそのイスラエル人に言った   全ての知恵も全トーラも簡単な一つのことなのだ。私を恐れる者   そしてトーラを行なう者は   彼の心の中に全ての知恵と全トーラを持っているのだ。   [   Deuteronomy   Rabbah   11:6   ]   全トーラが行ないで見られる   ということを示すために   ラビはこう教えた:トーラの最後の文字は「lamed」であり   トーラの最初の文字は「bet」である。これらの文字を連げると単語「レブ」となる   これは「心」を意味する。このことは   イスラエルの法律であるトーラの中に含まれている全てのものは   各々のユダヤ人の心の中に含まれている   ということを示しているのだ。   トーラの最後の文字は「lamed」であり   トーラの最初の文字は「bet」である。   これについて解説します。トーラの最後の文は   申命記の最後の文章:また   モーセが全イスラエルの目の前で   あらゆる力ある業とあらゆる大いなる恐るべき出来事を示すためであった。   (申命記34:12)   ヘブライ語での原書では   最後の単語が「イスラエル」ですから   最後の文字は「ル」つまりヘブル文字「lamed」です。トーラの最初の文は   創世記の最初の文章:初めに   神は天地を創造された。   (創世記1:1)   ヘブライ語での原書では   最初の単語が「ベレッシート」ですから   最初の文字は「ベ」つまりヘブル文字「bet」です。トーラの最後と最初をつなげる   という発想がユニークなんですが   「..............イスラエル」+「ベレッシート...............」これらの文字を連げると   「ル」+「ベ」   つまり「lamed」+「bet」これは単語「レブ」と発音して「heart(心)」を意味します。   我々はヒレル   (Hillel)   によて提案された質問:   If   I   am   not   for   myself   who   will   be   for   me   ?   について各々が答えを見つけなければならない。   我々の伝統だけではこの質問の答えを我々に教えることはできない   その答えはもっと身近にあるからであり   それは我々の各々の心の中にある。我々の伝統が我々に教えることができるのは   それがあなた自身の「ために」なると意味していることであり   そして   Who   will   be   "for"   you   when   you   act   for   yourself.   ヒレルの質問は一つの中に百の質問がある:   If   I   am   not   myself   who   will   be   me   ?   If   I   do   not   take   part   in   my   community   who   in   the   community   will   take   my   part   for   me   ?   If   I   do   not   take   a   stand   in   my   own   name   who   will   fight   for   what   I   believe   ?   If   I   do   not   work   to   make   myself   better   who   will   do   that   work   for   me   ?   If   I   do   not   direct   my   actions   who   will   direct   them   for   me   ?   And   more.   我々の伝統が我々に教えているのは   我々は我々の行動を通して良くなることができ   良くなることは達成するのにそんなに難しいことではなく   そして良くなることへの報酬は結果として良いことである   ということである。それで   彼自身の「ために」実行することを欲する人は   他の人々の「ために」もまた実行するであろう。   トーラの戒律「あなた自身のようにあなたの隣人を愛しなさい」   これは他の人々を愛すためにはまず最初にあなた自身を愛さなくてはならない   ということを意味している。     ラビがこう教えていた。トーラが「あなた自身のようにあなたの隣人を愛しなさい」と言う時は   何を意味しているのか。彼は一人の学生の方に向いて聞いた。「私を愛していますか?」学生は少し考えてから正直に答えた。「私はそう思います。」ラビは言った。「では   私を痛めているものは何か   言ってみなさい。」学生は答えた。「あなたを痛めているものは何か知りません。」「それなら   あなたは私を愛してはいない。」ラビは言った。「誰かを愛することは彼を痛めているものは何かを知ることを意味する。」   我々の各々は   何が我々を痛めているか   我々が痛い時はいつかを知っている。我々が自分自身を愛している時   自分が痛くないようにと   痛くなることから自分を保持しようと努力している。我々が痛みの意味を理解した時のみ   我々は他人がいかに感じるかを理解し始める。   つまりこのことが   ヒレルの質問がこの文で終わっていない理由である。   "If   I   am   not   for   myself   who   will   be   for   me   ?"   ヒレルの質問はつづく。   "And   if   I   am   only   for   myself   what   am   I   ?"   "And   if   not   now   when   ?"   もし人が彼自身のためだけならば   もし彼が重大な人は自分だけであると考えるほど利己的であるならば   彼は全ての意味を失っている。それは現実を離れて横に歩く道であり   真の愛からはずれた臆病者の道である。臆病者は彼自身を愛すことができない。   ヒレルの質問   "If   I   am   not   for   myself   who   will   be   for   me   ?"     我々が自分自身を評価し我々の可能性を評価しなければならない   我々が自重して行動するよう自分自身を訓練しなければならない   ことを意味している。もし我々がそうすれば   我々が他の人々に対して正しく行動することに   そして自分自身を尊敬すると同様に他の人々を尊敬することについて我々が基礎をもつであろう。何が良いことで寛大なことか   そして何が悪いことで利己的なことか   我々がその間の内部バランスを創る努力をするのとちょうど同じように   また我々自身の考慮と我々の隣人たちの考慮との間の内部バランスを創る努力をしなければならない。我々はお互いを愛さなければならない。   そして   我々の伝統は我々自身を良くする訓練を助け   我々がとる行動の種類において我々自身を愛する理由の発見を助ける   これと同様に   それは他の人々と一緒に我々自身が生活する訓練を助ける。我々の各々が「良い心の道」に従う努力をして   我々がお互いに痛みを避ける努力をするような社会を一緒に築かなければならない。共同体社会の全てのメンバーが個々に良いという理由で   共同体社会が「良い心の道」に従う   そんな社会を我々は築かなければなりません。   これが「The   value   of   community」共同体の価値の本質である   そこでは   ヒレルの第二の質問を答える努力をする。   "And   if   I   am   only   for   myself   what   am   I   ?"  

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Vivaldi Gloria in DMajorRV589(お話です)全体「イスラエルと神ヤハウェ」「タルムード」「愛の価値」

Vivaldi Gloria in D Major RV 589 (お話です) 全体版 「イスラエルと神ヤハウェの信仰」「タルムード」「愛の価値」「イスラエルの民が繁栄した時期に 神ヤハウェーの信仰だけでなく エルサレム神殿の他に 聖所を造り、 異教のバアル神などの信仰の 礼拝も行ったことで 預言者エレミヤが シロにあったヤハウェの神殿が 滅亡したように このエルサレムの神殿も 必ず滅亡すると断言して イェホヤキム王と 神殿の祭司と預言者が エレミヤを排斥しました。 統治者が アッシリアからバヒロニアになり バビロニアが エルサレムを滅亡させて イスラエルの民を捕囚ました。 神ヤハウェーが 許さぬというお告げをしましたが 神ヤハウェが全知全能の神として 神ヤハウェイとスラエルの民という シナイ契約で成立した民族の 滅亡を放置するだろうか。 ここに、民族の断絶の先にある 「終わりの日」に成立する 「新しい契約」の希望を生み出して、 ここに、イスラエル民族が 捕囚を経験して ユダヤ民族に回帰した 奇跡が起きました。 「The value of love:愛の価値」 アボットは、ラビ・ヨハナン・ベン・ザカイ (Rabbi Yohanan ben Zakkai) が、ラビである五人の生徒に与えら普通でない宿題の記録を含んでいる。それは二つの質問からなる。 どれが人の固守すべき正しい道なのか、出て行って見てきなさい......。人が遠ざけなければならない邪悪な道はどれなのか、出て行って見てきなさい。 [ Avot 2:9 ] ヨハナン・ベン・ザカイが「出て行って」と言っているように、彼らの答えを教室の外で、毎日の行動の世界の中で、探すように告げていた。あなたは、五人の学生ラビが彼に与える答えを読み進む前に、紙とペンを取ってあなた自身の答えを少ない言葉で書いてみなさい。正義と公平をするための鍵は何だと思いますか。もし我々が邪悪を避けるつもりなら、避けなければならないものは何だと思いますか。 The answers 五人の学生ラビの答えは、この本の前半の我々の勉強の要約となるのものである。ユダヤ人の行動に対して我々自身がいかに準備したらよいか、これに関してここに集められたアイデアの多くは、ラビたちが与えた答の中に含まれている。これらのアイデアの幾つかは、またあなたが書いた短い答えの中に、おそらく含まれている。我々が勉強してきた道にあなたがどれだけ近づいてきたか見てみよう。あなたはこれらの質問にどのように答えるのでしょうか?

投稿者:サイト名 有馬徳彦
投稿日時:2012.6.23. 02:24
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カテゴリ: 暮らし全般   エンタメ全般   教育全般  
タグ: Vivaldi   Gloria   in   D   Major   RV   589   (お話です)   全体版   「イスラエルと神ヤハウェの信仰」「タルムード」「愛の価値」「イスラエルの民が繁栄した時期に   神ヤハウェーの信仰だけでなく   エルサレム神殿の他に   聖所を造り   異教のバアル神などの信仰の   礼拝も行ったことで   預言者エレミヤが   シロにあったヤハウェの神殿が   滅亡したように   このエルサレムの神殿も   必ず滅亡すると断言して   イェホヤキム王と   神殿の祭司と預言者が   エレミヤを排斥しました。   統治者が   アッシリアからバヒロニアになり   バビロニアが   エルサレムを滅亡させて   イスラエルの民を捕囚ました。   神ヤハウェーが   許さぬというお告げをしましたが   神ヤハウェが全知全能の神として   神ヤハウェイとスラエルの民という   シナイ契約で成立した民族の   滅亡を放置するだろうか。   ここに   民族の断絶の先にある   「終わりの日」に成立する   「新しい契約」の希望を生み出して   ここに   イスラエル民族が   捕囚を経験して   ユダヤ民族に回帰した   奇跡が起きました。   「The   value   of   love:愛の価値」   アボットは   ラビ・ヨハナン・ベン・ザカイ   (Rabbi   Yohanan   ben   Zakkai)     ラビである五人の生徒に与えら普通でない宿題の記録を含んでいる。それは二つの質問からなる。   どれが人の固守すべき正しい道なのか   出て行って見てきなさい......。人が遠ざけなければならない邪悪な道はどれなのか   出て行って見てきなさい。   [   Avot   2:9   ]   ヨハナン・ベン・ザカイが「出て行って」と言っているように   彼らの答えを教室の外で   毎日の行動の世界の中で   探すように告げていた。あなたは   五人の学生ラビが彼に与える答えを読み進む前に   紙とペンを取ってあなた自身の答えを少ない言葉で書いてみなさい。正義と公平をするための鍵は何だと思いますか。もし我々が邪悪を避けるつもりなら   避けなければならないものは何だと思いますか。   The   answers   五人の学生ラビの答えは   この本の前半の我々の勉強の要約となるのものである。ユダヤ人の行動に対して我々自身がいかに準備したらよいか   これに関してここに集められたアイデアの多くは   ラビたちが与えた答の中に含まれている。これらのアイデアの幾つかは   またあなたが書いた短い答えの中に   おそらく含まれている。我々が勉強してきた道にあなたがどれだけ近づいてきたか見てみよう。あなたはこれらの質問にどのように答えるのでしょうか?   The   answers   of   Rabbi   Eliezer   (1)ラビ・エリエゼルの答え   エリエゼルはスポンジのような記憶力を持った学生であった。注がれた水の全ての一滴までも捕えてしまう水がめのようなので   彼の先生は彼を「セメントの水がめ」と呼んだ。エリエゼルはかって聞いたトーラの全ての教えを記憶していた。そんな人はこの二つの質問にどう答えるであろうか?   エリエゼルは言った   固守すべき正しい道は「良い目」で   避けるべき邪悪な道は「邪悪な目」である。我々は「邪悪な目」によって意味していることを簡単に理解することができる。それは世界を見て   生きる所として醜い   不幸な   みすぼらしい場所を探す道である。「邪悪な目」は   ねたみ   嫉妬   絶えず続く不平そして不幸に耐える。     ある男が彼のラビの前に現われて言った:「私は良いことをするという仕事を止めましたよ。私の一生で   人々は私が良かったら成功するだろうと言っていた。しかし見よ   ここに邪悪であったが成功した人の20人のリストを持っているこれから   私の客をだますことにしよう   そして私もまた金持ちになろう。」ラビは笑って言った:「私は邪悪で成功した人のあなたのリストを見た。しかし   良いことで成功した人のあなたのリストはどこにあるのか?」   人が「邪悪な目」を通して世界を見る時   彼は自然に邪悪であるところの事のみを見ている   そして彼はすべてのものによって妨害されているのだ。「良い目」の人はちょうどその反対である。「良い目」を通しての世界は   喜び   歓声そして   満足   安心の場所である。「良い目」は我々の宗教的な知覚であり   我々を通して世界の中にどんな良いことがもたらせられるのかを知るための我々の能力である。   エリエゼルの答えは   我々にこう告げている:我々が本当に何を見ているかは   我々が物事を見る方法に依存しているのだ。   ことわざが言う:「良い目」を持った人は祝福されるであろう   彼は貧しい者にパンを与えるからである。   (箴言22:9)   言い換えれば   たとえ「良い目」を持った人彼自身が貧しくても   彼はもっと貧しい人を見つけて慈善をするであろう   なぜならば彼の「良い目」が彼自身を金持ちであるとして自分を認めるからである。   箴言=しんげん   箴言22:9の解説:   「良い目」を持った人は祝福されるであろう   彼は貧しい者にパンを与えるからである。   (箴言22:9)   これは聖書の原文であるヘブライ語からの翻訳ですが   日本語や英語の聖書を読むと訳が違っているのに気づきます。   例えば   「新共同訳」聖書では   「寛大な人」は祝福を受ける   自分のパンをさいて弱い人に与えるから。   (箴言22:9)   また   英訳の「Holy   Bible」では   A   generous   man   will   himself   be   blessed   for   he   shares   his   food   with   the   poor.   (   Proverbs   22:9   )   この日本語や英訳の   「寛大な人/generous   man」が慈善をする   というのはあたりまえで   ここには新しい教訓がなく   面白くも何ともない。ヘブライ語原文の   「良い目の人」が慈善をする   という謎めいた教訓の方がはるかに知的で感動しませんか。偉大なソロモン王が創作したことわざ集と言われる「箴言」   その彼の作品の苦労の一端を少し理解できたわけです。   Rabbi   Joshua's   answer   (2)ラビ・ヨシュアの答え   ヨシュアによると   従うべき良い道は「良い友」であり   避けるべき道は「邪悪な友」である。ヨシュアの答えは「腐ったリンゴは束をだめにする」という古い格言を思い起こさせる。しかし彼の考えは   アボットの他の所で別の人々が表現しているものとそんなに変わらなかった。例えばアルベル人のニッタイ   (Nittai   the   Arbelite)   がこう言った:邪悪な友人からあなた自身が離れているように   邪悪と組するな。   [   Avot   1:7   ]   ザドク   (Zadok)   とヒレル   (Hillel)   は同意した:人は共同体社会から彼自身を分離すべきではない。そして   これはまたこう教えられた   我々は邪悪の人々から我々自身を分離すべきであると。あなたはきっと「腐ったリンゴ   (rotten   apple)   」のタイプを知っているでしょう。彼はこう言う人です:「この雑誌を盗もう   本屋は絶対に気付かないから」「今日だけ学校をさぼろう   何と時間を持てるんだから!」彼は   これらの事は結局そんな悪いことではないのだと   あなたに考えさせるような人なのだ。「他の人たちもそうしている   罰っせられないよ。あんたはなぜしないの?」腐ったリンゴの人はあなたに「邪悪の衝動」を直接にしゃべる人なのだ。   ヨシュアによると   従うのに最も悪い道は   邪悪な仲間があなたを導くその道である。最も良い道は   良い友人と共同体社会の道である。我々が選んだ友人たちが良い道の人たちである時   我々は彼らをもっと好きになる。また我々自身が他の人々に良い友人となり   正しい道に彼らを導く。ヨシュアはこの彼自身のようであった。彼は   彼を知っている全てへの祝福であった。   Rabbi   Yose's   answer   (3)ラビ・ヨセの答え   ヨセの答えはヨシュアの答えにとても類似していた。ヨセは答えた:従うべき良い道は「良い隣人」であり   避けるべき道は「邪悪な隣人」である。共同体社会という言葉の考えを除いて   実際に「良い友」と「良い隣人」との差はないであろう。   ヨセが区別しているのはこういうことである。「良い隣人」はグループで一緒に仕事することによってなされる事に関連している。「良い隣人」は彼の芝生が保持されている道を気にかけ   彼のごみをいかに処理するかに気を使う。一般に   彼のまわりに住んでいる人々の気持ちを深く考える。「良い隣人」になるということは   緊張が関係しているところの他の物事に向かってゆく態度を開発するという意味がある:近所に住んでいる人々全ての幸福への関係   共同体社会の将来への関係   共同体社会が選択するところの生活の道への関係。そんな関係は「良い隣人」のしるしである。   「邪悪な隣人」がすることは利己主義である。「邪悪な衝動」が成し遂げることができる最大の害の一つが「邪悪な隣人」に人を変えることである。他の人々は共同体社会にプライドを持つが   一方   「邪悪な隣人」は自分だけのためにしか注意を払わない。共同体社会が危険な状態になる   あるいは悪い時期に落ちる時は   それは単純に「邪悪な隣人」が移り住んで来て   彼はもう一つの共同体社会の中で自分の安らぎを探そうとする時である。   我々は時々   近所が「悪くなってきている」あるいは住むのに難しくなってきている   ということを聞く。通常このことは   近所の人々がお互いに「良い隣人」になることを止めて   彼ら自身のためだけに心配するという「邪悪な隣人」の作法を行ない始めたためなのである。   Rabbi   Simeon's   answer   (4)ラビ・シモンの答え   シモンの答えは全く異なっていた。シモンは言った:従うべき良い道は   自らの行動の「結果を考える人」である。人がある方法で行動するときにその結果が何かを知る   そのことの助けとして宗教的な知覚を使う人は   他人に害を与えるような過ちを少なくするであろう。人々は通常は残酷な行動をとろうとはしないものだ   しかし   しばしば考え無しで行動することがある。   例えば   しばしば我々を勝たせるために我々の怒りを許してしまい   そして我々が本当は世話するところの他人を侮辱してしまう。そんな振る舞いが他人に起こす苦痛を前もって考えておくことが   普通にはこんな風に我々の怒りを表わさないで維持できるであろう。   また   我々の行動の「結果を考える」ためには   我々は行動する前に証拠を集めなければならない。我々にとって   このことは結果あるいはその可能な結果を学ぶことを意味する。我々が前もって行動の可能な結果を学ぶ時   我々はもっと親切に行動するようになる。なぜならば我々の行動が他人   そして結局は我々自身   をいかに害するかもしれないと知るからである。   このような老人の物語がある。ある老人が彼の最後の年に彼の息子の家族のもとで住むためにやって来た。さて彼の息子は   彼の父に食事に使うのを許したら   父がその上等な陶器を壊してはしまわないかと恐れた。それでその息子は老人のために食事に使う木のおわんと木のスプーンを準備した。   さてある日   その息子が家に帰ってきて   彼自身の息子がナイフで木の片を削っているのを見た。「何をしているのかい?」   彼は子供に言った。「お父さんがおじいちゃんのように年とった時に   お父さんが食べるための木のおわんを作っているんだよ」   と子供は言った。   シモンの二つ目の質問の答えは   人が避けるべき道は「借りたのに返さない人」であった。最初は   これは彼の行動の「結果を考える」ことの正反対ではないように思われるが   しかし本当の意味では正反対なのである。返すことを考えずに借りる人は明らかに彼の行動の結果を深く考えてはいない。ラビはこう教えた:我々は   自分自身の財産と同じように   他人の財産を尊重すべきである。我々が何かを借りた時   我々自身の所有物にするのと同じように注意深く扱うべきである。   シモンは説明を続けた:我々が他の人から借りた時   我々は「神から借りている人」のようである。最後の分析では   我々が所有している全てのものは「神から借りている」。慈善をすることは我々が借りていたものに対する払戻しの一種である。詩に書かれているように   邪悪な者は借り   そして返さない   正義の者は憐み   そして与える。   (詩編37:21)   The   answers   of   Rabbi   Eleazar   (5)ラビ・エルアザルの答え   最後の答えはラビ・エルアザル・ベン・アラクのものである。エルアザルは言った:従うべき良い道は「良い心」であり   避けるべき道は「邪悪な心」である。   ラビ・ヨハナンは彼の学生たちにの答えをよく聞いた後に   彼は言った:わたしはラビ・エルアザル・ベン・アラクの言葉を取る。あなたたちの言葉は彼の言葉に含まれているからだ。   [   Avot   2:9   ]   「良い心」の考えは   おそらく   我々がもう終わっている「study」の(The   value   of   study   :   勉強の価値)で最もよく要約されている。全ての事が「良い心」を持つという考えの中に入ってゆく......我々の各々が持ち得る人間という種類の性質の全ての事。   「良い心」を持った人は   彼のまわりの全てにあるところの良いものと見る   そして彼自身の行動を通してそれに加える。「良い心」を持った人は   神のイメージで生活し   他の人々を尊敬するよう努力している。ラビの有名な話の一が良い例である:私は(神の)創造物であり   私の隣人もまた彼の創造物である。私の仕事は町にあり   彼の仕事は畑にある。私は私の仕事のために早く起きる   彼は彼の仕事のために早く起きる。彼は私の仕事を越えることはできないように   私も彼の仕事を越えることはできない。しかしあなたは言うであろう   私は大きなことをしている   そして彼は小さなことをしている。我々は学んだ   人がすることが多かろうが少なかろうがそれが問題ではない   もし彼が天に向けて彼の心を導いてさえいれば。   [   Berachot   17a   ]   The   path   of   the   good   heart   我々はこの教えを「良い心の道」と呼ぶかもしれない。ラビがヤバネの学校   (the   academy   at   Yavneh)   時代に教えていた時と同様に   それは今でも真実である。あなたが医者あるいは労働者   料理長   店員   警官あるいは店主であろうともそれが問題ではない。人間を偉大にするところのものは「良い心の道」に従うことである。   人は言うかもしれない   私は賢人になるほど学んでいなかった   私は法律(トーラ)を勉強しなかった   私はすべき何なのか(what   am   I   to   do)?しかし神はそのイスラエル人に言った   全ての知恵も全トーラも簡単な一つのことなのだ。私を恐れる者   そしてトーラを行なう者は   彼の心の中に全ての知恵と全トーラを持っているのだ。   [   Deuteronomy   Rabbah   11:6   ]   全トーラが行ないで見られる   ということを示すために   ラビはこう教えた:トーラの最後の文字は「lamed」であり   トーラの最初の文字は「bet」である。これらの文字を連げると単語「レブ」となる   これは「心」を意味する。このことは   イスラエルの法律であるトーラの中に含まれている全てのものは   各々のユダヤ人の心の中に含まれている   ということを示しているのだ。   トーラの最後の文字は「lamed」であり   トーラの最初の文字は「bet」である。   これについて解説します。トーラの最後の文は   申命記の最後の文章:また   モーセが全イスラエルの目の前で   あらゆる力ある業とあらゆる大いなる恐るべき出来事を示すためであった。   (申命記34:12)   ヘブライ語での原書では   最後の単語が「イスラエル」ですから   最後の文字は「ル」つまりヘブル文字「lamed」です。トーラの最初の文は   創世記の最初の文章:初めに   神は天地を創造された。   (創世記1:1)   ヘブライ語での原書では   最初の単語が「ベレッシート」ですから   最初の文字は「ベ」つまりヘブル文字「bet」です。トーラの最後と最初をつなげる   という発想がユニークなんですが   「..............イスラエル」+「ベレッシート...............」これらの文字を連げると   「ル」+「ベ」   つまり「lamed」+「bet」これは単語「レブ」と発音して「heart(心)」を意味します。   我々はヒレル   (Hillel)   によて提案された質問:   If   I   am   not   for   myself   who   will   be   for   me   ?   について各々が答えを見つけなければならない。   我々の伝統だけではこの質問の答えを我々に教えることはできない   その答えはもっと身近にあるからであり   それは我々の各々の心の中にある。我々の伝統が我々に教えることができるのは   それがあなた自身の「ために」なると意味していることであり   そして   Who   will   be   "for"   you   when   you   act   for   yourself.   ヒレルの質問は一つの中に百の質問がある:   If   I   am   not   myself   who   will   be   me   ?   If   I   do   not   take   part   in   my   community   who   in   the   community   will   take   my   part   for   me   ?   If   I   do   not   take   a   stand   in   my   own   name   who   will   fight   for   what   I   believe   ?   If   I   do   not   work   to   make   myself   better   who   will   do   that   work   for   me   ?   If   I   do   not   direct   my   actions   who   will   direct   them   for   me   ?   And   more.   我々の伝統が我々に教えているのは   我々は我々の行動を通して良くなることができ   良くなることは達成するのにそんなに難しいことではなく   そして良くなることへの報酬は結果として良いことである   ということである。それで   彼自身の「ために」実行することを欲する人は   他の人々の「ために」もまた実行するであろう。   トーラの戒律「あなた自身のようにあなたの隣人を愛しなさい」   これは他の人々を愛すためにはまず最初にあなた自身を愛さなくてはならない   ということを意味している。     ラビがこう教えていた。トーラが「あなた自身のようにあなたの隣人を愛しなさい」と言う時は   何を意味しているのか。彼は一人の学生の方に向いて聞いた。「私を愛していますか?」学生は少し考えてから正直に答えた。「私はそう思います。」ラビは言った。「では   私を痛めているものは何か   言ってみなさい。」学生は答えた。「あなたを痛めているものは何か知りません。」「それなら   あなたは私を愛してはいない。」ラビは言った。「誰かを愛することは彼を痛めているものは何かを知ることを意味する。」   我々の各々は   何が我々を痛めているか   我々が痛い時はいつかを知っている。我々が自分自身を愛している時   自分が痛くないようにと   痛くなることから自分を保持しようと努力している。我々が痛みの意味を理解した時のみ   我々は他人がいかに感じるかを理解し始める。   つまりこのことが   ヒレルの質問がこの文で終わっていない理由である。   "If   I   am   not   for   myself   who   will   be   for   me   ?"   ヒレルの質問はつづく。   "And   if   I   am   only   for   myself   what   am   I   ?"   "And   if   not   now   when   ?"   もし人が彼自身のためだけならば   もし彼が重大な人は自分だけであると考えるほど利己的であるならば   彼は全ての意味を失っている。それは現実を離れて横に歩く道であり   真の愛からはずれた臆病者の道である。臆病者は彼自身を愛すことができない。   ヒレルの質問   "If   I   am   not   for   myself   who   will   be   for   me   ?"     我々が自分自身を評価し我々の可能性を評価しなければならない   我々が自重して行動するよう自分自身を訓練しなければならない   ことを意味している。もし我々がそうすれば   我々が他の人々に対して正しく行動することに   そして自分自身を尊敬すると同様に他の人々を尊敬することについて我々が基礎をもつであろう。何が良いことで寛大なことか   そして何が悪いことで利己的なことか   我々がその間の内部バランスを創る努力をするのとちょうど同じように   また我々自身の考慮と我々の隣人たちの考慮との間の内部バランスを創る努力をしなければならない。我々はお互いを愛さなければならない。   そして   我々の伝統は我々自身を良くする訓練を助け   我々がとる行動の種類において我々自身を愛する理由の発見を助ける   これと同様に   それは他の人々と一緒に我々自身が生活する訓練を助ける。我々の各々が「良い心の道」に従う努力をして   我々がお互いに痛みを避ける努力をするような社会を一緒に築かなければならない。共同体社会の全てのメンバーが個々に良いという理由で   共同体社会が「良い心の道」に従う   そんな社会を我々は築かなければなりません。   これが「The   value   of   community」共同体の価値の本質である   そこでは   ヒレルの第二の質問を答える努力をする。   "And   if   I   am   only   for   myself   what   am   I   ?"  

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合唱組曲 島よ (朗読) (お話です)「タルムード」「イスラエル2つの王国の統治の手立て」

合唱組曲 島よ (朗読) (お話です) 「タルムード」「イスラエルの2つの王朝の統治について南ユダ王国がユダ家が安定して支配した手立てに神ヤハウェーのイルラエルの信仰のがございましたが、他方、北イスラエル王国のヤラベアム家・バアシャー家・オムリ家・イェフー家・メナヘム家の各統治の入れ替わりが多ございました。しかし、 ユダ王国もバアル礼拝の 信仰に苦しみました。」「タルムード」「正しい道を見つけること」 When a Jew seeks wisdom  「Seeking the right course」 Listening to everyone Freedom of choice Captain of the ship Our two impulses An inner balance Balance in the community A feeling for what is right 夜になり、その週の日々から安息日を聖別するために、祈祷書が朗読されている。 ラビが木の下に座っている、そして彼はパイプを光らせて、 灰色の煙の巨大な一吹きが澄んだ暗い天に向けて上っている。 ラビがそんな平和な気分になっているのを見て、二人の生徒が来て彼の側に座った。 しばらくの間、三人は黙って座っていた。 ついに、一人の生徒が話した、 「親愛なるラビ、我々がいかに神に奉仕すべきか我々に告げて下さい」 ラビは答えた、「わたしが知り得ることなのかい?」 その時、三人はもう一度黙ってしまった、 ラビがパイプをふかす時につくる小さな音を除いて。 最後にラビは話をした:  昔、二人の友人が一緒に山に登った、  そして彼らの前面に深い割れ目が横たわっているのを見つけた。  彼らは一緒に計画し、その深い割れ目を横切ってロープを取付けたアンカーを  持ち上げて投げた。  このようにして彼らは一方から他方へ狭いロープの橋を造った。  そして最初の者がその深い割れ目を横切って歩いた、  あらゆる歩みで彼の危険を冒して、しかし安全に向こう側に到着した。  もう一方の者、まだ同じ場所に立っていたが彼に向かって叫んだ、  「親愛なる友よ、あなたがいかにコントロールしたのか告げてくれ?」  最初の友は答えた、  「私が知っているのは確かではない。   しかし私自身が一方の側によろめきを感じた時はいつでも、   私は他方の側に向けて傾けたよ」                      「Seeking the right course(正しい道を見つけること)」 もしあなたが、人類の残りから離れて、 ある島の世界で一人だけで生活しているならば、 「良い」と「悪い」という言葉は単に、 「私にとって良いこと」と「私にとって悪いこと」という意味になろう。 しかるに、あなたは他人と一緒の社会で生活している、 そしてあなたは「良い」と「悪い」という言葉に他の意味を与えているような 慣習に参加している。 生活というのは複雑である、 そして規則は時々ちょうど壊されるために作られているように見える。 各々の新しい立場が現われる時に、 あなたが取ろうとしている行動の種類について、あなたは選択を強いられる。 規則や好みを持つことはあなたに決断する助けとなる。 そしてあなたのまわりの人々は、彼らの経験に基づいて、 あなたに助言することで喜んで助ける。 しかし、最後にはその選択はあなただけに依存する。

投稿者:サイト名 有馬徳彦
投稿日時:2012.6.22. 14:20
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他方へ狭いロープの橋を造った。そして最初の者がその深   い割れ目を横切って歩いた   あらゆる歩みで彼の危険を冒   して   しかし安全に向こう側に到着した。もう一方の者   まだ同じ場所に立っていたが彼に向かって叫んだ   「親愛   なる友よ   あなたがいかにコントロールしたのか告げてく   れ?」最初の友は答えた   「私が知っているのは確かでは   ない。しかし私自身が一方の側によろめきを感じた時はい   つでも   私は他方の側に向けて傾けたよ」   ◎「Seeking   the   right   course   (正しい道を見つけること)」   もしあなたが   人類の残りから離れて   ある島の世界で一   人だけで生活しているならば   「良い」と「悪い」という   言葉は単に   「私にとって良いこと」と「私にとって悪い   こと」という意味になろう。しかるに   あなたは他人と一   緒の社会で生活している   そしてあなたは「良い」と「悪   い」という言葉に他の意味を与えているような慣習に参加   している。   生活というのは複雑である   そして規則は時々ちょうど壊   されるために作られているように見える。各々の新しい立   場が現われる時に   あなたが取ろうとしている行動の種類   について   あなたは選択を強いられる。規則や好みを持つ   ことはあなたに決断する助けとなる。そしてあなたのまわ   りの人々は   彼らの経験に基づいて   あなたに助言するこ   とで喜んで助ける。しかし   最後にはその選択はあなただ   けに依存する。   ある日   道路に添って老人と若い少年がロバの手綱を引っ   張っていた。その三者は彼らが動く時に色彩ゆたかな絵画   を描いていた   彼らが歩むに合わせてロバの頭は突然に上   下に振った。道路で見知らぬ者と会うまでは   全てが順調   であった。   見知らぬ者は彼らに言った   「やぁ   こんにちわ。なぜあ   なた方は歩いて   乗らないのですか?ロバは乗るために作   られたのですよ」これは良い助言であると二人は同意した   そしてロバの背に登った。   しかし彼らが町の近くにやってきた時   道路に添って人々   が互いに噂をし始めた。すぐに一人の仲間が彼らを止めた   。彼は頭を両側に振って言った   「そんな小さなロバに   あなた方二人はそのロバの背にはあまりにも重すぎる荷だ     あなた方は恥ずかしくないのか?そんな方法で動物を扱う   のは残酷だ」直ちに   そのおじいさんと少年はその男の知   恵を見て   そして少年はロバの背からすべり降りて   横に   一緒に歩いた。   彼らがこの格好でそんなに遠くまで行かない時に   彼らは   カートを後ろから押して来る行商人に出会った。その行商   人は老人に質問した   「あなたの体重はその貧しいロバの   背には重すぎるとは思わないのですか?あなたが歩くこと   ができれば   なぜその少年とロバは疲れるでしょうか?」   その少年はおじいさんの方を見つめた。彼らは肩をすくめ   た。何が行なわれるべきことであるか?なぜならば彼らは   行商人の言葉に意味を見つけた。老人は重い荷であるのは   真実である   たとえそれは二人両方ほどは重くはないが。   さらに老人は歩くことができる   そして少年は乗ることが   できる。それで老人はロバの背から降りて   そして孫を代   わりに乗せた。   このように彼らは町に向かって再び前進した。またすぐに   友人と一緒に道路の脇に立っていた農夫の呼び声によって   止められた。農夫は叫んだ   「おい   少年よ   お前は年寄   を尊敬しないのか?お前が乗って   貧しい老人が歩くのは   不名誉なことだ」農夫は彼の友人の方に向いて   そしてな   お少年に聞こえるように十分大きな声で話し   彼は言った   「自分が乗っている間に   老人を歩かせるような強権な   若者を想像してごらん!」再び少年はロバの背から降りた   なぜならば彼らは農夫の言葉の中に真実の刺激を感じた   ので。   しかし今や何が行なわれるべきことであったか?彼らが誰   に耳を傾けようが   だれも喜ばなかった。そして彼らが得   た助言の全ては良い助言であった。だれも乗らないロバを   引くことは良いことではなかった。二人が乗ることは良い   ことではなかった。老人だけが乗ることは良いことではな   かった。少年だけが乗ることは良いことではなかった。た   だ一つの選択が残された。ため息をついて   老人とその孫   は彼らの背の上にロバを持ち上げた。   そしてこのように   彼らは町に歩き続けた   ロバの重さの下で奮闘している老   人と少年を道路わきの人々が見てひやかし笑っていた。   ◎Listening   to   everyone   これはばかげた話に見える。しかし我々のまわりのあらゆ   る人に耳を傾けた時に   我々はしばしば「ロバを運ぶ」ような終わりかたをする。   道路のそばにいるあらゆる人が老人と少年に良い助言を与   えた。しかし助言のどの種類も   その人が見たところの観   点のみに基づいていた。このように   見知らぬ人はロバを   引いた少年と老人を見た   そしてもし彼らが乗っていたな   らばいかに良くなるかを考えた。   そしてこのように   農夫は少年だけが乗っているのを見た   。農夫は彼が見る前のすべてを知らなかった---最初にはロ   バにだれも乗っていなかった   その次には二人が乗った   その次には老人だけが降りた。   老人と少年が受け取った助言は   彼らは自分自身では選択   しなかったので   実際に役に立たなかった。しかし彼らは   実際に知的な選択しようとすればできた唯一の人たちで   あった。彼らがしようとすればできた知的な選択は   「彼   らが」最もよく好む方法で支えることであった。生活は複   雑である   しかし我々が自分の意見を言うことを拒む時   それはより複雑になる。   ◎Freedom   of   choice   我々は常に選択をしている   しかし時々選択の自由が我々   にあるということを忘れる。我々が欲するところのことを   そして我々が信じるところのものに従っているところの   ことを   我々は選択することができる。ラビは言った     べてのものが予知されている   しかし選択の自由は与えら   れている。   (Avot   3:19)   昔ある善き者が質問した   「もし神が先に起こるすべての   ことを知っているならば   我々が選択の自由をいかに持つ   ことができるのか?」そして彼はたとえ話を通して彼自身   の質問に答えた:神は   海岸にぽつんと立っている灯台の   守りのようなものである。嵐の真っただ中   暗やみの中で   輝いている明かりで   神は注意して多くの船を見つけ     岸に近寄せる。上の方から   船がぎざぎざの暗礁を避けて   安全に岸に着くのを神が見ている。そして神はまた   どの   船が座礁にこなごなになり滅びるかを知っている。しかし   各々の船長は   彼自身の船をいかに操縦するか   そして   どのコースを追跡するか   という彼自身の選択をする。あ   る者は灯台の警告の明かりを心にとめるであろう   そして   他の者はそうしないであろう。自然には   もし人が警告の   明かりを見て   それに従って操縦するならば人の運はより   善い。しかし   各々の船長は   彼が気に入るように行なう   自由がある。   ◎Captain   of   the   ship   我々の各々は   自分の精神をもったその船長である。その   灯台は   我々の伝統の集められた知恵であり   我々が神の   真実であると支持している法律である。我々はこれらの法   律の自由がある   ---   我々が喜んで従う自由あるいは従わな   い自由である。   しかし   その灯台の光線でのように   これらの法律に我々   が従う時   我々の選択はより良くなる。   我々は選択する自由がある   そしてその選択は我々の前に   広げられている   しかしまたどれによって選択するかのガイドラインがある     我々のユダヤの伝統の価値と一族の慣習。   船長が   海の知覚   「空の中に何があるか」という感覚   そして正しい行動のための素質   を発展させるとちょうど   同じように   我々もまた   我々が確かでない時に我々を導くであろう内   部の感覚   あるいは知覚を発展させなければならない。   これは我々が宗教的な知覚と呼んだところの感覚である。   それは   生活の海を通して我々がそれによって操縦すると   ころの梯子   の種類のように我々に奉仕する   そんな我々の宗教的な知   覚である。   われわれの進路を設定しそれを正しく設定するために何が   必要かを語る。   (And   if   not   now   when?)   ここの50   セント硬貨があり   ケネディ大統領の肖像のまわりに   "   LIBERTY   "   という文字が読めると思います。   下の方に刻ま   れている文字の方はこうです:   "   IN   GOD   WE   TRUST   "       50セントだけでなく   アメリカの全ての硬貨には       "   LIBERTY   "   "   IN   GOD   WE   TRUST   "   が刻まれています     その意味は   今回のテキスト第22章から推測できるので   はないでしょうか。   Our   two   impulses   我々の船の力は   二つの世界の間で我   々のバランスの中にある。   我々は   動物の存在という状態     我々の中に普通の全ての動物の性癖を持って   人間と   して創造されている。   動物たちのように   我々は力に対す   る欲求をもつ   そして我々が若い時にはそれを我々のゲー   ムの中に表現する   ---   国々が世界の中で最も力がある者に   なるというまじめさを持った     山の王様」になるゲー   ムをして。   動物たちのように   我々は性に対する欲求をも     それは時々我々を圧倒するように脅迫する。   最も不   幸にも   ほとんど他の動物には無いような   復讐のために   そして個人的な利益のために   我々自身の種類を狩をして   追いつめる。   出世したいという我々の欲求   重要な人にな   りたいという我々の欲求   ---   これらはラビたち「Yetzer   HaRa(悪の衝動)」と呼ぶところの   我々の利己的な活力の   中にある。   しかし我々はまたそれ以上の他のものである。   我々の中には   他人を喜ばすという欲求がある   我々の仲   間の唇に笑いをもたらすために。   我々は   信じる力   理由   を考える力   そして疑う力を持つ。   そして   我々は   知っ   ていることを越えた何かを感知する力を持つ。ラビがよく   言っているように:   人間は愛されている   なぜならば彼は   神のイメージで創造されたからである。   しかしそれは     が神のイメージで創造されたことを彼に知らせれているこ   との   特別な愛によってである。イスラエルは愛されてい     なぜならば彼らは存在者(All-Present)の子供たち   と呼ばれているからである。   しかしそれは   彼らが存在者の子供たちと呼ばれているこ   とを彼らに知らせれていることの   特別な愛によってであ   る。イスラエルは愛されている   なぜならば彼らに「トー   ラ」が与えられたために。しかしそれは   世界が創造され   たことを通して「トーラ」が彼らのものであるということ   を彼らに知らせれていることの   特別な愛によってである   。「なぜならば   わたしは良い教本をあなたたちに与えた   ---わたしの教えを見捨ててはならない」   と言われている   ように。   (Avot   3:18)   そして   我々が神のイメージで創造されたということ     々が存在者の子供たちと呼ばれていること   「トーラ」が   我々に許可されてきていること   これらを我々が知ること   を可能にしているその特別な愛とは何なのか?   それは良い   ことをしようとする我々の衝動である   それはラビたちが   「Yetzer   Tov(善の衝動)」と呼んだところのものである     An   inner   balance   我々を人間にしているところのものは   「善の衝動」と「悪の衝動」との間の我々の内部のバラ   ンスである。   我々が以前に見てきたように   我々は「悪   の衝動」によってまったく生活することはできない。     して   もっと驚くべきことに   我々は「善の衝動」によっ   てだけで生活することはできない。   我々は   「悪の衝動」   によってだけで生活することが為すところの害を   容易に見   ることができる   しかし「善の衝動」によってだけで生活   することが   為すところの害とは何か?   一つの例を取り上   げよう:断食すること。   断食は   毎日の世界から我々自身   を隔てることを助ける   祈りの間に我々の精神を集中させ   ることを助ける   そしてほんの短い間であるが食べるとい   う我々の地上の必要性から   我々自身を隔てることを助ける     我々が断食する時   神の精神に近づこうという我々の「善   の衝動」を通して   我々は行動している。   断食は   その時   我々の精神にとって善である。   もし一日の断食が我々の   精神にとって善であるならば   二日間の断食はどんなによ   り善であろうか。   そしてもし二日間の断食が我々の精神に   とってより善であるならば   我々は推論する   三日間の   断食はどんなにより善であろうか   四日間では   あるいは   五日間では   そしてもし我々が死ぬまで断食するならば最   善か?   あるいは   慈善を集める人達が   やって来るラビを   見た時に   反対の方向に走り去る   というほどに過大な慈   善を与えるラビを取り上げよう。   ラビの「善の衝動」は非常に極端になることを許されてい   るので   ラビは自身が貧乏人になる危険であった   そし   てその結果としてその共同体社会に負荷が加わる。   「善の   衝動」が我々を支配することを許すことは   「悪の衝動」   が我々を支配することを許すことと同様に悪いことである     我々がそれら両方を支配しなければならない   そして   我々の中のバランスを成し遂げるための探索をしなければ   ならない   もし我々が共同社会にそして我々自身に何か役   に立とうするならば。   ユダヤ人の共同体社会は   聖人の一   部として行動する人々が必要でもなければ   悪魔のように   行動する人々も必要ではない。   バランスされたユダヤ人の   生活を喜んで導く人々が必要なのである。   Balance   in   the   community   その同じバランスが他人との   関係に必要である。   ヒレルの有名な言葉の中に   そのバラ   ンスを成し遂げるための処方箋が与えられてき   ている。   If   I   am   not   for   myself   who   will   be   for   me   ?   And   if   I   am   only   for   myself   what   am   I   ?   And   if   not   now   when   ?   (Avot   1:14)   共同体社会との我々の関係の中で   我々の個人的な欲望と   必要   それと他人の欲望と必要   その間のバランスを我々   は探さなければならない。   我々の隣人を正しく愛するため     我々はまず自分自身を愛さなければならない。人は   彼が誇るべきことをするよう努力すべきであり   そうすれ   ば他人が彼をまた尊敬するであろう。   ラビのユダ・ハナ   シ(Yehudah   HaNasi)が言った   人が彼自身のために選択   すべき正しい道はどれであるか?   それは   それを行なう   人にとって名誉であるような道であり   また   人々から彼   に名誉を与えるような道である。   (Avot   2:1)   我々の伝統に従うと   正しい道は我々自身を尊敬するため   に来ると同時に   他人に我々を尊敬させるために行なう真   ん中の道である。   それは   我々が我々自身に幸福であり   そしてまた他人が我々に喜ぶように行なう真ん中の道であ   る。ほとんどすべての関係において   ラビたちは責任を等   しく分けた   共同体社会に対する我々の義務と我々自身へ   の我々の義務との間で。   例えば   ラビ・ヨセ(Rabbi   Yose   )は言った:あなたの仲間の財産をあなた自身のもののよ   うに大切にしなさい。   (Avot   2:17)   そして   ラビ・エリエゼル(Rabbi   Eliezer)は言った:   あなたの仲間の名誉をあなた自身のもののように大切にし   なさい。   (Avot   2:15)   これらの言葉の両方に対して   我々は自分自身と共同体社   会との間のバランスを見ることができる。   各々   その作者   は我々のあらゆる人に   彼あるいは彼女「自身」に従って   彼あるいは彼女自身の行動を測ることを要求している。   そして各々   その行動は他の人に関係している   ---   その人   の財産と名誉に。   ラビたちはこう実感していた:   我々が   我々自身の欲求や必要を十分良く理解する時から   我々が   我々自身について理解しているところのものを   他人を巻   き込んだ我々の行動に移すために   我々の宗教的知覚をに   使うべきであると。   これこそが   ラビ・エリアザル   (Rabbi   Eleazar)が心に持って   ヨハナン・ベン・ザカイ   (Yohanan   ben   Zakkai)の質問の答えである:   人が保   持すべきところの良い道とはどれか?   エリアザルは言っ     「良い心」   A   feeling   for   what   is   right   あなたは   正しいバランス   のために感覚をあなた自身で発展させなければならない。   その選択はいつもあなた自身にある。   誰もあなたのための   あなたの生活の仕方を選択することはできない   あなたの   ためにあなたの報酬を受け取る以上には。   あなたにとって   何が「良い心」を意味するものかを   あなたは探さなけれ   ばならない。   もし生まれつきに   あなたがあまりにも寛大   である傾向があるならば   あなたはその偏りをバランスす   ることを学ばなければならない。   あるいは   もしあなたの   性格が利己的になる方向に傾くならば   あなたはその偏り   をバランスすることを学ばなければならない。   ただあなた   のみが   あなたの選択において正しいバランスを感じるこ   とができる。   最善のバランスはいつもあなたの中に存在す   る:   「あなた自身の目に見て邪悪でないように」   (Avot   2:18)  

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アヴェ・ヴェルム・コルプス(お話です) 「タルムード」「イスラエルのサウル王の王政の成立」「裁きの価値」

アヴェ・ヴェルム・コルプス (お話です) 2 「イスラエルの諸部族の サウル王の王政の成立と 王政できなかった根拠」 「神ヤハウェーが人間を支配するため 人間が人間を支配しないものであるという信仰が 王政の支配を許容できなかった面がある。」 「タルムード」 「裁きの価値」 ◎「The value of judging」 In his place Gathering evidence Balancing justice The poor and rich alike The result of justice and mercy Guarding justice Sifting the evidence Religious awareness and mercy Reflection ◎「The value of judging:裁きの価値」 ヒレルは言った。あなたがその人の位置にくるまでは、あなたの仲間を裁いてはなりません。 ( Avot 2:4) Judaismの中心の価値の一つは、賢い裁きの結果とになる正義である。何が正義と裁きを作るかということはとても重要なことであり、あなたの日々の生活の中で演じる大きな部分である。あなたは他の人々を裁いている。あなたは他の人々がどのように行動すべきかを裁いている。 あなたは自分自身に問う、「この人は私に対して公正でであろうか?」そしてあなたは「yes or no」を答えることで自分の意識である裁き(識別と判断)をしている。あなたはこう質問する、「この人は善い親切な隣人か、または彼はだましたり、嘘をついたりするのか?」そしてあなたはある方、あるいは他方を決心して裁きをする。あなたはこう問う、「この人は私に公正であろうか?」そして「yes or no」を裁くことで答える。 あなたは裁判所での裁判官の衣を着ているわけではないが、毎日あなたの前にやって来るケースを決定する時に、あなたは心の法廷という種類を維持する。あなたは友人から、敵からはずっと違った種類の行動を期待し要求する。 あなたは先生には公平を、 警官には親切を、 ラビには善いことを、 道化師には楽しさを、 親戚には気前良さを、 郵便配達には信用を、 医者には気遣いを、 そして弁護士には あなたの側にあることを 期待する。 あなたが期待したように人々が行動する時と、そうでない時との両方において、あなたは裁きを下す。あなたが裁きをする時に、奇妙なことが起きる:あなたがちょうど属しているところはどこなのかを発見するために、あなたは自分自身を定義し始める。あなたが下す裁きの各々は、あなたが知っている事、あなたが学んだ事のベース、およびあなたが集めた証拠に基づく。もしあなたが一般的に他人に公平であることを期待するならば、あなたが信じている価値と同様にあなたは公平さに注意を払い始めるであろう。あなたが他人に親切である時、あなたはあなた自身に対して親切さを評価し始める。もちろん、その同じことがもう一方の側の方法にもまた真である。あなたが他人に不公平である時、あなた自身に対して公平さを忘れ始める。そしてあなたのまわりの人々についてあなたの裁きが正直でなくなる時、あなたはすぐにあなた自身にもまた嘘をつき始める。 正直に裁くことは我々が学ぶ一つのスキルである。我々は裁きを上手にする能力を持って自動的に生まれてきたわけではない。裁くことを学ぶ場合に、我々は証拠の全てを集め、それを綿密に調べ、我々の評価を選び、そしてそれから我々の選択に基づいて決定をすることを学ばなければならない。それで、この章のテーマを構成しているヒレルの話は明白である。 「あなたがその人の位置にくるまでは、あなたの仲間を裁いてはなりません。」 これは、毎日あなたのまわりの人々をあなたが裁く場合の方法を話している。

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投稿日時:2012.6.19. 21:23
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タグ: アヴェ・ヴェルム・コルプス   (お話です)   2   「イスラエルの諸部族の   サウル王の王政の成立と   王政できなかった根拠」   「神ヤハウェーが人間を支配するため   人間が人間を支配しないものであるという信仰が   王政の支配を許容できなかった面がある。」   「タルムード」   「裁きの価値」   ◎「The   value   of   judging」   In   his   place   Gathering   evidence   Balancing   justice   The   poor   and   rich   alike   The   result   of   justice   and   mercy   Guarding   justice   Sifting   the   evidence   Religious   awareness   and   mercy   Reflection   ◎「The   value   of   judging:裁きの価値」   ヒレルは言った。あなたがその人の位置にくるまでは   あなたの仲間を裁いてはなりません。   (   Avot   2:4)   Judaismの中心の価値の一つは   賢い裁きの結果とになる正義である。何が正義と裁きを作るかということはとても重要なことであり   あなたの日々の生活の中で演じる大きな部分である。あなたは他の人々を裁いている。あなたは他の人々がどのように行動すべきかを裁いている。   あなたは自分自身に問う   「この人は私に対して公正でであろうか?」そしてあなたは「yes   or   no」を答えることで自分の意識である裁き(識別と判断)をしている。あなたはこう質問する   「この人は善い親切な隣人か   または彼はだましたり   嘘をついたりするのか?」そしてあなたはある方   あるいは他方を決心して裁きをする。あなたはこう問う   「この人は私に公正であろうか?」そして「yes   or   no」を裁くことで答える。   あなたは裁判所での裁判官の衣を着ているわけではないが   毎日あなたの前にやって来るケースを決定する時に   あなたは心の法廷という種類を維持する。あなたは友人から   敵からはずっと違った種類の行動を期待し要求する。   あなたは先生には公平を   警官には親切を   ラビには善いことを   道化師には楽しさを   親戚には気前良さを   郵便配達には信用を   医者には気遣いを   そして弁護士には   あなたの側にあることを   期待する。   あなたが期待したように人々が行動する時と   そうでない時との両方において   あなたは裁きを下す。あなたが裁きをする時に   奇妙なことが起きる:あなたがちょうど属しているところはどこなのかを発見するために   あなたは自分自身を定義し始める。あなたが下す裁きの各々は   あなたが知っている事   あなたが学んだ事のベース   およびあなたが集めた証拠に基づく。もしあなたが一般的に他人に公平であることを期待するならば   あなたが信じている価値と同様にあなたは公平さに注意を払い始めるであろう。あなたが他人に親切である時   あなたはあなた自身に対して親切さを評価し始める。もちろん   その同じことがもう一方の側の方法にもまた真である。あなたが他人に不公平である時   あなた自身に対して公平さを忘れ始める。そしてあなたのまわりの人々についてあなたの裁きが正直でなくなる時   あなたはすぐにあなた自身にもまた嘘をつき始める。   正直に裁くことは我々が学ぶ一つのスキルである。我々は裁きを上手にする能力を持って自動的に生まれてきたわけではない。裁くことを学ぶ場合に   我々は証拠の全てを集め   それを綿密に調べ   我々の評価を選び   そしてそれから我々の選択に基づいて決定をすることを学ばなければならない。それで   この章のテーマを構成しているヒレルの話は明白である。   「あなたがその人の位置にくるまでは   あなたの仲間を裁いてはなりません。」   これは   毎日あなたのまわりの人々をあなたが裁く場合の方法を話している。   ◎In   his   place   我々が他の人の位置に我々自身を置く時   すなわち彼らが物事を見ている方法で我々がそれらを見ようとしている時   裁きはとても複雑になる。しかし   もし我々がこれをするならば   その時にのみ裁きは公平になり得る。証拠を集めるという過程の部分において   これはヨシュヤ(Joshua   ben   Perahyah)が   心に思って   こう言った。   「全ての人々の気に入るように裁け」   (Avot   1:6)   これは我々自身が裁かれたいように裁くという質問である。   結局   我々は最善の可能な方法で他の人々が我々を見て欲しい   特に我々が行なう何かが正当な結果にでない場合に。人間であることは   誤りをすることを含み   我々がやった誤りを通して学び   成長することを含む。我々の誤りのあらゆるものが厳しく裁かれる時   我々は誤りをしないようにそんなに心配し始めるので   我々の成長が妨げられてしまう。   それで   我々が他の人々を好意をもって裁く時   他の人々に「第二の機会」あるいは「不信の親切」を喜んで与える時   それが最善である。結局   これは   我々自身の行動を裁く場合に他の人々がするであろうと我々が期待していることである。   ◎Gathering   evidence   そのこと以上に   我々は期待するのは   人々が我々のした事について裁く前に   彼らが我々に説明の機会を与えることである。これは決定をする前に証拠を集める経過を含む。誰か他の人の立場に我々自身を置こうとする場合に   なぜその人がそのような方法で行動したのかを理解するために   我々は可能な証拠の全てを集める努力をしなければならない。   裁きが合理的な証拠に基づかない時   我々が事実の全てが明らかになる前に結論に飛んでしまう時   誤り導いた裁きがいかになり得るかについて   ラビは一つの物語を話した。     ラブ・アシ(Rav   Ashi)がミシュナの学習を教えていた   そしてユダヤの王マナセ王の物語のところに来た。マナセ王は偶像崇拝に変わっていったと生徒たちに説明した。彼がマナセ王に生きていた時代の説明を始めた時   授業の時間が終わった。彼は閉じるときこう言った:「明日   我々はこの『善い』人についてもっと話そう」さて伝統は我々にこう告げている。実はマナセ王は真に善い人でが   ラブ・アシは『善い』という言葉を皮肉を込めた調子で言った   あたかもマナセ王が本当に無知であるかのように。   その夜   夢の中で   マナセ王がラブ・アシのところにやって来て   「あなたは正直に私を無知だと裁いていますか?」と聞いた。その時に   その王マナセはラブ・アシにユダヤ律法の幾つかの難しい質問をした。ラブ・アシは答えることができなかったが   マナセ王はあざやかに答えて   その学識のある学者を驚かせた。謙遜して   ラブ・アシはその古代のユダヤのマナセ王に質問した:「もしあなたがそんなに学があるのなら   いかにしてあなたは偶像崇拝するようになったのですか?」マナセ王は答えた:「私と共にそこに来てみなさい。あなたは   あなたの衣のふちを集め   偶像を崇拝するために私の後を追ってくるであろう」   (Sanhedrin   102b)   ラブ・アシの誤りは共通のものであった:彼は   マナセの位置に彼自身を置いて想像するような努力を実際にしないで   裁きを下そうとしていた。これは   我々が裁きをする前に事実を集めない時に起こることである。例えば   もしあなたが   これこれのことがそんなになったとの噂を聞いて   そしてあなたが聞いたことが真実かどうか質問すること無しに   あるいはなぜその人がそんな行動をしたのかを理解する努力を無しに   あなたがその人を裁くならば   あなたはラブ・アシの誤りを繰り返している。ラビ・イシマエル(Rabbi   Ishmael)はこう言っていた。事実の全てを知らずに決定を下す人は   おろか者であり   邪悪な者であり   おうへいな者である。   (Avot   4:7)  

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アヴェ・ヴェルム・コルプス(お話です) 2 「タルムード」「イスラエルのサウル王の王政の成立」「裁きの価値」

アヴェ・ヴェルム・コルプス (お話です) 2 「イスラエルの諸部族の サウル王の王政の成立と 王政できなかった根拠」 「神ヤハウェーが人間を支配するため 人間が人間を支配しないものであるという信仰が 王政の支配を許容できなかった面がある。」 「タルムード」 「裁きの価値」 ◎「The value of judging」 In his place Gathering evidence Balancing justice The poor and rich alike The result of justice and mercy Guarding justice Sifting the evidence Religious awareness and mercy Reflection ◎「The value of judging:裁きの価値」 ヒレルは言った。あなたがその人の位置にくるまでは、あなたの仲間を裁いてはなりません。 ( Avot 2:4) Judaismの中心の価値の一つは、賢い裁きの結果とになる正義である。何が正義と裁きを作るかということはとても重要なことであり、あなたの日々の生活の中で演じる大きな部分である。あなたは他の人々を裁いている。あなたは他の人々がどのように行動すべきかを裁いている。 あなたは自分自身に問う、「この人は私に対して公正でであろうか?」そしてあなたは「yes or no」を答えることで自分の意識である裁き(識別と判断)をしている。あなたはこう質問する、「この人は善い親切な隣人か、または彼はだましたり、嘘をついたりするのか?」そしてあなたはある方、あるいは他方を決心して裁きをする。あなたはこう問う、「この人は私に公正であろうか?」そして「yes or no」を裁くことで答える。 あなたは裁判所での裁判官の衣を着ているわけではないが、毎日あなたの前にやって来るケースを決定する時に、あなたは心の法廷という種類を維持する。あなたは友人から、敵からはずっと違った種類の行動を期待し要求する。 あなたは先生には公平を、 警官には親切を、 ラビには善いことを、 道化師には楽しさを、 親戚には気前良さを、 郵便配達には信用を、 医者には気遣いを、 そして弁護士には あなたの側にあることを 期待する。 あなたが期待したように人々が行動する時と、そうでない時との両方において、あなたは裁きを下す。あなたが裁きをする時に、奇妙なことが起きる:あなたがちょうど属しているところはどこなのかを発見するために、あなたは自分自身を定義し始める。あなたが下す裁きの各々は、あなたが知っている事、あなたが学んだ事のベース、およびあなたが集めた証拠に基づく。もしあなたが一般的に他人に公平であることを期待するならば、あなたが信じている価値と同様にあなたは公平さに注意を払い始めるであろう。あなたが他人に親切である時、あなたはあなた自身に対して親切さを評価し始める。もちろん、その同じことがもう一方の側の方法にもまた真である。あなたが他人に不公平である時、あなた自身に対して公平さを忘れ始める。そしてあなたのまわりの人々についてあなたの裁きが正直でなくなる時、あなたはすぐにあなた自身にもまた嘘をつき始める。 正直に裁くことは我々が学ぶ一つのスキルである。我々は裁きを上手にする能力を持って自動的に生まれてきたわけではない。裁くことを学ぶ場合に、我々は証拠の全てを集め、それを綿密に調べ、我々の評価を選び、そしてそれから我々の選択に基づいて決定をすることを学ばなければならない。それで、この章のテーマを構成しているヒレルの話は明白である。 「あなたがその人の位置にくるまでは、あなたの仲間を裁いてはなりません。」 これは、毎日あなたのまわりの人々をあなたが裁く場合の方法を話している。

投稿者:サイト名 有馬徳彦
投稿日時:2012.6.19. 17:55
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タグ: アヴェ・ヴェルム・コルプス   (お話です)   2   「イスラエルの諸部族の   サウル王の王政の成立と   王政できなかった根拠」   「神ヤハウェーが人間を支配するため   人間が人間を支配しないものであるという信仰が   王政の支配を許容できなかった面がある。」   「タルムード」   「裁きの価値」   ◎「The   value   of   judging」   In   his   place   Gathering   evidence   Balancing   justice   The   poor   and   rich   alike   The   result   of   justice   and   mercy   Guarding   justice   Sifting   the   evidence   Religious   awareness   and   mercy   Reflection   ◎「The   value   of   judging:裁きの価値」   ヒレルは言った。あなたがその人の位置にくるまでは   あなたの仲間を裁いてはなりません。   (   Avot   2:4)   Judaismの中心の価値の一つは   賢い裁きの結果とになる正義である。何が正義と裁きを作るかということはとても重要なことであり   あなたの日々の生活の中で演じる大きな部分である。あなたは他の人々を裁いている。あなたは他の人々がどのように行動すべきかを裁いている。   あなたは自分自身に問う   「この人は私に対して公正でであろうか?」そしてあなたは「yes   or   no」を答えることで自分の意識である裁き(識別と判断)をしている。あなたはこう質問する   「この人は善い親切な隣人か   または彼はだましたり   嘘をついたりするのか?」そしてあなたはある方   あるいは他方を決心して裁きをする。あなたはこう問う   「この人は私に公正であろうか?」そして「yes   or   no」を裁くことで答える。   あなたは裁判所での裁判官の衣を着ているわけではないが   毎日あなたの前にやって来るケースを決定する時に   あなたは心の法廷という種類を維持する。あなたは友人から   敵からはずっと違った種類の行動を期待し要求する。   あなたは先生には公平を   警官には親切を   ラビには善いことを   道化師には楽しさを   親戚には気前良さを   郵便配達には信用を   医者には気遣いを   そして弁護士には   あなたの側にあることを   期待する。   あなたが期待したように人々が行動する時と   そうでない時との両方において   あなたは裁きを下す。あなたが裁きをする時に   奇妙なことが起きる:あなたがちょうど属しているところはどこなのかを発見するために   あなたは自分自身を定義し始める。あなたが下す裁きの各々は   あなたが知っている事   あなたが学んだ事のベース   およびあなたが集めた証拠に基づく。もしあなたが一般的に他人に公平であることを期待するならば   あなたが信じている価値と同様にあなたは公平さに注意を払い始めるであろう。あなたが他人に親切である時   あなたはあなた自身に対して親切さを評価し始める。もちろん   その同じことがもう一方の側の方法にもまた真である。あなたが他人に不公平である時   あなた自身に対して公平さを忘れ始める。そしてあなたのまわりの人々についてあなたの裁きが正直でなくなる時   あなたはすぐにあなた自身にもまた嘘をつき始める。   正直に裁くことは我々が学ぶ一つのスキルである。我々は裁きを上手にする能力を持って自動的に生まれてきたわけではない。裁くことを学ぶ場合に   我々は証拠の全てを集め   それを綿密に調べ   我々の評価を選び   そしてそれから我々の選択に基づいて決定をすることを学ばなければならない。それで   この章のテーマを構成しているヒレルの話は明白である。   「あなたがその人の位置にくるまでは   あなたの仲間を裁いてはなりません。」   これは   毎日あなたのまわりの人々をあなたが裁く場合の方法を話している。   ◎In   his   place   我々が他の人の位置に我々自身を置く時   すなわち彼らが物事を見ている方法で我々がそれらを見ようとしている時   裁きはとても複雑になる。しかし   もし我々がこれをするならば   その時にのみ裁きは公平になり得る。証拠を集めるという過程の部分において   これはヨシュヤ(Joshua   ben   Perahyah)が   心に思って   こう言った。   「全ての人々の気に入るように裁け」   (Avot   1:6)   これは我々自身が裁かれたいように裁くという質問である。   結局   我々は最善の可能な方法で他の人々が我々を見て欲しい   特に我々が行なう何かが正当な結果にでない場合に。人間であることは   誤りをすることを含み   我々がやった誤りを通して学び   成長することを含む。我々の誤りのあらゆるものが厳しく裁かれる時   我々は誤りをしないようにそんなに心配し始めるので   我々の成長が妨げられてしまう。   それで   我々が他の人々を好意をもって裁く時   他の人々に「第二の機会」あるいは「不信の親切」を喜んで与える時   それが最善である。結局   これは   我々自身の行動を裁く場合に他の人々がするであろうと我々が期待していることである。   ◎Gathering   evidence   そのこと以上に   我々は期待するのは   人々が我々のした事について裁く前に   彼らが我々に説明の機会を与えることである。これは決定をする前に証拠を集める経過を含む。誰か他の人の立場に我々自身を置こうとする場合に   なぜその人がそのような方法で行動したのかを理解するために   我々は可能な証拠の全てを集める努力をしなければならない。   裁きが合理的な証拠に基づかない時   我々が事実の全てが明らかになる前に結論に飛んでしまう時   誤り導いた裁きがいかになり得るかについて