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アヴェ・ヴェルム・コルプス (お話です)メタ理論・タルムード6章・聖クルアーン12章

アヴェ・ヴェルム・コルプス (お話です) メタ理論 タルムード6章 聖クルアーン12章 『メタ理論: 個人と集団の各主語的同一性が 時間という共通述語を知覚して 表象していくとき 自然時間という時間が 個人が自然を知覚する過程に 原初の人間と幼児の意識の 人間の身体と身体の行為を 自然界につなげて 抽象性と自己同一性について 想像的普遍の詩的知恵の形相で 表意して記号に起こしていくとき 共通する自然時間を 暦に与えて 時間の合致について たとえば、 共通時間のある暦の時間に ある暦の時間の空間に集まる人間が その日の経験を表象して 詩的知恵が起きて 想像的普遍性に対して 集団と自然のつながりと 個人と自然のつながりに 共通的自己同一性をつくり 縮約した過去である現在に 事象的・社会的・時間的次元の反復を 記憶と記号が可能にして、 感覚的トピカと異なり、 記憶した事象の再叙述を行います。』 『タルムード:Avot 第6章』 Study is work それにもかかわらず、勉強は仕事である。あなたは「トーラに労力」をかけなければいけないと、Rabbi Meirは言った。 勉強がいかに多くの仕事であるか、あなたはすでに知っている。それは、何度もなんどもレッスンを記憶し試験することを意味する。あなたは紙に書いて、レポートにまとめなければいけないであろう。それは、読むこと、再読すること、そして記憶することを意味するであろう。あなたレッスンを理解するために努力しなければいけないだろう。 そして他の種類の仕事のように、あなたが成功する保証はない。幾つかの勉強はあなたにとって易しいかもしれないが、他のものはあまりにも難しいかもしれない。あなたはこう発見するかもしれない:時々、失望してあなたの両手を上げてしまいたい、そして言いたい、「なぜ私は悩むべきなのか?私は本当にうまくいかない。」 『聖クルアーン12章』 ユースフ章 マッカ啓示111節 1.アリフ・ラーム・ラー。これらは明瞭な啓典の印である。 2.われは、アラビア語のクルアーンを下した。恐らくあなたがたは悟るであろう。 3.われはこのクルアーンをあなたに啓示し、物語の中の最も美しいものを語ろう。あなたもこれまで気付かずにいたものである。 4.ユースフがその父(ヤアコーブ)にこう言った時を思え。「父よ、わたしは(夢で)11の星と太陽と月を見ました。わたしは、それらが(皆)わたしに、サジダしているのを見ました。」 5.かれは言った。「息子よ、あなたの夢を兄たちに話してはならない。さもないとかれらはあなたに対して策謀を企らむであろう。本当に悪魔は人間には公然の敵である。 6.このように主は、あなたを御選びになって、出来事の解釈を教えられ、かれが以前に、あなたの祖先のイブラーヒームやイスハークに御恵みを全うされたように、あなたとヤアコーブの子孫にそれを全うしたものである。本当にあなたの主は全知にして英明であられる。」 7.本当にユースフとその兄弟(の物語の中)には、(真理を)探求する者への種々の印がある。

投稿者:サイト名 有馬徳彦
投稿日時:2012-08-16 09:29:43.0
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カテゴリ: スポーツ全般   エンタメ全般   教育全般  
タグ: アヴェ・ヴェルム・コルプス   (お話です)   メタ理論   タルムード6章   聖クルアーン12章   『メタ理論:   個人と集団の各主語的同一性が   時間という共通述語を知覚して   表象していくとき   自然時間という時間が   個人が自然を知覚する過程に   原初の人間と幼児の意識の   人間の身体と身体の行為を   自然界につなげて   抽象性と自己同一性について   想像的普遍の詩的知恵の形相で   表意して記号に起こしていくとき   共通する自然時間を   暦に与えて   時間の合致について   たとえば   共通時間のある暦の時間に   ある暦の時間の空間に集まる人間が   その日の経験を表象して   詩的知恵が起きて   想像的普遍性に対して   集団と自然のつながりと   個人と自然のつながりに   共通的自己同一性をつくり   縮約した過去である現在に   事象的・社会的・時間的次元の反復を   記憶と記号が可能にして   感覚的トピカと異なり   記憶した事象の再叙述を行います。』   『タルムード:Avot   第6章』   Study   is   work   それにもかかわらず   勉強は仕事である。あなたは「トーラに労力」をかけなければいけないと   Rabbi   Meirは言った。   勉強がいかに多くの仕事であるか   あなたはすでに知っている。それは   何度もなんどもレッスンを記憶し試験することを意味する。あなたは紙に書いて   レポートにまとめなければいけないであろう。それは   読むこと   再読すること   そして記憶することを意味するであろう。あなたレッスンを理解するために努力しなければいけないだろう。   そして他の種類の仕事のように   あなたが成功する保証はない。幾つかの勉強はあなたにとって易しいかもしれないが   他のものはあまりにも難しいかもしれない。あなたはこう発見するかもしれない:時々   失望してあなたの両手を上げてしまいたい   そして言いたい   「なぜ私は悩むべきなのか?私は本当にうまくいかない。」   Study   is   own   reward   一つの答えがある。成功がその唯一の報酬ではないのだ。たとえ何の仕事であろうとも   そしてそれに成功するかどうかに関わらずに   その真の報酬はその行いにある。ある特別な意味では   勉強はそれ自身の報酬である。   Rabbi   Meir   は言った   それ自身のために(すなわち成功を考えずに)トーラに労力をかける人は誰でも   多くの事に奉仕する;そればかりでなく   全世界が彼に恩義をこう:彼は友人と呼ばれる   かわいい   全ての生き物の愛人   人類の愛人:それは彼におとなしさ   尊敬を付与する;それは彼を正義   信神深く   正直な   そして公正にする;それは彼を罪から遠ざける   そして彼に美徳に近づける:彼を通して世界は助言と知恵ある音を楽しむ。   [   Avot   6:1   ]   ラビは教えた   特に   行動に対してあなた自身を準備する仕事において   あなたの態度は   その真の報酬はいつも行動の中にあると   考えるべきである。一人の生徒である場合を考えてみなさい。我々は全てが生徒として同じ特性を持ってはいない   我々は学問のそれぞれの分野において全てが平等に備えられてはいない。我々の幾人かは   ある学問で他の者たちより優れている。しかし我々の態度は   「勉強すること」は価値があるゆえに全ての生徒が価値があると   考えるべきである。   To   delight   the   Lord   「神は物語を愛するゆえに人間を創造した」   という言う言葉がある。そしてまたアボットの最後の文は   神の創造における神の大いなる喜びのこの考えについて力説している:   聖なるお方   賛えられるべき主が彼の世界を創造したものはみな   ただ神の栄光のために創造された。   [   Avot   6:11   ]   The   work   of   righteousness   我々はアボットの中で読む:人間が死ぬときに   銀や金や宝石や真珠を携えて行くことはできない   しかしただトーラと良い行いは(携えて行くことができる)。   [   Avot   6:9   ]   あなたの価値は   あなたがあなた自身を価値あるものに「させる」ところ   のものに集中する。あなたの価値は   あなたがあなたの行動を規則付けているその価値に従う。ハシディムの人々は   ハニポル(Hanipol)   のレブ・ズシュヤ(Reb   Zusya)   の話を繰り返し告げるのを愛した。レブ・ズシュヤは死ぬときに偉大なを教えを行なった:レブ・ズシュヤの生徒たちは   彼らの先生が死にかけているのを聞いて   最後の訪問にやって来た。しかし部屋に入ったときに   恐れでぶるぶる震えている先生を見て   彼らは驚いた。彼らはたずねた   「あなたはなぜ死を恐れているのですか?」「あなたの生活は   モーゼ自身と同じように正義であったではないですか?レブ・ズシュヤは答えた   「私が審判の王座の前に立つとき   『レブ・ズシュヤよ   なぜあなたはモーゼのようでなかったのか?』私がこのようにたずねられることはなく   『レブ・ズシュヤよ   なぜあなたはズシュヤのようでなかったのか?』私がこのようにたずねられるでしょう。」   明らかに   我々の各々は我々の生活の織機の中で正義の布を織るための努力をしなければいけない。   他の全てから離れて特別な生き物として我々各々作っている唯一な方法で   所有や金もちの意味付けよりもずうっと偉大な意味付けを我々の生活の各々に与えている方法で。あなたの生命の価値を測るこのような方法は   あなたのユダヤ伝統の一部であり   ユダヤ人が保持している価値の一部である。我々の各々は   可能な最上の「わたし」にする努力をすべきである。それこそが   ユダヤ人が生命の価値を測る方法なのである。   『聖クルアーン12章』   ユースフ章   マッカ啓示111節   1.アリフ・ラーム・ラー。これらは明瞭な啓典の印である。   2.われは   アラビア語のクルアーンを下した。恐らくあなたがたは悟るであろう。   3.われはこのクルアーンをあなたに啓示し   物語の中の最も美しいものを語ろう。あなたもこれまで気付かずにいたものである。   4.ユースフがその父(ヤアコーブ)にこう言った時を思え。「父よ   わたしは(夢で)11の星と太陽と月を見ました。わたしは   それらが(皆)わたしに   サジダしているのを見ました。」   5.かれは言った。「息子よ   あなたの夢を兄たちに話してはならない。さもないとかれらはあなたに対して策謀を企らむであろう。本当に悪魔は人間には公然の敵である。   6.このように主は   あなたを御選びになって   出来事の解釈を教えられ   かれが以前に   あなたの祖先のイブラーヒームやイスハークに御恵みを全うされたように   あなたとヤアコーブの子孫にそれを全うしたものである。本当にあなたの主は全知にして英明であられる。」   7.本当にユースフとその兄弟(の物語の中)には   (真理を)探求する者への種々の印がある。   8.かれら(兄たち)がこう言った時を思え。「ユースフとその弟は   わたしたちよりも父に寵愛されている。だがわたしたちは多勢の仲間である。父は明らかに間違っている。」   9.(1人が言った。)「ユースフを殺すか   それともかれを何処か外の地に追え。そうすれば父の顔(好意)はあなたがたに向けられよう。その後に   あなたがたは正しい者になれるというものである。」   10.かれらの1人の者が言った。「ユースフを殺害してはならない   もしあなたがたがどうしてもそうしたいなら   寧ろかれを井戸の底に投げ込めば   恐らく何処かの隊商に拾い上げられることもあろう。」   11.かれらは言った。「父よ   何故あなたはユースフを   わたしたちに御任せにならないのですか   わたしたちは   本当にかれに好意を寄せているではありませんか。」   12.「明日わたしたちと一緒にかれを(野に)行かせ   遊んで気を晴らせるようにしてやって下さい。わたしたちはかれを必ず守ります。」   13.かれ(ヤアコーブ)は言った。「あなたがたがかれを連れて行くのは   わたしにはどうも心配である。あなたがたがかれに気を付けない間に   狼がかれを食いはしないかと恐れている。」   14.かれらは言った。「わたしたちは多勢の仲間だから   もし狼がかれを食うようなら   その時はわたしたちは本当におしまいです。」   15.こうしてかれらは   かれ(ユースフ)を連れて行った。そしてかれを井戸の底に投げ込むことに決めた時   われはかれ(ユースフ)に啓示した。「あなたは必ずかれらの(する)この事を   かれらに告げ知らせる(日が)あろう。その時かれらは(あなたに)気付くまい。」   16.日が暮れてかれらは   泣きながら父の許に(帰って)来た。   17.かれらは言った。「父よ   わたしたちは互いに競争して行き   ユースフをわたしたちの品物のかたわらに残して置いたところ   狼が(来て)かれを食いました。わたしたちは真実を報告しても   あなたはわたしたちを信じては下さらないでしょう。」   18.かれらは   かれ(ユースフ)の下着を偽りの血で(汚し)持って来た。かれ(ヤアコーブ)は言った。「いや   いや   あなたがたが自分たちのために(大変なことを安易に考えて)   こんなことにしたのである。それで(わたしとしては)耐え忍ぶのが美徳だ。あなたがたの述べることに就いては   (只)アッラーに御助けを御願いする。」   19.そのうちに   隊商がやって来て水扱人を遣わし   かれは釣瓶を降ろした。かれは言った。「ああ吉報だ   これは少年だ。」そこでかれらは一つの売物にしようとしてかれを隠した。だがアッラーは   かれらの凡ての行いを熟知される。   20.かれらは僅かの銀貨でただ同然にかれを売り払った。かれらは   かれから多くを貪らなかった。   21.かれを買ったエジプトの者は   その妻に言った。「優しくかれを待遇しなさい。多分かれはわたしたちを益することになろう。それとも養子に取り立ててもよい。」こうしてわれはユースフをこの国に落ち着かせ   出来事(事象)の意味のとり方をかれに教えることにした。凡そアッラーは御自分の思うところに十分な力を御持ちになられる。だが人びとの多くは知らない。   22.かれが成年に達した頃   われは識見と知識とをかれに授けた。このようにわれは正しい行いをする者に報いる。   23.かれの起居する家の夫人が   かれの心を惑わそうとして   戸を閉めて言った。「さあ   あなたおいでなさい。」かれは(祈って)言った。「アッラーよ   わたしを御守り下さい。本当にかれ(あなたの夫)は   主人です。わたしを気持よく住ませてくれます。本当に不義の徒は   成功いたしません。」   24.確かにかの女は   かれに求めたのである。主の明証を見なかったならば   かれもかの女を求めたであろう。このようにしてわれは   かれから罪悪と醜行を遠ざけた。本当にかれは   謙虚で純真な(選ばれた)わがしもベの一人である。   25.その時両人は戸の方で相競い   かの女は後ろからかれの服を引き裂き   かれら両人は   戸口でかの女の夫に出会った。かの女は言った。「あなたの家族(妻)に悪事を行おうとした者には   投獄か痛ましい懲罰の外にどんな応報がありましょう。」   26.かれは言った。「奥様こそ   わたしの意に反して   わたしを御求めになりました。」その時かの女の家族の中の一人が証言した。「もしかれの服が前から裂けていれば   奥様が真実で   かれは嘘つきです。   27.だがかれの服が   もし後ろから裂けていれば   奥さまが嘘を御付きになったので   かれは真実であります。」   28.主人は   ユースフの服が後ろから裂かれているのを見て   言った。「これはあなたがた(婦人)の悪企みだ。本当にあなたがたの悪企みは   激しいものである。   29.ユースフよ   これを気にしないでくれ。それから(妻よ)   あなたの罪の赦しを願いなさい。本当にあなたは罪深い者である。」   30.町の婦人たちは(評判して)言った。「貴人の奥様が   青年の意に反し   誘惑したそうよ。きっと恋に狂ったのでしょう。わたしたちは   明らかに奥様の誤りだと思います。」   31.かの女は婦人たちの悪意のある(陰ロ)を聞くと   使いを遣わし   かの女たちのために宴席を設け   一人一人にナイフを渡し   それから(ユースフに)   「かの女たちの前に出て行きなさい。」と言った。かの女たちがかれ(ユースフ)を見ると驚歎し   (興奮して)その手を傷つけて言った。「アッラーの(造化の)完全無欠なことよ   これは人間ではない。これは貴い天使でなくて何でしょう。」   32.かの女は言った。「この人よ   あなたがたがわたしを謗るのは。確かにわたしが引っ張ってかれに求めたの。でもかれは貞節を守ったのよ。でも(今度)もしかれがわたしの命令を守らないなら   きっと投獄されて   汚名を被るでしょう。」   33.かれ(ユースフ)は言った。「主よ   わたしはかの女たちが誘惑するものよりも   牢獄が向いています。あなたがもしかの女たちの悪企みを   わたしから取り除いて下さらなければ   わたしは(若年の弱さで)かの女たちに傾いて   無道な者になるでしょう。」   34.それで主はかれ(の祈り)を受け入れ   かの女たちの悪企みをかれから取り払われた。本当にかれは全聴にして全知であられる。   35.そこでかの女たちは(かれが潔白である)証拠を見ていながら   しばらくかれを投獄しよう(それがかの女たちのために良い)と思った。   36.その時2人の若者が   かれと共に下獄した。その1人が言った。「わたしは酒を絞るのを(夢に)見ました。」また外の者は言った。「わたしは(夢に)自分の頭の上にパンを乗せて運んでいると   鳥がそれを啄むのを見ました。わたしたちにその意味を解いて下さい。御見かけしたところ   あなたは善い行いをされる方です。」   37.かれ(ユースフ)は答えて言った。「あなたがた2人に支給される食事が来る前に   わたしは必ずその解釈を告げよう。それはわたしの主が教えて下さるのである。わたしはアッラーを信じず   また来世を認めない不信心者たちの信条を捨てたのである。   38.そしてわたしは祖先   イブラーヒーム   イスハークまたヤアコーブの信条に従う。わたしたちは   アッラーにどんな同位者も決して配すべきではない。これはわたしたち   また凡ての人びとに与えられたアッラーの恩恵である。だが人びとの多くはこれに感謝しない。   39.2人の獄の友よ(わたしはあなたがたに尋ねる)。雑多の神々がよいのか   それとも唯一にして全能であられるアッラーなのか。   40.かれに仕えないならば   あなたがたとその祖先が命名した   (只の)名称に仕えるに過ぎない。アッラーはそれに対し権能を与えてはいない。大権はアッラーにだけ属し   あなたがたはかれ以外の何ものにも仕えてはならないと(アッラーは)命じている。これこそ正しい教えである。だが人びとの多くは知らない。   41.2人の獄の友よ   あなたがたの中1人に就いていえば   主人のために酒を注ぐであろう。また外の1人に就いては   十字架にかけられて   鳥がその頭から啄むであろう。あなたがた2人が尋ねたことは   こう判断される。」   42.そして2人の中   釈放されると思われる者に言った。「あなたの主人にわたしのことを告げなさい。」だが悪魔は   かれがかれ(ユースフ)のことをその主人に告げるのを忘れさせた。それでかれは   なお数年間獄中に留まった。   43.(エジプトの)王が言った。「わたしは7頭の肥えた牛が   7頭の瘠た牛に食われているのを(夢に)見ました。また穀物の7穂が緑で   他(の7穂)が枯れているのを見ました。首長たちよ   あなたがたが夢を解け得るならば   このわたしの夢を解釈して下さい。」   44.かれらは(答えて)言った。「複雑な夢です。わたしたちは夢の解釈は不得手です。」   45.ところが2人の中の(獄から)釈放された者が   時を経て思い出して言った。「わたしがその解釈をあなたがたに知らせましょう。それで(まず)わたしを行かせて下さい。」   46.(かれは牢獄に来て言った。)「ユースフよ   誠実な人よ   わたしたちに解いて下さい。7頭の肥えた牛を   7頭の瘠た牛が食べ   また7つの緑の穀物の穂と   外の(7つの)枯れたものと(の夢)を。わたしは人びとの処に帰って   かれらに理解させたい。」   47.かれは言った。「あなたがたは7年の間   例年のように種を播きなさい。だが刈り取ったものは   あなたがたが食べるのに必要な少量を除いて   (残りを)籾のまま貯蔵しなさい。   48.それから   その後7年(にわたる)厳しい(年)が来て   あなたがたがかれらのため以前に貯蔵したものを食べ   貯えるものの少量(を残す)に過ぎないであろう。   49.それからその後に来る1年には   人びとに豊かな雨があり   たっぷり(果汁を)萎るであろう。」   50.王は(命じて)言った。「かれをわたしの所に連れて来なさい。」それで使いがユースフの所に来た時   かれは言った。「あなたは引き返して   あの手を傷つけた婦人たち(の心境)はどうなっているのか   主人に尋ねなさい。わたしの主は   かの女たちの悪企みを知っておられる。」   51.かれ(王)は   (婦人たちに)言った。「あなたがたがユースフを誘惑した時   結局どうであったのか。」かの女たちは   「アッラーは完全無欠であられます。かれ(ユースフ)には   何の悪いこともないのを存じています。」と言った。貴人の妻は言った。「今   真実が(皆に)明らかになりました。かれを誘惑したのはわたしです。本当にかれは誠実(高潔)な人物です。」   52.かれ(ユースフ)は言った。「これはかれ(主人)に   かれの不在中わたしが決して裏切らないことを知らせ   またアッラーが裏切り者の悪企みを決して御助けになられないことを知らせるためです。   12-53.またわたし自身   無欠とはいえませんが   主が慈悲をかけた以外の(人間の)魂は悪に傾きやすいのです。本当にわたしの主は寛容にして慈悲深くあられます」   12-54.(これらの報告を聞いて)王は言った。「かれをわたしの許に連れて参れ。わたしは側近としてかれを引き立てよう。」そこでかれ(王)は   かれ(ユースフ)と話を交した後   言った。「今日あなたは   確かにわたしの側近である。高位につけられ   信頼されているのである。」   12-55.かれ(ユースフ)は言った。「わたしをこの国の財庫(の管理者)に任命して下さい。わたしは本当に知識ある管財者です。」   12-56.こうしてわれは   この国においてユースフに権力を授けた。それでかれは   意のままにエジプトの国中を何時でも何処にでも住むことが出来た。われは欲する者に慈悲を施す。また善行をなす者への報奨を虚しくしない。   12-57.信仰して   絶えず主を畏れる者には   来世における報奨こそ最も優れたものである。   12-58.その中ユースフの兄たちが来て   かれの前に罷り出た。かれ(ユースフ)はかれらを認めたが   かれら(兄たち)の方はかれに気付かなかった。   12-59.かれは食料をかれらに与えてから言った。「あなたがたと同じ父親の   兄弟を1人わたしのもとに連れて来なさい。あなたがたは   わたしが十分に計量したのを見なかったのか。それはわたしの最上の持て成しではないか。   12-60.もしあなたがたがかれを連れて来ないなら   あなたがたはわたしの所で(穀物を)計ってもらえず   わたしに近付くことも出来ない。」   12-61.かれらは言った。「かれ(弟)に就いて父を納得させ   必ずそれを実行いたしましょう。」   12-62.それからかれ(ユースフ)は   その部下に(命じて)言った。「かれらの(穀物と交換して払った)代価をかれらの袋に入れて置け。かれらは家に帰りそれを見て   恐らく戻って来るであろう。」   12-63.かれらは父のところに帰って言った。「父よ   わたしたちは(穀物を)計ることを拒否されました。弟をわたしたちと一緒に行かせて下さい。そうすれば計って貰えます。わたしたちは(どんな危険があっても)必ずかれを守ります。」   12-64.かれ(ヤアコーブ)は言った。「わたしは以前にかれの兄(ユースフ)に就いてあなたがたを信用した以上に   かれに就いてあなたがたを信用出来ようか。だがアッラーは最も能く(かれを)守られる。かれこそは   慈悲深い御方の中でも最大の慈悲深い御方であられる。」   12-65.かれらが荷物を開くと   代価がかれらに返されているのを見付けた。かれらは言った。「父よ   わたしたちは(この上)何を望みましょう。この代価がわたしたちに戻されています。家族に(もっと)蓄えが貰えます。弟を守り   ラクダ1頭分の増配を得(て帰)るでしょう。そのくらいは   難なく手に入るでしょう。」   12-66.かれは言った。「あなたがたが   避け難い障害に取り囲まれた場合の外必ずかれを連れて戻ると   アッラーにかけて約束しない限り   わたしはかれをあなたがたと一緒に決してやらないであろう。」こうしてかれらがかれに厳粛に誓った時   かれは言った。「アッラーは   わたしたちの言ったことの監視者であられる。」   12-67.更にかれは言った。「息子たちよ   (町に入る時は皆が)1つの門から入ってはならない。あなたがたは別々の門から入りなさい。だが(この用心は)   アッラーに対しては   あなたがたに何も役立たないであろう。裁定は   只アッラーに属する。かれにわたしは信頼した。凡ての頼る者は   かれにこそ頼るべきである。」   12-68.かれらは父の命じたやり方で入った。それは   アッラー(の計画)に対し   何の役にも立たなかった。只ヤアコーブ自身に必要な気休めに過ぎなかった。かれはわれが教えたので   知識を持っていた。だが人びとの多くは知らない。   12-69.さてかれらがユースフの許に行った時   かれはその弟を親しく迎えて言った。「わたしはあなたの兄です。今までかれら(兄たち)がしてきたことに   心を悩ましてはならない。」   12-70.かれ(ユースフ)が   かれらに配給をし終った時   かれは弟の袋の中に盃を入れた。やがて   ある者が呼びかけた。「隊商よ   あなたがたは確かに泥棒です。」   12-71.かれらは振り向いて言った。「あなたがたの何がなくなりましたか。」   12-72.かれらは言った。「わたしたちは   王様の盃をなくしたのです。それを持って来た者にはラクダの一頭分の荷(を与える)でしょう。わたしがその保証人です。」   12-73.かれらは言った。「アッラーにかけて誓います。わたしたちはこの国で   悪事を働く為に来たのではないことを   あなたがたは既に御存じです。わたしたちは   盗みは致しません。」   12-74.かれらは言った。「あなたがたが嘘つきであったら   その(盗みの)処罰は何としようか。」   12-75.かれら(兄たちは答えて)言った。「その処罰は   誰でも袋の中から(盃が)発見された者であります。かれが   その償いです。このように   わたしたちは悪を行う者を罰します。」   12-76.それでかれ(ユースフ)は   弟の袋(の検査)をする前に   かれらの袋を(調べ)始めた。そして(最後に)弟の袋から   それを捜し出した。われはこのように   ユースフに策略を授けた。アッラーが望まれる以外には   かれは弟を(エジプト国)王の法律の下で抑留することが出来なかったのである。われは欲する者の(英知の)階位を高める。全ての知者の上に全知なる御方はいる。   12-77.かれらは言った。「もしかれが盗んだとすれば   かれの兄も以前確かに盗みをしました。」しかしユースフはこれらのことを自分の心に秘めて   かれらにそれ(秘密)を漏さなかった。かれは(独り言のように)言った。「事情はあなたがたに不利である。アッラーはあなたがたの語る真実を最も能く知っておられる。」   12-78.かれらは言った。「申し上げますが   かれには大変年老いた父親があります。それでかれの代りに   わたしたちの1人を拘留して下さい。御見うけしたところ   あなたは本当に善い行いをなさる方でございます。」   12-79.かれは言った。「アッラーは   わたしたちの物を   その許で見付けた者以外は   (誰も)捕えることを禁じられる。(もしそうしないと)本当にわたしたちは   不義を行うことになるであろう。」   12-80.そこでかれらは   かれ(の引き取り)に望みがないことを知り   密に協議した。かれらの中の最年長の者が言った。「あなたがたは   父がアッラー(の御名)によって誓いをたて   また以前ユースフのことに就いても   どのような誤りを犯したかを考えないのか。それで父がわたしを許すか   またアッラーがわたしたちを御裁き下さるまで   わたしは決してこの地を離れないであろう。かれは最も優れた裁決者であられる。   12-81.あなたがたは父のもとに帰って言いなさい。『父よ   あなたの子は   本当に盗みをしました。わたしたちは   唯知っていることの外は証明出来ません。また目に見ていないことに対しては   どうしようもなかったのです。   12-82.それで(あなたは)   わたしたちがいた町で尋ねるか   またはそこを往来した隊商に問いなさい。わたしたちは真実を言っている(ことが分ります)』。」   12-83.かれ(ヤアコーブ)は言った。「いや嘘である。あなたがた自身のため事件を工夫して作ったに過ぎない。だが耐え忍ぶこそ(わたしには)美徳である。或はアッラーが   かれらを皆わたしに御送りになるかもしれない。かれは本当に全知にして英明であられる。」   12-84.かれはかれらから離れて言った。「ああ   わたしはユースフのことを思うと   悲しくてならない。」かれ(父)の両目は悲嘆の余り白くなり   物思いに沈んだ。   12-85.かれらは言った。「アッラーにかけて申し上げます。あなたはユースフを思うことを止めなければ   重態に陥り   或は死んでしまいます。」   12-86.かれは言った。「わたしは只アッラーに対し   わが悲嘆と苦悩とを訴えている丈である。わたしは   あなたがたが知らないことを   アッラーから教わっている。   12-87.息子たちよ   あなたがたは出掛けてユースフとその弟の消息を尋ねなさい。アッラーの情け深い御恵みに決して絶望してはならない。不信心な者の外は   アッラーの情け深い御恵みに絶望しない。」   12-88.それでかれらは   (また)かれ(ユースフ)の許にやって来て言った。「申し上げます。災難(飢饉)がわたしたちと一族の者に降りかかったので   ほんの粗末な品を持って参いりました。枡目を十分にして   わたしたちに施して下さい。本当にアッラーは施しを与える者を報われます。」   12-89.かれは言った。「あなたがたが無道の余り   ユースフとその弟にどんなことをしたか知っているのか。」   12-90.かれらは驚いて言った。「すると本当にあなたは   ユースフなのですか。」かれは言った。「わたしはユースフです。これはわたしの弟です。アッラーは確かにわたしたちに恵み深くあられる。本当に主を畏れ   堅忍であるならば   アッラーは決して善行の徒への報奨を   虚しくなされない。」   12-91.かれらは言った。「アッラーにかけて。本当にアッラーはわたしたちの上に   あなたを御引き立てなされた。わたしたちは本当に罪深い者です。」   12-92.かれは言った。「今日あなたがたを   (取り立てて)咎めることはありません。アッラーはあなたがたを御赦しになるでしょう。かれは慈悲深き御方の中でも最も優れた慈悲深き御方であられます。   12-93.あなたがたはわたしのこの下着を持って(帰り)   わたしの父の顔に投げかけなさい。かれは眼が見えるようになろう。それからあなたがたは   家族揃ってわたしの処に来なさい。」   12-94.隊商が(エジプトを)たった時   かれらの父は(左右の者に)言った。「わたしは確かにユースフの匂を嗅いだ。だがあなたがたは   老衰のせいだと思うであろう」   12-95.かれらは言った。「アッラーにかけて   全くそれはあなたの(いつもの)老いの迷いです。」   12-96.それから吉報を伝える者が(帰って)来て   (下着を)かれの顔に投げかけると   直かれは視力を回復した。かれは言った。「わたしはあなたがたに言わなかったか。あなたがたが知らないことを   わたしはアッラーから(の啓示で)知っている。」   12-97.かれらは言った。「父よ   わたしたちのために   罪の御赦しを祈って下さい。わたしたちは本当に罪深い者でした。」   12-98.かれは言った。「それではわたしはあなたがたのため   わが主に御赦しを願ってやろう。本当にかれは   寛容で慈悲深くあられる。」   12-99.やがてかれらがユースフの許に来た時   かれは両親を親しく迎えて言った。「もしアッラーが御望みなら   安らかにエジプトに御入りなさい。」   12-100.かれは両親を高座に上らせた。すると一同はかれにひれ伏した。するとかれは言った。「わたしの父よ   これが往年のわたしの夢の解釈です。わが主は   それを真実になさいました。本当にかれは   わたしに恩寵を与え   牢獄からわたしを御出しになり   また悪魔が   わたしと兄弟との間に微妙な敵意をかきたてた後   砂漠からあなたがたを連れて来られたのであります。わが主は   御望みの者には情け深くあられます。本当にかれは全知にして英明であられます。   12-101.主よ   あなたはわたしに権能を授けられ   また出来事の解釈を御教えになりました。天と地の創造の主よ   あなたは現世と来世でのわたしの守護者です。あなたは   わたしをムスリムとして死なせ   正義の徒の中に加えて下さい。」   12-102.これはわれがあなた(ムハンマド)に啓示した   幽玄界の消息の一つである。かれらが(ユースフに対する)計画を策謀した時   あなたはかれらと(その場に)いなかった。   12-103.仮令あなたが如何に望んでも   人びとの多くは信じないであろう。   12-104.あなたはそれ(使命)に対し   どんな報酬もかれらに求めない。これは   全人類への訓戒に外ならない。   12-105.天と地の間には   (アッラーの唯一性や神慮に関し)如何にも多くの印がある。かれらはその側を過ぎるのだが   それらから(顔を)背ける。   12-106.かれらの多くは   アッラーを多神の1つとしてしか信仰しない。   12-107.かれらに下るアッラーの懲罰が覆いかかることに対し   またかれらが気付かない間に突然来る時に対し   かれらは安心出来るのか。   12-108.言ってやるがいい。「これこそわたしの道。わたしも   わたしに従う者たちも明瞭な証拠の上に立って   アッラーに呼びかける。アッラーに讃えあれ。わたしたちは多神を信じる者ではない。」   12-109.われはあなた以前にも   町に住む者の中から(特に選んで)   われが啓示を授けた人間以外は   (預言者として)遣わさなかった。かれら(マッカの人びと)は   地上を旅して   以前の者たちの最後が   どんな(悲惨な)ものであったかを観察しているではないか。本当に主を畏れる者に対する   来世の住まいこそ最上である。あなたがたは悟らないのか。   12-110.(ムハンマド以前の)使徒たちが(遣わされた民のもとで)一切の希望を失った時   そしてかれら(使徒たち)が(不信仰者に対するアッラーからの勝利の約束の)期待が持てなくなったと思い込んだ時   われの助けがかれら(使徒)に下り   われの欲する者に救いは来るのである。只罪を犯した者は   わが懲罰は免れられない。   12-111.本当にかれらの物語の中には   思慮ある人びとへの教訓がある。これは作られた事柄ではなく   以前にあったもの(啓典)の確証であり   凡ゆる事象の詳細な解明であり   また信仰する者への導き   慈悲である。  

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(お話です) 2 「タルムード」「律法の価値」「生活の選択」「エルサレムのヤブネ体制」

(お話です) 2 「タルムード」「律法の価値」「生活を選択すること」「エルサレムのヤブネ体制とパリサイ派のラビ」「第二反乱と エルサレムのヤブネ体制 についてと イェフダ・ハナスィ (=総主教の総主教のイェフダ)と ヤブネ議会(=ヤブネ・サンヘドリン) について」 「マカベア(ハスモン)家が ユダヤの独立を回復。 前63年 ユダヤがローマの 属領の属王ヘロデの 圧制が行われて、 以降のローマ人総督が 悪政を行って、 ユダヤ人が大反乱を起す (ユダヤ戦争紀元66~70年)。 反乱は鎮圧され, エルサレム神殿が破壊されて、 神殿祭儀なしに 民族的・宗教的共同体を 維持する意識が 強く受け継がれます。 第2神殿時代に発達した、 礼拝と律法研究のために、 安息日(シャバット)ごとに 各居住地の成員が集まる シナゴーグ(集会所)が パリサイ派律法学者の活動の拠点でした。 これらの拠点に集結して 海岸地方のヤブネに集まって、 破壊された神殿にあった サンヘドリン(議会)を再興して、 派律法学者の 律法と律法解釈の ユダヤ人共同体の形成の維持を行いました。 第2反乱(132‐135) ヤブネが破壊されて、 ユダヤ人共同体が ガリラヤになりました。 5世紀初期 キリスト教が強力になり ローマ帝国の国教になりました。 ペルシア時代以降展開した ディアスポラ・ユダヤ人(離散民)が ヘレニズム・ローマ時代に発展して、 紀元の時期 人口が本国のユダヤ人の数十倍に達していた。 大部分のローマ帝国内の ユダヤ人の幾度もの反乱で ディアスポラ(離散民)が 弾圧を受けて、 ローマ帝国の支配圏外にあった バビロニアのディアスポラ(離散民)が 徐々にユダヤ人の拠点になりました。 このことから 5世紀以降 バビロニア各地の 教学院(イェシバー yeshivah)に集まった 律法学者たちが, 「ラビのユダヤ教」を行って、 ユダヤ民族・宗教共同体の基準の 口伝律法の集大成の バビロニア・タルムードを 編纂しました。 10世紀 バビロニア拠点でしたが 以降のユダヤ人共同体が、 イスラム教徒が展開する 北アフリカとスペインが 拠点になりました。」

投稿者:サイト名 有馬徳彦
投稿日時:2012-06-28 00:59:04.0
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タグ: (お話です)   2   「タルムード」   「律法の価値」   「生活を選択すること」   「エルサレムのヤブネ体制とパリサイ派のラビ」   「The   value   of   Torah   :律法の価値」   「Choosing   life生活を選択すること」   「第二反乱と   エルサレムのヤブネ体制   についてと   イェフダ・ハナスィ   (=総主教の総主教のイェフダ)と   ヤブネ議会(=ヤブネ・サンヘドリン)   について」   「マカベア(ハスモン)家が   ユダヤの独立を回復。   前63年   ユダヤがローマの   属領の属王ヘロデの   圧制が行われて   以降のローマ人総督が   悪政を行って   ユダヤ人が大反乱を起す   (ユダヤ戦争紀元66~70年)。   反乱は鎮圧され,   エルサレム神殿が破壊されて   神殿祭儀なしに   民族的・宗教的共同体を   維持する意識が   強く受け継がれます。   第2神殿時代に発達した   礼拝と律法研究のために   安息日(シャバット)ごとに   各居住地の成員が集まる   シナゴーグ(集会所)が   パリサイ派律法学者の活動の拠点でした。   これらの拠点に集結して   海岸地方のヤブネに集まって   破壊された神殿にあった   サンヘドリン(議会)を再興して   派律法学者の   律法と律法解釈の   ユダヤ人共同体の形成の維持を行いました。   第2反乱(132‐135)   ヤブネが破壊されて   ユダヤ人共同体が   ガリラヤになりました。   5世紀初期   キリスト教が強力になり   ローマ帝国の国教になりました。   ペルシア時代以降展開した   ディアスポラ・ユダヤ人(離散民)が   ヘレニズム・ローマ時代に発展して   紀元の時期   人口が本国のユダヤ人の数十倍に達していた。   大部分のローマ帝国内の   ユダヤ人の幾度もの反乱で   ディアスポラ(離散民)が   弾圧を受けて   ローマ帝国の支配圏外にあった   バビロニアのディアスポラ(離散民)が   徐々にユダヤ人の拠点になりました。   このことから   5世紀以降   バビロニア各地の   教学院(イェシバー   yeshivah)に集まった   律法学者たちが,   「ラビのユダヤ教」を行って   ユダヤ民族・宗教共同体の基準の   口伝律法の集大成の   バビロニア・タルムードを   編纂しました。   10世紀   バビロニア拠点でしたが   以降のユダヤ人共同体が   イスラム教徒が展開する   北アフリカとスペインが   拠点になりました。」   「The   value   of   Torah   :   トーラの価値」   ラビ・エリアザル・ベン・アザリア(Rabbi   Eleazar   ben   Azariah)は言った。トーラがないところには作法はない   そして作法がないところにはトーラはない。.........小麦粉がないところにはトーラがない   トーラがないところには小麦粉はない。   [   Avot3:21   ]   Religion   and   mankind   ラビ・エリアザルの言うことは奇術師の演技のようである。奇術師の手のちょっとした動きだけで   ボールが空中に浮いているようにも   そして突然動きだすようにも見える。同じように   エリアザルはトーラと作法   トーラと小麦粉の考えで奇術をしている。   「小麦粉」という単語から   彼が象徴的に言っているということを   我々は知っている。小麦粉は我々にとって毎日のパン   我々の身体のえさ   を代表する。トーラは   比較して   我々の精神---我々の宗教---のえさを代表するにちがいない。   同じことがトーラと作法との間に比較される。ここでは   作法は我々が選んだ生活の毎日の方法を代表する。トーラは   我々の最も高い標準   我々のゴール   我々の道徳   我々の法律---再び我々の宗教---を代表する。   もちろん   作法には良い作法あるいは悪い作法がある。我々がただ単語「作法」を使う場合は   我々はいつも「良い作法」---他人への振る舞いに   敏感でそしてあわれみ深い方法---について言っている。   A   world   wiyhout   Torah   我々は人々がこう言っていることをしばしば聞く:良い作法を持つことは   ひとりの人が世界を平和な場所にする必要がある   それが全てである。人々はこう言うかもしれない   「ユダヤ人であることは   世界の他から私をただ離しているに過ぎない」あるいはこう言うかもしれない   「私はただ人間になりたのだ」   これらの人々が忘れていることは   ただ「人間(human)」であるという自然の状態が動物の状態であることである。それはほとんど永続的に生き残る種類の状態ではない。我々のほとんどの人間では   我々はほとんど野生の動物のようである:餓えた時には互いに戦い爪でひっかく   そして親切に対して邪悪をもって応じる。良い作法は立派である   しかしトーラの保護なしでは   我々を案内する法律なしでは   それら(良い作法)は我々の動物の状態から十分遠くに我々を移動させることはない。ラビはこのことを示すために   老人と蛇の物語を話した。   ある寒い日に   老人が彼の暖炉を離れて彼の野原を歩いていた。彼の手には棒を持っていた   荒れ地で彼を助けるために使い   そしてまた野の獣から保護するために使った。彼が歩いていた時に   道の脇の地にとても静かに横たわっている蛇を見つけた。彼は棒を上げそれを殺そうとしたが   しかし蛇は動かなかった。その時   蛇は寒さで凍ってしまっている   とその老人は悟った。   老人はその蛇がかわいそうに感じた。彼は地面から蛇の凍った身体を持ち上げ   彼自身の身体に接近させて暖かく保った。すぐに蛇はより強くなったが   まだ弱いふりをしていた。それから   突然   蛇は老人のまわりに巻きついて彼を締め始めた。   老人は恐れて叫んだ   「おまえは私を殺したいのか?私はちょうどおまえの命を救ったのだ。おまえは感謝をしないのか?」蛇は笑った。そして言った   「トーラは言っている   蛇は人間のかかとを傷つけるであろう。私はあなたを殺さなければならない   それが人間に対する蛇の方法である」老人はひどく恐れた。彼は蛇に嘆願した   しかし蛇は笑った。   その時   老人はこのケースを裁くために法廷に行くよう要求した。「誰が裁判官になるのか?」   蛇は答えた。「さぁ道に添って歩こう」   彼は言った   「そして最初に会った者が裁判をするのだ」蛇は勝つ確信があったので一緒に行くことに同意した。それで彼は   なおも彼に堅く締めつけている蛇とともに   道を下って行った。   一日中歩いた後   道で   老人と蛇は休んでいる強い牛に会った。老人はその牛に近づいた。「私を殺すことは悪いことだ   と蛇に言ってくれ」   と彼は言った   「私はちょうどこの蛇を助けた   そして共通の作法では   蛇が今度は私を助けるべきである   と言っている」「トーラの中で   蛇と人間は敵である   と言う。   それゆえに私が彼を締めつけて殺すことは正しいはずだ」   蛇は答えた。その牛は蛇に同意した。「あなたは親切な行為をした。しかし蛇は邪悪な行為でそれに報いなければならない。この世界では   我々はいつも善を邪悪で報いるのだ」   牛は答えた。   蛇は老人を強く締めつけた。しかし老人が痛さのため大声で叫び始めたちょうどその時に   ロバがたまたま通りかかった。「そのロバに裁いてもらおう」   老人は痛さで曲がった歯の間から声を出して言った。蛇は微笑んで   そしてふたまたに分れた舌をちらりと見せた。そして   いきさつが再び話された時に   そのロバは蛇に同意した。「善を邪悪で報いるのは自然な方法だ」   ロバは追加した   「それが動物の方法なのだ。最も強い者が一番良い者だ。つめやきばの現実の世界において   使う方法に何があるというのか?」「これは公平な裁判ではない」   老人は言った   「もう一回裁く機会をくれ」   空には太陽がほとんど沈みかけていた。エレサレムの町の影が長くなった   そして丘の頂上の向こう側が暗くなってきた。「見よ   もう遅い」   蛇は言った   「あなたが私を助けてから何も食べていないのでおれは腹がへった。これが最後の裁判だ   そしてあなたは死ぬのだ。」彼らが最後の裁判官を探して道を下っている時に   道の脇に奇妙な光景が現われた。一人の高貴な若者が大地の大きな穴の近くに立っていた。その若者はとの穴の中に彼の美しい杖を落としてしまったのだ。彼は召し使いたちにその穴に水を満たすよう命じた   そして彼らがそうした時に   杖は上に浮いてきた   そしてその若者はそれを簡単に手にとった。   「これは賢い人だ」   老人は言った   「彼を最後の裁判官にしよう。」「そうしよう」   蛇は言った。若者はその二つの話しに耳を傾けた。老人は   いかにして蛇の命を助けたか   を細かく説明した。蛇もまた   老人を殺すことが自分の義務である   と説明した。「まず」   若者は蛇に言った   「おまえは老人から降りなければならない   なぜならばトーラの中で言われている:二人が裁判をしている時は   どちらも有利であってはならない」「さて」   若者は蛇に質問した   「おまえの命を助けた老人をなぜ殺したいのか?」「それはトーラの中で言われている」   蛇は言った   「おまえは男のかかとを傷つけよ」   「それはまたトーラの中で言われている」   その若い裁判官は言った   そして老人の方に向いて   「男は蛇の頭を打ちたたけ」老人は   彼がいつでも持っていた杖を上げた。彼は蛇の頭をたたき   それを殺した。   「今わたしは理解した」   老人は若者に言った   「世界には作法がないのだ   トーラの法律によって保護されている作法を除いては」この高貴な若者は微笑んだ。彼はエレサレムのダビデ王の息子   ソロモンの十代の若者以外の何者でもない。   [   Tanhuma   Buber   ]   良い作法を持つことは   人間であることの一つの精練である。   しかし作法を持つことは   それを支援するゴールや価値を持つことを我々に要求する。映画館でチケットを買う列を考えてみなさい。我々がチケットを買う場合に観察する作法は命じている:最初にやってきた人が最初に奉仕されるべきであり   その後に来たすべての人が順番に奉仕されるべきである。我々はみんな忍耐強くはない   我々はみな次になりたいと思っている;それでもなおも   我々は良い作法を現わし   そして我々の順番を待つ。誰かが列に「割り込む」時   あるいは誰かが我々の前に押して入る時   その時   我々はいらいらさせられる。我々は彼がフェアではないと言う   しかし我々は「彼が人間である!」ということには同意しなければならないでろう。   法律は我々を保護する   その国の法律ではなく   確かに   チケットの行列に割り込む人を禁止する特別な法律は   あったとしてもほとんどの国にはない;しかし我々の宗教の法律にはある。トーラの中で   我々が自分自身を愛すると同様に他人を愛しなさいという戒律   そして全ての人は平等に造られているという教え   を我々は持っている。トーラは善い作法への我々の案内であり   悪い作法からの我々の保護である。   それでラビ・エリアザルの教え   「トーラがないところには   作法がない」我々はそれをこう読める   我々の行動を制御するための一連の標準と価値観を   我々に教える宗教または伝統がないところには   我々の行動は他人の必要の思いやりがないであろう。   Where   there   are   no   manners   ...   タルムードの善き人の一人は我々に教えた:トーラをたくさん勉強して   戒律を理解し愛している人   しかしそれによって生活していない人は   たずなを持っていない馬のようである。トーラはほんの短い間は馬の上に乗っている   しかしすぐに馬はその騎手を頭から投げ出してしまう。   その反対に   トーラをたくさん勉強している人   そしてトーラを実践している人は   たずなを持っている馬のようである。その騎手   トーラ   はこの馬をあちこちに導き   そしてその馬は喜んでその指導を受ける。   [   Avot   de   Rabbi   Natan   24   ]   ラビ・エリアザルの教えの第二の部分   「作法がないところには   トーラがない」   これは実践の生活が先に来なければならないことを   我々に告げている。もし人が法律によって喜んで生活しないならば   トーラはほとんど役に立たないであろう。もし人が   世界の中に作法の必要性があると決心する時のみ   その人はトーラの使用法を見つけるであろう。   それで   まず最初の段階はこうである   「神の視点で正しいことをすること」   [   Exodus   15:26   ]   すなわち   何がビジネスあるいは売り買いで正しいことか。それであなたはこう学ぶであろう:真実で正直にビジネスあるいは売り買いを振る舞う人   そして他人を喜ばす人   その人はトーラ全体を満たしたかのようにみなされる。   [   Mechilta   Vayetze   Beshallah   ]   人が   他人の善い作法に従うことによって   単純にその神の法律を守る時   その時   彼の行動はその法律のために行動している人の行動と同じように   どの点からみても善い。このように   グループが   善い生活をするために最も無知の人でさえ助けることができる。   たとえばトーラを勉強してきた人が   敏感さを持たずに行動したり   あるいはトーラの原則い従って行動することに失敗しているのを我々が見る時は   我々はこう言う気になる:「それには私の行動の仕方と何の違いを作っているのか?」しかし   トーラを勉強してきた人が   親切な方法で行動していて   彼のまわりの人々に幸福をもたらしているのを我々が見たその時   我々はよくこう言うのを好む:「私もまたそういう風に行動しよう」これは   ラビが我々に教えた   人間のもつ自然の方法である。   (モーゼの兄)アロンが道にいた時に   邪悪であるとして知られている男に会った   彼はその男に「あなたに平和を」といつも挨拶をしていた。   その次の日   その男が邪悪なことをしたくなった時に   彼は言った   「もし私がこれをしたならば   私は目を上げてアロンを見つめることができるであろうか?私は彼の前に恥じるであろう   なぜならば彼は私に平和の挨拶をくれるから」それでその男は邪悪をすることから戻ってゆくようになった。   [   Avot   de   Rabbi   Natan   12   ]   しかし作法はどのようにトーラに導くのであろうか?これの最善の例は   我々がこの本の第1章で勉強した物語の中で示めされる---   シメオン(Simeon)と真珠の物語である。最後に   シメオンが真珠をその正しい所有者に返した時に   その所有者はシメオンの作法によって感情が圧倒された。そしてその驚かされた所有者の答えは:「シメオン・ベン・シェタ(Simeon   ben   of   Shetah)の神を誉め賛えよう」   シメオンと共に   そしてアロンと共にいるように   我々の作法がトーラを基本としている時   その作法は他人をトーラに導く。それでラビは教えた:   人にまず最初に善い行ないをするようにさせなさい   そうしてそれから   神にトーラの知識を質問するようにしなさい。   [   Tanna   de   be   Eliezer   p.31   ]   Where   there   is   no   flour   ...   ラビ・エリアザルの言うことの最後の部分は格言として有名になっている。それはこう始まる   「小麦粉がないところにはトーラがない   ....」   他の伝統の中で平行に言われる   ヒンズー教の先生であるVivekananda   (1863-1902)   は言った   「最初にパン   そして次に宗教。空腹の熱望を満足する教義はないであろう」   もちろん   ラビ・エリアザルはおそらく心の中にもっと何かを持っていた。人は勉強するために食べなければならない   ということは真実ではあるが   我々が言ったようにエリアザルは象徴的に話していた。   貧乏の真っただ中では   人はその瞬間の必要性のことのみを強制的に考えさせられる。死に至る飢えの可能性に直面した時   作法や価値観あるいはトーラのための時間はない。人は   僅かな必需品---食料   衣服そして家---に関心を集中することに自分自身を落としめる。我々は   貧乏人にヘブライ語を教えること申し出ることによって   たとえもし彼がユダヤ人であっても彼を助けることはできない。我々は最初にもっと基本的な種類の援助を申し出なければならない。   Where   there   is   no   Torah   ...   しかし貧乏の種類以上のものがある。ラビ・エリアザルが「小麦粉がないところにはトーラがない」と言った時   我々が彼の心の中に持っていたところのことを理解するようになった時に   テーブルの向きが変わり   彼は続けて言う   「トーラがないところには小麦粉はない」そしてここには新しい種類の貧乏がある   食料のはく奪ではなく   トーラのはく奪である。   トーラなしでは   我々の生活は貧しくなるであろう。我々は精神の飢えに苦しむであろう。トーラは世界にそんな豊かさを提供している   我々が「トーラの冠」として話すような   それを祭司の冠   王国の冠と比較する。   ラビ・シメオンは言った   三つの冠がある:トーラの冠   祭司の冠そして   王国の冠である。しかし   良い名前の冠はそれら全ての上にある。   [   Avot   4:17   ]   シメオンはいかにして言うことができるのか   三つの冠があり   それから名前が   四(番目の冠)なのか?答えはこうである   トーラの冠から良い名前の冠が流れ出る。   なぜそれは祭司の冠からは来ないのか?祭司はアロンと彼の仲間の家系に直接に参照しているために   それは誰にでも開かれているのではない。   同じことが王国の冠にも真である   それは王たちにのみ許されている。祭司の冠のように   この王族の冠は来ては行ってしまう単なる地上の力の問題である。   しかしトーラの力は永続する。それは全てに開かれている。各々そしてどのイスラエル人もがトーラの冠をかぶることが出来る。全てがそれを勉強するために招待される。全てが毎週毎週それを読み聞くように要求される。人はトーラによって知恵を獲得する。そしてトーラの勉強を通して   人は独力で良い名前を創造する方法を学ぶ。   作法を通して   我々は独力で「良い名前の冠」を創造する。そして我々の作法は人間であることの事柄だけではない。それらは我々人々の学びと教えとから引き出される。我々の作法はユダヤ人の作法である。我々の行動を通して   我々はそれらを世界に自由に(at   large)表現する。   しかし我々がこれらの作法を表現することが出来る前に   我々はそれらを知らなければならない。我々は学ぶために待つことができない   我々の勉強は今始まらなければならない---今   精神と心が渇望している時に。もし我々がそれらが餓死するまで待つならば   我々はあんまり長く待ちすぎてしまうであろう。それで   世界の全ての大多数が飢えいるような精神の貧乏を   我々は避けなければならない。   もちろん   あなた自身はそれについて何かをすることを決心しなければなりません。あなただけがトーラを   あなたの心の精神を養う小麦粉にする選択ができる。そしてこれをする方法はトーラを「勉強する」ことによってである。   「それをしっかりとつかむ人には   生命の木となって」   [   箴言   3:18   ]   「トーラがないところには作法はない   そして作法がないところにはトーラはない。   知恵のないところには神への畏れはない   神への畏れのないところには知恵はない。   知識のないところには理解はない   理解のないところには知識はない。   小麦粉がないところにはトーラがない   トーラがないところには小麦粉はない。   [   Avot3:21   ]     神がイスラエル人にトーラを与えた理由について   創造主   神は   トーラを授けるべく世界の民族に啓示を行った。   まず   エサウの子孫のところに行って   「おまえたちはトーラを受け入れるか」とたずねられた。   それには何が書いてあるのか   との彼らの問に対して   神は   「殺すなかれ」とある   と答えられると   「その人たちと彼らの父は人殺しでした。『手はエサウの手.....おまえは剣をもって世を渡ることになろう』(創世記27:40)     と彼らは答えた。   今度は   アンモン人とモアブ人のところに行って   「おまえたちはトーラを受け入れるか」とたずねられた。それには何が書いてあるのか   との彼らの問に対して   神は   「姦淫するなかれ」とある   と答えられると   「我々の民族は不倫のかたまりみたいなものです。『こうしてロトと二人の娘たちは父によってはらんだ』(創世記19:36)」   と彼らは答えた。   今度は   イシマエル人のところに行って   「おまえたちはトーラを受け入れるか」とたずねられた。それには何が書いてあるのか   との彼らの問に対して   神は   「盗むなかれ」とある   と答えられると   「我々の先祖は盗みを生業としていたのです。『彼は野生ロバのような人になり   その手はすべての人に逆い』(創世記16:12)」   と彼らは答えた。   神は   ありとあらゆる民族のところに行って   「おまえたちはトーラを受け入れるか」とたずねられた。『他のすべての王はあなたに感謝するでしょう。彼らはあなたの口のもろもろの仰せ聞いたからです』   (詩編138:4)   ノアの子らが受け入れ七つの戒律ですら彼らは守りきれず   これをイスラエルにやった。----   「申命記スィフレ343節」   ---   もし神の啓示をどの民族も受け入れなければ   創造の目的は達せずに   全人類は抹殺されていたことであろう   というのがラビたちの思想です。これは果樹園を持っていた王にたとえられよう。彼はこれを管理人に任せてどこかに出かけた。しばらく後に果樹園に出てみたところ   いばらやあざみがぼうぼうと生えていたので   人をやって下払いさせた。その中に見事な一輪のばらが目にとまったので   これを手折ってその香をかいでみたところ   生き返る心地がした。このばら一輪のために果樹園全体をこのままにしておいても惜しくない   と思った。   同様に   全宇宙もトーラのために創造されたのである。二十六世代のちに   創造主の神が世界を覗いてごらんになったところ   そこはいばらやあざみだらけであった。   そこで   「主は洪水の上に座し」(詩編29:10)と書いてあるように   この世界を滅ぼそうとなさった。しかし   そこに一輪のばら   すなわちイスラエルが主の目にとまった。彼らこそは   将来シナイ山の前に立って   主に向って「わたしたちは主が仰せられたことをすべて行い   守ります」(出エジ記24:7)と言うような民族であった。   そこで神は   イスラエルのために全世界を助けてやるだけの価値がある   と仰せられた。----「レビ記ラバ23:3」   ---   もしイスラエルの民が   神の啓示(シナイ契約(=義務方契約))を拒否していれば   エジプトを脱出後   荒野で死に絶えていたことであろう。   ラビのこんな話もあります。創造主の神は   シナイ山を巨大な容器のように彼らの頭上におおいかぶせて   もしおまえたちが受け入れるならばよし   さもなくばこれがおまえたちの墓場となろう   と宣言しました。   ----「   BTシャバ88a」---   モーゼの律法の板が「二枚」あるという理由について   神は十戒を定めると   まず一枚の石の板にそれを彫りました。それから   神は自分の作品をたずさえて出かけました。   いろいろな民族にすすめてみることにしたのです。   要らないかね   神はフランス人にききました。   でも   大体   何が書いてあるんですか   と疑わしげにたずねました。生活の規則だよ。たとえば   「隣人の妻によこしまな心を抱いてはならない」   いや   それなら結構   とフランス人がいいました。それでは楽しみがなくなってしまいますよ。神はドイツ人のところに行きました。要らないかね。   何が書いてあるんですか。生活の規則だよ。たとえば   「人を殺してはならない」   なんですって!では   どうやって戦争をすればいいんですか。神はこうして   イギリス人   イタリア人   ギリシャ人   アラブ人   中国人のもとをまわりました。誰もその作品を欲しがりません。神はたいへん困りました。そこで彼はユダヤ人にすすめてみました。ユダヤ人はすぐにたずねました。おいくらですか。ただだよ   と神は勢いこんで答えました。たださ!お金は要らないよ。そうですか   ユダヤ人はいいました   それなら「二枚」いただきましょう。   「Choosing   life(生活を選択すること)」   ラバン・シメオン・ベン・ガマリエル(Rabban   Simeon   ben   Gamaliel)は言った   世界は三つの物の上に立って守られる:真実(by   truth)審判(by   judgment)平和(by   peace)で守られる。   [   Avot   1:18   ]   あなたは海を探しに出かけた魚の話を憶えているかもしれない。いたるところを探した後   海は単純に存在していなかったとその魚は決定した。今年に我々が一緒に勉強したところのものについて   あなたはおそらくこんな風に感じているかもしれない。我々がそれを一緒にする時に   それは全て何の意味があるのか?それが全て何についてであるかを忘れずにいる方法はあるのか?   たとえそうでも   我々の勉強の中にユダヤ人の道徳の全てをカバーしてきているわけではない。ユダヤ人の道徳の主題に関しては厖大な量の文献がある   そして我々は単にその表面をひっかいたにすぎない。我々は氷山の先端だけを勉強してきた   とあなたは言うかもしれない。   しかし   極めて重大な我々の伝統の価値や概念のほとんどのうちの幾つかを我々は話してきた。共同体社会の重要さ   政府の重要さ   労働の重要さ   トーラの重要さ   そして名誉と尊敬の重要さ   その他について我々は触れてきた。   最初   あなたはあなた自身にこう言うかもしれない:「確立」した道徳がある。それらは個人として自由になることを許していない。それらはただグループにとって何が良いかを用意している。   しかし我々は   それはあなたの権利を一個人のものであることを保証し   力と権威の誤った使用からあなたを保護し   あなたの自由を保護している   そのような我々の伝統の価値を話してきた。   これらは生活そのものの価値である   ---選択の自由   互いへの感受性   友情と仲間意識   開かれた信用できる議論   そして公平で平等な審判。   これらの価値の中で   我々は人間の精神の最も深い熱望を認めることができる。一緒に   共同的で個人的な価値は   高貴な人間の共同社会に対する基礎を我々に提供している:真実を基礎に   審判を基礎に   そして平和を基礎にした共同社会である。   Preserving   the   world   あなたが属しているかもしれない多くのグループの中の   ユダヤ人の人々は最も多くの要求がある。我々は命じられている:「あなたは   主あなたの神をあなたの全ての精神をこめて   あなたの全ての心をこめて   そしてあなたの全ての力をこめて   愛さなければなりません」   (申命記   6:5)   何のさらなる要求が作られることがあったのか?しかし我々がアボットの勉強で見てきたように   我々が神を愛するというのは何を意味するのかを解く場合に   それは人間の世界の中で行動する間に神の法律に従うことである   ということをラビたちは見せてきた。商人たちは   彼らから買う人々を公正に扱わなければなりません。農民たちは   公正な測りで収穫物を測らなければなりません   そして彼らの客をだまさないように。人は   彼または彼女の使用人から賃金の支払をたとえ一晩でも控えてはなりません。   ---   賃金の支払は時間どおりになされなければなりません。慈善は全てに対して要求される   ---   貧乏人でさえ慈善をする方法を発見するべきである。「Gemilt   Hasadim(神からの乳離れ)」   報酬なしを約束している愛の行動   が命じられている:我々は病人を見舞わなければなりません。我々は孤児や未亡人を助けなければなりません。我々は見知らぬ人を正当に扱わなければなりません。死人の埋葬の必要が生じた時に我々は援助しなければなりません。。これらの具体的な行動は   これらそしてもっと多くの   神に対する我々の愛の地上での表現である。   しかし特に三つの価値が主要である   その重要さの点で   そして我々が一緒にしてきた勉強の全てのまとめという点において。ラバン・シメオン・ベン・ガマリエルの言葉   [   Avot   1:18   ]     世界は三つの物の上に立って守られる:   真実(by   truth)審判(by   judgment)平和(by   peace)で守られる。   真実(By   truth)   それが真実に来るとき   我々は互いを信頼しなければなりません。信頼が全ての人間の関係に最も深いきずなになっているほどに   我々は互いにたいへん依存している。我々の相続権である我々の伝統を我々に教えてくれる他人を信頼している   そして我々が我々自身でそれを判断するほどに   彼らがそれを我々に真に与えるであろうと信頼している。ヒレルとシャマイについて一つの有名な話がラビによって話された   真実がいかに全ての学びの基礎になっているかを見せるために。   不信仰者がシャマイのところにやってきた   そして言った   「私はあなたと学びたい   しかし最初に私に告げて下さい。一つのトーラ以上のものがあるのですか?」シャマイは答えた   「二つのトーラがある   ---   the   written   Torah(書文のトーラ)と   the   oral   Torah(口伝のトーラ)とが」そのとき不信仰者は言った   「私自身で読むことができる書文トーラに関しては   私はあなたを信頼するでしょう。しかし口伝トーラに関しては   そうではありません」それでシャマイは全く彼を教えることを拒んだ。   その同じ不信仰者がヒレルのところにやってきて同じ質問をした。彼は同じ回答を受けた。「私に書文トーラだけを教えて下さい」   と彼はヒレルに言った。そしてヒレルは同意した。   授業の最初の日に   ヒレルはその不信仰者にアレフ・ベイト(Aleph-Bet)を教えた。正しい順序になるように   彼は文字を何度も繰り返したので   その異教徒はそれらを学んだ。「アレフ(Aleph)   ベイト(Bet)   ギーメル(Gimel)   ダレット(Dalet)   ...   」しかしその次の日に   彼が復習にやってきた時   ヒレルは始めた。「アレフ   ギーメル   ダレット   ベイト   ...   」その不信仰者は混乱して言った   「やめて下さい   昨日あなたはこう教えました『アレフ   ベイト   ギーメル   ダレット   ...』   そして今日は『アレフ   ギーメル   ダレット   ベイト   ...』と教えました。どっちが真実なのですか?」その時   ヒレルは答えた   「あなたはアレフ・ベイトの真実に対して私を信頼しなければならない。同じように   あなたは我々の伝統の真実に対してもまた私を信頼しなければならない」   (Shabbat   31a)   同じように   我々の伝統の真実に対して我々はお互いを信頼しなければならない。この本の中で   我々はアボットの言葉を勉強してきた   そしてそれらをユダヤ人の知識の伝統に立つものと認めてきた。世界は   この伝統を習得し   それで生き続けることをユダヤ人に頼っている。それは   我々が世代から世代に通過させ   それをレビューし   そしてより大きくしてきた真実の伝統である。   今や   真実を探求することはユダヤ人としてあなたの責任である。それは   あなたがそのために選ばれた責任である   そしてそれゆえにユダヤ人は「選ばれた民(Chosen   People)」と呼ばれているのだ。しかし真実はあなたからずっと遠くにいるわけではない   ---   それはあなたの気持ちの中に   あなたの心の中にある。あなたは   あなた自身を信頼することを学び   あなた自身で審判することを学び   あなた自身で決心することを学ばなければならない。あなたは我々の伝統の最も新しい連結(link)である   勉強を通して   探求を通して   あなたは真実を学ばなければならない。次の世代は彼らの相続権をあなたに頼るであろう   あなたが全て充満に学んできた伝統を通過させるであろうことを期待して。あなたが   何がそうであろうかというその真実である。   審判(by   judgment)   我々はまた   あなた自身そしてあなたのまわりの世界の審判として   あなたが演じることの重要な部分を勉強してきた。そしてラバン・シメオンの言葉に中で   市民の世界が頼っているその三つの柱うちの一つは   審判という柱である   ということを彼は我々に思い出させる。   シメオンは   「正義(justice)」という言葉を使わないで   むしろ「審判(judgment)」という言葉を選んだことに注意しなさい   ---   審判は法律の法廷の中としての意味がある。そしてシメオンの選んだ言葉のちょっとしたこの違いを強調すると   意味に一つの違いがある。なぜならば   一方において   「正義」は盲目的である   賢者が言っているように:法律の目には   全ての物事は平等であり   そして何の特別な環境もない。   しかし「審判」は盲目的ではない:審判の目には   あらゆるケースが特別なケースであり   そして全ての環境が異なる。我々はもう一度   帽子をまわしてた裁判官の話   ---   彼は町の人々に「正義」と「慈善」の違いを教えた   ---   を呼び出す必要がある   ラバン・シメオンが「審判」という言葉を使った時に   彼が心の中に持っていたところのものを理解するために。   彼の言葉の選択から   我々がそれを行動に移すまでは「正義」は共同体社会の柱ではない   ということを我々は学ぶかもしれない。我々は公平に他人を審判しなければならない   フェアプレイの掛け声だけではなく。我々は親切に他人を扱わなければならない   親切な語りだけではなく。我々は尊敬して他人を扱わなければならない   優しく正しい話だけではなく。   多くの人々は敏感であるべきことを主張する   しかしこれらの人々の行動が   彼ら自身の必要に加えて他人の必要に向けられている時にのみ   真に敏感である。我々が我々自身について行う審判   そして他人について行う審判に従って   我々は行動しなければならない   ---   その時   我々の審判は真実になるであろう。   平和(by   peace)   タルムードの中のどこかほかで   ある注釈が述べている:ラバン・シメオンの三つの価値   ---   審判   真実   そして平和   ---   は本当のものである   なぜならば真実と審判(原文は審判でなく正義となっているが誤植)は平和が存在するために必要であり   そしてそれの最も確実な保護である。審判が公平に報われている時は   真実が支持され   そしてその結果は平和である。   (Jerusalem   Talmud   Taanit   68a)   そのラビにとっては   平和は人間性の自然な状態である。それは   永遠であるに値する生活のたった一つの方法である。我々が以前に「平和の価値(第20章)」で議論してきたように   人は   平和が彼を見つけることを待つことはできない   ---   彼は平和を活発に「追い求め」なければならない。   平和   審判   そして真実の中の関連はたいへん親密なので   アボットは我々に告げている:正義が無視され   そして真実を誤らせる時は   暴力がその避けられない結果である。正義が遅れるために   そして正義の悪用のために   そしてトーラをその真の意味に従わないで解釈する罪のために   世界に戦争がやって来る。   (Avot   5:11     正しくない状態を正すことについて   我々が待って待ってそして何もしない時   我々は多かれ少なかれ暴力を招いている。国の貧乏人が踏みにじられて飢える時   例えば   金持ちが全体的に苦しんでいる隣人の悪い状態を無視する時   反乱や革命が容易に生じる。正義が悪用され   そして法廷がたやすく賄賂や政治的な興味によって影響される時   その時はまた暴力が遠くはない。法廷が人々を平等に審判することに失敗して   そしてその代わりに彼らを皮膚の色や宗教や社会の地位に従って審判する時   暴力がその結果となる   ---   なぜならば法廷が公平でないならば   いったい他のどこで人々は平和に向きを変えることができるであろうか。  

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アヴェ・ヴェルム・コルプス (お話です) 2 「タルムード」「感受性の価値」 「イスラエルのヤハウェ信仰の回復」

アヴェ・ヴェルム・コルプス (お話です) 2 「タルムード」 「The value of sensitivity : 感受性の価値」 「イスラエルの民のヤハウェ信仰の回復」 紀元前926 イスラエル王国が 南王国ユダとベニヤミン族(2部族首都エルサレム) 北イスラエル王国(10部族首都サマリア) に分裂 紀元前722 北イスラエル王国が アッシリアに滅ぼされる (列王記下16~17章)   (失われた10部族) 北王国の10部族は アッシリアに虜囚されて滅亡した。 (文書は残されていない。) アッシリアの政策で異民族と混ざる。 紀元前640 ユダ王国のヨシヤ王が8歳で即位。在位31年 (列王記下22~23章)(暦代誌下34章) 予言者エレミア登場 紀元前625頃  新バビロニア王国建国 紀元前609 メギドの戦い(アッシリアの没落で エジプトと新バビロニアが争う) ユダはバビロニアの支配下で、 バビロニアのヨシヤ王が エジプト軍との戦いで戦死。 (列王記下23:29、歴代誌下35:20~24) 紀元前598 新バビロニア王国ネブカドネザル2世が エルサレムを包囲。 ユダ王国の人々がバビロンに捕囚。 第1次バビロン捕囚(列王記下24:10~17) 預言者エゼキエルも共に捕囚 バビロニア時代 紀元前586~538 名前がない極めて有能な預言者 仮に第三のイザヤが 神ヤハウェの信仰と エルサレムの未来について導く。 (イザヤ書 56章~66章) ペルシャ時代 紀元前538~333 第2神殿時代が紀元前538年のバビロン崩壊から 紀元70年ローマによる神殿破壊までの600年間 紀元前586 エルサレム陥落。南ユダ王国滅亡。 第2次バビロン捕囚 (列王記下25章) 神殿破壊され廃墟になる これらの民はバビロンの王に70年の間仕える。 (エレミヤ書25:11) 南ユダ王国新バビロニアの属州にる 紀元前582 第3次バビロン捕囚(745人) 紀元前538 ペルシャ帝国によるバビロン崩壊 ペルシャ王クロス2世が捕囚民の解放。 イスラエルの民が帰還 紀元前515 ペルシャ王クロス2世の勅令で 捕囚から帰還した民が神殿を再建 (エズラ記6章) 第1神殿破壊から71年で第2神殿が完成 (暦代誌下36章) ペルシャ国内が混乱していたため エルサレムでヤハウェ信仰と 神殿の礼拝を認めて、 かつて衝突していた サマリア人、アラブ人などの 周辺諸部族と混ざって行ったが、 特にサマリア人貴族と エルサレムの祭司の 縁戚関係が結ばれて行き ヤハウェ信仰の純粋性が減衰した。 エズラがバビロニア捕囚が終わっても 帰還が果たせぬまま バビロニアを滅ぼした ペルシャ帝国の寛容な政策で エズラがイスラエルの民でも ペルシャの高官になることができた。 このことから、 ペルシャ王 アルタクセルクセス1世 (紀元前464年~423年)の 第7年5月に「ソーフエール」 =書記(律法学者)の称号の エズラが、王から免税特権を与えられて バビロニアの力エルサレムに来たが、 ヤハウェ信仰の純粋性の衰退を指摘して エルサレムの祭司に サマリア人の貴族と エルサレムの祭司の縁戚関係を 離別させようとした「エズラ記10章」 がエルサレム民族共同体の説得に 失敗して13年間エルサレムを離れました。 ペルシャ王 アルタクセルクセス1世 (紀元前464年~423年)の 第20年紀元前445年に ペルシャ宮廷の 捕囚民出身の高官の ネヘミヤがユダヤ州知事に着任して、 神殿の城壁を修復して、 「安息日の遵守」 「1/10の税の神政共同体の維持」 「エルサレムの人口の調整」 「下級祭司とレビ人の 給与の支払いの保障」 「サマリア人の貴族と エルサレムの祭司の 縁戚関係の離別」 を断行して エルサレムに戻ったエズラが 「モーセの律法(五書)」 を読み上げた。 こうしてユダヤ人共同体の 社会改革(エヘミヤ記13章) トーラー(モーセ五書)を 聖典とするユダヤ教が確立しました。 * 「詩編、箴言(しんげん)」 「コヘレトの言葉(伝道の書)」 「雅歌」 「哀歌(エルサレムの滅亡を嘆く歌)」 がございます。

投稿者:サイト名 有馬徳彦
投稿日時:2012-06-25 21:55:32.0
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カテゴリ: 暮らし全般   エンタメ全般   教育全般  
タグ: アヴェ・ヴェルム・コルプス   (お話です)   2   「タルムード」   「The   value   of   sensitivity   :   感受性の価値」   「イスラエルの民のヤハウェ信仰の回復」   紀元前926   イスラエル王国が   南王国ユダとベニヤミン族(2部族首都エルサレム)   北イスラエル王国(10部族首都サマリア)   に分裂   紀元前722   北イスラエル王国が   アッシリアに滅ぼされる   (列王記下16~17章)   (失われた10部族)   北王国の10部族は   アッシリアに虜囚されて滅亡した。   (文書は残されていない。)   アッシリアの政策で異民族と混ざる。   紀元前640   ユダ王国のヨシヤ王が8歳で即位。在位31年   (列王記下22~23章)(暦代誌下34章)   予言者エレミア登場   紀元前625頃   新バビロニア王国建国   紀元前609   メギドの戦い(アッシリアの没落で   エジプトと新バビロニアが争う)   ユダはバビロニアの支配下で   バビロニアのヨシヤ王が   エジプト軍との戦いで戦死。   (列王記下23:29   歴代誌下35:20~24)   紀元前598   新バビロニア王国ネブカドネザル2世が   エルサレムを包囲。   ユダ王国の人々がバビロンに捕囚。   第1次バビロン捕囚(列王記下24:10~17)   預言者エゼキエルも共に捕囚   バビロニア時代   紀元前586~538   名前がない極めて有能な預言者   仮に第三のイザヤが   神ヤハウェの信仰と   エルサレムの未来について導く。   (イザヤ書   56章~66章)   ペルシャ時代   紀元前538~333   第2神殿時代が紀元前538年のバビロン崩壊から   紀元70年ローマによる神殿破壊までの600年間   紀元前586   エルサレム陥落。南ユダ王国滅亡。   第2次バビロン捕囚   (列王記下25章)   神殿破壊され廃墟になる   これらの民はバビロンの王に70年の間仕える。   (エレミヤ書25:11)   南ユダ王国新バビロニアの属州にる   紀元前582   第3次バビロン捕囚(745人)   紀元前538   ペルシャ帝国によるバビロン崩壊   ペルシャ王クロス2世が捕囚民の解放。   イスラエルの民が帰還   紀元前515   ペルシャ王クロス2世の勅令で   捕囚から帰還した民が神殿を再建   (エズラ記6章)   第1神殿破壊から71年で第2神殿が完成   (暦代誌下36章)   ペルシャ国内が混乱していたため   エルサレムでヤハウェ信仰と   神殿の礼拝を認めて   かつて衝突していた   サマリア人   アラブ人などの   周辺諸部族と混ざって行ったが   特にサマリア人貴族と   エルサレムの祭司の   縁戚関係が結ばれて行き   ヤハウェ信仰の純粋性が減衰した。   エズラがバビロニア捕囚が終わっても   帰還が果たせぬまま   バビロニアを滅ぼした   ペルシャ帝国の寛容な政策で   エズラがイスラエルの民でも   ペルシャの高官になることができた。   このことから   ペルシャ王   アルタクセルクセス1世   (紀元前464年~423年)の   第7年5月に「ソーフエール」   =書記(律法学者)の称号の   エズラが   王から免税特権を与えられて   バビロニアの力エルサレムに来たが   ヤハウェ信仰の純粋性の衰退を指摘して   エルサレムの祭司に   サマリア人の貴族と   エルサレムの祭司の縁戚関係を   離別させようとした「エズラ記10章」   がエルサレム民族共同体の説得に   失敗して13年間エルサレムを離れました。   ペルシャ王   アルタクセルクセス1世   (紀元前464年~423年)の   第20年紀元前445年に   ペルシャ宮廷の   捕囚民出身の高官の   ネヘミヤがユダヤ州知事に着任して   神殿の城壁を修復して   「安息日の遵守」   「1/10の税の神政共同体の維持」   「エルサレムの人口の調整」   「下級祭司とレビ人の   給与の支払いの保障」   「サマリア人の貴族と   エルサレムの祭司の   縁戚関係の離別」   を断行して   エルサレムに戻ったエズラが   「モーセの律法(五書)」   を読み上げた。   こうしてユダヤ人共同体の   社会改革(エヘミヤ記13章)   トーラー(モーセ五書)を   聖典とするユダヤ教が確立しました。     「詩編   箴言(しんげん)」   「コヘレトの言葉(伝道の書)」   「雅歌」   「哀歌(エルサレムの滅亡を嘆く歌)」   がございます。   When   a   Jew   seeks   wisdom   「The   value   of   sensitivity」   Sensitivity   Keeping   the   group   together   A   full-time   task   Sensitivity   is   sensible   Timing   is   important   The   hour   of   anger   Seeking   and   receiving   forgiveness   In   the   hour   of   death   In   the   time   of   vow   In   the   hour   of   embarrassment   「The   value   of   sensitivity   :   感受性の価値」   ラビ・シメオン・ベン・エルアザル(Rabbi   Simeon   ben   Eleazar)は言った。あなたの仲間が怒っている時に彼をなだめてはならない   そして死人が彼の前に横たわっている時に彼を慰めてはならない   そして彼が誓いを立てている時に彼に質問してはならない   そして恥ずかしい思いをしている時に彼を見ようとしないように。   (Avot   4:18)   Sensitivity   あなたが特別な秘密を友人に告げて   そして彼があなたの知らない誰かにそれを話したという最初の時をきっとあなたは憶えているでしょう。あなたの友人があなたを当惑させた理由によって   あなたは彼を「wicked」とさえ呼んだかもしれない。   あるいは   おそらくあなたがあるゲームの試合で上手でなかったので   両軍が組み直されあなたがその最後に選ばれた人になり   そして選んでいる選手があなたに陰うつに言った   「おれが思うに   お前はおれの側だよね!」それはチームで最も弱い連結として考えられていることで   正確にあなたを良い気持ちにさせない。   我々の全てはこの種の瞬間をもっている   そして我々の全てはまた他人を時々当惑させている   たとえ故意にではないとしても(そして時々我々は目的をもってまさに故意に他人を当惑させる)。実際に   いかにして他人を当惑させないか   を人は学ばなければならない。これを学ぶことは自然には出来ないのである。   我々は   何が他人を傷つけるか   に敏感であるようには生まれていない。我々は我々自身を訓練しなければならない   いかに他人が傷つくかを学ぶという観点で   それによって我々が他人を傷つけるのを避けるために。そして   もちろん我々のグループは   他人へより多く敏感であるように学ぶことを助ける点で   大きなくいを持っている。   Keeping   the   group   together   グループがしなければいけない   と我々が言ったところのものの一つは   一緒に留まることである。そのメンバーが互いに一緒に暮らさない理由で   もしそのグループが壊れ始めるならば   そのグループは共にいるという感じを失い   そしていずれは解散してしまう。   このことは我々が属している他のグループと同じように   我々のユダヤ人グループにも真である。ユダヤ人共同社会の場合は   そのくいはたいへん高い。もしその共同社会が解散すれば   各々の人は一人での残される;一緒に生活する目的は消え去り   より完全な社会になるように   そしてより良い世界を作ることに向けて   我々が一緒に作ってきたところの全ての前進は失われる。   それでラビたちは   あなたが「何を」するかだけでなく   あなたが「いつ」行なうべきか   そして他人に向けて「いかに」振る舞うべきか   というもっと困難な質問についてとても関心をもった。互いに対して敏感であることは我々を一緒に留める助けとなるであろうと彼らは我々に教えた。   A   full-time   task   互いに対して敏感であることはフルタイムの仕事である。我々が長い間一緒に親密に生活している時でさえ   それはより簡単になることはない。それはほとんどいつでも難しい。例えば   あなたの家族を取り上げてみよう。   あなたが属する他のどんなグループよりも長く   あなたは家族と一緒に生活してきた。ユダヤ人の家族は一緒に親密に   各家族を小さなユダヤ人の人々にして維持するようラビたちがそんなに強く強調しているのは   この理由のためである。   なおも   そして全て   兄弟あるいは姉妹に親切であったと思い出すのが難しい。   我々が自然に嫉妬深い時が何度もある。(ヨセフの物語そして彼の好みの服   彼の兄弟の全てがいかに嫉妬していたか   あなたは思い出すかもしれない。)   我々が両親を困惑させる時が何度もある   両親が我々を困惑させる時が何度もあると同様に。(友人があなたの家で夜を過ごす時に   「あなた」の就寝時刻にあなた方二人が寝なければならないことを思い出すかもしれない。)あなたの両親は他の全ての両親と違っているために   他の両親がそんなに重要であると考えていないような事を   あなたの両親は時々あなたにやらせることがあるかもしれない。それであなたの家族は   敏感な方法で他人と一緒に生活することがいかに難しいかという一つの良い例なのである。   Sensitivity   is   sensible   しかし他人に敏感になるようにやってみることは良いセンスを作る。我々の勉強を通して   全ての種類の支援においていかに多くお互いに依存しているか我々は見てきた。我々の家族は   世話   食物     そして愛を我々に与えている   たとえ他の誰もが与えない時でさえ。そしてユダヤ人民は一種の拡張された家族である----我々ユダヤ人の共同社会は   家族を持っていない人々を世話し   そして家族を持っている人々さえ世話する。我々は共同社会を一緒に築き   そして敏感さは建築の煉瓦の一つである。   それで   病人を訪れることは一つの戒律である。喪に服している人々を慰めることは一つの戒律である。怒っている人を平静に戻すことは一つの戒律である。慈善を与えることは一つの戒律である。必要な時に人を助けることは一つの戒律である。捕虜の身代金を支払うことは一つの戒律である。そして   これらの戒律を実行することは愛の一つの行動   敏感な人の行動である。この行動は   我々の共同社会を強くすること   そして我々人々を密接に一緒にすることを助ける。   Timing   is   important   さらに重要なことは   あなたが何をするかだけではなく   何時それをするかである。例えば   あなたがバレーボールをサービスする場合に   あなたは空中にボールを投げることによって始める。さてあなたは手でそれを打つ最善の瞬間を正確に待つ。もしあんまり早すぎて打つと   ボールは空中に飛んで行ってしまう。もしあまり長く待ち過ぎると   ボールはネットにぶつかる。あなたのタイミングが正確である時のみ   バレーボールであなたがそれを行ないたいことができる。   戒律を実行する場合にも同じことが真である。もしあなたがあんまり早くそれを必要とする前に実行すると   決して来ないかもしれない結果を待つというように   それは空中に止ってします。病気でない友人を病気訪問することを想像してみなさい-----あなたはこう言わないだろうか?「ちょうど今わたしはあなたを訪問している   それは将来ある時に   あなたが気分がすぐれない時に   わたしが遠くからやってきてあなたを訪問しなければならないのがいやだから」   あるいは   盲目の女性が通りを横切りたいと思う前に   彼女が横切るのを助けることを想像してみなさい。彼女は横切った時に感謝を表わし   そしてこう言ったとする   「私が本当に通りの反対側に行きたかったのですか?」あまりにも遅く戒律を実行することは   また   大きく役に立たない。慈善を施す前に   人が餓えて死んでしまうまで待つことは   ほとんど戒律としては数えられない。すでに4年前に死んだ愛する人を失った人を慰めることは   彼が必要な時に彼を慰めると同様な効果を持つことはできない。   戒律とその戒律の実行は正しいタイミングを要求する。そしてタイミングの良いセンスを習得することは   我々の宗教的な知覚の発展において   重要な部分を演じる。こつを習得することは   戒律を行なうための正しい時を知るようになることを含む。何時しゃべり   そして何時黙るか。   The   hour   of   anger   ラビ・シメオン・ベン・エルアザル(Rabbi   Simeon   ben   Eleazar)は我々が他人により敏感になるような4つの方法を話した:最初は   怒っている人をなだめることを含む。2番目は   喪に服している人に慰めをもたらすことを扱う。3番目は   誓いを立てている人にいかに対応するかを扱う。そして4番目は   我々がこの章を始めたところの主題に我々を戻す----当惑させるという話題に。   最初に   シメオンは言った   「あなたの仲間が怒っている時に彼をなだめてはなりません。」   (Avot   4:23)   人が怒の道に行く時   もし彼が善き人であれば   彼の知恵は彼から離れる。もし彼が預言者であれば   彼の預言の力は彼から離れる。そしてもし彼に対する偉大さが天によって認められていた時でさえも   怒る人は誰であれそれ(偉大さ)を失う。   (Pesahim   66b)   激怒と怒は   人の中に深く食い込む   まわりのあらゆるものが酸っぱく変わるまで。怒の発作の中で人は   長く後悔するであろうことを言うであろう。誰かがあなたに怒っている時は   あなたが謝罪することが良い   「soft   answer」を与えるために。差分をつぎ当てするよう試みるのが良い   しかしタイミングとこつが必須である。シメオンは我々に警告した   怒りの頂点にいる人に謝罪したり言い訳しないように   なぜならば彼はその時に「Yetzer   HaRa(邪悪の衝動)」によってのみ制御されているからである。   「地獄の全ての部門は一人の怒りの男が支配している」   (Nedarim   22a)   その代わりに待ちなさい。あなたの現われる時を選びなさい   その怒りの人から激怒が消えた時を。もしあなたがあまり早すぎて来ると   あなたの出現が彼をもっと怒らせるだけであり   そしてそれはあなたが望むこととはちょうど反対である。   一方   もしあなたがあまり長く待ち過ぎると   怒っていた人はあなたに対して恨みを持つようになる。彼は心の中であなたを嫌うことを覚えるかもしれない。なぜならば怒った人は   「もっともっと愚鈍(stupid)になっている」   (Nedarim   22b)   Seeking   and   receiving   forgiveness   あなたは恨みを持った人々との幾つかの経験があるかもしれない。あなたが何度も何度も謝罪した後でさえ   彼らはあなたが悪いことをしたあらゆることをなお憶えており   あなたを敵と考えている。ラビたちは教えた:   戒律は言う   「あなたは心の中であなたの兄弟を嫌ってはならない。」なぜならば人は考えるかもしれない   「私は彼を殴ってはいけない   あるいは彼を打ってはいけない   あるいは彼をののしってはいけない。(しかし私はなお彼を敵として嫌うことは出来る)」それゆえに戒律は言う   「あなたは心の中で」   (Arachin   16b)   あなたが心から謝罪した後で   そしてあなたが起こしたかもしれないどんな損失も   埋め合わせした後に   もう一人の人があなたを許すことを拒否する時   その時はその人に罪がある。   たとえ彼が侮辱をした他の人に彼が支払をしたとしても   彼は神によって許されてはいない   彼が侮辱をした人から許しを求めるまでは。もし彼が他人を許さないならば   その人は無慈悲と呼ばれる。   (Mishnah   Baba   Kamma   8:7)   我々は他の人に心の中のものを制御することはできない。彼だけが自分の心を制御できる。しかし我々はなお許しを求め   我々の敵を友人に向けることができる希望を求めなければならない。我々が悪い時にこれをすればするほど   我々はもっと多くの友人を持つようになり   我々の共同社会はより良くなるであろう。   時々   ラビは言った   議論で我々が正しいと考えた時でさえ   我々は屈服すべきである。もし重要な議論でないのであれば   正しいことによって勝つよりは平和の方がより重要である。そして我々があまりのも頑固なために恨みが成長することがよくある。不一致で分離するよりも   我々が少しかがむ方が良い。   In   the   hour   of   death   ラビ・シメオンはまた忠告した   「彼の死が彼の前に横たわっている」時に   我々は彼に慰めを提供すべきではない。喪に服している人を慰めることは戒律である。しかし愛する人が死んだまさにその時には   その喪に服している人は私的な深い悲しみと嘆きの時間を持つ権利を持っている。我々はあまりにも早まって慰めようとすべきではない   なぜならば我々は彼をもっと悲しく嘆くようにさせてしまうだけだからである。   この種のこつについてはヨブ記の中から引用される   ヨブの愛する人たちがを死んだ時に   ヨブの三人の友人が彼を慰めようとやって来た。   さてヨブの三人の友人は   ヨブにふりかかった悪の一部始終を聞くと   彼を慰めようとそれぞれの国からやって来た。....彼らは七日七晩   ヨブと共に座っていたが   誰も話しかけることはできなかった   なぜならば彼らはヨブの苦痛が激しいのを見たので。   (ヨブ記2:11-13)   その三人はヨブの気分に対してとても敏感であったので   彼らは実際に七日七晩待った!その最後の時に   「ヨブがしゃべった」。そしてこれが   彼らにとってヨブを慰めるに適切な時であるという彼らの合図であった。   死に直面しては   我々が言えることはほとんどない。時々我々ができる最もよいこつは   ただ黙って座っていることである。ただ我々が居ることが   苦しんでいる人に良い効果をもつことができる。なぜならば   死は共同社会から人の最後の離別である   そしてその別離はとても耐えることが困難である。   ラビ・シメオンは敏感な人の気持ちを表現した。死は開いている傷のようである。   「彼の死が彼の前に横たわっている時」   人は苦しまなければなりません。そして我々は苦しみを許すほど十分に機転がなければなりません。   「ヨブ記」について   聖書の中でも   「ヨブ記」が言わんとしている深い意味を理解するのは難かしいのですが   少し紹介します。   ヨブ記1:1-3   ヨブは正しい人で   神を畏れ   悪を避けて生きていた。   七人の息子と三人の娘をもち   東の国一番の富豪であった。   ヨブ記1:6-12   ある日   主の前に神の使いたちが集まり   サタンもきた。   サタンは言った   「ヨブが   利益もないのに神を敬うでしょうか。あなたは彼とその一族   全財産を守っておられるではありませんか。彼の手の業をすべて祝福なさいます。おかげで   彼の家畜はその地に溢れるほどです。   ひとつこの辺で   御手を伸ばして彼の財産に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うに違いありません」主はサタンに言われた   「それでは   彼のものを一切お前のいいようにしてみるがよい」   ヨブ記1:18-21   ヨブのもとに召使がやってきて言った   「御報告いたします。   御長男のお宅で   御子息   御息女のみなさまが宴会を開いておられました。すると   荒れ野から大風が吹きつけ   家が倒れ   若い方々は死んでしまわれました」ヨブは立ち上がり   衣を裂き   地にひれ伏した。「主は与え   主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」   このような時でも   ヨブは神を非難することはなく   罪を犯さなかった。   ヨブ記2:1-6   またある日   主の前に神の使いたちが集まり   サタンもきた。   主はサタンは言われた   「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で   神を畏れ   悪を避けて生きている。   お前は理由もなく   わたしをそそのかして彼を破滅させようとしたが   彼はどこまでも無垢だ」サタンは答えた   「皮には皮を   と申します。まして命のためには全財産を差し出すものです。   手を伸ばして彼の骨と肉に触れてごらんなさい。   面と向かってあなたを呪うに違いありません」主はサタンは言われた   「それでは   彼をお前のいいようにするがよい」   ヨブ記2:7-10   サタンはヨブに手を下し   頭のてっぺんから足の裏までひどい皮膚病にかからせた。   彼の妻は言った   「どこまでも無垢でいるのですか。神を呪って死ぬほうがましでしょう」   ヨブは答えた   「お前まで愚かなことを言うのか。   わたしたちは   神から幸福をいただいたのだから   不幸もいただこうではないか」   このようになっても   神を唇をもって罪を犯すことをしなかった。   ヨブ記2:11   さてヨブと親しいの三人の友人がヨブにふりかかった災難の一部始終を聞くと   見舞い慰めようと相談して   それぞれの国からやって来た。   ヨブ記2:13   彼らは七日七晩   ヨブと共に地面に座っていたが   その激しい苦痛を見ると   話しかけることもできなかった。   ヨブ記3:1   やがてヨブは口を開き   自分が生まれた日を呪って言った。「わたしの生まれた日は消えうせよ。.......   In   the   time   of   vow   ラビ・シメオンが誓いをしている時に見ていることを   我々の近代的な観点から理解することのより困難さは重要である。「彼の誓いの時間には彼に質問しないように」   シメオンは言った。   我々はこれを一般的な方法で理解できる:   人々が強い気持ちで一生懸命でそれがとても強く   それについて何かをすることを誓う時には   意見を言ったり議論せずに   我々は普通彼らの誓いを通すべきである。   普通   我々は人々に彼らの約束を維持してもらいたいと望んでいる   しかし我々が急いで約束をして   そしてそれをした後で後悔する時がよくある。シメオンがおそらく意味したことは   人ができないような約束をしたのを我々が聞いた時に   彼に質問をすべきではないということである。我々の質問は当惑させることになるかもしれない。それらはその人に   彼が本当にはしたくないことをさせるように強いるかもしれない。   もし我々がただ黙り続けることが全てより良いのである。それがこの場合のなすべき機転である。   例えば   友人が彼のための約束を忘れた理由で   「もう両親を決して信用しないと約束する」   というのをあなたが聞いたとしよう。あなたはその時にこんな質問をすべきではない:「あなたがもう両親を決して信用しない   というのは確かなの?」「もしあなたの両親でなければ   ほかの誰を信用できるの?」これらの質問はあなたの友人を当惑させるだけである。彼の誓いは怒り   あるいは急い状態の中で為された種類のものであり   それは本当には正直で真実なものを意味してはいない。   そんな時は少なくとも   あなたはそれを聞き過ごすべきである   たとえもしあなたがそれに不一致であろうとも。   In   the   hour   of   embarrassment   ラビ・シメオンのその最後の忠告は   「彼が不名誉な時間には彼を見ないように努力しなさい」   ここでシメオンは   うわさ話として進んでいる事をがつがつ見るような   機転のない人の話をしている。   ある人々は   他人について「悪い言葉」を広げて   他人を困惑させるの好きである。   しかし   Judaism   は我々に   各々の人間は貴重であり   神のイメージで造られていると教えている。   それでシメオンは   他の人を困惑させることを   人の精神を殺す種類のものとして見ている。   我々が公衆で困惑させられる時はいつでも   我々の中で血が反応を示す。ある善き人が教えた....:もし誰かが彼の隣人を公衆で恥をかかせると   それは彼が血を流すようなものである。   ラブ・ナフマンは答えた   すなわちこう言われている:顔の赤い血が退き   そして人が青ざめたように白さがやって来る   我々は知ることができるからである。   (Baba   Metzia   58b)   もしあなたがいかに困惑されているか感じることについて考えるとき   故意ではなくあながた何かをしたために   あるいはたまたまあなたに起こった何かのために   困惑がいかに深く傷つけるかあなたは知る。そこで   特に   我々が他の人々に敏感であることが必要である。ここに   また   タイミングとこつが重要である。   少女たちが   ダンスの後にちょうど一人の友達を探し出して   そして彼女とダンスをしようとした人は誰もいなかったという理由で彼女をからかった。   そんな少女たちは残酷である。   しかし少女が   ダンスの後にちょうど一人の友達を探し出して   そして彼女とダンスをしようとした人は誰もいなかったという理由で彼女を慰めた。   そんな少女は   また残酷である   たとえ同じ方法ではないけれども。   からかった彼女たちは邪悪な方法で残酷である。   彼女たちの行動は「Yetzer   HaRa(邪悪の衝動)」の行動である。   しかし   あまりにも早く慰めようとした彼女は   困惑させることを通して残酷である。   彼女は善い意味だけれども   彼女の行動は悪いタイミングであった:   それは機転がない。彼女は宗教的な知覚を使うことに失敗したのである。   あなたが友人に対して   いかにすまないかと感じていることを   彼に走っていって振り向いて告げる前に   あなたが本当にするかもしれないことが   本当に彼を助けることになるであろうかと   最初にあなた自身に質問すべきである。   さもなければ   あなたの「Yetzer   Tov(善の衝動)」を通してあなたが本当に行動していないで   あなたの「Yetzer   HaRa(邪悪の衝動)」を通して行動している   ということをあなたは見つけるかもしれない。   あなたの悪いタイミングが故意で残酷である   とあなたは見つけるであろう。   あなたはちょうど比較によって「大きく」見えたかったのかもしれない。   すなわちこれが   なぜシメオンが我々に   彼の不名誉な時間に」その友人を見ないようにと警告したかの理由である。   それは機転がなく   害がある。   そして   それは我々の現実の目的を忘れてしまう方法である。   その目的   ゴールとは   各々の人間は誰もがいかに重要であるか   我々の全てに対して平和がいかに大きく意味があるか   それを我々が思い出すことである。   我々のすべてが平等に造られている   そして我々の各々が唯一で価値がある   ということをただ知るだけでは十分ではない。   毎日の扱いについて   お互いに対して敏感であることを我々は学ばなければなりません。これをするために   我々は戒律を実行するタイミングを学ばなければならない   我々が物事を為されるべき時に正しい方法でするために。   正しい時間に正しい態度で物事を行なうことは   我々がこつと呼ぶところのものである。   我々が機転がある時   彼らを慰め支援することで我々の戒律は他人を助ける。   特に   緊張の時には   我々の情緒が興奮している時   ----   我々が怒っている時   我々が愛する人の死の喪に服している時   我々が急いで約束した時   我々が我々自身の行動によって困惑している時   ----   我々のまわりの人々   友人そして我々が愛する家族   の支援以上のものを我々は必要とする。   他人がそんな緊張を経験している時   彼らに対して良い友人であり   そしてまた親密な家族であることを   我々は同じく学ばなければなりません。   我々の宗教的な知覚を通して   我々は彼らを助ける最善の方法を見つける努力をすべきである   言葉によって   行動によって   あるいは沈黙のいずれかによって。   我々が何をしようとも   我々はより良い共同社会の我々のゴールの視点を   失ってはならない。   我々の行動は   我々自身   我々の友人   そして我々の親類を   ユダヤ人の生活の平和の流れにできるだけ早く戻す方向になされるべきである   そうすれば全体の共同社会が一つの家族として一緒に働くことができるようになる。  

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アヴェ・ヴェルム・コルプス (お話です) 1 「タルムード」「感受性の価値」 「イスラエルのヤハウェ信仰の回復」

アヴェ・ヴェルム・コルプス (お話です) 1 「タルムード」 「The value of sensitivity : 感受性の価値」 「イスラエルの民のヤハウェ信仰の回復」 紀元前926 イスラエル王国が 南王国ユダとベニヤミン族(2部族首都エルサレム) 北イスラエル王国(10部族首都サマリア) に分裂 紀元前722 北イスラエル王国が アッシリアに滅ぼされる (列王記下16~17章)   (失われた10部族) 北王国の10部族は アッシリアに虜囚されて滅亡した。 (文書は残されていない。) アッシリアの政策で異民族と混ざる。 紀元前640 ユダ王国のヨシヤ王が8歳で即位。在位31年 (列王記下22~23章)(暦代誌下34章) 予言者エレミア登場 紀元前625頃  新バビロニア王国建国 紀元前609 メギドの戦い(アッシリアの没落で エジプトと新バビロニアが争う) ユダはバビロニアの支配下で、 バビロニアのヨシヤ王が エジプト軍との戦いで戦死。 (列王記下23:29、歴代誌下35:20~24) 紀元前598 新バビロニア王国ネブカドネザル2世が エルサレムを包囲。 ユダ王国の人々がバビロンに捕囚。 第1次バビロン捕囚(列王記下24:10~17) 預言者エゼキエルも共に捕囚 バビロニア時代 紀元前586~538 名前がない極めて有能な預言者 仮に第三のイザヤが 神ヤハウェの信仰と エルサレムの未来について導く。 (イザヤ書 56章~66章) ペルシャ時代 紀元前538~333 第2神殿時代が紀元前538年のバビロン崩壊から 紀元70年ローマによる神殿破壊までの600年間 紀元前586 エルサレム陥落。南ユダ王国滅亡。 第2次バビロン捕囚 (列王記下25章) 神殿破壊され廃墟になる これらの民はバビロンの王に70年の間仕える。 (エレミヤ書25:11) 南ユダ王国新バビロニアの属州にる 紀元前582 第3次バビロン捕囚(745人) 紀元前538 ペルシャ帝国によるバビロン崩壊 ペルシャ王クロス2世が捕囚民の解放。 イスラエルの民が帰還 紀元前515 ペルシャ王クロス2世の勅令で 捕囚から帰還した民が神殿を再建 (エズラ記6章) 第1神殿破壊から71年で第2神殿が完成 (暦代誌下36章) ペルシャ国内が混乱していたため エルサレムでヤハウェ信仰と 神殿の礼拝を認めて、 かつて衝突していた サマリア人、アラブ人などの 周辺諸部族と混ざって行ったが、 特にサマリア人貴族と エルサレムの祭司の 縁戚関係が結ばれて行き ヤハウェ信仰の純粋性が減衰した。 エズラがバビロニア捕囚が終わっても 帰還が果たせぬまま バビロニアを滅ぼした ペルシャ帝国の寛容な政策で エズラがイスラエルの民でも ペルシャの高官になることができた。 このことから、 ペルシャ王 アルタクセルクセス1世 (紀元前464年~423年)の 第7年5月に「ソーフエール」 =書記(律法学者)の称号の エズラが、王から免税特権を与えられて バビロニアの力エルサレムに来たが、 ヤハウェ信仰の純粋性の衰退を指摘して エルサレムの祭司に サマリア人の貴族と エルサレムの祭司の縁戚関係を 離別させようとした「エズラ記10章」 がエルサレム民族共同体の説得に 失敗して13年間エルサレムを離れました。 ペルシャ王 アルタクセルクセス1世 (紀元前464年~423年)の 第20年紀元前445年に ペルシャ宮廷の 捕囚民出身の高官の ネヘミヤがユダヤ州知事に着任して、 神殿の城壁を修復して、 「安息日の遵守」 「1/10の税の神政共同体の維持」 「エルサレムの人口の調整」 「下級祭司とレビ人の 給与の支払いの保障」 「サマリア人の貴族と エルサレムの祭司の 縁戚関係の離別」 を断行して エルサレムに戻ったエズラが 「モーセの律法(五書)」 を読み上げた。 こうしてユダヤ人共同体の 社会改革(エヘミヤ記13章) トーラー(モーセ五書)を 聖典とするユダヤ教が確立しました。 * 「詩編、箴言(しんげん)」 「コヘレトの言葉(伝道の書)」 「雅歌」 「哀歌(エルサレムの滅亡を嘆く歌)」 がございます。

投稿者:サイト名 有馬徳彦
投稿日時:2012-06-25 17:55:33.0
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タグ: アヴェ・ヴェルム・コルプス   (お話です)   1   「タルムード」   「The   value   of   sensitivity   :   感受性の価値」   「イスラエルの民のヤハウェ信仰の回復」   紀元前926   イスラエル王国が   南王国ユダとベニヤミン族(2部族首都エルサレム)   北イスラエル王国(10部族首都サマリア)   に分裂   紀元前722   北イスラエル王国が   アッシリアに滅ぼされる   (列王記下16~17章)   (失われた10部族)   北王国の10部族は   アッシリアに虜囚されて滅亡した。   (文書は残されていない。)   アッシリアの政策で異民族と混ざる。   紀元前640   ユダ王国のヨシヤ王が8歳で即位。在位31年   (列王記下22~23章)(暦代誌下34章)   予言者エレミア登場   紀元前625頃   新バビロニア王国建国   紀元前609   メギドの戦い(アッシリアの没落で   エジプトと新バビロニアが争う)   ユダはバビロニアの支配下で   バビロニアのヨシヤ王が   エジプト軍との戦いで戦死。   (列王記下23:29   歴代誌下35:20~24)   紀元前598   新バビロニア王国ネブカドネザル2世が   エルサレムを包囲。   ユダ王国の人々がバビロンに捕囚。   第1次バビロン捕囚(列王記下24:10~17)   預言者エゼキエルも共に捕囚   バビロニア時代   紀元前586~538   名前がない極めて有能な預言者   仮に第三のイザヤが   神ヤハウェの信仰と   エルサレムの未来について導く。   (イザヤ書   56章~66章)   ペルシャ時代   紀元前538~333   第2神殿時代が紀元前538年のバビロン崩壊から   紀元70年ローマによる神殿破壊までの600年間   紀元前586   エルサレム陥落。南ユダ王国滅亡。   第2次バビロン捕囚   (列王記下25章)   神殿破壊され廃墟になる   これらの民はバビロンの王に70年の間仕える。   (エレミヤ書25:11)   南ユダ王国新バビロニアの属州にる   紀元前582   第3次バビロン捕囚(745人)   紀元前538   ペルシャ帝国によるバビロン崩壊   ペルシャ王クロス2世が捕囚民の解放。   イスラエルの民が帰還   紀元前515   ペルシャ王クロス2世の勅令で   捕囚から帰還した民が神殿を再建   (エズラ記6章)   第1神殿破壊から71年で第2神殿が完成   (暦代誌下36章)   ペルシャ国内が混乱していたため   エルサレムでヤハウェ信仰と   神殿の礼拝を認めて   かつて衝突していた   サマリア人   アラブ人などの   周辺諸部族と混ざって行ったが   特にサマリア人貴族と   エルサレムの祭司の   縁戚関係が結ばれて行き   ヤハウェ信仰の純粋性が減衰した。   エズラがバビロニア捕囚が終わっても   帰還が果たせぬまま   バビロニアを滅ぼした   ペルシャ帝国の寛容な政策で   エズラがイスラエルの民でも   ペルシャの高官になることができた。   このことから   ペルシャ王   アルタクセルクセス1世   (紀元前464年~423年)の   第7年5月に「ソーフエール」   =書記(律法学者)の称号の   エズラが   王から免税特権を与えられて   バビロニアの力エルサレムに来たが   ヤハウェ信仰の純粋性の衰退を指摘して   エルサレムの祭司に   サマリア人の貴族と   エルサレムの祭司の縁戚関係を   離別させようとした「エズラ記10章」   がエルサレム民族共同体の説得に   失敗して13年間エルサレムを離れました。   ペルシャ王   アルタクセルクセス1世   (紀元前464年~423年)の   第20年紀元前445年に   ペルシャ宮廷の   捕囚民出身の高官の   ネヘミヤがユダヤ州知事に着任して   神殿の城壁を修復して   「安息日の遵守」   「1/10の税の神政共同体の維持」   「エルサレムの人口の調整」   「下級祭司とレビ人の   給与の支払いの保障」   「サマリア人の貴族と   エルサレムの祭司の   縁戚関係の離別」   を断行して   エルサレムに戻ったエズラが   「モーセの律法(五書)」   を読み上げた。   こうしてユダヤ人共同体の   社会改革(エヘミヤ記13章)   トーラー(モーセ五書)を   聖典とするユダヤ教が確立しました。     「詩編   箴言(しんげん)」   「コヘレトの言葉(伝道の書)」   「雅歌」   「哀歌(エルサレムの滅亡を嘆く歌)」   がございます。   When   a   Jew   seeks   wisdom   「The   value   of   sensitivity」   Sensitivity   Keeping   the   group   together   A   full-time   task   Sensitivity   is   sensible   Timing   is   important   The   hour   of   anger   Seeking   and   receiving   forgiveness   In   the   hour   of   death   In   the   time   of   vow   In   the   hour   of   embarrassment   「The   value   of   sensitivity   :   感受性の価値」   ラビ・シメオン・ベン・エルアザル(Rabbi   Simeon   ben   Eleazar)は言った。あなたの仲間が怒っている時に彼をなだめてはならない   そして死人が彼の前に横たわっている時に彼を慰めてはならない   そして彼が誓いを立てている時に彼に質問してはならない   そして恥ずかしい思いをしている時に彼を見ようとしないように。   (Avot   4:18)   Sensitivity   あなたが特別な秘密を友人に告げて   そして彼があなたの知らない誰かにそれを話したという最初の時をきっとあなたは憶えているでしょう。あなたの友人があなたを当惑させた理由によって   あなたは彼を「wicked」とさえ呼んだかもしれない。   あるいは   おそらくあなたがあるゲームの試合で上手でなかったので   両軍が組み直されあなたがその最後に選ばれた人になり   そして選んでいる選手があなたに陰うつに言った   「おれが思うに   お前はおれの側だよね!」それはチームで最も弱い連結として考えられていることで   正確にあなたを良い気持ちにさせない。   我々の全てはこの種の瞬間をもっている   そして我々の全てはまた他人を時々当惑させている   たとえ故意にではないとしても(そして時々我々は目的をもってまさに故意に他人を当惑させる)。実際に   いかにして他人を当惑させないか   を人は学ばなければならない。これを学ぶことは自然には出来ないのである。   我々は   何が他人を傷つけるか   に敏感であるようには生まれていない。我々は我々自身を訓練しなければならない   いかに他人が傷つくかを学ぶという観点で   それによって我々が他人を傷つけるのを避けるために。そして   もちろん我々のグループは   他人へより多く敏感であるように学ぶことを助ける点で   大きなくいを持っている。   Keeping   the   group   together   グループがしなければいけない   と我々が言ったところのものの一つは   一緒に留まることである。そのメンバーが互いに一緒に暮らさない理由で   もしそのグループが壊れ始めるならば   そのグループは共にいるという感じを失い   そしていずれは解散してしまう。   このことは我々が属している他のグループと同じように   我々のユダヤ人グループにも真である。ユダヤ人共同社会の場合は   そのくいはたいへん高い。もしその共同社会が解散すれば   各々の人は一人での残される;一緒に生活する目的は消え去り   より完全な社会になるように   そしてより良い世界を作ることに向けて   我々が一緒に作ってきたところの全ての前進は失われる。   それでラビたちは   あなたが「何を」するかだけでなく   あなたが「いつ」行なうべきか   そして他人に向けて「いかに」振る舞うべきか   というもっと困難な質問についてとても関心をもった。互いに対して敏感であることは我々を一緒に留める助けとなるであろうと彼らは我々に教えた。   A   full-time   task   互いに対して敏感であることはフルタイムの仕事である。我々が長い間一緒に親密に生活している時でさえ   それはより簡単になることはない。それはほとんどいつでも難しい。例えば   あなたの家族を取り上げてみよう。   あなたが属する他のどんなグループよりも長く   あなたは家族と一緒に生活してきた。ユダヤ人の家族は一緒に親密に   各家族を小さなユダヤ人の人々にして維持するようラビたちがそんなに強く強調しているのは   この理由のためである。   なおも   そして全て   兄弟あるいは姉妹に親切であったと思い出すのが難しい。   我々が自然に嫉妬深い時が何度もある。(ヨセフの物語そして彼の好みの服   彼の兄弟の全てがいかに嫉妬していたか   あなたは思い出すかもしれない。)   我々が両親を困惑させる時が何度もある   両親が我々を困惑させる時が何度もあると同様に。(友人があなたの家で夜を過ごす時に   「あなた」の就寝時刻にあなた方二人が寝なければならないことを思い出すかもしれない。)あなたの両親は他の全ての両親と違っているために   他の両親がそんなに重要であると考えていないような事を   あなたの両親は時々あなたにやらせることがあるかもしれない。それであなたの家族は   敏感な方法で他人と一緒に生活することがいかに難しいかという一つの良い例なのである。   Sensitivity   is   sensible   しかし他人に敏感になるようにやってみることは良いセンスを作る。我々の勉強を通して   全ての種類の支援においていかに多くお互いに依存しているか我々は見てきた。我々の家族は   世話   食物     そして愛を我々に与えている   たとえ他の誰もが与えない時でさえ。そしてユダヤ人民は一種の拡張された家族である----我々ユダヤ人の共同社会は   家族を持っていない人々を世話し   そして家族を持っている人々さえ世話する。我々は共同社会を一緒に築き   そして敏感さは建築の煉瓦の一つである。   それで   病人を訪れることは一つの戒律である。喪に服している人々を慰めることは一つの戒律である。怒っている人を平静に戻すことは一つの戒律である。慈善を与えることは一つの戒律である。必要な時に人を助けることは一つの戒律である。捕虜の身代金を支払うことは一つの戒律である。そして   これらの戒律を実行することは愛の一つの行動   敏感な人の行動である。この行動は   我々の共同社会を強くすること   そして我々人々を密接に一緒にすることを助ける。   Timing   is   important   さらに重要なことは   あなたが何をするかだけではなく   何時それをするかである。例えば   あなたがバレーボールをサービスする場合に   あなたは空中にボールを投げることによって始める。さてあなたは手でそれを打つ最善の瞬間を正確に待つ。もしあんまり早すぎて打つと   ボールは空中に飛んで行ってしまう。もしあまり長く待ち過ぎると   ボールはネットにぶつかる。あなたのタイミングが正確である時のみ   バレーボールであなたがそれを行ないたいことができる。   戒律を実行する場合にも同じことが真である。もしあなたがあんまり早くそれを必要とする前に実行すると   決して来ないかもしれない結果を待つというように   それは空中に止ってします。病気でない友人を病気訪問することを想像してみなさい-----あなたはこう言わないだろうか?「ちょうど今わたしはあなたを訪問している   それは将来ある時に   あなたが気分がすぐれない時に   わたしが遠くからやってきてあなたを訪問しなければならないのがいやだから」   あるいは   盲目の女性が通りを横切りたいと思う前に   彼女が横切るのを助けることを想像してみなさい。彼女は横切った時に感謝を表わし   そしてこう言ったとする   「私が本当に通りの反対側に行きたかったのですか?」あまりにも遅く戒律を実行することは   また   大きく役に立たない。慈善を施す前に   人が餓えて死んでしまうまで待つことは   ほとんど戒律としては数えられない。すでに4年前に死んだ愛する人を失った人を慰めることは   彼が必要な時に彼を慰めると同様な効果を持つことはできない。   戒律とその戒律の実行は正しいタイミングを要求する。そしてタイミングの良いセンスを習得することは   我々の宗教的な知覚の発展において   重要な部分を演じる。こつを習得することは   戒律を行なうための正しい時を知るようになることを含む。何時しゃべり   そして何時黙るか。   The   hour   of   anger   ラビ・シメオン・ベン・エルアザル(Rabbi   Simeon   ben   Eleazar)は我々が他人により敏感になるような4つの方法を話した:最初は   怒っている人をなだめることを含む。2番目は   喪に服している人に慰めをもたらすことを扱う。3番目は   誓いを立てている人にいかに対応するかを扱う。そして4番目は   我々がこの章を始めたところの主題に我々を戻す----当惑させるという話題に。   最初に   シメオンは言った   「あなたの仲間が怒っている時に彼をなだめてはなりません。」   (Avot   4:23)   人が怒の道に行く時   もし彼が善き人であれば   彼の知恵は彼から離れる。もし彼が預言者であれば   彼の預言の力は彼から離れる。そしてもし彼に対する偉大さが天によって認められていた時でさえも   怒る人は誰であれそれ(偉大さ)を失う。   (Pesahim   66b)   激怒と怒は   人の中に深く食い込む   まわりのあらゆるものが酸っぱく変わるまで。怒の発作の中で人は   長く後悔するであろうことを言うであろう。誰かがあなたに怒っている時は   あなたが謝罪することが良い   「soft   answer」を与えるために。差分をつぎ当てするよう試みるのが良い   しかしタイミングとこつが必須である。シメオンは我々に警告した   怒りの頂点にいる人に謝罪したり言い訳しないように   なぜならば彼はその時に「Yetzer   HaRa(邪悪の衝動)」によってのみ制御されているからである。   「地獄の全ての部門は一人の怒りの男が支配している」   (Nedarim   22a)   その代わりに待ちなさい。あなたの現われる時を選びなさい   その怒りの人から激怒が消えた時を。もしあなたがあまり早すぎて来ると   あなたの出現が彼をもっと怒らせるだけであり   そしてそれはあなたが望むこととはちょうど反対である。   一方   もしあなたがあまり長く待ち過ぎると   怒っていた人はあなたに対して恨みを持つようになる。彼は心の中であなたを嫌うことを覚えるかもしれない。なぜならば怒った人は   「もっともっと愚鈍(stupid)になっている」   (Nedarim   22b)   Seeking   and   receiving   forgiveness   あなたは恨みを持った人々との幾つかの経験があるかもしれない。あなたが何度も何度も謝罪した後でさえ   彼らはあなたが悪いことをしたあらゆることをなお憶えており   あなたを敵と考えている。ラビたちは教えた:   戒律は言う   「あなたは心の中であなたの兄弟を嫌ってはならない。」なぜならば人は考えるかもしれない   「私は彼を殴ってはいけない   あるいは彼を打ってはいけない   あるいは彼をののしってはいけない。(しかし私はなお彼を敵として嫌うことは出来る)」それゆえに戒律は言う   「あなたは心の中で」   (Arachin   16b)   あなたが心から謝罪した後で   そしてあなたが起こしたかもしれないどんな損失も   埋め合わせした後に   もう一人の人があなたを許すことを拒否する時   その時はその人に罪がある。   たとえ彼が侮辱をした他の人に彼が支払をしたとしても   彼は神によって許されてはいない   彼が侮辱をした人から許しを求めるまでは。もし彼が他人を許さないならば   その人は無慈悲と呼ばれる。   (Mishnah   Baba   Kamma   8:7)   我々は他の人に心の中のものを制御することはできない。彼だけが自分の心を制御できる。しかし我々はなお許しを求め   我々の敵を友人に向けることができる希望を求めなければならない。我々が悪い時にこれをすればするほど   我々はもっと多くの友人を持つようになり   我々の共同社会はより良くなるであろう。   時々   ラビは言った   議論で我々が正しいと考えた時でさえ   我々は屈服すべきである。もし重要な議論でないのであれば   正しいことによって勝つよりは平和の方がより重要である。そして我々があまりのも頑固なために恨みが成長することがよくある。不一致で分離するよりも