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Vivaldi Gloria inDMajorRV589(お話です)「イスラム教第三十二章叩頭」「タルムード」「所有の価値」

Vivaldi Gloria in D Major RV 589(お話です)「イスラム教聖クルアーン第三十二章叩頭」「タルムード」「所有の価値」 ◎「所有の価値」について 人間には四つのタイプがある。私のものは私のもの、あなたのものはあなたのもの、と言う人は平均的なタイプである。ある人はこれをソドムのタイプと呼ぶ。 私のものはあなたのもの、あなたのものは私のもの、と言う人は知識のない人である。 私のものはあなたのもの、あなたのものはあなたのもの、と言う人は聖人のタイプである。 私のものは私のもの、あなたのものは私のもの、と言う人は邪悪な人である。 [ Avot 5:13 ] ◎The Sodom type --- the average 人々は自分たちが稼いだ物に権利がある、そしていったん我々が一つの物を稼いだならば、それは我々だけに属する我々のほとんどはこう信じている。しかしラビたちは、これが邪悪な考え方、行動の仕方になり得ると感じた。彼らはそれをソドムの人々の信念として識別した。ソドムは彼らの邪悪さゆえに神によって滅ぼされた地である。しかしなぜラビたちは、我々のほとんどがソドムの人々のようであると言うことが正当であると感じたのであろうか?我々の態度を所有に向ける時に、我々はほんとうに邪悪であるのか? この答えは、互いに対して、そして時々互いの財産に対して、我々の相互の必要の中に横たわっている。ラビたちは、その正しい意味のケースを示すために、我々が所有するところのあらゆるものは神から一種の借り物として見るように我々に思い起こさせた:Rabbi Eleazar of Bertoda は言った、神のものは全て神に与えよ。あなたとそしてあなたが持つ全てのものは神のものであることを知るように。 [ Avot 3:8 ]

投稿者:サイト名 有馬徳彦
投稿日時:2012-07-07 23:45:46.0
視聴回数:2613回
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カテゴリ: 暮らし全般   エンタメ全般   教育全般  
タグ: Vivaldi   Gloria   in   D   Major   RV   589(お話です)「イスラム教   聖クルアーン   第三十二章   叩頭」「タルムード」「所有の価値」   ◎「所有の価値」について   人間には四つのタイプがある。私のものは私のもの   あなたのものはあなたのもの   と言う人は平均的なタイプである。ある人はこれをソドムのタイプと呼ぶ。   私のものはあなたのもの   あなたのものは私のもの   と言う人は知識のない人である。   私のものはあなたのもの   あなたのものはあなたのもの   と言う人は聖人のタイプである。   私のものは私のもの   あなたのものは私のもの   と言う人は邪悪な人である。   [   Avot   5:13   ]   ◎The   Sodom   type   ---   the   average   人々は自分たちが稼いだ物に権利がある   そしていったん我々が一つの物を稼いだならば   それは我々だけに属する我々のほとんどはこう信じている。しかしラビたちは   これが邪悪な考え方   行動の仕方になり得ると感じた。彼らはそれをソドムの人々の信念として識別した。ソドムは彼らの邪悪さゆえに神によって滅ぼされた地である。しかしなぜラビたちは   我々のほとんどがソドムの人々のようであると言うことが正当であると感じたのであろうか?我々の態度を所有に向ける時に   我々はほんとうに邪悪であるのか?   この答えは   互いに対して   そして時々互いの財産に対して   我々の相互の必要の中に横たわっている。ラビたちは   その正しい意味のケースを示すために   我々が所有するところのあらゆるものは神から一種の借り物として見るように我々に思い起こさせた:Rabbi   Eleazar   of   Bertoda   は言った   神のものは全て神に与えよ。あなたとそしてあなたが持つ全てのものは神のものであることを知るように。   [   Avot   3:8   ]   ◎The   cave   and   the   world   世界の財産は   神の奉仕に使われるために意味されている   誰の手にそれが通過していようが   誰がそれを所有しているつもりであろうが。   シメオン・ベン・ヨハイ(Simeon   ben   Yohai)は   彼が非難したローマ人から身を隠すために   洞穴の中に逃げざるを得なかった。この身を隠す場所で中で   彼は息子と一緒であった。この二人はそこで共に十二年間暮して   トーラを勉強した。十二年の後   ローマの皇帝が死んで   ユダヤ人に反抗する決定が公式に解除されたことを知った。彼と彼の息子は   洞穴から出てきて太陽の光りを十分に浴び   ユダヤ人の共同体の生活の中に戻る準備ができた。しかしシメオンは   エレサレムの町に近づいた時に   ユダヤ人の農民たちが彼らの畑を世話しているのを見た。ただちに彼には怒りがわいてきて   彼らに叫んだ   「あなた方はいかに挑戦しているのか   こんな浪費した方法で自分を!ローマの決定は解除された。我々は再びトーラーを勉強することが出来るというのに!畑を離れて勉強しなさい」しかし農民たちは彼を見て笑った   「今は収穫の時です。その後で我々は勉強しますよ」その時シメオンは叫んだ   「これらの畑が燃えてしまうように   なぜならば   この人々は永遠の真実を無視して   単に今必要なものに向きを変えたから」そしてシメオンと彼の息子は彼らの目を向けたあらゆる場所   その畑は突然に炎で焼き尽くされた。ついに   このような声がやって来た   「おまえは私の世界を滅ぼすために洞穴に滞在したのか?トーラを勉強するよりも   トーラによって生活することの方が重要ではないのか?   洞穴に戻って   そしておまえの道を勉強せよ」   [   Shabbat   33b   ]   ◎Living   in   the   world   ユダヤ人の教えの目的は   現実の世界   畑を耕すとか   収穫するとかから我々を切り離すことではなく   現実の世界の中で生活するためにいかに最善となるかを我々が学ぶ助けとなることである。シメオンは洞穴に隠れて長く住んでいる間に起こったことは   もし我々がそれに対して防御していないならば   我々の誰かにも起こり得ることである。   シメオンはそれが生きるための唯一の正しい方法であると確信していた方法で   彼はそんなに長く生活をした。彼はトーラの勉強にとても終始したので   「あなたが生きるような生活を選択しなさい」   という基本の規則を忘れてしまった。その代わりに   彼は勉強だけを信じるようになってしまった。   勉強はユダヤ人の生活をするために必須で重要である   と我々の全てはおそらく同意するであろう。しかし   我々はまたおそらく   共同体の人々を祝福した人   Ben   Zoma   に同意するであろう。(彼らは彼にパンと   彼の着る衣を準備して助けてくれた)我々はまた   Rabbi   Yohanan   に対して   「私はあなたと同様に重要である」と言った労働者に同意するであろう。   より重要であるところの質問   「勉強かそれとも行動か」に関して   ユダヤ人として我々はどちらか一方を犠牲にして他方を選択することを拒否する。   ◎Seeking   a   balance   Solomon   Ganzfried(1804-1886)   彼はハンガリーのラビでKitzur   Shulhan   Aruch   と呼ばれるユダヤ人の法律のマニュアルを編集した   彼はこのように書いている:   従うべき良い正しい道は   人が習慣になるべき真中の道である。人はその体に必要な物をただ願望すべきである   そしてそれらを無しで生活することが重要である:   人は仕事であんまり多くを占有されるべきではなく   生活にただちに必要として要求されるものを得ることにのみに十分であればよい。人はあんまりにも財布のひもを固くすべきではなく   また自由に彼の金を消費すべきでもない   しかし彼の稼ぎに従って慈善をすべきであり   そして貧しい人によろこんで金を貸すべきである。人はあんまりも多くお祭り騒ぎで陽気になるべきではなく   また悲しんで回想にふけるべきでもない   しかし毎日を満足と友情で楽しくすべきである。全ての他の道徳的な価値に関連して   その中道を選ぶ人は賢者と呼ばれる。   我々が行う物事のバランスを探すこと   ---   中道を見つけるように試みること   ---それはスキルでありほとんで芸術である。そんなに多くのユダヤ人の価値のように   それは開いた心を維持し   真実を探すことを我々に要求する。   シメオンと彼の息子が中道への彼らの心を閉じた時に   彼らのまわりのあらゆるものが実際に炎で覆われたのを見た:近代的なことばで言えば   彼らは「激怒(see   red)」した。中道によってよろこんで生活しようとしない人は   実際にその共同体から彼自身が引き離される。   ◎The   pepole   of   the   community   もっと前の章で   我々の各々の内部で複雑な強い努力の話をした---「Yetzer   Tov」と「Yetzer   HaRa」とが   我々の性格を制御するために戦いそして作用している。共同体の中   共同体の人々自身の中にも作用する同様な力がある。個人と同様に   共同体は   その中での力がバランスされた時が最善である。共同体の人々がバランスの中で生活する時   共同体は生活するのに良い場所になる。それでラビたちは教えた:共同体の人々は自然さを一緒に感じるべきであり   そして彼らは互いに分配し合うべきである。しかし彼らはまた互いに正直によろこんで議論すべきである   そして互いは彼ら自身の個人的な所有の権利を持つべきである。ラビたちは言った   美しい家や美しい家具は良いことである   なぜならばそれらは「心の楽しい炎の中に」我々に置く助けになるからである。   ---[   Berachot   57b   ]   そしてまた   心の楽しい炎はその共同体をもっと楽しくするのを助ける。しかしもしその所有者がそれで楽しくないならば   美しい家や美しい家具はなんの役に立たない。それでラビたちは教えた:裕福な人の真の定義とは   「彼の富を通して喜びを見つける人」である。   ---[   Shabbat   25b   ]   ◎Findind   the   middle   ground   共同社会の中での中道を見つけることは   自分自身の中でバランスを探すことと   そんなに違ってはいない。その最初の一歩は   まず極端を見つけることである。それはちょうど   四角形の4つのコーナを位置付けて   それから中心を位置付けるように。   ◎「The   value   of   goverment:政府の価値」   ラビ・ハニナ   (Rabbi   Hanina)   は言った:政府の繁栄を祈りなさい   なぜならばそれに対する怖れがなければ   人は生きたままで互いを食べるであろうからである。   [   Avot   3:2   ]   ◎The   importance   of   goverment   人々が住んでいるところの法律のシステムは   そこの人々のグループの価値に影響する。たとえそれが停止信号や鉄道信号のような小さなことであっても   それは基本的な価値に影響する   ---   社会のメンバーの安全を保護する価値に。停止信号や鉄道信号を建設することによって   我々自身の安全   我々の愛する人の安全   そして他人の安全   に対して我々の感心を行動の中に置く。   価値を行動の中に置くことは政府の重要な一つの機能である   確かに政府を   願ましくする機能である。   我々が個々に知っている言葉で   我々が政府を理解する最善の方法は   「Yetzer   HaRa(邪悪の衝動)」と「Yetzer   Tov(善の衝動)」との全体の質問   を再び考えることである。トーラが我々に教えていることの一つは   「あなたの心の中で   あなたの隣人を憎んではならない」(レビ記   19:17)しかし   実際に他の人々を傷つけることから人々を防いでいるのは   まったく別のことである「十戒」は数千年間存在してきている   そしていまだに日常の情勢は   殺人や強盗   法廷で偽証を誓った人   他人をだましている人の記事でいっぱいである。明らかな事実は   我々の幾人かは我々の「Yetzer   HaRa」を制御しそれを役に立つ目的に向ける働きをしている一方   他の者はそうではない。彼らは   彼らの中にある「Yetzer   HaRa」を乱暴に走らせることを許している。酔っ払った運転手のように   その時   彼らは道路で他のあらゆる人にとって危険になってございます。   そんな人々から我々を保護するために   政府が作られている。我々が個々のレベルで   我々の「Yetzer   HaRa」を統治することを学ばなければならないのと同様に   「Yetzer   HaRa」が乱暴になっているレベルのグループを制御することが政府の一つの重要な目的でございます。   ◎Law   enforcement   and   courts   政府が我々を効果的に保護するために   我々の各々は自分自身の自由な意志の幾らかを諦めなければならない。   どれだけ大きな力が政府に与えられるべきかについて継続的な大きな議論や論争がある。しかし   もし政府が我々を効果的に保護するならば   誰もが「幾らか」の力を諦めなければならない   ということを我々は何の議論もなしで知ることができる。   この一つの良い例は   各個人としての報復の権利を放棄することである。   報復はそのグループに破壊的である。AがBから盗みをしたとする   そしてそれからBが返礼にAから盗みをする   これでイーブンと言って。もしこれで終わるならばそれで結構なことであるが   けれども報復はめったに最初の不公平以上により公平にはならない。Bが報復する時   Aが彼から取ったよりも彼はAからより多く取るかもしれない。その時   Aは彼自身が報復の必要を感じる。すぐに   物は手から離れて   そしてAとBは互いに殺すという点にまでくる   ----   また   彼らの友人や親族がその行動に参加するかもしれない。   この種の事態を避けるために   警察や他の代理権の形で実行する法律を規定する力を我々は政府に許す。告訴が設定され聞かれる法廷と同様に。法律を実施する事務所や法廷はどちらも   我々すべてのために   個人よりもむしろグループによって最善に維持される力を代表している。   ◎An   eye   for   an   eye   タルムードは   部分的には   行なわれてきた法廷の記録として見られる。ラビたちは政府の境界線を築くために   事例に事例を積み上げている。我々の例として   タルムードで扱われた古典的な報復の事例は   聖書のきまり文句である「目には目   歯には歯」   のまわりに集中してる。タルムードのラビたちが   「Yetzer   HaRa」のグループを制するために探していた政府とはどんなものかを見るために   次の議論を考えよう。   「目には目」   これは金での支払を意味する。あなたはそれが金での支払だと言うが   おそらくそれは実際に本当の目が没収されなければならない   という意味だ!しかし   その人の目が一方は大きく他方が小さいとしたとする   そんな場合に「目には目」の法律を私はいかに適応することができるのか?...   あるいは   盲の人が他人の目をたたき出した場合は   またあるいは片足びっこの人が他人を片足びっこの人にした場合は   「目には目」の法律を私はいかに十分に満たすことができるのか?トーラはこう要求している   「あなたは同じ法律を適用せよ(レビ記24:22)」   この意味は   あなたたちの全てに対して   法律が同じであるべきだということ。   [   Baba   Kamma   83b   ]   法律はいつも全ての人が同じであるとして扱われなければならない   なぜならば我々の基本的な価値は   全てが神によって平等に創造されていることである。もしそれがこの場合ならば   ラビたちが議論した「目には目」の意味はただこうである:もし人が他人の目をたたき出したならば   その有罪人は彼が破壊した目を補償する金額を支払わなければならない。   このように   社会の全てのメンバーの利益に法律を翻訳するために   政府が割り込む。目や足を失った人にとって   もし彼を傷つけた人が目や足を仕返しに失ったとしても   それは現実に良いことではない。金銭上の支払は   それが元の目や足を取り戻すことはできないが   少なくとも人が傷ついた時に生じた痛みや損失を埋め合わせるために   それはいくらかの方法に役立つ。  

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アヴェ・ヴェルム・コルプス(お話です) 「啓蒙主義と敬虔主義と敬虔主義」「タルムード」「知識の価値」

アヴェ・ヴェルム・コルプス(お話です) 「ユダヤ啓蒙主義(ハスカラー)と 敬虔主義(けいけんしゅぎ:ハスィディズム)と敬虔主義の反対者(ミトナグディーム)とアンティ・セミティズム」「タルムード」「知識の価値」◎「知識の科価値」 迷信と固定的道徳が判断と行為の誤りから迫害を生みます。固定的道徳が予定因果であり 民衆が日常を問題意識なくすごしてしまい 儒教的道徳の場合 民衆が疑問に思うことを質問しにくいという問題がある。迷信と固定的道徳を乗り越える手立てが証拠の収集とこれらの分類を行って選択していくというstady(勉強)がある。 ◎「アブラハムの契約とシナイ契約」 ・アブラハムの契約が神ヤハウェがアブラハムにハラン(ユーフラテスの上流:現在の東トルコ)の地を離れてカナン(現在のイスラエル パレスチナ)の地に行きなさい。繁栄を約束する。という契約の約束型契約。 ・ヘブル人(tbri:ヘブル語・現在のイスラエル人)部族集団(エジプトを脱出した部族)とモーセの神ヤハウェの十戒の条文。という契約の義務型契約。 ◎「The struggle within us」 The forces within us. Needing impulses for both right and wrong. Selfishness. A formula. If I am not for myself who will be for me ? If I am only for myself what am I ? If not now when ? Reflection ◎「The struggle within us(我々の内での苦闘)」 ◎The forces within us 選択をする時に われわれの中で2つの力が働いていると ラビは信じている。一つは善をしようとする我々の欲求 他方は悪をしようとする我々の欲求である。善をしようとする衝動あるいは傾向を「Yetzer Tov」とラビは名づけた。Yetzerはヘブライ語で衝動(impulse)を意味し Tovは善(good)を意味する。他方 悪をしようとする衝動あるいは傾向を「Yetzer HaRa」名づけた。Raはヘブライ語で(evil)を意味する。「善の衝動」「悪の衝動」である。 われわれの各々の人は これら2つの衝動をいかに操作するか問われる。個人の意識にある「Yetzer Tov」は正義の人を操作し 他方「Yetzer HaRa」は邪悪をコントロールするが タルムードでは両方の衝動が 平均的な人の意識が衝動を操作することを示す(Berachot 61a)。 我々のほとんどはこの3番目のカテゴリーの「両方の衝動が平均的な人の意識が衝動を操作するということ」にあり 意識の全体が正義でなく全体が邪悪でもない。

投稿者:サイト名 有馬徳彦
投稿日時:2012-07-03 07:08:29.0
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カテゴリ: 暮らし全般   エンタメ全般   教育全般  
タグ: アヴェ・ヴェルム・コルプス(お話です)   「ユダヤ啓蒙主義(ハスカラー)と   敬虔主義(けいけんしゅぎ:ハスィディズム)と敬虔主義の反対者(ミトナグディーム)とアンティ・セミティズム」「タルムード」「知識の価値」◎「知識の科価値」   迷信と固定的道徳が判断と行為の誤りから迫害を生みます。固定的道徳が予定因果であり   民衆が日常を問題意識なくすごしてしまい   儒教的道徳の場合   民衆が疑問に思うことを質問しにくいという問題がある。迷信と固定的道徳を乗り越える手立てが証拠の収集とこれらの分類を行って選択していくというstady(勉強)がある。   ◎「アブラハムの契約とシナイ契約」   ・アブラハムの契約が神ヤハウェがアブラハムにハラン(ユーフラテスの上流:現在の東トルコ)の地を離れてカナン(現在のイスラエル   パレスチナ)の地に行きなさい。繁栄を約束する。という契約の約束型契約。   ・ヘブル人(tbri:ヘブル語・現在のイスラエル人)部族集団(エジプトを脱出した部族)とモーセの神ヤハウェの十戒の条文。という契約の義務型契約。   ◎「The   struggle   within   us」   The   forces   within   us.   Needing   impulses   for   both   right   and   wrong.   Selfishness.   A   formula.   If   I   am   not   for   myself   who   will   be   for   me   ?   If   I   am   only   for   myself   what   am   I   ?   If   not   now   when   ?   Reflection   ◎「The   struggle   within   us(我々の内での苦闘)」   ◎The   forces   within   us   選択をする時に   われわれの中で2つの力が働いていると   ラビは信じている。一つは善をしようとする我々の欲求   他方は悪をしようとする我々の欲求である。善をしようとする衝動あるいは傾向を「Yetzer   Tov」とラビは名づけた。Yetzerはヘブライ語で衝動(impulse)を意味し   Tovは善(good)を意味する。他方   悪をしようとする衝動あるいは傾向を「Yetzer   HaRa」名づけた。Raはヘブライ語で(evil)を意味する。「善の衝動」「悪の衝動」である。   われわれの各々の人は   これら2つの衝動をいかに操作するか問われる。個人の意識にある「Yetzer   Tov」は正義の人を操作し   他方「Yetzer   HaRa」は邪悪をコントロールするが   タルムードでは両方の衝動が   平均的な人の意識が衝動を操作することを示す(Berachot   61a)。   我々のほとんどはこの3番目のカテゴリーの「両方の衝動が平均的な人の意識が衝動を操作するということ」にあり   意識の全体が正義でなく全体が邪悪でもない。   ◎Needing   impulses   for   both   right   and   wrong   このことから   何が正しいことで   何が悪いことか   われわれはいかにして判断するのであろうか。どうやって片方の衝動から他方の衝動を識別するのか。選択はいつも明瞭でない。いつでも邪悪な選択があり   正義の選択があるということを   ラビが暗示している時単純化しすぎてはいないのかも課題である。ラビの理解というのは実際にはもっとずっと複雑であったのだ。彼らは「Yetzer   HaRa」が邪悪だとは信じていなかった。それは邪悪に向かった傾斜であるといえる。彼らは   「Yetzer   HaRa」が多くの局面で有用になりえるということまでも理解している。このことを示すために   彼らはこんなたとえ話を言っている。     われらの善き者たちは「Yetzer   HaRa」を捕まえて   それを金の鎖で縛り上げた。最初彼らは自分たちでたいへん喜んでいた。盗みは止り   殺人は無くなった。人々は友好的になり   互いを愛するようになった。嫉妬は無くなり   イスラエルの全地においてイスラエル人と隣人との間の論争も無くなった。死ぬ者はいなくなった。   しかし突然   彼らは奇妙な出来事を見るようになり始めた。人々はとても満足したので精を出して働く心配がなくなった。競争が無くなったので人々は働くことを止めてしまった。新しい家はもう作られなくなった。人々はもはや   結婚もしないで   子供を欲しがらなくなった。ラビでさえ不精になり始めた。その時   ラビは「Yetzer   HaRa」が世界において如何に必要であったかを理解して彼らは縛ってあった鎖を壊してそれを自由にした。   (Genesisi   Rabbah   9:7)   ◎Selfishness   「Yetzer   HaRa」を理解する最も簡単な方法は   極端な利己主義としてそれを見てみることである。それは我々の一部でもあり   それは「私のもの」とか「私は欲しい」あるいは「私にくれ」とか言って要求することがそれである。「Yetzer   HaRa」が危険であるのは何かというと   もし我々がそれをバランスしコントロールしないと   それが我々をコントロールするようになる   ということである。   「Yetzer   HaRa」は   本を取り上げて返さない   といった小さなことをするように我々に問いかけてくることで   我々をつかみ始める。そしてやがて   もっと悪い事をするように我々に要求する。それは我々にこう言うかもしれない:「この一回だけやってごらん   あなたがただの一回だけやっても誰も傷つくことはないから」それからやがて   毎回に悪い事をするように要求してくる:「さあ来てこれを傷つけてごらん。彼がいかに弱いか見てみなさい。彼はあなたに仕返しなんか出来ないよ」   最初は   「Yetzer   HaRa」はくもの巣のようであるが   しかし最後には重いロープのようになる。最初は   「Yetzer   HaRa」は通行人のようであり   お客のようであるが   最後にはその家の主人になる。最初は   「Yetzer   HaRa」は甘いが   最後にはにがくなる。   (Sukkot   52a   52b   Jerusalem   Talmud   Shabbat   14c)   ◎A   formula   利己主義をコントロールすることはいつも簡単というわけではない。我々が自分たちに利己主義を許せば許すほど   我々が利己主義になる。その時   選択するという我々の能力を実際に失って行き   我々だけのためにいつも行動し始める。我々の自由   我々の自由意志を放棄し   それに代わって何でも瞬間に行動することが好きになる   これは自由の錯覚にすぎないのであるが。   このことは   もし我々が他の人々と一緒に生活する必要がなかったならば   全て正しいかもしれない。しかし   あなたがこの本の第2章の始めでリストアップしたものを思い出してみれば   あなたはすぐに分かるがあなたの生活のほとんどは他人の周りに   そしてあなたが属している人々の周りに作られている。そこで我々はバランスについてのある種類を探すために勉強しなければならない。利己主義になることはいつでも悪い   というわけではない。しかしまたいつでも正しい   というわけでもない。全てのものを皆で分けることがいつも良いわけではないが   いつも悪いはずがない。間のどこかに行くべき価値のある道がある。   ここで   ミシュナ時代の偉大な先生であるヒレルから   われわれは学習しよう。ヒレルは   自分の生活と繰り返しの教えを通して   知的な選択をする公式を探した。ヒレルは「アボット」に彼の公式をまとめた:"   If   I   am   not   for   myself   who   will   be   for   me   ?   And   if   I   am   only   for   myself   what   am   I   ?   And   if   not   now   when   ?   "   "   If   I   am   not   for   myself   who   will   be   for   me?   "   もしあなたが住んでいる世界にアクティブに参加するのであれば   何かのために耐えることが必要である。次のことに理解を持つようにしなければいけない:あなたが持っているもの   持ちたいもの   自分がなりたい事   喜んで働きたい事   世話をしたい事。言い換えれば   自分自身でスタートしなければならない。   自分自身のために欲しいものが全て利己主義だ   というわけではない。しかし   自分自身のため「だけ」に欲しいものはほとんどが利己主義である。   あなたは知識を得たいかもしれない。このこと自身は利己主義ではない。知識のある人は   無知な者よりも世界にとって役に立つ。しかしもしあなたが他人を傷つけるために   あるいはあなた自身のためにのみ   あなたの知識を使うのなら   あなたが害ある利己主義なものになる。   あなたは人気を得たいかもしれない。このこと自身は利己主義ではない。人気のある人は   接近して連帯したり   議論や討論をしたり   親切や理解を持たらしたりして   隣人を助けることができる。しかし人気のある人が   悪の方向に人々を導くために彼の才能を使う時   彼は「悪の衝動」への道にいるのである。人々を戦争から戦争へと導くために   自分の人気を使った場合   ナポレオンはフランス人民を助ける代わりに   彼らを傷つけ苦しめた。   あなたは財産を得たいかもしれない。このこと自身は利己主義ではない。財産のある人は他の人々を助けることができる。必要としている人々に彼の富を慈善に使うことによって   また貴重な仕事や行動のスポンサーなることで共同体への祝福となることで。しかしもし人が他の人々の犠牲によって財産を欲しがるならば   その時これは真の利己主義を通して「悪の衝動」の一つの例である。   ヒレル(Hillel)の最初の質問   "   If   I   am   not   for   myself   who   will   be   for   me   ?   "これは次のことを暗示している。人は自分自身を助けるために努力すべきである。あなたは自分がなりたい事になるために労働すべきであり   より良くなるために労働すべきである。なぜならば   もしあなたがあなた自身のために働かないのであれば   いったい誰があなたのためにそれを行なってくれるのか。   "   If   I   am   only   for   myself   what   am   I   ?   "   しかしもし全てのあなたの労働があなた自身だけのためであるならば   あなたは何の善であるのか。われわれはいつもここに戻ってくる:あなたの生活には   あなただけがいるのではない。あなたの生活が本当の意味で始まるのは   他人のことを考慮した仕事の方法を選択し始めた時からである。   もしあなた一人だけが生きているならば   いかに振る舞っても誰かとの差ができるわけではない。これがゆえに   ヒレル(Hillel)の第2の質問がとても重要なのである。   他の人々と生活することは   我々が自分たちのことを考えるの同様に   彼らが必要あるいは要望していることを我々が考えなければいけない。   我々だけのためにある   というときはいつも「悪の衝動」が我々を狙っている。これはヒレルの第1の質問を少しばかり変えて我々に問う:"   If   I   don't   get   such   and   such   for   myself   who   else   will   get   it   for   me   ?   "もし私がそんなに自分のために努力しなくても   誰か他人が私のためにそれをやってくれのではないか。しかしヒレルは問を続ける時に適切なバランスを持ってきている。実際に第2の質問において"   If   I   get   such   and   such   at   someone   else's   expense   or   harm   am   I   not   evil   ?   "もし私がそれほど誰か他人を傷つけているとしたら   私は悪ではないのか。ヒレルは「悪の衝動」が重要であることも分かっているが   しかしその2つの衝動がバランスされなければならないことも分かっている。このような場合にのみ   人は社会に   そして結局は自分に奉仕できる。このような場合にのみ   人は社会に   そして結局は自分に奉仕できる。   "   If   not   now   when   ?   ""   ヒレルの第3の質問はまた重要である。われわれは人間である。我々の全ては   明日まで物事を延期するのが好きである。さらに   もし我々が決して始めようとしない   あるいは"   I   will   let   myself   do   evil   just   this   one   time   "   この一回だけは悪をやってみようと言うならば   これは我々が奴隷になることである。我々は選択する自由を失っているのだ。   我々のうち誰かは   行き過ぎた利己主義で悩んでいる。また誰かは   自分たち自身のことをほとんど考えない行き過ぎた非利己主義で悩んでいる。もし我々が生活の中でのバランスを持つよう探し求めないのならば   我々はただ怠け者になるしか期待出来ない:変化や進歩への抵抗   何か新しいことの試みへの恐れ   我々をより良く   あるいはより豊かにする試みへの恐れ。   これに対する唯一の治療があるとヒレルは暗示している。今行動せよ!明日まで待つな   「私は明日始めよう」と言うな。すぐに始めなさい!   Reflection   この本は   「アボット」にあるヒレルの3つの質問を軸にして構成されている。「第1~4章」は   行動に対する我々自身の準備について考えている。「第5~11章」は   我々各々が   自分自身のために生活をする上で   選択しなければならない事柄について語る。(If   I   am   not   for   myself   who   will   be   for   me   ?   )「第12~21章」は   我々の共同体の中で一緒にうまく生活する場合に   選択しなければならない事柄について語る。(And   if   I   am   only   for   myself   what   am   I   ?)「第22~23章」は   われわれの進路を設定しそれを正しく設定するために   ただちにしなければならないことは何かについて語る。(And   if   not   now   when?)   いつでも   我々の学習では   このような考えに戻ってくる:・我々の各々は   複合した複雑な人間であり   しかも唯一で一人であるということ。・我々の誰もが   心の内で   良いことと悪いこととの間で苦闘している。そして同様に   我々自身のために正しいことと我々が住んでいる世界のために正しいこととの間で苦闘しているということ。・この苦闘が我々の生活に   そして我々のまわりの世界に意味を与えている   ということ。・そしてこの苦闘の成功は   我々自身の中でまた世界の中で   何が最良で何が最悪かのバランスをいかにして我々がうまくをとるか   最終的にこれにかかっているということ。   我々の苦闘に光を投げるために   そしてこの世界の複雑さの説明で我々を助けるために   我々自身の伝統(ラビの観点)を引き出そう。   ラビの観点:適切な行動と適切な考えを通して邪悪に打ち勝てるということ。邪悪なことをしようとする衝動「Yetzer   HaRa」は   良いことに代わるかもしれないということ。我々はラビ自身の行動   言葉および思考を調べよう。そして彼らの原理がいかに現実となって行くかを見てみよう。   正しさと邪悪の間の選択をするのはいつでもあなたである   ということを忘れずに記憶しなさい。なぜならば   選択の自由はあなたがユダヤ人としての世襲財産であり   また人間として生まれたあなたの権利だからである。じょうずに選ぶことは最終的にあなたの個人的な責任である。  

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アヴェ・ヴェルム・コルプス(お話です) 「啓蒙主義と敬虔主義と敬虔主義」「タルムード」「知識の価値」

アヴェ・ヴェルム・コルプス(お話です) 「ユダヤ啓蒙主義(ハスカラー)と 敬虔主義(けいけんしゅぎ:ハスィディズム)と敬虔主義の反対者(ミトナグディーム)とアンティ・セミティズム」「タルムード」「知識の価値」◎「知識の科価値」 迷信と固定的道徳が判断と行為の誤りから迫害を生みます。固定的道徳が予定因果であり 民衆が日常を問題意識なくすごしてしまい 儒教的道徳の場合 民衆が疑問に思うことを質問しにくいという問題がある。迷信と固定的道徳を乗り越える手立てが証拠の収集とこれらの分類を行って選択していくというstady(勉強)がある。 ◎「アブラハムの契約とシナイ契約」 ・アブラハムの契約が神ヤハウェがアブラハムにハラン(ユーフラテスの上流:現在の東トルコ)の地を離れてカナン(現在のイスラエル パレスチナ)の地に行きなさい。繁栄を約束する。という契約の約束型契約。 ・ヘブル人(tbri:ヘブル語・現在のイスラエル人)部族集団(エジプトを脱出した部族)とモーセの神ヤハウェの十戒の条文。という契約の義務型契約。 ◎「The struggle within us」 The forces within us. Needing impulses for both right and wrong. Selfishness. A formula. If I am not for myself who will be for me ? If I am only for myself what am I ? If not now when ? Reflection ◎「The struggle within us(我々の内での苦闘)」 ◎The forces within us 選択をする時に われわれの中で2つの力が働いていると ラビは信じている。一つは善をしようとする我々の欲求 他方は悪をしようとする我々の欲求である。善をしようとする衝動あるいは傾向を「Yetzer Tov」とラビは名づけた。Yetzerはヘブライ語で衝動(impulse)を意味し Tovは善(good)を意味する。他方 悪をしようとする衝動あるいは傾向を「Yetzer HaRa」名づけた。Raはヘブライ語で(evil)を意味する。「善の衝動」「悪の衝動」である。 われわれの各々の人は これら2つの衝動をいかに操作するか問われる。個人の意識にある「Yetzer Tov」は正義の人を操作し 他方「Yetzer HaRa」は邪悪をコントロールするが タルムードでは両方の衝動が 平均的な人の意識が衝動を操作することを示す(Berachot 61a)。 我々のほとんどはこの3番目のカテゴリーの「両方の衝動が平均的な人の意識が衝動を操作するということ」にあり 意識の全体が正義でなく全体が邪悪でもない。

投稿者:サイト名 有馬徳彦
投稿日時:2012-07-02 21:38:53.0
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カテゴリ: 暮らし全般   エンタメ全般   教育全般  
タグ: アヴェ・ヴェルム・コルプス(お話です)   「ユダヤ啓蒙主義(ハスカラー)と   敬虔主義(けいけんしゅぎ:ハスィディズム)と敬虔主義の反対者(ミトナグディーム)とアンティ・セミティズム」「タルムード」「知識の価値」◎「知識の科価値」   迷信と固定的道徳が判断と行為の誤りから迫害を生みます。固定的道徳が予定因果であり   民衆が日常を問題意識なくすごしてしまい   儒教的道徳の場合   民衆が疑問に思うことを質問しにくいという問題がある。迷信と固定的道徳を乗り越える手立てが証拠の収集とこれらの分類を行って選択していくというstady(勉強)がある。   ◎「アブラハムの契約とシナイ契約」   ・アブラハムの契約が神ヤハウェがアブラハムにハラン(ユーフラテスの上流:現在の東トルコ)の地を離れてカナン(現在のイスラエル   パレスチナ)の地に行きなさい。繁栄を約束する。という契約の約束型契約。   ・ヘブル人(tbri:ヘブル語・現在のイスラエル人)部族集団(エジプトを脱出した部族)とモーセの神ヤハウェの十戒の条文。という契約の義務型契約。   ◎「The   struggle   within   us」   The   forces   within   us.   Needing   impulses   for   both   right   and   wrong.   Selfishness.   A   formula.   If   I   am   not   for   myself   who   will   be   for   me   ?   If   I   am   only   for   myself   what   am   I   ?   If   not   now   when   ?   Reflection   ◎「The   struggle   within   us(我々の内での苦闘)」   ◎The   forces   within   us   選択をする時に   われわれの中で2つの力が働いていると   ラビは信じている。一つは善をしようとする我々の欲求   他方は悪をしようとする我々の欲求である。善をしようとする衝動あるいは傾向を「Yetzer   Tov」とラビは名づけた。Yetzerはヘブライ語で衝動(impulse)を意味し   Tovは善(good)を意味する。他方   悪をしようとする衝動あるいは傾向を「Yetzer   HaRa」名づけた。Raはヘブライ語で(evil)を意味する。「善の衝動」「悪の衝動」である。   われわれの各々の人は   これら2つの衝動をいかに操作するか問われる。個人の意識にある「Yetzer   Tov」は正義の人を操作し   他方「Yetzer   HaRa」は邪悪をコントロールするが   タルムードでは両方の衝動が   平均的な人の意識が衝動を操作することを示す(Berachot   61a)。   我々のほとんどはこの3番目のカテゴリーの「両方の衝動が平均的な人の意識が衝動を操作するということ」にあり   意識の全体が正義でなく全体が邪悪でもない。   ◎Needing   impulses   for   both   right   and   wrong   このことから   何が正しいことで   何が悪いことか   われわれはいかにして判断するのであろうか。どうやって片方の衝動から他方の衝動を識別するのか。選択はいつも明瞭でない。いつでも邪悪な選択があり   正義の選択があるということを   ラビが暗示している時単純化しすぎてはいないのかも課題である。ラビの理解というのは実際にはもっとずっと複雑であったのだ。彼らは「Yetzer   HaRa」が邪悪だとは信じていなかった。それは邪悪に向かった傾斜であるといえる。彼らは   「Yetzer   HaRa」が多くの局面で有用になりえるということまでも理解している。このことを示すために   彼らはこんなたとえ話を言っている。     われらの善き者たちは「Yetzer   HaRa」を捕まえて   それを金の鎖で縛り上げた。最初彼らは自分たちでたいへん喜んでいた。盗みは止り   殺人は無くなった。人々は友好的になり   互いを愛するようになった。嫉妬は無くなり   イスラエルの全地においてイスラエル人と隣人との間の論争も無くなった。死ぬ者はいなくなった。   しかし突然   彼らは奇妙な出来事を見るようになり始めた。人々はとても満足したので精を出して働く心配がなくなった。競争が無くなったので人々は働くことを止めてしまった。新しい家はもう作られなくなった。人々はもはや   結婚もしないで   子供を欲しがらなくなった。ラビでさえ不精になり始めた。その時   ラビは「Yetzer   HaRa」が世界において如何に必要であったかを理解して彼らは縛ってあった鎖を壊してそれを自由にした。   (Genesisi   Rabbah   9:7)   ◎Selfishness   「Yetzer   HaRa」を理解する最も簡単な方法は   極端な利己主義としてそれを見てみることである。それは我々の一部でもあり   それは「私のもの」とか「私は欲しい」あるいは「私にくれ」とか言って要求することがそれである。「Yetzer   HaRa」が危険であるのは何かというと   もし我々がそれをバランスしコントロールしないと   それが我々をコントロールするようになる   ということである。   「Yetzer   HaRa」は   本を取り上げて返さない   といった小さなことをするように我々に問いかけてくることで   我々をつかみ始める。そしてやがて   もっと悪い事をするように我々に要求する。それは我々にこう言うかもしれない:「この一回だけやってごらん   あなたがただの一回だけやっても誰も傷つくことはないから」それからやがて   毎回に悪い事をするように要求してくる:「さあ来てこれを傷つけてごらん。彼がいかに弱いか見てみなさい。彼はあなたに仕返しなんか出来ないよ」   最初は   「Yetzer   HaRa」はくもの巣のようであるが   しかし最後には重いロープのようになる。最初は   「Yetzer   HaRa」は通行人のようであり   お客のようであるが   最後にはその家の主人になる。最初は   「Yetzer   HaRa」は甘いが   最後にはにがくなる。   (Sukkot   52a   52b   Jerusalem   Talmud   Shabbat   14c)   ◎A   formula   利己主義をコントロールすることはいつも簡単というわけではない。我々が自分たちに利己主義を許せば許すほど   我々が利己主義になる。その時   選択するという我々の能力を実際に失って行き   我々だけのためにいつも行動し始める。我々の自由   我々の自由意志を放棄し   それに代わって何でも瞬間に行動することが好きになる   これは自由の錯覚にすぎないのであるが。   このことは   もし我々が他の人々と一緒に生活する必要がなかったならば   全て正しいかもしれない。しかし   あなたがこの本の第2章の始めでリストアップしたものを思い出してみれば   あなたはすぐに分かるがあなたの生活のほとんどは他人の周りに   そしてあなたが属している人々の周りに作られている。そこで我々はバランスについてのある種類を探すために勉強しなければならない。利己主義になることはいつでも悪い   というわけではない。しかしまたいつでも正しい   というわけでもない。全てのものを皆で分けることがいつも良いわけではないが   いつも悪いはずがない。間のどこかに行くべき価値のある道がある。   ここで   ミシュナ時代の偉大な先生であるヒレルから   われわれは学習しよう。ヒレルは   自分の生活と繰り返しの教えを通して   知的な選択をする公式を探した。ヒレルは「アボット」に彼の公式をまとめた:"   If   I   am   not   for   myself   who   will   be   for   me   ?   And   if   I   am   only   for   myself   what   am   I   ?   And   if   not   now   when   ?   "   "   If   I   am   not   for   myself   who   will   be   for   me?   "   もしあなたが住んでいる世界にアクティブに参加するのであれば   何かのために耐えることが必要である。次のことに理解を持つようにしなければいけない:あなたが持っているもの   持ちたいもの   自分がなりたい事   喜んで働きたい事   世話をしたい事。言い換えれば   自分自身でスタートしなければならない。   自分自身のために欲しいものが全て利己主義だ   というわけではない。しかし   自分自身のため「だけ」に欲しいものはほとんどが利己主義である。   あなたは知識を得たいかもしれない。このこと自身は利己主義ではない。知識のある人は   無知な者よりも世界にとって役に立つ。しかしもしあなたが他人を傷つけるために   あるいはあなた自身のためにのみ   あなたの知識を使うのなら   あなたが害ある利己主義なものになる。   あなたは人気を得たいかもしれない。このこと自身は利己主義ではない。人気のある人は   接近して連帯したり   議論や討論をしたり   親切や理解を持たらしたりして   隣人を助けることができる。しかし人気のある人が   悪の方向に人々を導くために彼の才能を使う時   彼は「悪の衝動」への道にいるのである。人々を戦争から戦争へと導くために   自分の人気を使った場合   ナポレオンはフランス人民を助ける代わりに   彼らを傷つけ苦しめた。   あなたは財産を得たいかもしれない。このこと自身は利己主義ではない。財産のある人は他の人々を助けることができる。必要としている人々に彼の富を慈善に使うことによって   また貴重な仕事や行動のスポンサーなることで共同体への祝福となることで。しかしもし人が他の人々の犠牲によって財産を欲しがるならば   その時これは真の利己主義を通して「悪の衝動」の一つの例である。   ヒレル(Hillel)の最初の質問   "   If   I   am   not   for   myself   who   will   be   for   me   ?   "これは次のことを暗示している。人は自分自身を助けるために努力すべきである。あなたは自分がなりたい事になるために労働すべきであり   より良くなるために労働すべきである。なぜならば   もしあなたがあなた自身のために働かないのであれば   いったい誰があなたのためにそれを行なってくれるのか。   "   If   I   am   only   for   myself   what   am   I   ?   "   しかしもし全てのあなたの労働があなた自身だけのためであるならば   あなたは何の善であるのか。われわれはいつもここに戻ってくる:あなたの生活には   あなただけがいるのではない。あなたの生活が本当の意味で始まるのは   他人のことを考慮した仕事の方法を選択し始めた時からである。   もしあなた一人だけが生きているならば   いかに振る舞っても誰かとの差ができるわけではない。これがゆえに   ヒレル(Hillel)の第2の質問がとても重要なのである。   他の人々と生活することは   我々が自分たちのことを考えるの同様に   彼らが必要あるいは要望していることを我々が考えなければいけない。   我々だけのためにある   というときはいつも「悪の衝動」が我々を狙っている。これはヒレルの第1の質問を少しばかり変えて我々に問う:"   If   I   don't   get   such   and   such   for   myself   who   else   will   get   it   for   me   ?   "もし私がそんなに自分のために努力しなくても   誰か他人が私のためにそれをやってくれのではないか。しかしヒレルは問を続ける時に適切なバランスを持ってきている。実際に第2の質問において"   If   I   get   such   and   such   at   someone   else's   expense   or   harm   am   I   not   evil   ?   "もし私がそれほど誰か他人を傷つけているとしたら   私は悪ではないのか。ヒレルは「悪の衝動」が重要であることも分かっているが   しかしその2つの衝動がバランスされなければならないことも分かっている。このような場合にのみ   人は社会に   そして結局は自分に奉仕できる。このような場合にのみ   人は社会に   そして結局は自分に奉仕できる。   "   If   not   now   when   ?   ""   ヒレルの第3の質問はまた重要である。われわれは人間である。我々の全ては   明日まで物事を延期するのが好きである。さらに   もし我々が決して始めようとしない   あるいは"   I   will   let   myself   do   evil   just   this   one   time   "   この一回だけは悪をやってみようと言うならば   これは我々が奴隷になることである。我々は選択する自由を失っているのだ。   我々のうち誰かは   行き過ぎた利己主義で悩んでいる。また誰かは   自分たち自身のことをほとんど考えない行き過ぎた非利己主義で悩んでいる。もし我々が生活の中でのバランスを持つよう探し求めないのならば   我々はただ怠け者になるしか期待出来ない:変化や進歩への抵抗   何か新しいことの試みへの恐れ   我々をより良く   あるいはより豊かにする試みへの恐れ。   これに対する唯一の治療があるとヒレルは暗示している。今行動せよ!明日まで待つな   「私は明日始めよう」と言うな。すぐに始めなさい!   Reflection   この本は   「アボット」にあるヒレルの3つの質問を軸にして構成されている。「第1~4章」は   行動に対する我々自身の準備について考えている。「第5~11章」は   我々各々が   自分自身のために生活をする上で   選択しなければならない事柄について語る。(If   I   am   not   for   myself   who   will   be   for   me   ?   )「第12~21章」は   我々の共同体の中で一緒にうまく生活する場合に   選択しなければならない事柄について語る。(And   if   I   am   only   for   myself   what   am   I   ?)「第22~23章」は   われわれの進路を設定しそれを正しく設定するために   ただちにしなければならないことは何かについて語る。(And   if   not   now   when?)   いつでも   我々の学習では   このような考えに戻ってくる:・我々の各々は   複合した複雑な人間であり   しかも唯一で一人であるということ。・我々の誰もが   心の内で   良いことと悪いこととの間で苦闘している。そして同様に   我々自身のために正しいことと我々が住んでいる世界のために正しいこととの間で苦闘しているということ。・この苦闘が我々の生活に   そして我々のまわりの世界に意味を与えている   ということ。・そしてこの苦闘の成功は   我々自身の中でまた世界の中で   何が最良で何が最悪かのバランスをいかにして我々がうまくをとるか   最終的にこれにかかっているということ。   我々の苦闘に光を投げるために   そしてこの世界の複雑さの説明で我々を助けるために   我々自身の伝統(ラビの観点)を引き出そう。   ラビの観点:適切な行動と適切な考えを通して邪悪に打ち勝てるということ。邪悪なことをしようとする衝動「Yetzer   HaRa」は   良いことに代わるかもしれないということ。我々はラビ自身の行動   言葉および思考を調べよう。そして彼らの原理がいかに現実となって行くかを見てみよう。   正しさと邪悪の間の選択をするのはいつでもあなたである   ということを忘れずに記憶しなさい。なぜならば   選択の自由はあなたがユダヤ人としての世襲財産であり   また人間として生まれたあなたの権利だからである。じょうずに選ぶことは最終的にあなたの個人的な責任である。  

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アヴェ・ヴェルム・コルプス(お話です) 「啓蒙主義と敬虔主義と敬虔主義」「タルムード」「知識の価値」

アヴェ・ヴェルム・コルプス(お話です) 「ユダヤ啓蒙主義(ハスカラー)と 敬虔主義(けいけんしゅぎ:ハスィディズム)と敬虔主義の反対者(ミトナグディーム)とアンティ・セミティズム」「タルムード」「知識の価値」◎「知識の科価値」 迷信と固定的道徳が判断と行為の誤りから迫害を生みます。固定的道徳が予定因果であり 民衆が日常を問題意識なくすごしてしまい 儒教的道徳の場合 民衆が疑問に思うことを質問しにくいという問題がある。迷信と固定的道徳を乗り越える手立てが証拠の収集とこれらの分類を行って選択していくというstady(勉強)がある。 ◎「アブラハムの契約とシナイ契約」 ・アブラハムの契約が神ヤハウェがアブラハムにハラン(ユーフラテスの上流:現在の東トルコ)の地を離れてカナン(現在のイスラエル パレスチナ)の地に行きなさい。繁栄を約束する。という契約の約束型契約。 ・ヘブル人(tbri:ヘブル語・現在のイスラエル人)部族集団(エジプトを脱出した部族)とモーセの神ヤハウェの十戒の条文。という契約の義務型契約。 ◎「The struggle within us」 The forces within us. Needing impulses for both right and wrong. Selfishness. A formula. If I am not for myself who will be for me ? If I am only for myself what am I ? If not now when ? Reflection ◎「The struggle within us(我々の内での苦闘)」 ◎The forces within us 選択をする時に われわれの中で2つの力が働いていると ラビは信じている。一つは善をしようとする我々の欲求 他方は悪をしようとする我々の欲求である。善をしようとする衝動あるいは傾向を「Yetzer Tov」とラビは名づけた。Yetzerはヘブライ語で衝動(impulse)を意味し Tovは善(good)を意味する。他方 悪をしようとする衝動あるいは傾向を「Yetzer HaRa」名づけた。Raはヘブライ語で(evil)を意味する。「善の衝動」「悪の衝動」である。 われわれの各々の人は これら2つの衝動をいかに操作するか問われる。個人の意識にある「Yetzer Tov」は正義の人を操作し 他方「Yetzer HaRa」は邪悪をコントロールするが タルムードでは両方の衝動が 平均的な人の意識が衝動を操作することを示す(Berachot 61a)。 我々のほとんどはこの3番目のカテゴリーの「両方の衝動が平均的な人の意識が衝動を操作するということ」にあり 意識の全体が正義でなく全体が邪悪でもない。

投稿者:サイト名 有馬徳彦
投稿日時:2012-07-02 19:19:53.0
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カテゴリ: 暮らし全般   エンタメ全般   教育全般  
タグ: アヴェ・ヴェルム・コルプス(お話です)   「ユダヤ啓蒙主義(ハスカラー)と   敬虔主義(けいけんしゅぎ:ハスィディズム)と敬虔主義の反対者(ミトナグディーム)とアンティ・セミティズム」「タルムード」「知識の価値」◎「知識の科価値」   迷信と固定的道徳が判断と行為の誤りから迫害を生みます。固定的道徳が予定因果であり   民衆が日常を問題意識なくすごしてしまい   儒教的道徳の場合   民衆が疑問に思うことを質問しにくいという問題がある。迷信と固定的道徳を乗り越える手立てが証拠の収集とこれらの分類を行って選択していくというstady(勉強)がある。   ◎「アブラハムの契約とシナイ契約」   ・アブラハムの契約が神ヤハウェがアブラハムにハラン(ユーフラテスの上流:現在の東トルコ)の地を離れてカナン(現在のイスラエル   パレスチナ)の地に行きなさい。繁栄を約束する。という契約の約束型契約。   ・ヘブル人(tbri:ヘブル語・現在のイスラエル人)部族集団(エジプトを脱出した部族)とモーセの神ヤハウェの十戒の条文。という契約の義務型契約。   ◎「The   struggle   within   us」   The   forces   within   us.   Needing   impulses   for   both   right   and   wrong.   Selfishness.   A   formula.   If   I   am   not   for   myself   who   will   be   for   me   ?   If   I   am   only   for   myself   what   am   I   ?   If   not   now   when   ?   Reflection   ◎「The   struggle   within   us(我々の内での苦闘)」   ◎The   forces   within   us   選択をする時に   われわれの中で2つの力が働いていると   ラビは信じている。一つは善をしようとする我々の欲求   他方は悪をしようとする我々の欲求である。善をしようとする衝動あるいは傾向を「Yetzer   Tov」とラビは名づけた。Yetzerはヘブライ語で衝動(impulse)を意味し   Tovは善(good)を意味する。他方   悪をしようとする衝動あるいは傾向を「Yetzer   HaRa」名づけた。Raはヘブライ語で(evil)を意味する。「善の衝動」「悪の衝動」である。   われわれの各々の人は   これら2つの衝動をいかに操作するか問われる。個人の意識にある「Yetzer   Tov」は正義の人を操作し   他方「Yetzer   HaRa」は邪悪をコントロールするが   タルムードでは両方の衝動が   平均的な人の意識が衝動を操作することを示す(Berachot   61a)。   我々のほとんどはこの3番目のカテゴリーの「両方の衝動が平均的な人の意識が衝動を操作するということ」にあり   意識の全体が正義でなく全体が邪悪でもない。   ◎Needing   impulses   for   both   right   and   wrong   このことから   何が正しいことで   何が悪いことか   われわれはいかにして判断するのであろうか。どうやって片方の衝動から他方の衝動を識別するのか。選択はいつも明瞭でない。いつでも邪悪な選択があり   正義の選択があるということを   ラビが暗示している時単純化しすぎてはいないのかも課題である。ラビの理解というのは実際にはもっとずっと複雑であったのだ。彼らは「Yetzer   HaRa」が邪悪だとは信じていなかった。それは邪悪に向かった傾斜であるといえる。彼らは   「Yetzer   HaRa」が多くの局面で有用になりえるということまでも理解している。このことを示すために   彼らはこんなたとえ話を言っている。     われらの善き者たちは「Yetzer   HaRa」を捕まえて   それを金の鎖で縛り上げた。最初彼らは自分たちでたいへん喜んでいた。盗みは止り   殺人は無くなった。人々は友好的になり   互いを愛するようになった。嫉妬は無くなり   イスラエルの全地においてイスラエル人と隣人との間の論争も無くなった。死ぬ者はいなくなった。   しかし突然   彼らは奇妙な出来事を見るようになり始めた。人々はとても満足したので精を出して働く心配がなくなった。競争が無くなったので人々は働くことを止めてしまった。新しい家はもう作られなくなった。人々はもはや   結婚もしないで   子供を欲しがらなくなった。ラビでさえ不精になり始めた。その時   ラビは「Yetzer   HaRa」が世界において如何に必要であったかを理解して彼らは縛ってあった鎖を壊してそれを自由にした。   (Genesisi   Rabbah   9:7)   ◎Selfishness   「Yetzer   HaRa」を理解する最も簡単な方法は   極端な利己主義としてそれを見てみることである。それは我々の一部でもあり   それは「私のもの」とか「私は欲しい」あるいは「私にくれ」とか言って要求することがそれである。「Yetzer   HaRa」が危険であるのは何かというと   もし我々がそれをバランスしコントロールしないと   それが我々をコントロールするようになる   ということである。   「Yetzer   HaRa」は   本を取り上げて返さない   といった小さなことをするように我々に問いかけてくることで   我々をつかみ始める。そしてやがて   もっと悪い事をするように我々に要求する。それは我々にこう言うかもしれない:「この一回だけやってごらん   あなたがただの一回だけやっても誰も傷つくことはないから」それからやがて   毎回に悪い事をするように要求してくる:「さあ来てこれを傷つけてごらん。彼がいかに弱いか見てみなさい。彼はあなたに仕返しなんか出来ないよ」   最初は   「Yetzer   HaRa」はくもの巣のようであるが   しかし最後には重いロープのようになる。最初は   「Yetzer   HaRa」は通行人のようであり   お客のようであるが   最後にはその家の主人になる。最初は   「Yetzer   HaRa」は甘いが   最後にはにがくなる。   (Sukkot   52a   52b   Jerusalem   Talmud   Shabbat   14c)   ◎A   formula   利己主義をコントロールすることはいつも簡単というわけではない。我々が自分たちに利己主義を許せば許すほど   我々が利己主義になる。その時   選択するという我々の能力を実際に失って行き   我々だけのためにいつも行動し始める。我々の自由   我々の自由意志を放棄し   それに代わって何でも瞬間に行動することが好きになる   これは自由の錯覚にすぎないのであるが。   このことは   もし我々が他の人々と一緒に生活する必要がなかったならば   全て正しいかもしれない。しかし   あなたがこの本の第2章の始めでリストアップしたものを思い出してみれば   あなたはすぐに分かるがあなたの生活のほとんどは他人の周りに   そしてあなたが属している人々の周りに作られている。そこで我々はバランスについてのある種類を探すために勉強しなければならない。利己主義になることはいつでも悪い   というわけではない。しかしまたいつでも正しい   というわけでもない。全てのものを皆で分けることがいつも良いわけではないが   いつも悪いはずがない。間のどこかに行くべき価値のある道がある。   ここで   ミシュナ時代の偉大な先生であるヒレルから   われわれは学習しよう。ヒレルは   自分の生活と繰り返しの教えを通して   知的な選択をする公式を探した。ヒレルは「アボット」に彼の公式をまとめた:"   If   I   am   not   for   myself   who   will   be   for   me   ?   And   if   I   am   only   for   myself   what   am   I   ?   And   if   not   now   when   ?   "   "   If   I   am   not   for   myself   who   will   be   for   me?   "   もしあなたが住んでいる世界にアクティブに参加するのであれば   何かのために耐えることが必要である。次のことに理解を持つようにしなければいけない:あなたが持っているもの   持ちたいもの   自分がなりたい事   喜んで働きたい事   世話をしたい事。言い換えれば   自分自身でスタートしなければならない。   自分自身のために欲しいものが全て利己主義だ   というわけではない。しかし   自分自身のため「だけ」に欲しいものはほとんどが利己主義である。   あなたは知識を得たいかもしれない。このこと自身は利己主義ではない。知識のある人は   無知な者よりも世界にとって役に立つ。しかしもしあなたが他人を傷つけるために   あるいはあなた自身のためにのみ   あなたの知識を使うのなら   あなたが害ある利己主義なものになる。   あなたは人気を得たいかもしれない。このこと自身は利己主義ではない。人気のある人は   接近して連帯したり   議論や討論をしたり   親切や理解を持たらしたりして   隣人を助けることができる。しかし人気のある人が   悪の方向に人々を導くために彼の才能を使う時   彼は「悪の衝動」への道にいるのである。人々を戦争から戦争へと導くために   自分の人気を使った場合   ナポレオンはフランス人民を助ける代わりに   彼らを傷つけ苦しめた。   あなたは財産を得たいかもしれない。このこと自身は利己主義ではない。財産のある人は他の人々を助けることができる。必要としている人々に彼の富を慈善に使うことによって   また貴重な仕事や行動のスポンサーなることで共同体への祝福となることで。しかしもし人が他の人々の犠牲によって財産を欲しがるならば   その時これは真の利己主義を通して「悪の衝動」の一つの例である。   ヒレル(Hillel)の最初の質問   "   If   I   am   not   for   myself   who   will   be   for   me   ?   "これは次のことを暗示している。人は自分自身を助けるために努力すべきである。あなたは自分がなりたい事になるために労働すべきであり   より良くなるために労働すべきである。なぜならば   もしあなたがあなた自身のために働かないのであれば   いったい誰があなたのためにそれを行なってくれるのか。   "   If   I   am   only   for   myself   what   am   I   ?   "   しかしもし全てのあなたの労働があなた自身だけのためであるならば   あなたは何の善であるのか。われわれはいつもここに戻ってくる:あなたの生活には   あなただけがいるのではない。あなたの生活が本当の意味で始まるのは   他人のことを考慮した仕事の方法を選択し始めた時からである。   もしあなた一人だけが生きているならば   いかに振る舞っても誰かとの差ができるわけではない。これがゆえに   ヒレル(Hillel)の第2の質問がとても重要なのである。   他の人々と生活することは   我々が自分たちのことを考えるの同様に   彼らが必要あるいは要望していることを我々が考えなければいけない。   我々だけのためにある   というときはいつも「悪の衝動」が我々を狙っている。これはヒレルの第1の質問を少しばかり変えて我々に問う:"   If   I   don't   get   such   and   such   for   myself   who   else   will   get   it   for   me   ?   "もし私がそんなに自分のために努力しなくても   誰か他人が私のためにそれをやってくれのではないか。しかしヒレルは問を続ける時に適切なバランスを持ってきている。実際に第2の質問において"   If   I   get   such   and   such   at   someone   else's   expense   or   harm   am   I   not   evil   ?   "もし私がそれほど誰か他人を傷つけているとしたら   私は悪ではないのか。ヒレルは「悪の衝動」が重要であることも分かっているが   しかしその2つの衝動がバランスされなければならないことも分かっている。このような場合にのみ   人は社会に   そして結局は自分に奉仕できる。このような場合にのみ   人は社会に   そして結局は自分に奉仕できる。   "   If   not   now   when   ?   ""   ヒレルの第3の質問はまた重要である。われわれは人間である。我々の全ては   明日まで物事を延期するのが好きである。さらに   もし我々が決して始めようとしない   あるいは"   I   will   let   myself   do   evil   just   this   one   time   "   この一回だけは悪をやってみようと言うならば   これは我々が奴隷になることである。我々は選択する自由を失っているのだ。   我々のうち誰かは   行き過ぎた利己主義で悩んでいる。また誰かは   自分たち自身のことをほとんど考えない行き過ぎた非利己主義で悩んでいる。もし我々が生活の中でのバランスを持つよう探し求めないのならば   我々はただ怠け者になるしか期待出来ない:変化や進歩への抵抗   何か新しいことの試みへの恐れ   我々をより良く   あるいはより豊かにする試みへの恐れ。   これに対する唯一の治療があるとヒレルは暗示している。今行動せよ!明日まで待つな   「私は明日始めよう」と言うな。すぐに始めなさい!   Reflection   この本は   「アボット」にあるヒレルの3つの質問を軸にして構成されている。「第1~4章」は   行動に対する我々自身の準備について考えている。「第5~11章」は   我々各々が   自分自身のために生活をする上で   選択しなければならない事柄について語る。(If   I   am   not   for   myself   who   will   be   for   me   ?   )「第12~21章」は   我々の共同体の中で一緒にうまく生活する場合に   選択しなければならない事柄について語る。(And   if   I   am   only   for   myself   what   am   I   ?)「第22~23章」は   われわれの進路を設定しそれを正しく設定するために   ただちにしなければならないことは何かについて語る。(And   if   not   now   when?)   いつでも   我々の学習では   このような考えに戻ってくる:・我々の各々は   複合した複雑な人間であり   しかも唯一で一人であるということ。・我々の誰もが   心の内で   良いことと悪いこととの間で苦闘している。そして同様に   我々自身のために正しいことと我々が住んでいる世界のために正しいこととの間で苦闘しているということ。・この苦闘が我々の生活に   そして我々のまわりの世界に意味を与えている   ということ。・そしてこの苦闘の成功は   我々自身の中でまた世界の中で   何が最良で何が最悪かのバランスをいかにして我々がうまくをとるか   最終的にこれにかかっているということ。   我々の苦闘に光を投げるために   そしてこの世界の複雑さの説明で我々を助けるために   我々自身の伝統(ラビの観点)を引き出そう。   ラビの観点:適切な行動と適切な考えを通して邪悪に打ち勝てるということ。邪悪なことをしようとする衝動「Yetzer   HaRa」は   良いことに代わるかもしれないということ。我々はラビ自身の行動   言葉および思考を調べよう。そして彼らの原理がいかに現実となって行くかを見てみよう。   正しさと邪悪の間の選択をするのはいつでもあなたである   ということを忘れずに記憶しなさい。なぜならば   選択の自由はあなたがユダヤ人としての世襲財産であり   また人間として生まれたあなたの権利だからである。じょうずに選ぶことは最終的にあなたの個人的な責任である。  

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(お話です) 2 「タルムード」「律法の価値」「生活の選択」「エルサレムのヤブネ体制」

(お話です) 2 「タルムード」「律法の価値」「生活を選択すること」「エルサレムのヤブネ体制とパリサイ派のラビ」「第二反乱と エルサレムのヤブネ体制 についてと イェフダ・ハナスィ (=総主教の総主教のイェフダ)と ヤブネ議会(=ヤブネ・サンヘドリン) について」 「マカベア(ハスモン)家が ユダヤの独立を回復。 前63年 ユダヤがローマの 属領の属王ヘロデの 圧制が行われて、 以降のローマ人総督が 悪政を行って、 ユダヤ人が大反乱を起す (ユダヤ戦争紀元66~70年)。 反乱は鎮圧され, エルサレム神殿が破壊されて、 神殿祭儀なしに 民族的・宗教的共同体を 維持する意識が 強く受け継がれます。 第2神殿時代に発達した、 礼拝と律法研究のために、 安息日(シャバット)ごとに 各居住地の成員が集まる シナゴーグ(集会所)が パリサイ派律法学者の活動の拠点でした。 これらの拠点に集結して 海岸地方のヤブネに集まって、 破壊された神殿にあった サンヘドリン(議会)を再興して、 派律法学者の 律法と律法解釈の ユダヤ人共同体の形成の維持を行いました。 第2反乱(132‐135) ヤブネが破壊されて、 ユダヤ人共同体が ガリラヤになりました。 5世紀初期 キリスト教が強力になり ローマ帝国の国教になりました。 ペルシア時代以降展開した ディアスポラ・ユダヤ人(離散民)が ヘレニズム・ローマ時代に発展して、 紀元の時期 人口が本国のユダヤ人の数十倍に達していた。 大部分のローマ帝国内の ユダヤ人の幾度もの反乱で ディアスポラ(離散民)が 弾圧を受けて、 ローマ帝国の支配圏外にあった バビロニアのディアスポラ(離散民)が 徐々にユダヤ人の拠点になりました。 このことから 5世紀以降 バビロニア各地の 教学院(イェシバー yeshivah)に集まった 律法学者たちが, 「ラビのユダヤ教」を行って、 ユダヤ民族・宗教共同体の基準の 口伝律法の集大成の バビロニア・タルムードを 編纂しました。 10世紀 バビロニア拠点でしたが 以降のユダヤ人共同体が、 イスラム教徒が展開する 北アフリカとスペインが 拠点になりました。」

投稿者:サイト名 有馬徳彦
投稿日時:2012-06-28 00:59:04.0
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タグ: (お話です)   2   「タルムード」   「律法の価値」   「生活を選択すること」   「エルサレムのヤブネ体制とパリサイ派のラビ」   「The   value   of   Torah   :律法の価値」   「Choosing   life生活を選択すること」   「第二反乱と   エルサレムのヤブネ体制   についてと   イェフダ・ハナスィ   (=総主教の総主教のイェフダ)と   ヤブネ議会(=ヤブネ・サンヘドリン)   について」   「マカベア(ハスモン)家が   ユダヤの独立を回復。   前63年   ユダヤがローマの   属領の属王ヘロデの   圧制が行われて   以降のローマ人総督が   悪政を行って   ユダヤ人が大反乱を起す   (ユダヤ戦争紀元66~70年)。   反乱は鎮圧され,   エルサレム神殿が破壊されて   神殿祭儀なしに   民族的・宗教的共同体を   維持する意識が   強く受け継がれます。   第2神殿時代に発達した   礼拝と律法研究のために   安息日(シャバット)ごとに   各居住地の成員が集まる   シナゴーグ(集会所)が   パリサイ派律法学者の活動の拠点でした。   これらの拠点に集結して   海岸地方のヤブネに集まって   破壊された神殿にあった   サンヘドリン(議会)を再興して   派律法学者の   律法と律法解釈の   ユダヤ人共同体の形成の維持を行いました。   第2反乱(132‐135)   ヤブネが破壊されて   ユダヤ人共同体が   ガリラヤになりました。   5世紀初期   キリスト教が強力になり   ローマ帝国の国教になりました。   ペルシア時代以降展開した   ディアスポラ・ユダヤ人(離散民)が   ヘレニズム・ローマ時代に発展して   紀元の時期   人口が本国のユダヤ人の数十倍に達していた。   大部分のローマ帝国内の   ユダヤ人の幾度もの反乱で   ディアスポラ(離散民)が   弾圧を受けて   ローマ帝国の支配圏外にあった   バビロニアのディアスポラ(離散民)が   徐々にユダヤ人の拠点になりました。   このことから   5世紀以降   バビロニア各地の   教学院(イェシバー   yeshivah)に集まった   律法学者たちが,   「ラビのユダヤ教」を行って   ユダヤ民族・宗教共同体の基準の   口伝律法の集大成の   バビロニア・タルムードを   編纂しました。   10世紀   バビロニア拠点でしたが   以降のユダヤ人共同体が   イスラム教徒が展開する   北アフリカとスペインが   拠点になりました。」   「The   value   of   Torah   :   トーラの価値」   ラビ・エリアザル・ベン・アザリア(Rabbi   Eleazar   ben   Azariah)は言った。トーラがないところには作法はない   そして作法がないところにはトーラはない。.........小麦粉がないところにはトーラがない   トーラがないところには小麦粉はない。   [   Avot3:21   ]   Religion   and   mankind   ラビ・エリアザルの言うことは奇術師の演技のようである。奇術師の手のちょっとした動きだけで   ボールが空中に浮いているようにも   そして突然動きだすようにも見える。同じように   エリアザルはトーラと作法   トーラと小麦粉の考えで奇術をしている。   「小麦粉」という単語から   彼が象徴的に言っているということを   我々は知っている。小麦粉は我々にとって毎日のパン   我々の身体のえさ   を代表する。トーラは   比較して   我々の精神---我々の宗教---のえさを代表するにちがいない。   同じことがトーラと作法との間に比較される。ここでは   作法は我々が選んだ生活の毎日の方法を代表する。トーラは   我々の最も高い標準   我々のゴール   我々の道徳   我々の法律---再び我々の宗教---を代表する。   もちろん   作法には良い作法あるいは悪い作法がある。我々がただ単語「作法」を使う場合は   我々はいつも「良い作法」---他人への振る舞いに   敏感でそしてあわれみ深い方法---について言っている。   A   world   wiyhout   Torah   我々は人々がこう言っていることをしばしば聞く:良い作法を持つことは   ひとりの人が世界を平和な場所にする必要がある   それが全てである。人々はこう言うかもしれない   「ユダヤ人であることは   世界の他から私をただ離しているに過ぎない」あるいはこう言うかもしれない   「私はただ人間になりたのだ」   これらの人々が忘れていることは   ただ「人間(human)」であるという自然の状態が動物の状態であることである。それはほとんど永続的に生き残る種類の状態ではない。我々のほとんどの人間では   我々はほとんど野生の動物のようである:餓えた時には互いに戦い爪でひっかく   そして親切に対して邪悪をもって応じる。良い作法は立派である   しかしトーラの保護なしでは   我々を案内する法律なしでは   それら(良い作法)は我々の動物の状態から十分遠くに我々を移動させることはない。ラビはこのことを示すために   老人と蛇の物語を話した。   ある寒い日に   老人が彼の暖炉を離れて彼の野原を歩いていた。彼の手には棒を持っていた   荒れ地で彼を助けるために使い   そしてまた野の獣から保護するために使った。彼が歩いていた時に   道の脇の地にとても静かに横たわっている蛇を見つけた。彼は棒を上げそれを殺そうとしたが   しかし蛇は動かなかった。その時   蛇は寒さで凍ってしまっている   とその老人は悟った。   老人はその蛇がかわいそうに感じた。彼は地面から蛇の凍った身体を持ち上げ   彼自身の身体に接近させて暖かく保った。すぐに蛇はより強くなったが   まだ弱いふりをしていた。それから   突然   蛇は老人のまわりに巻きついて彼を締め始めた。   老人は恐れて叫んだ   「おまえは私を殺したいのか?私はちょうどおまえの命を救ったのだ。おまえは感謝をしないのか?」蛇は笑った。そして言った   「トーラは言っている   蛇は人間のかかとを傷つけるであろう。私はあなたを殺さなければならない   それが人間に対する蛇の方法である」老人はひどく恐れた。彼は蛇に嘆願した   しかし蛇は笑った。   その時   老人はこのケースを裁くために法廷に行くよう要求した。「誰が裁判官になるのか?」   蛇は答えた。「さぁ道に添って歩こう」   彼は言った   「そして最初に会った者が裁判をするのだ」蛇は勝つ確信があったので一緒に行くことに同意した。それで彼は   なおも彼に堅く締めつけている蛇とともに   道を下って行った。   一日中歩いた後   道で   老人と蛇は休んでいる強い牛に会った。老人はその牛に近づいた。「私を殺すことは悪いことだ   と蛇に言ってくれ」   と彼は言った   「私はちょうどこの蛇を助けた   そして共通の作法では   蛇が今度は私を助けるべきである   と言っている」「トーラの中で   蛇と人間は敵である   と言う。   それゆえに私が彼を締めつけて殺すことは正しいはずだ」   蛇は答えた。その牛は蛇に同意した。「あなたは親切な行為をした。しかし蛇は邪悪な行為でそれに報いなければならない。この世界では   我々はいつも善を邪悪で報いるのだ」   牛は答えた。   蛇は老人を強く締めつけた。しかし老人が痛さのため大声で叫び始めたちょうどその時に   ロバがたまたま通りかかった。「そのロバに裁いてもらおう」   老人は痛さで曲がった歯の間から声を出して言った。蛇は微笑んで   そしてふたまたに分れた舌をちらりと見せた。そして   いきさつが再び話された時に   そのロバは蛇に同意した。「善を邪悪で報いるのは自然な方法だ」   ロバは追加した   「それが動物の方法なのだ。最も強い者が一番良い者だ。つめやきばの現実の世界において   使う方法に何があるというのか?」「これは公平な裁判ではない」   老人は言った   「もう一回裁く機会をくれ」   空には太陽がほとんど沈みかけていた。エレサレムの町の影が長くなった   そして丘の頂上の向こう側が暗くなってきた。「見よ   もう遅い」   蛇は言った   「あなたが私を助けてから何も食べていないのでおれは腹がへった。これが最後の裁判だ   そしてあなたは死ぬのだ。」彼らが最後の裁判官を探して道を下っている時に   道の脇に奇妙な光景が現われた。一人の高貴な若者が大地の大きな穴の近くに立っていた。その若者はとの穴の中に彼の美しい杖を落としてしまったのだ。彼は召し使いたちにその穴に水を満たすよう命じた   そして彼らがそうした時に   杖は上に浮いてきた   そしてその若者はそれを簡単に手にとった。   「これは賢い人だ」   老人は言った   「彼を最後の裁判官にしよう。」「そうしよう」   蛇は言った。若者はその二つの話しに耳を傾けた。老人は   いかにして蛇の命を助けたか   を細かく説明した。蛇もまた   老人を殺すことが自分の義務である   と説明した。「まず」   若者は蛇に言った   「おまえは老人から降りなければならない   なぜならばトーラの中で言われている:二人が裁判をしている時は   どちらも有利であってはならない」「さて」   若者は蛇に質問した   「おまえの命を助けた老人をなぜ殺したいのか?」「それはトーラの中で言われている」   蛇は言った   「おまえは男のかかとを傷つけよ」   「それはまたトーラの中で言われている」   その若い裁判官は言った   そして老人の方に向いて   「男は蛇の頭を打ちたたけ」老人は   彼がいつでも持っていた杖を上げた。彼は蛇の頭をたたき   それを殺した。   「今わたしは理解した」   老人は若者に言った   「世界には作法がないのだ   トーラの法律によって保護されている作法を除いては」この高貴な若者は微笑んだ。彼はエレサレムのダビデ王の息子   ソロモンの十代の若者以外の何者でもない。   [   Tanhuma   Buber   ]   良い作法を持つことは   人間であることの一つの精練である。   しかし作法を持つことは   それを支援するゴールや価値を持つことを我々に要求する。映画館でチケットを買う列を考えてみなさい。我々がチケットを買う場合に観察する作法は命じている:最初にやってきた人が最初に奉仕されるべきであり   その後に来たすべての人が順番に奉仕されるべきである。我々はみんな忍耐強くはない   我々はみな次になりたいと思っている;それでもなおも   我々は良い作法を現わし   そして我々の順番を待つ。誰かが列に「割り込む」時   あるいは誰かが我々の前に押して入る時   その時   我々はいらいらさせられる。我々は彼がフェアではないと言う   しかし我々は「彼が人間である!」ということには同意しなければならないでろう。   法律は我々を保護する   その国の法律ではなく   確かに   チケットの行列に割り込む人を禁止する特別な法律は   あったとしてもほとんどの国にはない;しかし我々の宗教の法律にはある。トーラの中で   我々が自分自身を愛すると同様に他人を愛しなさいという戒律   そして全ての人は平等に造られているという教え   を我々は持っている。トーラは善い作法への我々の案内であり   悪い作法からの我々の保護である。   それでラビ・エリアザルの教え   「トーラがないところには   作法がない」我々はそれをこう読める   我々の行動を制御するための一連の標準と価値観を   我々に教える宗教または伝統がないところには   我々の行動は他人の必要の思いやりがないであろう。   Where   there   are   no   manners   ...   タルムードの善き人の一人は我々に教えた:トーラをたくさん勉強して   戒律を理解し愛している人   しかしそれによって生活していない人は   たずなを持っていない馬のようである。トーラはほんの短い間は馬の上に乗っている   しかしすぐに馬はその騎手を頭から投げ出してしまう。   その反対に   トーラをたくさん勉強している人   そしてトーラを実践している人は   たずなを持っている馬のようである。その騎手   トーラ   はこの馬をあちこちに導き   そしてその馬は喜んでその指導を受ける。   [   Avot   de   Rabbi   Natan   24   ]   ラビ・エリアザルの教えの第二の部分   「作法がないところには   トーラがない」   これは実践の生活が先に来なければならないことを   我々に告げている。もし人が法律によって喜んで生活しないならば   トーラはほとんど役に立たないであろう。もし人が   世界の中に作法の必要性があると決心する時のみ   その人はトーラの使用法を見つけるであろう。   それで   まず最初の段階はこうである   「神の視点で正しいことをすること」   [   Exodus   15:26   ]   すなわち   何がビジネスあるいは売り買いで正しいことか。それであなたはこう学ぶであろう:真実で正直にビジネスあるいは売り買いを振る舞う人   そして他人を喜ばす人   その人はトーラ全体を満たしたかのようにみなされる。   [   Mechilta   Vayetze   Beshallah   ]   人が   他人の善い作法に従うことによって   単純にその神の法律を守る時   その時   彼の行動はその法律のために行動している人の行動と同じように   どの点からみても善い。このように   グループが   善い生活をするために最も無知の人でさえ助けることができる。   たとえばトーラを勉強してきた人が   敏感さを持たずに行動したり   あるいはトーラの原則い従って行動することに失敗しているのを我々が見る時は   我々はこう言う気になる:「それには私の行動の仕方と何の違いを作っているのか?」しかし   トーラを勉強してきた人が   親切な方法で行動していて   彼のまわりの人々に幸福をもたらしているのを我々が見たその時   我々はよくこう言うのを好む:「私もまたそういう風に行動しよう」これは   ラビが我々に教えた   人間のもつ自然の方法である。   (モーゼの兄)アロンが道にいた時に   邪悪であるとして知られている男に会った   彼はその男に「あなたに平和を」といつも挨拶をしていた。   その次の日   その男が邪悪なことをしたくなった時に   彼は言った   「もし私がこれをしたならば   私は目を上げてアロンを見つめることができるであろうか?私は彼の前に恥じるであろう   なぜならば彼は私に平和の挨拶をくれるから」それでその男は邪悪をすることから戻ってゆくようになった。   [   Avot   de   Rabbi   Natan   12   ]   しかし作法はどのようにトーラに導くのであろうか?これの最善の例は   我々がこの本の第1章で勉強した物語の中で示めされる---   シメオン(Simeon)と真珠の物語である。最後に   シメオンが真珠をその正しい所有者に返した時に   その所有者はシメオンの作法によって感情が圧倒された。そしてその驚かされた所有者の答えは:「シメオン・ベン・シェタ(Simeon   ben   of   Shetah)の神を誉め賛えよう」   シメオンと共に   そしてアロンと共にいるように   我々の作法がトーラを基本としている時   その作法は他人をトーラに導く。それでラビは教えた:   人にまず最初に善い行ないをするようにさせなさい   そうしてそれから   神にトーラの知識を質問するようにしなさい。   [   Tanna   de   be   Eliezer   p.31   ]   Where   there   is   no   flour   ...   ラビ・エリアザルの言うことの最後の部分は格言として有名になっている。それはこう始まる   「小麦粉がないところにはトーラがない   ....」   他の伝統の中で平行に言われる   ヒンズー教の先生であるVivekananda   (1863-1902)   は言った   「最初にパン   そして次に宗教。空腹の熱望を満足する教義はないであろう」   もちろん   ラビ・エリアザルはおそらく心の中にもっと何かを持っていた。人は勉強するために食べなければならない   ということは真実ではあるが   我々が言ったようにエリアザルは象徴的に話していた。   貧乏の真っただ中では   人はその瞬間の必要性のことのみを強制的に考えさせられる。死に至る飢えの可能性に直面した時   作法や価値観あるいはトーラのための時間はない。人は   僅かな必需品---食料   衣服そして家---に関心を集中することに自分自身を落としめる。我々は   貧乏人にヘブライ語を教えること申し出ることによって   たとえもし彼がユダヤ人であっても彼を助けることはできない。我々は最初にもっと基本的な種類の援助を申し出なければならない。   Where   there   is   no   Torah   ...   しかし貧乏の種類以上のものがある。ラビ・エリアザルが「小麦粉がないところにはトーラがない」と言った時   我々が彼の心の中に持っていたところのことを理解するようになった時に   テーブルの向きが変わり   彼は続けて言う   「トーラがないところには小麦粉はない」そしてここには新しい種類の貧乏がある   食料のはく奪ではなく   トーラのはく奪である。   トーラなしでは   我々の生活は貧しくなるであろう。我々は精神の飢えに苦しむであろう。トーラは世界にそんな豊かさを提供している   我々が「トーラの冠」として話すような   それを祭司の冠   王国の冠と比較する。   ラビ・シメオンは言った   三つの冠がある:トーラの冠   祭司の冠そして   王国の冠である。しかし   良い名前の冠はそれら全ての上にある。   [   Avot   4:17   ]   シメオンはいかにして言うことができるのか   三つの冠があり   それから名前が   四(番目の冠)なのか?答えはこうである   トーラの冠から良い名前の冠が流れ出る。   なぜそれは祭司の冠からは来ないのか?祭司はアロンと彼の仲間の家系に直接に参照しているために   それは誰にでも開かれているのではない。   同じことが王国の冠にも真である   それは王たちにのみ許されている。祭司の冠のように   この王族の冠は来ては行ってしまう単なる地上の力の問題である。   しかしトーラの力は永続する。それは全てに開かれている。各々そしてどのイスラエル人もがトーラの冠をかぶることが出来る。全てがそれを勉強するために招待される。全てが毎週毎週それを読み聞くように要求される。人はトーラによって知恵を獲得する。そしてトーラの勉強を通して   人は独力で良い名前を創造する方法を学ぶ。   作法を通して   我々は独力で「良い名前の冠」を創造する。そして我々の作法は人間であることの事柄だけではない。それらは我々人々の学びと教えとから引き出される。我々の作法はユダヤ人の作法である。我々の行動を通して   我々はそれらを世界に自由に(at   large)表現する。   しかし我々がこれらの作法を表現することが出来る前に   我々はそれらを知らなければならない。我々は学ぶために待つことができない   我々の勉強は今始まらなければならない---今   精神と心が渇望している時に。もし我々がそれらが餓死するまで待つならば   我々はあんまり長く待ちすぎてしまうであろう。それで   世界の全ての大多数が飢えいるような精神の貧乏を   我々は避けなければならない。   もちろん   あなた自身はそれについて何かをすることを決心しなければなりません。あなただけがトーラを   あなたの心の精神を養う小麦粉にする選択ができる。そしてこれをする方法はトーラを「勉強する」ことによってである。   「それをしっかりとつかむ人には   生命の木となって」   [   箴言   3:18   ]   「トーラがないところには作法はない   そして作法がないところにはトーラはない。   知恵のないところには神への畏れはない   神への畏れのないところには知恵はない。   知識のないところには理解はない   理解のないところには知識はない。   小麦粉がないところにはトーラがない   トーラがないところには小麦粉はない。   [   Avot3:21   ]     神がイスラエル人にトーラを与えた理由について   創造主   神は   トーラを授けるべく世界の民族に啓示を行った。   まず   エサウの子孫のところに行って   「おまえたちはトーラを受け入れるか」とたずねられた。   それには何が書いてあるのか   との彼らの問に対して   神は   「殺すなかれ」とある   と答えられると   「その人たちと彼らの父は人殺しでした。『手はエサウの手.....おまえは剣をもって世を渡ることになろう』(創世記27:40)     と彼らは答えた。   今度は   アンモン人とモアブ人のところに行って   「おまえたちはトーラを受け入れるか」とたずねられた。それには何が書いてあるのか   との彼らの問に対して   神は   「姦淫するなかれ」とある   と答えられると   「我々の民族は不倫のかたまりみたいなものです。『こうしてロトと二人の娘たちは父によってはらんだ』(創世記19:36)」   と彼らは答えた。   今度は   イシマエル人のところに行って   「おまえたちはトーラを受け入れるか」とたずねられた。それには何が書いてあるのか   との彼らの問に対して   神は   「盗むなかれ」とある   と答えられると   「我々の先祖は盗みを生業としていたのです。『彼は野生ロバのような人になり   その手はすべての人に逆い』(創世記16:12)」   と彼らは答えた。   神は   ありとあらゆる民族のところに行って   「おまえたちはトーラを受け入れるか」とたずねられた。『他のすべての王はあなたに感謝するでしょう。彼らはあなたの口のもろもろの仰せ聞いたからです』   (詩編138:4)   ノアの子らが受け入れ七つの戒律ですら彼らは守りきれず   これをイスラエルにやった。----   「申命記スィフレ343節」   ---   もし神の啓示をどの民族も受け入れなければ   創造の目的は達せずに   全人類は抹殺されていたことであろう   というのがラビたちの思想です。これは果樹園を持っていた王にたとえられよう。彼はこれを管理人に任せてどこかに出かけた。しばらく後に果樹園に出てみたところ   いばらやあざみがぼうぼうと生えていたので   人をやって下払いさせた。その中に見事な一輪のばらが目にとまったので   これを手折ってその香をかいでみたところ   生き返る心地がした。このばら一輪のために果樹園全体をこのままにしておいても惜しくない   と思った。   同様に   全宇宙もトーラのために創造されたのである。二十六世代のちに   創造主の神が世界を覗いてごらんになったところ   そこはいばらやあざみだらけであった。   そこで   「主は洪水の上に座し」(詩編29:10)と書いてあるように   この世界を滅ぼそうとなさった。しかし   そこに一輪のばら   すなわちイスラエルが主の目にとまった。彼らこそは   将来シナイ山の前に立って   主に向って「わたしたちは主が仰せられたことをすべて行い   守ります」(出エジ記24:7)と言うような民族であった。   そこで神は   イスラエルのために全世界を助けてやるだけの価値がある   と仰せられた。----「レビ記ラバ23:3」   ---   もしイスラエルの民が   神の啓示(シナイ契約(=義務方契約))を拒否していれば   エジプトを脱出後   荒野で死に絶えていたことであろう。   ラビのこんな話もあります。創造主の神は   シナイ山を巨大な容器のように彼らの頭上におおいかぶせて   もしおまえたちが受け入れるならばよし   さもなくばこれがおまえたちの墓場となろう   と宣言しました。   ----「   BTシャバ88a」---   モーゼの律法の板が「二枚」あるという理由について   神は十戒を定めると   まず一枚の石の板にそれを彫りました。それから   神は自分の作品をたずさえて出かけました。   いろいろな民族にすすめてみることにしたのです。   要らないかね   神はフランス人にききました。   でも   大体   何が書いてあるんですか   と疑わしげにたずねました。生活の規則だよ。たとえば   「隣人の妻によこしまな心を抱いてはならない」   いや   それなら結構   とフランス人がいいました。それでは楽しみがなくなってしまいますよ。神はドイツ人のところに行きました。要らないかね。   何が書いてあるんですか。生活の規則だよ。たとえば   「人を殺してはならない」   なんですって!では   どうやって戦争をすればいいんですか。神はこうして   イギリス人   イタリア人   ギリシャ人   アラブ人   中国人のもとをまわりました。誰もその作品を欲しがりません。神はたいへん困りました。そこで彼はユダヤ人にすすめてみました。ユダヤ人はすぐにたずねました。おいくらですか。ただだよ   と神は勢いこんで答えました。たださ!お金は要らないよ。そうですか   ユダヤ人はいいました   それなら「二枚」いただきましょう。   「Choosing   life(生活を選択すること)」   ラバン・シメオン・ベン・ガマリエル(Rabban   Simeon   ben   Gamaliel)は言った   世界は三つの物の上に立って守られる:真実(by   truth)審判(by   judgment)平和(by   peace)で守られる。   [   Avot   1:18   ]   あなたは海を探しに出かけた魚の話を憶えているかもしれない。いたるところを探した後   海は単純に存在していなかったとその魚は決定した。今年に我々が一緒に勉強したところのものについて   あなたはおそらくこんな風に感じているかもしれない。我々がそれを一緒にする時に   それは全て何の意味があるのか?それが全て何についてであるかを忘れずにいる方法はあるのか?   たとえそうでも   我々の勉強の中にユダヤ人の道徳の全てをカバーしてきているわけではない。ユダヤ人の道徳の主題に関しては厖大な量の文献がある   そして我々は単にその表面をひっかいたにすぎない。我々は氷山の先端だけを勉強してきた   とあなたは言うかもしれない。   しかし   極めて重大な我々の伝統の価値や概念のほとんどのうちの幾つかを我々は話してきた。共同体社会の重要さ   政府の重要さ   労働の重要さ   トーラの重要さ   そして名誉と尊敬の重要さ   その他について我々は触れてきた。   最初   あなたはあなた自身にこう言うかもしれない:「確立」した道徳がある。それらは個人として自由になることを許していない。それらはただグループにとって何が良いかを用意している。   しかし我々は   それはあなたの権利を一個人のものであることを保証し   力と権威の誤った使用からあなたを保護し   あなたの自由を保護している   そのような我々の伝統の価値を話してきた。   これらは生活そのものの価値である   ---選択の自由   互いへの感受性   友情と仲間意識   開かれた信用できる議論   そして公平で平等な審判。   これらの価値の中で   我々は人間の精神の最も深い熱望を認めることができる。一緒に   共同的で個人的な価値は   高貴な人間の共同社会に対する基礎を我々に提供している:真実を基礎に   審判を基礎に   そして平和を基礎にした共同社会である。   Preserving   the   world   あなたが属しているかもしれない多くのグループの中の   ユダヤ人の人々は最も多くの要求がある。我々は命じられている:「あなたは   主あなたの神をあなたの全ての精神をこめて   あなたの全ての心をこめて   そしてあなたの全ての力をこめて   愛さなければなりません」   (申命記   6:5)   何のさらなる要求が作られることがあったのか?しかし我々がアボットの勉強で見てきたように   我々が神を愛するというのは何を意味するのかを解く場合に   それは人間の世界の中で行動する間に神の法律に従うことである   ということをラビたちは見せてきた。商人たちは   彼らから買う人々を公正に扱わなければなりません。農民たちは   公正な測りで収穫物を測らなければなりません   そして彼らの客をだまさないように。人は   彼または彼女の使用人から賃金の支払をたとえ一晩でも控えてはなりません。   ---   賃金の支払は時間どおりになされなければなりません。慈善は全てに対して要求される   ---   貧乏人でさえ慈善をする方法を発見するべきである。「Gemilt   Hasadim(神からの乳離れ)」   報酬なしを約束している愛の行動   が命じられている:我々は病人を見舞わなければなりません。我々は孤児や未亡人を助けなければなりません。我々は見知らぬ人を正当に扱わなければなりません。死人の埋葬の必要が生じた時に我々は援助しなければなりません。。これらの具体的な行動は   これらそしてもっと多くの   神に対する我々の愛の地上での表現である。   しかし特に三つの価値が主要である   その重要さの点で   そして我々が一緒にしてきた勉強の全てのまとめという点において。ラバン・シメオン・ベン・ガマリエルの言葉   [   Avot   1:18   ]     世界は三つの物の上に立って守られる:   真実(by   truth)審判(by   judgment)平和(by   peace)で守られる。   真実(By   truth)   それが真実に来るとき   我々は互いを信頼しなければなりません。信頼が全ての人間の関係に最も深いきずなになっているほどに   我々は互いにたいへん依存している。我々の相続権である我々の伝統を我々に教えてくれる他人を信頼している   そして我々が我々自身でそれを判断するほどに   彼らがそれを我々に真に与えるであろうと信頼している。ヒレルとシャマイについて一つの有名な話がラビによって話された   真実がいかに全ての学びの基礎になっているかを見せるために。   不信仰者がシャマイのところにやってきた   そして言った   「私はあなたと学びたい   しかし最初に私に告げて下さい。一つのトーラ以上のものがあるのですか?」シャマイは答えた   「二つのトーラがある   ---   the   written   Torah(書文のトーラ)と   the   oral   Torah(口伝のトーラ)とが」そのとき不信仰者は言った   「私自身で読むことができる書文トーラに関しては   私はあなたを信頼するでしょう。しかし口伝トーラに関しては   そうではありません」それでシャマイは全く彼を教えることを拒んだ。   その同じ不信仰者がヒレルのところにやってきて同じ質問をした。彼は同じ回答を受けた。「私に書文トーラだけを教えて下さい」   と彼はヒレルに言った。そしてヒレルは同意した。   授業の最初の日に   ヒレルはその不信仰者にアレフ・ベイト(Aleph-Bet)を教えた。正しい順序になるように   彼は文字を何度も繰り返したので   その異教徒はそれらを学んだ。「アレフ(Aleph)   ベイト(Bet)   ギーメル(Gimel)   ダレット(Dalet)   ...   」しかしその次の日に   彼が復習にやってきた時   ヒレルは始めた。「アレフ   ギーメル   ダレット   ベイト   ...   」その不信仰者は混乱して言った   「やめて下さい   昨日あなたはこう教えました『アレフ   ベイト   ギーメル   ダレット   ...』   そして今日は『アレフ   ギーメル   ダレット   ベイト   ...』と教えました。どっちが真実なのですか?」その時   ヒレルは答えた   「あなたはアレフ・ベイトの真実に対して私を信頼しなければならない。同じように   あなたは我々の伝統の真実に対してもまた私を信頼しなければならない」   (Shabbat   31a)   同じように   我々の伝統の真実に対して我々はお互いを信頼しなければならない。この本の中で   我々はアボットの言葉を勉強してきた   そしてそれらをユダヤ人の知識の伝統に立つものと認めてきた。世界は   この伝統を習得し   それで生き続けることをユダヤ人に頼っている。それは   我々が世代から世代に通過させ   それをレビューし   そしてより大きくしてきた真実の伝統である。   今や   真実を探求することはユダヤ人としてあなたの責任である。それは   あなたがそのために選ばれた責任である   そしてそれゆえにユダヤ人は「選ばれた民(Chosen   People)」と呼ばれているのだ。しかし真実はあなたからずっと遠くにいるわけではない   ---   それはあなたの気持ちの中に   あなたの心の中にある。あなたは   あなた自身を信頼することを学び   あなた自身で審判することを学び   あなた自身で決心することを学ばなければならない。あなたは我々の伝統の最も新しい連結(link)である   勉強を通して   探求を通して   あなたは真実を学ばなければならない。次の世代は彼らの相続権をあなたに頼るであろう   あなたが全て充満に学んできた伝統を通過させるであろうことを期待して。あなたが   何がそうであろうかというその真実である。   審判(by   judgment)   我々はまた   あなた自身そしてあなたのまわりの世界の審判として   あなたが演じることの重要な部分を勉強してきた。そしてラバン・シメオンの言葉に中で   市民の世界が頼っているその三つの柱うちの一つは   審判という柱である   ということを彼は我々に思い出させる。   シメオンは   「正義(justice)」という言葉を使わないで   むしろ「審判(judgment)」という言葉を選んだことに注意しなさい   ---   審判は法律の法廷の中としての意味がある。そしてシメオンの選んだ言葉のちょっとしたこの違いを強調すると   意味に一つの違いがある。なぜならば   一方において   「正義」は盲目的である   賢者が言っているように:法律の目には   全ての物事は平等であり   そして何の特別な環境もない。   しかし「審判」は盲目的ではない:審判の目には   あらゆるケースが特別なケースであり   そして全ての環境が異なる。我々はもう一度   帽子をまわしてた裁判官の話   ---   彼は町の人々に「正義」と「慈善」の違いを教えた   ---   を呼び出す必要がある   ラバン・シメオンが「審判」という言葉を使った時に   彼が心の中に持っていたところのものを理解するために。   彼の言葉の選択から   我々がそれを行動に移すまでは「正義」は共同体社会の柱ではない   ということを我々は学ぶかもしれない。我々は公平に他人を審判しなければならない   フェアプレイの掛け声だけではなく。我々は親切に他人を扱わなければならない   親切な語りだけではなく。我々は尊敬して他人を扱わなければならない   優しく正しい話だけではなく。   多くの人々は敏感であるべきことを主張する   しかしこれらの人々の行動が   彼ら自身の必要に加えて他人の必要に向けられている時にのみ   真に敏感である。我々が我々自身について行う審判   そして他人について行う審判に従って   我々は行動しなければならない   ---   その時   我々の審判は真実になるであろう。   平和(by   peace)   タルムードの中のどこかほかで   ある注釈が述べている:ラバン・シメオンの三つの価値   ---   審判   真実   そして平和   ---   は本当のものである   なぜならば真実と審判(原文は審判でなく正義となっているが誤植)は平和が存在するために必要であり   そしてそれの最も確実な保護である。審判が公平に報われている時は   真実が支持され   そしてその結果は平和である。   (Jerusalem   Talmud   Taanit   68a)   そのラビにとっては   平和は人間性の自然な状態である。それは   永遠であるに値する生活のたった一つの方法である。我々が以前に「平和の価値(第20章)」で議論してきたように   人は   平和が彼を見つけることを待つことはできない   ---   彼は平和を活発に「追い求め」なければならない。   平和   審判   そして真実の中の関連はたいへん親密なので   アボットは我々に告げている:正義が無視され   そして真実を誤らせる時は   暴力がその避けられない結果である。正義が遅れるために   そして正義の悪用のために   そしてトーラをその真の意味に従わないで解釈する罪のために   世界に戦争がやって来る。   (Avot   5:11     正しくない状態を正すことについて   我々が待って待ってそして何もしない時   我々は多かれ少なかれ暴力を招いている。国の貧乏人が踏みにじられて飢える時   例えば   金持ちが全体的に苦しんでいる隣人の悪い状態を無視する時   反乱や革命が容易に生じる。正義が悪用され   そして法廷がたやすく賄賂や政治的な興味によって影響される時   その時はまた暴力が遠くはない。法廷が人々を平等に審判することに失敗して   そしてその代わりに彼らを皮膚の色や宗教や社会の地位に従って審判する時   暴力がその結果となる   ---   なぜならば法廷が公平でないならば   いったい他のどこで人々は平和に向きを変えることができるであろうか。  

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アヴェ・ヴェルム・コルプス(お話です)「タルムード」「アブラハムの契約とシナイ契約」「知識の価値」

アヴェ・ヴェルム・コルプス (お話です) 「ミシュナー・タルムード・アヴォート(Avot)篇」 「アブラハムの契約とシナイ契約」「知識の価値」 ◎「知識の科価値」 迷信と固定的道徳が判断と行為の誤りから迫害を生みます。固定的道徳が予定因果であり、民衆が日常を問題意識なくすごしてしまい、儒教的道徳の場合、民衆が疑問に思うことを質問しにくいという問題がある。迷信と固定的道徳を乗り越える手立てが証拠の収集とこれらの分類を行って選択していくというstady(勉強)がある。 ◎「アブラハムの契約とシナイ契約」 ・アブラハムの契約が神ヤハウェがアブラハムにハラン(ユーフラテスの上流:現在の東トルコ)の地を離れてカナン(現在のイスラエル、パレスチナ)の地に行きなさい。繁栄を約束する。という契約の約束型契約。 ・ヘブル人(tbri:ヘブル語・現在のイスラエル人)部族集団(エジプトを脱出した部族)とモーセの神ヤハウェの十戒の条文。という契約の義務型契約。

投稿者:サイト名 有馬徳彦
投稿日時:2012-06-19 02:39:35.0
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カテゴリ: 暮らし全般   エンタメ全般   教育全般  
タグ: アヴェ・ヴェルム・コルプス   (お話です)   「ミシュナー・タルムード・アヴォート(Avot)篇」   「アブラハムの契約とシナイ契約」「知識の価値」   ◎「知識の科価値」   迷信と固定的道徳が判断と行為の誤りから迫害を生みます。固定的道徳が予定因果であり   民衆が日常を問題意識なくすごしてしまい   儒教的道徳の場合   民衆が疑問に思うことを質問しにくいという問題がある。迷信と固定的道徳を乗り越える手立てが証拠の収集とこれらの分類を行って選択していくというstady(勉強)がある。   ◎「アブラハムの契約とシナイ契約」   ・アブラハムの契約が神ヤハウェがアブラハムにハラン(ユーフラテスの上流:現在の東トルコ)の地を離れてカナン(現在のイスラエル   パレスチナ)の地に行きなさい。繁栄を約束する。という契約の約束型契約。   ・ヘブル人(tbri:ヘブル語・現在のイスラエル人)部族集団(エジプトを脱出した部族)とモーセの神ヤハウェの十戒の条文。という契約の義務型契約。◎「The   struggle   within   us」   The   forces   within   us.   Needing   impulses   for   both   right   and   wrong.   Selfishness.   A   formula.   If   I   am   not   for   myself   who   will   be   for   me   ?   If   I   am   only   for   myself   what   am   I   ?   If   not   now   when   ?   Reflection   ◎「The   struggle   within   us(我々の内での苦闘)」   ◎The   forces   within   us   選択をする時に   われわれの中で2つの力が働いていると   ラビは信じている。一つは善をしようとする我々の欲求   他方は悪をしようとする我々の欲求である。善をしようとする衝動あるいは傾向を「Yetzer   Tov」とラビは名づけた。Yetzerはヘブライ語で衝動(impulse)を意味し   Tovは善(good)を意味する。他方   悪をしようとする衝動あるいは傾向を「Yetzer   HaRa」名づけた。Raはヘブライ語で(evil)を意味する。「善の衝動」「悪の衝動」である。   われわれの各々の人は   これら2つの衝動をいかに操作するか問われる。個人の意識にある「Yetzer   Tov」は正義の人を操作し   他方「Yetzer   HaRa」は邪悪をコントロールするが   タルムードでは両方の衝動が   平均的な人の意識が衝動を操作することを示す(Berachot   61a)。   我々のほとんどはこの3番目のカテゴリーの「両方の衝動が平均的な人の意識が衝動を操作するということ」にあり   意識の全体が正義でなく全体が邪悪でもない。   ◎Needing   impulses   for   both   right   and   wrong   このことから   何が正しいことで   何が悪いことか   われわれはいかにして判断するのであろうか。どうやって片方の衝動から他方の衝動を識別するのか。選択はいつも明瞭でない。いつでも邪悪な選択があり   正義の選択があるということを   ラビが暗示している時単純化しすぎてはいないのかも課題である。ラビの理解というのは実際にはもっとずっと複雑であったのだ。彼らは「Yetzer   HaRa」が邪悪だとは信じていなかった。それは邪悪に向かった傾斜であるといえる。彼らは   「Yetzer   HaRa」が多くの局面で有用になりえるということまでも理解している。このことを示すために   彼らはこんなたとえ話を言っている。     われらの善き者たちは「Yetzer   HaRa」を捕まえて   それを金の鎖で縛り上げた。最初彼らは自分たちでたいへん喜んでいた。盗みは止り   殺人は無くなった。人々は友好的になり   互いを愛するようになった。嫉妬は無くなり   イスラエルの全地においてイスラエル人と隣人との間の論争も無くなった。死ぬ者はいなくなった。   しかし突然   彼らは奇妙な出来事を見るようになり始めた。人々はとても満足したので精を出して働く心配がなくなった。競争が無くなったので人々は働くことを止めてしまった。新しい家はもう作られなくなった。人々はもはや   結婚もしないで   子供を欲しがらなくなった。ラビでさえ不精になり始めた。その時   ラビは「Yetzer   HaRa」が世界において如何に必要であったかを理解して彼らは縛ってあった鎖を壊してそれを自由にした。   (Genesisi   Rabbah   9:7)   ◎Selfishness   「Yetzer   HaRa」を理解する最も簡単な方法は   極端な利己主義としてそれを見てみることである。それは我々の一部でもあり   それは「私のもの」とか「私は欲しい」あるいは「私にくれ」とか言って要求することがそれである。「Yetzer   HaRa」が危険であるのは何かというと   もし我々がそれをバランスしコントロールしないと   それが我々をコントロールするようになる   ということである。   「Yetzer   HaRa」は   本を取り上げて返さない   といった小さなことをするように我々に問いかけてくることで   我々をつかみ始める。そしてやがて   もっと悪い事をするように我々に要求する。それは我々にこう言うかもしれない:「この一回だけやってごらん   あなたがただの一回だけやっても誰も傷つくことはないから」それからやがて   毎回に悪い事をするように要求してくる:「さあ来てこれを傷つけてごらん。彼がいかに弱いか見てみなさい。彼はあなたに仕返しなんか出来ないよ」   最初は   「Yetzer   HaRa」はくもの巣のようであるが   しかし最後には重いロープのようになる。最初は   「Yetzer   HaRa」は通行人のようであり   お客のようであるが   最後にはその家の主人になる。最初は   「Yetzer   HaRa」は甘いが   最後にはにがくなる。   (Sukkot   52a   52b   Jerusalem   Talmud   Shabbat   14c)   ◎A   formula   利己主義をコントロールすることはいつも簡単というわけではない。我々が自分たちに利己主義を許せば許すほど   我々が利己主義になる。その時   選択するという我々の能力を実際に失って行き   我々だけのためにいつも行動し始める。我々の自由   我々の自由意志を放棄し   それに代わって何でも瞬間に行動することが好きになる   これは自由の錯覚にすぎないのであるが。   このことは   もし我々が他の人々と一緒に生活する必要がなかったならば   全て正しいかもしれない。しかし   あなたがこの本の第2章の始めでリストアップしたものを思い出してみれば   あなたはすぐに分かるがあなたの生活のほとんどは他人の周りに   そしてあなたが属している人々の周りに作られている。そこで我々はバランスについてのある種類を探すために勉強しなければならない。利己主義になることはいつでも悪い   というわけではない。しかしまたいつでも正しい   というわけでもない。全てのものを皆で分けることがいつも良いわけではないが   いつも悪いはずがない。間のどこかに行くべき価値のある道がある。   ここで   ミシュナ時代の偉大な先生であるヒレルから   われわれは学習しよう。ヒレルは   自分の生活と繰り返しの教えを通して   知的な選択をする公式を探した。ヒレルは「アボット」に彼の公式をまとめた:"   If   I   am   not   for   myself   who   will   be   for   me   ?   And   if   I   am   only   for   myself   what   am   I   ?   And   if   not   now   when   ?   "   "   If   I   am   not   for   myself   who   will   be   for   me?   "   もしあなたが住んでいる世界にアクティブに参加するのであれば   何かのために耐えることが必要である。次のことに理解を持つようにしなければいけない:あなたが持っているもの   持ちたいもの   自分がなりたい事   喜んで働きたい事   世話をしたい事。言い換えれば   自分自身でスタートしなければならない。   自分自身のために欲しいものが全て利己主義だ   というわけではない。しかし   自分自身のため「だけ」に欲しいものはほとんどが利己主義である。   あなたは知識を得たいかもしれない。このこと自身は利己主義ではない。知識のある人は   無知な者よりも世界にとって役に立つ。しかしもしあなたが他人を傷つけるために   あるいはあなた自身のためにのみ   あなたの知識を使うのなら   あなたが害ある利己主義なものになる。   あなたは人気を得たいかもしれない。このこと自身は利己主義ではない。人気のある人は   接近して連帯したり   議論や討論をしたり   親切や理解を持たらしたりして   隣人を助けることができる。しかし人気のある人が   悪の方向に人々を導くために彼の才能を使う時   彼は「悪の衝動」への道にいるのである。人々を戦争から戦争へと導くために   自分の人気を使った場合   ナポレオンはフランス人民を助ける代わりに   彼らを傷つけ苦しめた。   あなたは財産を得たいかもしれない。このこと自身は利己主義ではない。財産のある人は他の人々を助けることができる。必要としている人々に彼の富を慈善に使うことによって   また貴重な仕事や行動のスポンサーなることで共同体への祝福となることで。しかしもし人が他の人々の犠牲によって財産を欲しがるならば   その時これは真の利己主義を通して「悪の衝動」の一つの例である。   ヒレル(Hillel)の最初の質問   "   If   I